第九章 神

 神は一様です。この宇宙に神は、一様しか存在しないのです。よく「私たちの宗教の神は!」といいますが、どうして宗教の数だけ神がいるのでしょうか? それは神を知らないからです。

 神は神秘的な存在ではありません。何処にでも転がっているありふれた存在です。なぜなら、すべては神の化身だからです。空気も神の化身です。水も神の化身です。土も神の化身です。菌も、虫も、花も、犬も、人間も、神の化身です。どうか神を身近に感じてください。

 

 

言葉146・・初めなき始めより存在していた神(人)

 神は初めなき始めより、この宇宙に存在していました。神は生まれもしなければ、死にもしない、生き通しの存在なのです。でも、初めなき始めより存在していたのは、神だけではありません。人も初めなき始めより存在していたのです。なぜなら、神の存在を認めてやれるのは、人以外いないからです。そこに何かが存在するためには、それを認めてやる存在者がいなくては存在できないのです。認める者が存在しているから、認められる者が存在できるのです。

 例えば、アスリートと審判員が同時にその場にいなければ、その試合は成り立ちません。どんなにアスリートがいても、判定する審判員がいなくては、試合は成立しないからです。その審判役を担っているのが人なのです。だから人も神と同じように、初めなき始めより存在していたのです。ということは、人は神であるということです。「神人」とは、神は人であり人は神であるという意味です。

 

 

言葉147・・神を完全に知ることは永久にできない

 神を完全に知ることは不可能です。なぜなら、神は無限だからです。無限のものをどうして完全に知ることができましょうか? もし知ることができるなら、それは有限になってしまいます。有限なるものは知ることができても、無限なるものは永久に知ることはできないのです。

  • 無限を知ろうとする行為は、無限を有限化する愚行です。
  • 神を完全に知ろうとする行為は、無限の神を有限の神に引きずり下ろす愚行です。

そうです。

神を有限化する行為は、無限の数を読む愚行に等しいのです。あなたは数を、1・2・3・4・5・6・7・・・・・と、最後まで読み切ることができますか?  数は無限なのですから、果てがないのですから、最後まで読み切ることはできないのです。神が無限だということは、果てがないということです。

 私たちがすべきことは、神を認めることです。神を信じることです。神に従順に生きることです。従順に生きるという意味は、宇宙の法則を素直に守り、進化の階段を一歩一歩上るという意味です。

 私たちが求めるものは究極の幸せです。その幸せは、私たちの成長と共に進化するのです。神は進化しませんが、幸せの進化の階段は永久に続くのです。私たちは、その進化の階段を一歩一歩上りながら、永遠に尽きない、色褪せない、幸せを味わってゆくのです。これは、神が完全であり無限であるがゆえに味わえる、幸せの醍醐味なのです。

 

 

言葉148・・神は何処にもおり、何処にもいない!

 「神」とは何でしょうか? 「神」という言葉は、単なる言葉です。神という言葉で、神を表しているわけではないのです。神は言葉では表せない存在だからです。なぜなら、神には姿形がないからです。無色・無音・無味・無臭・無感触の存在が神なのです。でも私たちは、言葉で表さなくては神を受け止めることができないので、神という言葉に置き換えて神を受け取っているだけです。「・・・・・・・・?」では、受け止めることができないからです。

 神は、言葉や文字で表現できないものです。言葉や文字を超越しているのが神なのです。だから神を表すには、無言でいるしかないのです。でも、それでは何も受け止めることができませんので、「神」という言葉に置き換え神を表しているのです。

 神の属性は、

・意識です。

・意思です。

・意志です。

・理念です。

・知恵です。

・エネルギーです。

・光です。

・愛です。

・無限なるものです。

・不変なるものです。

・普遍なるものです。

・永遠不滅なるものです。

・完全無欠なるものです。

・絶対善なるものです。

・絶対正義なるものです。

・一なるものです。

・私です。

・あなたです。

・すべてのすべて、有りて有るものです。

・それです。

・これです。

・あれです。

 この属性を「神」の一言に包含させたのです。でもこれは、理解できる人には受け止められても、理解できない人には受け止められないのです。だから私は、神は何処にもおり、何処にもいないというのです。

 

 

言葉149・・人は神の代弁代行者である。

 人は、神の代弁代行者です。もし人が存在しなかったら、神は自分の思いを永久に呑み込んだままでいなければならなかったでしょう。幸いなことに人が存在しているから、神は自分の思いの丈をいっぱいに表現できたのです。人の手足は、神の行為を現す道具です。人の喉仏は、神の言葉を現す道具です。姿形の無い神が自分を表現するためには、姿形を持った人という代行代弁者が必要だったのです。

 あなたは今、お話しました。それは、神がお話したのです。あなたは今、ボールを蹴りました。それは、神がボールを蹴ったのです。あなたは今、文字を書きました。それは、神が文字を書いたのです。あなたが神だから、それができたのです。そう、あなたは紛れもない神なのです。あなたが、

  • 意識を持っていること自体・・
  • 思考できること自体・・
  • 話せること自体・・
  • この書を読めること自体・・
  • 創作できること自体・・

神である証なのです。

 今人類は、コンピューターを操り、ロケットを飛ばし、船を浮かべ、自動車を走らせ、ビルを建て、様々な創造をなしていますが、これは神だからこそできることなのです。それも、神の自覚なしにです。もし神の自覚が持てたら、地球はおろか、宇宙さえ創造できるでしょう。いや事実あなた達は今、宇宙を創造しているではありませんか。あなたの意識で・・・。どうか、この意味の深さを知ってください。

 

 

言葉150・・「元数1」とは、神のこと

 神は一様です。この宇宙には神の外に何もないのです。「一つしか無い! 」ではその一つのものは、どのようにして自分を表現するのでしょうか。一つのものが表現するには、一つのものを通しては表現できないのです。一つのものが表現するためには、二つ以上に分けなければ表現できないのです。コンピューターが1だけで表現できないように、神も自分を表現するためには、もう一つの何かを持ってこなくては表現できないのです。一つしか無いということは、それは絶対だということです。絶対からは何も生み出せないのです。それでは何も表現できないので、神はもう一つの宇宙をお創りになったのです。それが相対宇宙(表現宇宙)です。二つ以上ある宇宙です。二つあれば、無限の表現ができるのです。それが1と〇の表現です。

 絶対なる「1」は、神そのものです。絶対なる「1」は、元数そのものです。その元数1なる神は、自分を無数の数字に分けて放射したのです。無数の数字が、光線であり分数です。表現宇宙(相対宇宙)は、その分数によって誕生したのです。その分数が、元素となりました。その元素に番号を打ったのが原子番号なのです。その原子番号の組み合わせによって、様々な物質が生まれました。私たちの肉体も、その原子番号の組み合わせによって創られたのです。だから元を正せば、私たちは神なのです。なぜなら、元数1から生まれた分数によって創られたものだからです。私たちを含め、すべての物質は神の化身なのです。その元数1には、意識があるのです。意志があるのです。知恵があるのです。力があるのです。光があるのです。だから私たちは、人の形をとる前から生きていたのです。また、人の形が無くなった後も生き続けるのです。

 

 

言葉151・・神は意識

 神は意識です。その意識は元数1の中にあります。その元数1の放射によって生まれた表現宇宙は、意識の海といっていいでしょう。そうです。この表現宇宙には神の意識が満ち満ちているのです。意識核として、意識核の濃縮された生命核として、さらに分数として、元素として、原子として・・・。この宇宙は形が創られると、その形の中に濃縮された意識核が宿る仕組みになっているのです。生命核として・・・魂として・・・。昔から人形に魂が宿るといわれてきましたが、それは本当のことなのです。形が作られると、その形の中に必ず魂が宿る仕組みになっているのです。魂・・・すなわち生命核です。この仕組みに、特例はありません。原子一個の中にも、塵一つの中にも魂は宿っています。だから、人間の中に宿らないはずがありません。私たちのボディーの中に魂が宿っているのは、疑いの無いことなのです。その魂が本当の私たちなのです。

 この宇宙に、意識は一つしかありません。一つしか無いということは、私たちは神であるということです。なぜなら、私たちは意識を持っているからです。もし私たちが神でなかったら、意識は一つしか無いという真理は崩れ去ってしまいます。神は一様、意識は一様、だから、私たちも一様なのです。天上天下唯我独尊(存)は、当たり前のことなのです。お釈迦様は、当たり前のことをいわれたのです。

 

 

言葉152・・みな神の兄弟姉妹

 神の意識核によって魂 (生命核)が生まれました。だから私たちの魂は、神そのものといっていいのです。その魂が、すべての物の中に宿っているわけですから、日本人も、韓国人も、中国人も、北朝鮮人も、イスラエル人も、イラン人も、みな同じ神の子です。元は一つなのですから、みな兄弟姉妹なのは当然です。だから、兄弟喧嘩してはならないのです。オリンピック旗は、人種を象徴的に五つの輪で表現しているのです。人類みな神の子です。いや人類だけではありません。鉱物も、植物も、動物も、同じ神の子です。だから、無闇に彼らを破壊してはならないのです。

 元が一つなら、どうして他人がいるのでしょうか。元が一つなら、どうして異質のものがあるのでしょうか。形が違っていても、同じ元数1から生まれたのですから、みな同じ兄弟姉妹です。形が違うからといって、嫌わないでください。眼の色が違うからといって、嫌わないでください。肌の色が違うからといって、嫌わないでください。どうか、神の子同士仲良くしてください。

 

 

言葉153・・神をトコトン信じる

 どんなものも、最初から完成されたものはないのです。生まれはじめは、どんなものも幼いのです。様々な体験をして、少しづつ大人になってゆくのです。今人類は様々な苦悩に喘いでいますが、それは大人になるための試練だと考えたらいいでしょう。人間は今、様々な苦しみを通して大人になろうとしているのです。成長には、苦難が伴うのです。身を通して体験しなければ、苦難の意味が分からないからです。痛みがなければ、苦しみがなければ、強くなれないのです。鋼も叩かれて強靭になるのです。あんも煉れば煉るほど艶を出すのです。何でもそうですが、厳しい道を通らなければ大きく成長できないのです。これは仕方のないことなのです。

 人間は視野が狭いため、神の大いなる思いを汲み取ることができません。人間は都合の悪いことが起きると、すぐに神を否定します。都合の悪いことが、都合の良いことにつながっていることに人間は気付かないのです。神をトコトン信じなさいと私がいうのは、この宇宙に悪いことなど一つも無いからです。神は決して悪いようには致しません。人間の目には悪いように見えても、神の目から見ればみな良いことなのです。神は私たちを心から愛しております。その神が、我が子を悪い方へ導くはずがないじゃありませんか。

 最初から完成された彫刻などないのです。始めは何がなんだかわからなくても、最終的には素晴らしい彫像となって完成されるのです。途中の状態を見て、文句をいわないでください。完成された暁には、素晴らしい彫像となるのですから・・・。どうか神を信じてください。本当の自分を信じてください。

 

 

言葉154・・神はチョークそのものである

 学校の先生は、黒板にチョークで字を書きます。書いているのは人間です。では、宇宙の黒板に絵を描いているのは誰でしょうか? それは、チョークです。チョーク自身の意思で、表現宇宙に絵を描いているのです。チョークそのものが、本質そのものであり、理念の主である神そのものだからです。ということは、チョークで描かれた絵そのものが神であるということになりませんか?。ならば、チョークによって描かれた人間は、神そのものではありませんか?。なぜなら、描かれた絵そのものがチョークそのものだからです。つまり神という名の本質だからです。

 私はチョークによって描かれた神そのものです。あなたはチョークによって描かれた神そのものです。そのチョークは宇宙に一つしか無いのですから、そういっても誤りではないでしょう。そうです。描かれた人間は、神の理念から生まれた創造物であり、チョークそのものなのです。つまり、チョークが人間の姿に化身したのです。でも、どんなにチョークが人間に姿を変えても、チョークそのものの本質は変わらないのです。それならば、「人間は神である」という真理を素直に認めようではありませんか。

 

 

言葉155・・現実(人間)と真実(神)を共に生きる

 真実は目に見えません。耳で聞くこともできません。舌で味わうこともできません。鼻で嗅ぐこともできません。身で感じることもできません。でもその真実が、背後から五感を働かせてくれているのです。背後の真実が無かったら、私たちは五感によって受け取ることができないのです。ということは、真実と現実は切り離すことができないということになります。もし切り離したら、どちらも存在意義を失ってしまうからです。私たちは今、人間を感じていますが、人間という現実があるということは、その背後に必ず真実があるということです。私たちは真実から離れて存在できないし、真実は私たちから離れて存在できないのです。ならば私たちは、どのように生きるべきでしょうか。そうです。現実と真実を共に意識して生きるべきです。現実とは人間のことです。真実とは神のことです。現実と真実を共に生きるとは、人間と神とを共に意識して生きるという意味です。人間だけを意識して生きるから、私たちは苦しむのです。人間と神の両方を意識して生きれば、苦しみは無いのです。なぜなら神を意識すれば、愚かな想いも持たず、愚かな言葉も使わず、愚かな行いもしなくなるからです。原因と結果の法則は、その通りを現すのです。

 

 

言葉156・・私から離れた神は無い!

 私から離れた神はありません。また神から離れた私もいません。だから私から離れた私もありません。なぜ私から離れた神が無いかといいますと、神が私を創造する場合、神自らが私になるしかないからです。神は常に私と共にあるのです。その神と対面したくば、私の中にいる神を意識すればいいのです。

 「私は神を意識しているが、まだ神が現れたことがない」という人は、神に意識を向けている時間が少ないからです。気まぐれに神を呼んで、どうして神が現れてくれましょうか。神は常にあなたのハートを叩いていたのですよ。でもあなたは、困ったときにしか神を呼んでくれなかった。そんな気まぐれな呼び方で、どうして神が現れてくれるでしょうか。神と対面したくは、時間あるごとに神を意識することです。一体世の中の人たちは、毎日何に時間を使っているのでしょうか。日々の生活のことや、過ぎ去った過去のことや、まだ来ぬ未来のことに時間を使っているのではありませんか。そんな時間の使い方で、本当に生きているといえるでしょうか? 日々の生活のことも、過去のことも、未来のことも、みな幻なのですよ! 幻に生きて一体何になるのですか?

 人生を悔いなく生きるには、本当に有る神に常に意識を向けることです。常に神に意識を向けている人は、将来に向けて布石を打っているのです。その人は、日々間違いなく前進しています。でも、過去や未来や今の雑事に生きている人は、一歩も前進していないのです。たとえ前進していても、進み方が少ないのです。

 私たちは神から出てきました。そしていつか必ず神に帰るのです。神に帰るには、常に神に意識を向けていなくてはなりません。神に意識を向けるとは、神を想うことです。神と親しくなることです。神を瞑想することです。その人は間違いなく、将来に向けて布石を打っているのです。つまり、神に帰る道を作っているのです。どうか、時間あるごとに神を意識してください。神を瞑想してください。それが、意義ある毎日を送っていることになるのです。

 

 

言葉157・・神とエネルギーのやり取りをしよう!

 私がいつも、神に意識を向けなさい! 神と親しくしなさい! というのは、神に意識を向けている時は、神にエネルギーを送っていることになるからです。神にエネルギーを送れば、エネルギー均衡の法則によって神からエネルギーが返ってきます。これは、山に向かって“ ありがとう! ”といえば、“ ありがとう! ”と返ってくる山彦の原理と同じなのです。山彦は、良い原因を投げかけなさい、そうすれば良い結果が返ってきますよ、ということを人間に教えてくれているのです。

 ではなぜ神に思いを向ければ、良い結果を受け取ることができるのでしょうか。理由は二つあります。一つは、神の想いそのものが善いエネルギーだからです。私たちが神に思いを向けている時には、善いエネルギーを出しているのです。善いエネルギーを出せば善いエネルギーが返ってくるのは、因果の法則からして当然のことなのです。

 もう一つは、神に思いを向けている時は、この世の雑事から離れられますので、それだけ悪い原因から離れることができるのです。例えば、一時間神に思いを向ければ、この世の雑事を思う時間が一時間減るわけですから、往復二時間良い原因を作ることになるのです。ということは、それだけ良い原因と悪い原因が入れ替わるということです。

 エネルギーは実に正直です。悪いエネルギーを出せば悪いエネルギーが、良いエネルギーを出せば良いエネルギーが・・・。これは自動的です。さあ、神に向かって善いエネルギーを放出してください。そうすれば、必ず神から善いエネルギーが返ってくるのですから・・・。

 

 

言葉158・・神の偉大さは、自分が近づいて初めて知る

 世の中には、まだ自分がそこまで近づいていないのに、自分の師匠を非難する人がおりますが、これは余りにも軽薄すぎます。自分が近づいてもいないのに、どうして師匠の偉大さが分かるでしょうか? 神を否定する人も同じです。神の偉大さを知るには、自分が神に近づいてみなくては解らないのです。これは遠くからチラッと絵を見て、“ 大した絵ではない! ”といっているようなものです。絵を批判するなら、近づいてよく見てからいってください。自分が近づいてもいないのに、あたかも自分が何でも知っているかのようにいうのは傲慢というものです。

 私が神の偉大さに敬服するのは、それだけ神を深く知り、神の偉大さを心の底で味わったからです。それはもう、ただただ頭を垂れるしかないのです。この宇宙の仕組みの巧みさ・精緻さ・美しさ・完璧さを知れば、あなたも神に頭を垂れるはずです。文句をいうなら、近づいてからいってください。近づいたら感嘆の声は上げても、決して文句はいわないでしょう。

 神が創られた宇宙は、それはそれは水も漏らさぬ完璧な仕組みによって差配されています。完全無欠です。どこを抓んでみても、どこを叩いてみても、一つの齟齬も、一つの狂いも、無いのです。もしあなたがこのようにいえるなら、そこまで神に近づいた証といっていいでしょう。多くの人が神を否定するのは、神を遠くから見ているからです。どうか神に近づいてください。そして神を知って、知って、知り尽くしてください。そうすれば、あなたの口から出てくるのは、神を褒める言葉ばかりでしょう。

 

 

言葉159・・二人の自分

 という字は、左辺の「」と右辺の「﹅」が支え合った形をしております。これは“ は支え合う生き物なのですよ! ”ということを教えている字なのです。左辺の「」は肉体のことです。右辺の「﹅」は神(エネルギー)のことです。人間は肉体と神(陰と陽)の結晶体なのです。でも多くの人間は、神を自我の心(肉体の心・岩戸)の中に閉じ込めております。自分探しとは、神の自分を探し出し、自我の心から解放することなのです。でも殆どの人は、日々の生活に追われ、神の自分を探し出せないでおります。外側に気を取られていては、神の自分を見付けることはできないのです。なぜなら、神は外側にいるのではなく、自分の心の奥深いところにおられるからです。

 本当の自分(神)を見付けるには、心の奥深いところまで降りて行って岩戸を開かねばなりません。私はそこに降りて行ったのです。そこには、二人の自分が待っていました。一人は岩戸の前に立ちはだかる自我(肉我)の自分、もう一人は、岩戸の中に閉じ込められている神我の自分です。その日から、自我の自分と神我の自分との壮絶な戦いが始まったのです。これが聖戦といわれる戦いです。私たちの中には、天使の私(神我)とサタンの私(自我・肉我)がおり、常にこの二人は戦っているのです。私はいくど、自我の自分に負けそうになったことでしょう。でも私は、歯を食いしばって戦い続けました。その甲斐あって、ついに岩戸を開けることができたのです。そこには、神我の自分が手を広げて待っていました。二人の自分が合体したとき、神が定着したのです。本当の自分が定着したのです。

 

 

言葉160・・神に近づく方法

 大自然をごらんなさい! 大自然はまさに神の体現化したものです。神は大自然を通して、人間に宇宙の謎を解き明かしてもらいたいと願っているのです。大自然の中に、宇宙の謎を解くカギが隠されているのです。神のなされることに一つの無駄も無いといわれるのは、すべての現象に意味を持たせ人間に教材を提供しているからです。「あなたたちはこの教材を通して神の存在を知りなさい! 」と神はおっしゃっておられるのです。それは、神の自覚を深めるためにどうしても必要な学びなのです。だから疑問を持つことです。例えば、なぜ植物は緑色をしているのだろうか? なぜ高い山に雪を留めているのか? なぜ川は蛇行しているのか? なぜ人間は直立で歩くのか? なぜ夜と昼が有るのか? なぜコウモリは暗い洞窟の中に住んでいるのか? 疑問は尽きません。でも人間は当り前だと思い、疑問に思わないのです。

 誤解されては困りますのでいい添えますが、私は物理的謎を解いてくださいといっているのではありません。大自然の中に隠されている、真理の謎を解いてくださいといっているのです。一つ疑問を解けば、一歩神に近づけます。神に近づけば、神の自覚が高まります。大自然は神のご身体ですから、その中に沢山の教材が隠されているのです。どうか疑問を持ってください。神が何を目的として自然界を作られたのか、深く考えて見てください。気付けば、原子核を増やすことができます。

 

 

言葉161・・いつまでも人間であってはならない!

 よく私たちは、「人の道に恥じない生き方をしなさい!」とか、「人間味を無くしてはならない!」とか、「人間らしく生きなさい!」とかいいますが、私たちは人間が最高の生き物だと思っているから、そのような言い方をするのです。人間は神に至る進化途上の生き物であって、最高点にいるわけではないのです。それどころか、まだ進化の段階の下の方にいるのです。なぜなら、鉱物・植物・動物の次に位置しているのが人間だからです。人間の上には、無限に近い進化の階段があるのです。その下の方に位置している人間に生きなさいとは、おかしな話ではありませんか。私たちは一日も早く人間を卒業して、次のステップを踏まなければならないのです。そのためには、自分が神(生命)であることを知ることです。

 私たちは神の分身なのです。私たちは神から生まれた神の子なのです。神の子であるがゆえに、神になれるのです。なぜなら、子はいずれ親になるからです。これは当り前の事であって、何の不思議もありません。蛙の子であるオタマジャクシは、幼い時にはオタマジャクシと呼ばれていますが、いずれ蛙という名になるのです。神の子である人間も、今は人間と呼ばれていますが、いずれ神という名になるのです。蛙の子は蛙なのです。神の子は神なのです。人間の子と思うから、人間の生き方しかできないのです。今人類は、神でありながら人間と錯覚し、人間として生きているのです。だから生・老・病・死に苦しまねばならないのです。それはただ、錯覚しているだけです。錯覚を解けば、そく神なのです。どうか高いレベルで人間を見てください。人間は間違いなく、神の子なのですから・・・。神の分身なのですから・・・。

 

 

言葉162・・嘘をついてはならない!

 私の恩師である知花敏彦先生は、口癖のように「人間と嘘をついてはならない! 」と戒められていました。なぜ戒められたかといいますと、嘘は嘘を呼び込むからです。例えば、「バカヤロー」という言葉を発すれば、「バカヤロー」という言葉が帰ってきます。これは因果の法則が働いたためですが、「人間という想い」の原因を発すれば、「人間という想い」の結果が帰ってくるのです。一度人間という想い癖がつくと、次々と「人間」という想いを発するようになりますから、業の輪廻となって嘘をつき続けることになるのです。

 その嘘の輪廻を断ち切るには、嘘をついていることに気づかねばなりません。無知が最大の罪といわれるのは、知らなければ嘘をつき続けるからです。だから私たちは、一日も早く本当の自分を知る必要があるのです。

 私たちの本性は「神」です。人間ではありません。まず、そのことを知ることです。知ったら、「私は神である! 」と想い続けることです。これは正想念です。真実を想っているのです。真実を想えば真実が帰ってくるのです。つまり、「神である! 」という自覚が生まれるのです。これは、因果の法則の働きによるものですから間違ありません。

 「人間」と嘘をつき続けている限り、生・老・病・死から開放されることはありません。生・老・病・死から開放されたいなら、どうか嘘をつかないようにしてください。

 

 

言葉163・・特別な話ではない!

 この宇宙には、たった一様の創り主がいるだけです。そのたった一様の創り主のことを、神(生命)と呼んでいるのです。ではその神(生命)が、物を創る場合どうするでしょうか? 神(生命)自らが、その物になるしかないでしょう? なぜなら、自分の他に誰もいないからです。他に誰かがいるなら、その者に頼んで物を創ってもらうこともできましょうが、自分しかいないのですから自分で創るしかないのです。ならば人間は、神ではありませんか? 

 寒い朝、家で薪ストーブをたいておりました。その薪が燃え尽きたため、家の中が寒くなってきました。薪は外の物置小屋にあります。この場合、誰かが物置小屋に薪を取りに行かねばなりません。でも、自分しかいないのですから、自分で薪を取りに行くしかありません。神(生命)も同じこと・・・。神しかいない宇宙で何かを創る場合、神自らがその何かを創るしかないのです。幸いなことに神 (生命)は素材そのものですから、神自らがその物になることができるのです。だから私は、人間は神(生命)であると断言するのです。これは当り前の話であって、特別な話ではないのです。さあ、堂々と神(生命)を宣言しましょう。当たり前のことをいうのに、誰にも遠慮はいらないのですから・・・。

 

 

言葉164・・神は中性

 神は、左にも右にも偏らない中性です。中性ゆえに、相対宇宙を創造することができたのです。それは自分の中に、「左も右もある」「陰も陽もある」という証なのです。なぜなら、自分の中に無いものは出せないからです。神の中に陰の思いがあったから、陰の宇宙(相対宇宙)が創造できたのです。パンドラの箱から物質を生み出すことができたのも、神の思いの中に物的想いがあったからです。つまり、中性の中に陰と陽の両方が潜在していたから、陰なる物質を生み出すことができたのです。この相対宇宙は、神の思いが実現した結果の世界なのです。

  • 1の中に0が潜在していたから、0の世界が生まれたのです。
  • 光の中に闇が潜在していたから、闇の世界が生まれたのです。
  • 善の中に悪が潜在していたから、悪が生まれたのです。
  • 神の中に人間が潜在していたから、人間が生まれたのです。
  • 原因の中に結果が潜在していたから、結果が生まれたのです。

 「1や光や善や神や原因」は、陽の立場です。「0や闇や悪や人間や結果」は、陰の立場です。陰が生まれたのは、中性の中に陽と陰が潜在していたからです。中性は「無・空」なのです。「無・空」とは何も無いという意味ではありません。無限の能力と、無限の可能性と、無限の性質と、無限の力が秘められているという意味です。中性には、能力も性質も力も無いように見えながら、無限の能力と無限の可能性と無限の性質と無限の力が潜在しているのです。どうしてそのような力が秘められているかといいますと、中性は陰と陽を嫌というほど体験し、両方の良し悪しを知っているからです。体験なしに、そのような能力を持つことはできないのです。神は女であり男であるといわれるのは、相対宇宙において女と男を嫌というほど体験してきたからです。良し悪しを知るには、両方を体験しなければできないのです。体験し終わった者は、「無・空」になるのです。だから1は0でもあり、0は1でもあるのです。神は人間でもあり、人間は神でもあるのです。二つで一つなのです。

 そうです。中性とは二つで一つであるという意味です。中性の中では何の性質も現さないけれど、中性から出た途端様々な性質を現すのです。色や味や臭いや音や感覚が生まれるのは、中性から出た時です。偏ると色が生まれるのです。偏ると味が生まれるのです。偏ると臭いが生まれるのです。偏ると音が生まれるのです。偏ると触覚が生まれるのです。私たちが五感を備えているのは、五感を通して様々な体験をし、中性の意味を知るためです。人間は色なのです。でも、色付きの無色なのです。神は無色なのです。でも、無色付きの色なのです。この意味の深さを知ってください。

 

 

【神様からの手紙9・・神には嘘がつけない!】 

 あなた達の中には、私(神・自分・良心)が内在しています。だからあなた達は、私に嘘がつけないのです。嘘をついても、私がその嘘をみな知っているからです。良心の前で嘘がつけないというのは、あなた達の中に存在する良心そのものが私だからです。私は至るところにおるのです。だからどんな罪を犯しても、心から悔い改めれば、あなたは許されるのです。なぜなら、あなたの本心が裁判官(私)だからです。二度と過ちを犯さないと誓った者に、私が罰を与えると思いますか? まだ悔いてないから、罰が与えられるのです。どんなに誤魔化しても、自分の心は誤魔化せないのです。たとえ誤魔化したとしても、そのツケは必ず我が身に返ってくるのです。痛みとして・・・苦しみとして・・・悲しみとして・・・そんな愚かなことはしないことです。

 あなたの良心が神なのです。あなたの本心が神なのです。あなたは、いつも裁判官の前にいるようなものなのです。裁判官を騙して何かを得ても喜べないのは、裁判官そのものが自分だからです。この宇宙には自分しかいないのです。どうか、自分の前で自分を偽るようなことはしないでください。