第七章 生命

 生命は別名、エネルギーとも呼ばれています。生命エネルギーといって、命の素なのです。命の素ですから、生命が無くては、思うことも、話すことも、働くことも、できません。生命はすべての動力源なのです。どうか生命を「命の素」として「動力源」として考え、大切に扱ってください。

 

 

言葉120・・人間の本質は生命である

 形が有るということは、必ず本質が有るということです。本質の無い形など、この宇宙に一つも無いのです。では、人間の本質は何でしょうか。一つは水です。水は水素といって、形の大元なのです。どんな物も、水を介して形が作られるのです。だから、「水」の「素」と書くのです。肉体を「水子」と呼ぶのは、そのためです。しかし、肉体は生きていません。水の外に生かしている、もう一つの要素があるのです。それは生命です。生命が、肉体を生かし動かし働かしているのです。人間は、生命が宿ってはじめて生きるものとなるのです。私たちの肉体は、この生命と水との複合体、陰と陽の結晶、すなわち愛の結晶なのです。この宇宙には数知れないモノが存在しますが、その背後には必ず水と生命があるのです。水だけでも、生命だけでも、形は生まれないということです。

 形は創造の場で、生命は創造の力です。この表現宇宙は、この二つの要素が一体となって構成されているのです。でも人間は、形の肉体の方しか見ていないのです。肉体しか見ないがゆえに、不安でたまらないのです。それは、肉体には生・老・病・死があるからです。でも、安心してください。私たちの本性は、生・老・病・死のない生命なのです。その生命に生きたら、もう不安は無いのです。でも、どうしても生命だと思えない・・、それは、生命は目に見えず触れないからです。悲しいことですが、人間は見て触れないものは信じられないのです。でも、見て触れなくても、私たちが生命であることは間違いないのです。あなたは間違いなく生命です。どうか、永遠に無くならない生命の自分に生きてください。

 

 

言葉121・・生命はエネルギーそのものである

 私たちは、冷蔵庫が働いているといいますが、冷蔵庫が働いたことはありません。電気エネルギーが、冷蔵庫を働かせているのです。人間も同じように、生命というエネルギーが、生かし、動かし、働かしているのです。生命エネルギーこそ、命の実体なのです。この宇宙は、その生命エネルギーで満ち満ちているのです。宇宙は生命の海なのです。エネルギーの海なのです。ということは、宇宙そのものがエネルギーそのものということになるでしょう。そのエネルギーが生きているわけですから、宇宙そのものが生き物ということになります。その生き物の中に私たちは今存在し、私たちの中にその生き物が今存在しているのです。しかも、そのエネルギーは、この宇宙にたった一つしかないのです。たった一つのエネルギーが、万象万物の中で生きて働いているのです。だから、あなたのエネルギー、私のエネルギー、というのはありません。全体としてのエネルギーがあるだけです。勿論エネルギーですから、見えも触れもしません。でも間違いなく存在し、すべての存在物を生かし、動かし、働かしているのです。

 私が“ すべては一つ! ”と口癖のようにいうのは、同じ一つのエネルギーですべての物が生かされ、働かされているからです。エネルギーは、区切ることも、分けることも、出来ないのです。エネルギーは一つしかないのです。一つしかないということは、切り離せないということです。つまり、繫がっているということです。だから私たちは、どんなモノとも仲良くしなければならないのです。どんなに形が違っていても、みな兄弟姉妹なのですから・・・。いや、自分なのですから・・・。

 

 

言葉122・・生命を知らない者は、命知らずである

 この表現宇宙には、生かされているモノと生かしているものがあります。このようにいうと、二つの生きものが有るように聞こえますが、本当は一つのものしかないのです。

 生かされているモノとは、肉体のことです。生かしているものとは、生命のことです。でも、生かされている肉体と、生かしている生命とは同じものなのです。生かしている生命が、生かされている肉体になっているからです。生かしている生命がなくては、生かされている肉体はあり得ないのです。

 生かしている生命は絶対無くなりません。でも、生かされている肉体は、必ず消えてなくなります。ということは、実際にあるのは、生かしている生命であるということになります。これは冷静に考えれば分かることですが、生命は目に見えないためどうしても軽視してしまうのです。

 どうでしょう。生かしているものと、生かされているモノと、どちらが本当に有るものですか? 生かしているものですね。なぜなら、生かしているものは自ら生きていますが、生かされているモノは自ら生きていないからです。このことを知らないから、自分で生きようとして力むのです。生かされていると思えば、力まないのではありませんか? 力まないどころか、こんな気楽なことはありません。

 多くの人が苦しんでいるのは、本当に無い肉体に生き、本当に有る生命に生きていないからです。生命に生きれば、生・老・病・死の四苦は無いのです。肉体に生きるから、四苦があるのです。だから覚者は、「肉に生きるは死である、肉に死んでこそ真に生きる者となる」というわけです。生命に生かされていることを知らないから、自分で生きようとして苦しむのです。だから、生命を知らない者を、「命知らず」というのです。「命知らず」の語源は、そこから来ているのです。

 生命は完全です。その完全なる生命が、細胞を生かし働かしているのですから、本来病気になるはずがないのです。人を憎み、恨み、怒り、心配し、イライラする自我意識が、生命力を弱め病気にしているだけです。どうか生命に委ね生きてください。そのためには、生命を良く知ることです。生命を知れば、安心して生命に委ね生きることができるのですから・・・。

 

 

【光のメロディー集/・・・命・・・



言葉123・・生命は生き通しである

 宇宙に生命は一つしか無いといいましたが、その理由は、エネルギーは宇宙に一つしか無いからです。一つしかない生命だから、私の生命は皆さんの生命になるし、皆さんの生命は私の生命になるのです。生命は無差別なのです。無所得なのです。時空を超越しているのです。ということは、二千年前イエス様に宿っていた生命と、今、皆さんの中に宿っている生命は、同一の生命であるということです。だから私は、一つの生命の中にすべての人がおり、すべての人の中に一つの生命がおるというのです。人間一人ひとりは、一つの生命によって生かされ働かされているのです。

 その生命は、永遠に死なないのです。生命は生き通しなのです。だから、この宇宙に死というものはないのです。死は肉体を自分と思っている人たちだけにある幻想です。生命を自分だと思っている人には、死は無縁なのです。あなたは、エネルギーが死んだという話を聞いたことがありますか。エネルギー不滅の法則なのですよ。生命不滅の法則なのですよ。もし生命が死ぬなら、その時点で宇宙は消えてしまわなくてはなりません。宇宙は永遠に生き通すのですから、生命も永遠に生き通すのです。その生命が私たちですから、私たちも永遠に生き通すのです。でも、多くの人間は、肉体を自分だと思い違いし、不安な一生を送っています。これは、生命が本当の自分だということを知らないためです。どうか、自分の本性を知ってください。知れば、心安らかな一生を送ることができるのですから・・・。

 

 

言葉124・・生命は無限である

 生命は無限の存在です。生命には何一つ制限や制約が無いのです。制限や制約が無いということは、無碍自在であり自由であるということです。自由であるがゆえに、生命に生きれば幸せになれるのです。でも悲しいことに人間は、肉体の中に自分を封じ込め、不自由な人生を送っています。これは、自分の本性が生命であることを知らないためです。私たちは人間ではありません。肉体ではありません。個人ではありません。自由無碍なる生命です。

 そうです。生命の世界には個人はいないのです。全体があるだけです。個は全体です。全体は個です。個の中に全体が無ければ、個は無いのです。また、全体の中に個がなくても全体は無いのです。全体は個の集まりであり、個は全体の大元なのです。だから個人はありません。人間の思いの中に、個人があるだけです。だから人間は、不自由な苦しみが多い人生を送っているのです。意識を限定すれば、必ず苦しみが生まれるのです。良く考えてみてください。細胞の集まりが、身体を形成しているのですよ。一滴の水の集まりが、大海を成しているのですよ。個の集まりが、無限を成しているのですよ。ということは、細胞は身体そのものではありませんか。水一滴は大海そのものではありませんか。個は無限そのものではありませんか。もし、全体から離れた個人が一人でもいるなら、この宇宙は無限でなくなり、宇宙は消滅しなくてはなりません。個人が無限なるがゆえに、今まで宇宙は存在してこられたし、今も存在しているし、これからも存在できるのです。無知が個人と思わせているだけです。でも、どんなに個人と思おうが、人間が無限である事実は変わらないのです。なぜなら、今、現に宇宙が存在していること自体が、人間が無限である証しだからです。どうか、人間のいないことをご理解ください。肉体のないことをご理解ください。個人のいないことをご理解ください。私たちは無限なる、全体なる、自由無碍なる、生命なのですから・・・。

 

 

言葉125・・生命につながらなくては不毛である。

 生命につながらなくては不毛なのです。なぜなら、生命は存在の本源だからです。栄養源の断たれた土地から何も産まれないように、命の断たれたところからは何も生まれないのです。今、人間が存在できているのは、命とつながっているからです。命とつながっているがゆえに、考えることができ、語ることができ、行動することができるのです。しかし殆どの人は、肉体が生き肉体が働いていると思っています。だから肉体を大切にし、生命をないがしろにするのです。でもどんなに大切にしても、肉体から得られるものは、たかが知れています。それは、肉体は無知無力だからです。無知無力の肉体が自分なのか、全知全能の生命が自分なのか、良く考えてみてください!。

 イエス様は、こういわれました。「吾は知恵なり、吾は力なり、吾は光なり、吾は生命なり」と・・・。イエス様は本当のことをいっていたのです。私たちは嘘をついているのです。この肉体を自分だといっている人は、自分で自分を偽っているのです。肉体は偽りの自分です。生命は真実の自分です。偽りをいっている限り、私たちは苦しまねばならないのです。なぜなら、偽りが真実を生むことはないからです。偽りはいつまでも偽りのままです。真実はいつまでも真実のままです。私たちの意識は何でも生み出す力を持っていますので、偽りを意識すれば偽りを生みだし、真実を意識すれば真実を生み出すのです。ならば、真実を意識しようではありませんか。生命を意識しようではありませんか。生命を意識するとは、生命に生きるということです。生命に生きるとは、生命を意識するということです。さあ、生命を意識し、生命に生きましょう。そうしたら、一切の苦悩から解放されるのですから・・・。

 

 

言葉126・・すべては生命の現れ

 生命は人間の中だけで生きて働いているのではなく、鉱物・植物・動物の中でも生きて働いているのです。唯一不二の生命は、この宇宙のあらゆるものの中で生きて働いているのです。だから、あなたの生命・私の生命というのはありません。全体の生命があるだけです。たった一つの生命が、万象万物の中で生きて働いているのです。石の生命、花の生命、鳥の生命、馬の生命、人間の生命、すべて同一の生命です。区切られた生命というのは無いのです。一つの生命の現れとしての、普遍生命、無限生命、久遠生命があるだけです。だから生命においては、個人も人間もない、無限があるだけです。無限が個我を通して現れたのです。無限が万象万物を通して現れたのです。その無限を自分と認めれば、そく無限生命として生きられるようになるのです。

 私たちの肉体は、質量とエネルギー(生命)の結晶体です。でも、実際に生きているのは、エネルギーである生命の方です。肉体は一時存在しているだけで、いずれ消えて無くなる虚しい存在です。だから私たちは、肉体に生きるのではなく、生命に生きるべきです。しかし、殆どの人は、肉体を自分と思い肉体に生きています。肉体に生きるから、四苦から逃れられないのです。それは自分が悪いのです。誰かが与えた苦しみなどないのです。すべて自分が与えた苦しみです。でも人間は、誰かが、何かが、自分を苦しめていると思って怒っているのです。どうか本質なる生命を観てください。本質を観れば、私たちは間違いなく生命なのですから・・・。

 その生命は永遠不滅です。完全無欠です。自由無碍なる存在です。無限なる普遍なる存在です。だから生命に生きれば、天国の中で幸せを満喫できるのです。天国とは、天国という場所があるのではありません。幸せの境地のことをいうのです。それは生命に目覚めれば、誰でも味わえる幸せの境地なのです。どうか、生命の自分に目覚めてください。

 

言葉127・・何に確信を置くべきか?

 “あなたは生命ですよ! ”、と私がいうと、“ 生命になった覚えはないのに、なぜ私は生命なのですか? ”と問い返す人がおります。では、その人に訊きたい、“ 今、あなたは人間だと思っていますが、人間になった覚えがありますか? ”と・・・。そうなのです。誰も人間になった覚えなどないのです。気が付いたら人間だったのです。なのにあなたは、何の疑いもなく、今、人間として生きています。もしあなたが、生命になった覚えのないことに疑問を持つなら、人間になった覚えのないことにも疑問を持つべきではないでしょうか。しかし誰も疑問に思わず、人間として当たり前に生きているのです。

 誰も人間になった覚えがないように、誰も生命になった覚えなどないのです。でも、どんなに生命になった覚えがなくても、あなたは間違いなく生命なのです。なぜなら、この宇宙に生命の外何もないからです。あなたは初めから生命だったのです。生まれながらにして生命だったのです。今このままにして生命なのです。ただ生命と思っていないだけです。では、なぜ生命と思わず、人間と思っているのでしょうか? それは、見て触れるこの肉体を、自分だと思い違いしているからです。もし生命に形があったら、あなたは生命を自分と思うでしょう。生命に形が無いから、生命と思えないだけです。

 生命は、想いによって何にでも化身することができるのです。花にも、鳥にも、犬にも、雲にも、星にも、人間にも・・・。生命は想っている通りのもので、それ以上のものでも、以下のものでもないのです。どんな形を想うかで、自分が変わるだけです。花の形を想えば、花になるのです。鳥の形を想えば、鳥になるのです。雲の形を想えば、雲になるのです。星の形を想えば、星になるのです。今、あなたが、人間の形を自分だと思っているように・・・。

 あなたはどんな確信に基づいて、今、自分のことを人間と思っているのですか? 見て触れる肉体を見て、人間と思っているだけではありませんか。ならばその確信を、生命に置き換えてみたらどうでしょうか。きっと生命だと思えるようになるはずです。ではどうすれば、生命に確信を置き換えることができるでしょうか? それは、肉体と生命のどちらがホンモノで、どちらがニセモノかはっきり識別することです。

  • 肉体は消えて無くなりますが、生命は永遠不滅です。
  • 肉体は考えることも語ることもできませんが、生命は考えることも語ることもできます。
  • 肉体には四苦がありますが、生命には四苦はありません。
  • 肉体は不自由ですが、生命は自由です。
  • 肉体は不完全ですが、生命は完全です。

 こうして照らしてみると、どちらがホンモノでどちらがニセモノか歴然ですね。そうです。生命がホンモノです。では、確信は何に置くべきですか。ホンモノの生命ですか? ニセモノの肉体ですか? ホンモノの生命ですね。姿形に騙されないでください。姿形は無常なる物です。姿形のない生命は永遠なるものです。私たちは長いこと、肉体を自分だと思い違いしてきたために、生命を自分だと思えなくなっただけです。何がホンモノで何がニセモノか識別できたら、もう肉体に惑わされることはないでしょう。どうか、「自分は生命である!」という確信を深めてください。そうすれば、生命として生きられるようになります。

 

言葉128・・生命を認めれば良いだけ!

 私たちは、今から生命になるのではないのです。もともと生命だったのです。いや今の今、このままにして生命なのです。何かして生命になるのではなく、今の今、何もしなくても生命なのです。ただ “ 生命である! ” と認めれば良いだけです。何の手続きも、誰の許しも、何の修行も、何の努力もいりません。もし、努力がいるとすれば、 “人間!” と嘘をつかないようにする努力がいるだけです。

 私たちは、初めから生命だったのです。今も生命なのです。未来永劫生命なのです。自分が “ 生命である! ” と認めれば、即生命に蘇れるのです。生命に蘇った者は、自由になれ、知恵者になれ、力ある者になれ、光ある者になれます。どうか、生命の自分を認めてください。生命に蘇れるかどうかは、あなたが、認めるか、認めないかだけのことなのです。

 こういう私も、知花先生から自分が生命であったことを教えてもらっただけです。それまでは、自分が生命だったことを知らなかっただけです。教えてもらい、 “ そうか私は生命だったのか! ” と目覚めただけです。教えられる前も生命だったし、教えられた今も生命だし、これからもズッと生命なのです。目覚めたから、生命になったわけではないのです。目覚める前も生命だったし、目覚めた後も生命だったのです。だから、生命になろうとする必要はないのです。ただ、人間と嘘をつかないようにするだけです。

 

 

言葉129・・生命を思えるようになるのに理屈はいらない

 面白いから面白いのです。楽しいから楽しいのです。面白いにも楽しいにも何の理屈がいらないように、生命だと思えるのに何の理屈もいらないのです。ただ「生命」を想い続けていれば、いつか「生命」と思えるようになるだけです。これは理屈抜きです。何の技術も何の修行もいりません。

 本当に生命だと思えたら、自分が変わるのです。誰かに、何かに、変えてもらうのではないのです。そう思えたら、ひとりでに変わるのです。思えるか? 思えないか? だけのことです。なぜ変わるかといいますと、私たちはもともと「もの思える」生命だからです。「もの思える」生命だから、生命と思えれば生命になれるのです。生命イコール思いです。思いイコール生命です。生命そのものが、思いそのものであるという意味です。だから、生命だと思えれば、生命になれるのです。いや、なれるのではなく、「そのものである!」ということです。生命になるのに、何の理屈も、何の技術も、何の努力も、いらないことを知ってください。

 

 

言葉130・・命の濃縮

 ここでは、「命」と「生命」と「生命体」と「生き物」という、四つの言葉の意味について考えてみたいと思います。

「命」

生きている大元、意識の大元、存在の本源、すなわち、エネルギーそのもの、神そのものを意味します。

「生命」

生きているのは「命ですよ!」、という「生命」の意味を示している言葉です。

「生命体」

形あるものには、必ず生命が宿っています。生命を宿している物・形・存在物を、生命体というのです。

「生き物」

「物」は「生きている」という意味です。形ある物は、みな生きているのです。ですから、生命体が生き物ということになります。

 その生き物には、みな「使命」があります。その使命とは、エントロピーを縮小させる使命です。つまり、乱雑に遍満している意識核を生命核(魂)に濃縮し、時空を縮小させる使命です。

 例えば、米も果物も土の養分が濃縮されたものです。私たちの肉体も、意識核が「原子・分子・細胞」に濃縮されたものです。分かりやすい例としては、生態系の食物連鎖があります。微生物は虫たちによって捕食され、虫たちは小生物によって捕食され、小生物は中生物によって捕食され、中生物は大生物によって捕食され、濃縮の連鎖が進んで行きます。私たちの魂(生命核)も、意識核が鉱物に植物に動物に濃縮され、人間にバトンタッチされたものです。大宇宙も人間の魂(生命核)が濃縮され、いつか生命の本源に寛大な魂として帰ってゆきます。群魂は鉱物や植物や動物の世界にだけあるのではなく、広い意味では人間にもあるのです。その人間の群魂が、最終的に宇宙生命の中に取り込まれて行くのです。このようにすべての生き物は、無意識のうちに命(意識核)の濃縮の役割を果たしているのです。この働きを進化と呼んでいるのです。

 

言葉131・・命に死はない!

 前述したように「命」とは、意識そのもの、エネルギーそのものを指します。そのエネルギーによって宇宙が創造されたのですから、宇宙そのものが、命そのもの、意識そのものということになるでしょう。命=意識=エネルギーなのです。すなわち命は、意識の本源、エネルギーの本源なのです。だから、生命エネルギーと呼ぶのです。

 世間ではよく命を宿すという言い方をしますが、それは「形に命が宿ってはじめて生きる物になる」という意味で使っているのです。でも人間はそういいながら、肉体そのものが生きていると思っているのです。命を宿すといいながら、その命を認めようとしないのです。特に科学者は、頑なに命を認めようとしません。肉体がものを考え、話し、行動すると思っているのです。

 私は何度も死人を見てきましたが、死人は頭を叩いても痛いとはいいません。目に指を入れても瞬き一つしません。ただの物体です。生きている痕跡が全く見つからないのです。正に命の抜け殻です。私は妻の死を目の当たりにしましたが、不思議なことに全く涙が出てこないのです。父が死んだときも、母が死んだときも、娘が死んだときも、涙ひとつ出ませんでした。非情な人間に思えるかもしれませんが、私には、肉体が死んだだけで命(魂)は死んでないという確信があったからです。もし彼らの命(魂)が、この宇宙から消えて無くなったのなら、私は大泣きしていたかもしれません。

 肉親の死を前にして大泣きする人がおりますが、肉体が肉親だと思うからそれほど悲しいのです。どうか死を科学的に考えてください。肉体は物質ですから、生きているわけがないのです。生きているのは見えない命です。命は死ぬことはないのですから、そんなに悲しむことはないのです。あまり悲しむと、魂が肉体から離れづらくなります。これは死んだ人にとっても、生きている人にとっても、良い事とはいえません。よく仏壇の前でブツブツ話をする人がおりますが、これほど死んだ人の進化を妨げる行為はありません。彼らは、一刻も早く地上から離れねばならないのです。それを邪魔しては、逝くところにも往けません。生命は絶対死にません。生命は永遠に生き通すのです。どうか死人を前に泣き叫ばないでください。

 

 

言葉132・・生命に差別は無い!

 すべての物は、一なる同じ生命から生まれた同胞です。細菌も、ゴキブリも、ネズミも、みな同じ生命から生まれた同胞です。だから、形が違うからといって差別してはならないのです。でも人間は形に囚われ、菌や虫を毛嫌いします。この宇宙に異質の生命など一つも無いのです。もしあるなら、とうの昔に宇宙は消滅していたことでしょう。みな同じ空気を吸って生きているのですから、どんな生き物も同胞なのです。息子とは「息の子」という意味で、息している物はみな同じ生命の息子なのです。同じ兄弟姉妹だから、融合し合えるし愛し合えるのです。もし異質のものなら、物と物との融合はあり得なかったでしょう。一なる光から発生し、無数の色に分かれ、多様な元素となり、その組み合わせによって生まれた物質同士だから融合し合えるのです。肌の色が違おうと、目の色が違おうと、みな同じ命から出てきた兄弟姉妹です。だから、決して喧嘩してはならないのです。どんなものも根が一つだから、この宇宙は永遠に存続できるのです。どうかどんな物とも、どんな人とも、仲良くしてください。みな同じ生命から出てきた兄弟姉妹なのですから・・・。

 

 

言葉133・・見えない生命を観るには?

 「天使とて生命を見たことがない! 」といわれるように、生命は決して見ることはできません。「その子を見たとき生命を見たのである! 」と覚者がいうように、生命を観たければその子を通して観るしかないのです。空気も、水も、土も、虫も、花も、猫も、人間も、生命です。そうなると、その子は至る所にいるわけですから、どこにでも生命は観られることになります。ただし生命を観るには、心眼を使って観なくてはなりません。なぜなら、生命の本質は心の目で観なくては見えないからです。心眼とは理解眼のことですが、生命の本質が心の底で理解できるようになると、生命が観えるようになるのです。勿論、形で見えるわけではありません。光として観えるようになるのです。

 不思議なもので、モノの本質が心の底で理解できるようになると、モノの本質が観えてくるのです。それも深く理解できるようになると、生命の本質は光ですから、光として観えるようになるのです。そうなると、自分が光ってきます。なぜなら、私たちの本質は光だからです。とても気持ちが良くなります。細胞が振動してきます。この現象は、モノの本質が一つに観えたとき生まれるのです。つまり自分を含めあらゆるモノが、一つの本質で創られているという理解力が強まると、そのような現象が体験できるのです。これは言葉や文字で説明のつかないものですから、自ら体験するしかありません。

 このように生命は見えませんが、様々な見える物質を通して、自分の存在を誇示しているのです。

  • 山も生命の子です。
  • 海も生命の子です。
  • 鳥も生命の子です。
  • 花も生命の子です。
  • 微生物も生命の子です。
  • 勿論、人間も生命の子です。

 生命という親は、この宇宙に一様しか存在しませんから、その親から生まれた子供たちはみな同じ兄弟姉妹です。同じ生命の子同士だから、どんなモノとも仲良くしなければならないのです。

 

 

言葉134・・当人がいっている

 私が、「私は生命である!」と断言するのは、そういっている私が当人だからです。当人がいうのですから、これほど確かなことはありません。このことは、生命を自覚した者だけがいえるのです。しかし自覚がなくても、私たちが生命である事実は変わらないのです。なぜなら、生命はこの宇宙に一様しか存在しないからです。一様しか存在しないなら、今現に存在しているあらゆるモノは、その一様の生命ではありませんか。ならば、素直に認めることです。あなたがどんなに認めなくても、既成事実を変えることはできないのですから・・・。

 私が断言するように、あなたも「私は生命である!」と断言してください。当人がそういうのですから、間違いないのです。なぜなら、この宇宙には当人しかいないからです。一様の生命が、様々な形をしているわけですから、当人しかいないのは当然ではありませんか。もし当人が否定したら、一様の生命は存在しなくなってしまいます。つまりあなたが否定したら、その瞬間生命がいなくなるのです。否定者そのものが生命だからです。当人だからです。あなたは間違いなく生命です。そう想わないから生命でないだけです。想えば即生命です。これは、当人がそういっているのですから間違いないのです。

 

 

言葉135・・コインの裏表のようなもの

 生命と人間は、コインの裏表のような関係にあります。裏の生命がなくては表の人間があり得ないし、表の人間がなくては裏の生命はあり得ないのです。裏のエネルギーがなくては表の物質があり得ないし、表の物質が無くては裏のエネルギーがあり得ないのと同じです。コインに表と裏の境目がないように、人間にも、どこからが人間でどこからが生命という境目がないのです。手の裏と表が二つで一つであるように、生命と人間も二つで一つなのです。二つで一つということは、一つであるということです。人間と生命が二つで一つであるということは、人間であると同時に生命であるということです。この二つで一つという意味を心の底で理解できたら、生命の自覚に大きく近づくことができるのです。

 二つは一つであり、一つは二つです。どちらがなくても、どちらも存在できないのです。だからどちらが上で、どちらが下だといえないのです。どちらが偉く、どちらが偉くないといえないのです。宇宙に上下が無いのは、みな同じ一つのものだからです。

 

 

【神様からの手紙7・・どうすれば神(生命)と思えるようになるのか?】

 今、あなた達は、何の疑問も持たず人間として生きておりますが、本当にあなた達は人間なのでしょうか? たまたま人間の形をしていたから、人間だと思っているだけではありませんか? 鳥の形をしていたら、鳥だと思い鳥のように生きていたはずです。虫の形をしていたら、虫だと思い虫のように生きていたはずです。花の形をしていたら、花だと思い花のように生きていたはずです。

 本当のあなた達は、姿形を持たない生命なのです。偉大な能力を持った生命なのです。でも、形の中に入れば形に惑わされ、どうしても形だと思ってしまうのです。これは、生命の私にとって痛し痒しの部分なのです。もし私(生命)に形があったなら、このようなことにはなっていなかったでしょう。姿形のない私は、そのままでは自己表現できないため、止む無く形の中に入って自分を表現しているのです。では、どうすれば生命と思えるようになるでしょうか。こう思ってください。

「自分は、形の無い形を持った生命なのだと・・・。」

「自分は、見えない形をした生命なのだと・・・。」

 形が無いのも形なのです。形の無い形だという意味です。見えない形をした、見えないものであるという意味です。生命はどんな形も取ることができるという意味は、見えない形も取ることができるという意味です。その生命は、普段見えない形をしているのです。必要なときに、見える形になっているだけです。このことが心の底で理解できれば、あなた達はどんな形の中にも、私(生命)を見ることができるでしょう。