第二章 光道

 私たちが生命の世界から出てきた目的は、「真実を知る!」という今生計画してきたことを遂行するためです。あなたはその計画を、どこまで遂行しましたか? 計画にやり残しがあっては、死んでも死にきれません。肉の死は待ってはくれません。グズグスしている暇など無いのです。さあ、今生計画してきたことをやり遂げて帰りましょう。

 

 

言葉25・・私たちは人間ではない!

 私たちはよく、人の道に恥じない生き方をしなさいとか、人間味を無くしてはならないとか、人間らしく生きなさいとかいいますが、人間が最高の生き物だと思っているから、そのような言い方をするのです。人間は神に至る進化途上の生き物であって、最高点にいるわけではないのです。それどころか、まだ進化の下方の位置にいるのです。なぜなら、鉱物・植物・動物の次に位置しているのが人間だからです。人間の上には、無限に近い進化の階段があるのです。その下方に位置している人間に生きなさいとは、おかしな話ではありませんか? 私たちは一日も早く人間を卒業し、次のステップを踏まなければならないのです。そのためには、まず自分が神(生命)であることを知らねばなりません。

 私たちは神の分身なのです。私たちは神から生まれた神の子なのです。神の子であるがゆえに、神になれるのです。なぜなら、子はいずれ親になるからです。蛙の子であるオタマジャクシは、幼い時にはオタマジャクシと呼ばれていますが、いずれ蛙と呼ばれるようになるのです。神の子である人間も、今は人間と呼ばれていますが、いずれ神と呼ばれるようになるのです。蛙の子は蛙なのです。神の子は神なのです。人間の子と思うから、人間の生き方しかできないのです。今私たちは、神でありながら人間と錯覚し、人間として生きているのです。それはただ、錯覚しているだけです。錯覚を解けば、そく神なのです。どうか高いレベルで人間を見てください。人間は間違いなく、神の子なのですから・・・。



言葉26・・自我の自分との戦い

 「」という字は、左辺の「」と右辺「﹅」が支え合った形をしております。左辺の「」は、肉体人間(物質)を指し、右辺の「﹅」は生命を指しているのです。人間は物質と生命の複合体なのです。つまり、陰と陽の結晶体が人間なのです。そこには、肉の自分と生命の自分の二人の自分がいるのです。自分探しとは、この右辺の生命の自分を探すことなのです。しかし、私たちはこの世の生活に追われ、なかなか生命の自分を探せないでおります。外側に夢中になっている間は、生命の自分は探せないのです。なぜなら、「生命」の自分は外側にいるのではなく、心の奥深い密室におられるからです。

 私は密室まで降りて行きました。しかし密室の前に、扉を遮るように自我の自分が待ち構えていました。その自我の自分は様々な手を使い、生命(真我)の自分に合わせないよう邪魔してくるのです。この自我と生命との戦いが、ジハードとか聖戦とかいわれる戦いなのです。私はこの戦いに、幾度負けかけたことでしょう。ある時は感情を揺さぶり、ある時は欲望を掻き立て、ある時は病苦を与え、ある時は気力を萎えさせるといった、巧妙な手を使って邪魔してくるのです。でも私は、歯を食いしばって戦い続けました。その甲斐あって、やがて自我の勢力が弱まりました。どうやら、生命(真我)の自分が指導権を握ったようです。自我は今も時々姿を見せますが、もう昔のような力はありません。見破れば、コソコソと逃げてしまう滑稽な存在です。

 求道者の最後の戦い、それが自我と真我との聖戦です。さあ、聖戦に勝ちましょう。

 

 

言葉27・・一人の清まりは全体の清まり

 コップの中に淀んだ水があるとします。そのコップの中に清い水を一滴入れたらどうなるでしょうか。清い水一滴だけが固まっているのでしょうか。それとも全体に溶け込んで行くのでしょうか。ある国のサルが芋を洗うようになったら、全世界のサルが芋を洗うようになったのも、個の影響が全体に及んだからです。意識は一つしかないのですから、個の影響が全体に及ぶのは当然なのです。ですから、「私一人良いことをやっても! 」といわないでください。あなたが良い波動を出せば、全体に影響を及ぼさずにはおかないのですから・・・。

 これは魂の成長にもいえることで、一人の魂の成長は全体の魂の成長にもつながるのです。つまり自分の魂の成長は、全人類の魂の成長につながるのです。意識が一つしかない宇宙において、影響を及ぼさない意識はないのです。あなたの意識は全体の意識であり、全体の意識はあなたの意識です。だからあなたが成長すれば、全体が成長するのです。どうか良い想いを持ってください。それは自分を清めるだけでなく、全人類を清めることにも、地球を清めることにも、全宇宙を清めることにもなるのですから・・・。

 

 

言葉28・・川上を掃除しよう!

 世の中には、人助けを喜びとしている人たちが大勢おります。彼らは災害が起こると率先して寄付をしたり、ボランティアをしたりします。また政府も、災害復旧に力を注ぎます。確かに、寄付をしたりボランティアをしたり災害復旧をすることは、とても大切なことです。でも、それで満足していてはならないのです。なぜなら、結果対処では根本的解決にならないからです。

 なぜ自然災害が多く起きるのでしょうか? なぜ病で苦しむ人が後を絶たないのでしょうか? なぜ地球環境が悪化の一途を辿っているのでしょうか? それは、多くの人が悪的想念を放っているからではないでしょうか。悪的想念を放ちながら、どんなに結果対処(寄付や災害対策)しても、それは一時しのぎで終わってしまうのです。川下をどんなに綺麗にしても、川上を綺麗にしなくては根本的解決にはならないからです。私たちがすべきことは、川下を綺麗にすることではなく、川上を綺麗にすることです。つまり、良い想いを持ち、良い言葉を使い、善い行いをすることです。そうすれば、原因を取り除くことになりますから、根本的解決になるのです。悟りも同じなのです。

 議論に夢中になっている人たちや現象を追いかけている人たちは、川下でゴミを拾い集めているようなものですから、悟ることはできないのです。原因(意識)を変えず、結果(議論・現象)を拾い集め、どうして悟れるでしょうか。結果は、もう終わったものなのです。終わったものを拾い集めて何になるのでしょうか。私たちは、まだ終わっていないものを拾うべきです。終わっていないものとは、まだ現れていないもの、すなわち真実(意識・生命)のことです。私たちは、真実を拾うべきです。真実を拾ってこそ、悟ることができるのです。その拾う作業が、社会体験であり、瞑想であり、思索なのです。

 

 

言葉29・・痛みや苦しみはなぜ必要か?

 人間は、病み、痛み、苦しみますが、なぜ神は、そのようなおぞましいものを人間に与えたのでしょうか。いいえ、神はそんなものを与えていません。人間の無知が、自ら苦しみを作っているだけです。でも、それは必要だからです。ではなぜ必要なのか、考えてみましょう。

  1. 肉体を粗末に扱うのを避けるため。
     もし、痛みや苦しみが無かったら、自分の体を粗末に扱ってしまうでしょう。それでは肉体を健全に保つことはできません。肉体を健全に保てなくては、悟るどころではありません。痛いから気をつけるのです。痛いから身を守ろうとするのです。痛みや苦しみは、危険から身を守る警報装置の役割を果たしているのです。この警報装置は、植物や動物にもあるのです。だから、進化の階段を登ることができるのです。
  2. 真剣に学ぶため。
     もし、痛みや苦しみが無かったら、この世を夢や幻だと思い、誰も真剣に生きようとしないでしょう。それでは、学ぶことができません。この世が修業の道場といわれるのは、痛みや苦しみを通して真剣に学べるからです。
  3. 神に顔を向けさすため。
     人間は神を知るために生まれてきたにもかかわらず、一向に神に顔を向けようとしません。それでは、神を知らず、一生を終えてしまうでしょう。だから、神はそうならぬよう、痛みや苦しみを用意したのです。誰でも耐えられない痛みや苦しみに襲われると、”  神様助けて下さい! ”と神頼みするようになるものです。この神頼みが、神に顔を向けさすことになるのです。
  4. 反省をさせるため。
     痛みや苦しみに襲われると、“なぜ私はこんなに苦しまねばならないのだろうか?、何かバチでも当たったのだろうか? ”と疑問を持つようになるものです。痛みや苦しみが無かったら、自分が暴走していても気付きません。振り返ってこそ、反省してこそ、どんな走り方をしていたか気付くのです。反省は方向転換させる大変意義あることなのです。
  5. 疑問を持たせるため。
     4、の反省は、結局人生の思索を始めるきっかけになります。人間とは何か? 人生とは何か? 人は死んだらどうなるのだろうか? 等々・・・。これは特に、死に直面している人の中に芽生えてきます。疑問は気付きにつながり、気付きは目覚めにつながります。だから、眠っている魂には、どうしても痛みや苦しみが必要なのです。
  6. 因果の法則を知らしめるため。
     良いことをしても、悪いことをしても、身に何も返ってこなければ、良かったのか、悪かったのか気付くことはありません。特に悪いことはそうです。悲しいことですが、人はこの身で痛みや苦しみを体験しなければ、自分の過ちに気付かないのです。痛みや苦しみは、因果の法則を知らしめる重要な役割を果たしているのです。
  7. 肉体の執着を解くため。
     幼い魂は肉体を自分だと思い違いしていますので、寿命が来てもなかなか肉体から離れようとしません。でも、どんなに執着を持つ魂でも、耐え切れない痛みや苦しみに襲われると、肉体から出たいと思うようになります。痛みや苦しみは、肉体の執着を解く重要な役目を果たしているのです。
  8. 相手をいたわる心を育てるため。
     自分が体験した痛みや苦しみは、結局、相手をいたわる心を育てます。“ 自分があれだけ痛かったのだから、相手も同じように痛いはずだ ! ”と・・・。つまり、自分の苦しみを、相手の中に見ることができるようになるのです。特に肉親の痛みや苦しみは、自分のこととして受け止められるだけに、より身につまされるでしょう。この身につまされる切迫感が、疑問をもたらし、気づきをもたらし、魂を成長させるのです。

 このように痛みや苦しみは、神に顔を向けさせるきっかけになり、それが本当の自分を発見することにつながるのです。

 

 

言葉30・・なぜ努力が必要か?

 この世になぜ、「努力」という字があるのでしょうか。それは、努力して身に付けねばならないことが山ほどあるからです。努力という字の意味を、漢字からひも解いてみましょう。

  1.  努力という字は、「女」「又・・股」「力」という字が組み合わさって出来ております。これは女性の「お産」の努力を意味しているのです。鮭が卵を産みに川を遡上するのも産む努力です。親鳥がヒナを返すために卵を抱くのも産む努力です。大切なものを産むためには、努力が必要ですよ! とこの字は教えてくれているのです。
  2.  何でもそうですが、何かが欲しかったら、こちらから働きかけねば得られません。何もしないで口を開けていても、食べ物は入ってこないということです。真理も同じで、こちらから働きかけてはじめて得られるのです。努力は、思い、考え、行動を起こすことなのです。棚ぼた式で得られるものなど何一つ無いということです。
  3.  通常、高いところにいる者が、低いところに降りてくることはありません。でも真剣に望めば、情にほだされ降りてきてくれるかもしれません。でも最初に行動を起こすのは、やはり望む方です。望んでこそ、求めてこそ、与えられるのです。望む、求める、その働きかけが努力なのです。 
  4.  何事も時間が解決するといわれるのは、エネルギー(意識)が時間を生み出しているからです。時間そのものには解決する力は無いけれど、時間を支えているエネルギーが解決しているため、時間が解決しているように見えるのです。そのエネルギーには、物質を変質させたり、気持ちを変えさせたりする力があるのです。だから私は、エネルギーが物事の解決を図っているというわけです。そのエネルギーを生み出すのが、想う努力なのです。
  5.  土の上に書いた線は、雨が降ればすぐ消えてしまいます。でも何度も書けば、少々雨が降っても消えなくなります。それは、繰り返し書くことで溝が深まったからです。瞑想も同じです。繰り返し行えば、溝が深まり根付いてゆくのです。原因を積み重ねれば、深い結果が得られるということです。その原因を積み重ねる努力が、何事も成就させるのです。
  6.  この世に生を受けた者は、みな落第生です。まだ課題を克服していないから、この世に落されたのです。そんな落第生が、何もしないでノホホンと生きていていいでしょうか。そうです。落第生には努力が必要なのです。といっても、苦しむほど努力しなさいといっているわけではありません。与えられた今の環境の中で、精いっぱい努力しなさいといっているのです。
  7.  表現の世界は創造の場です。思いは創造の力です。想念が実現の母といわれるのは、思いが行為に結びつき、行為が結果を生むからです。その思いは、努力心から生まれるのです。心を動かすのも、努力だということです。努力なしに何も生まないことを知ってください。

 エネルギーの高いものは、高いところに位置しています。エネルギーの低いものは、低いところに位置しています。これは白い雲が高い位置に、黒い雲が低い位置に浮いていることでも分かるでしょう。雲さんたちは、どうしたら高い位置に昇ることができるか、今学んでいる真っ最中というわけです。これは位置エネルギーの高さを示しており、私たちに大切な示唆を与えているのです。つまり、位置エネルギーの高い者はそれだけ努力して高いところに上った結果であり、低い者は怠けて努力しなかった結果であるという暗黙の示唆です。その怠け者の代表が、地を這う蛇です。だから、蛇には天敵が多いのです。地を這う生き物に天敵が多いのは、まだ沢山努力する必要があるからです。人間も地を這う生き物ですが、それはまだ沢山努力する必要があるからです。努力は、魂を高い所に引き上げてくれるのです。努力すればするほどエネルギーが高まり、高い位置に昇れるようになっているのが、この宇宙の仕組みなのです。だから私は、努力が大切だというわけです。

 

 

言葉31・・自分を変えるには?

 今の自分に嫌気がさしているあなた! 自分の人生が無意味に思えるあなた! 前が真っ暗で何も見えないあなたに進言したい、ぜひ私の勧めることを実践してみてくださいと・・・きっと自分を変えることができるでしょう。では、何をどう実践すればいいのでしょうか。

 あなたは今、本当に精いっぱい生きているでしょうか。何かから逃げていないでしょうか。努力しているでしょうか。向上心を持って生きているでしょうか。もし何かから逃げているなら、逃げないでください。これが自分を変える基本的生き方です。なぜなら、私たちの生命核(魂)は、精いっぱい生きれば生きるほど増える仕組みになっているからです。普段の生活でさえ生命核は増えるのですから、精いっぱい生きて増えないわけがないのです。思ったら行動を起こすことです。肉体を動かすことです。行動を起せば、間違いなく原子核は増えます。

 “ 私は真理を実践しているのに何も変わらない! ”という求道者がおりますが、それは頭でっかちになり、実際に行動を起こしていないからです。つまり知識に溺れ、実際に行動を起こしていないからです。座って何もしないで自分が変わるわけがないのです。原因あっての結果です。原因を変えず、結果が変わるわけがないのです。求道者なら、行動を起こしてください。まずは、社会体験をすることです。そして、思索をすることです。更に、瞑想をすることです。そうすれば、間違いなく変わります。例え、外面は変わらなくても、内面は間違いなく変わります。私のいうことを信じ、ぜひ挑戦してみてください。

 

 

言葉32・・反省も自分を変える方法の一つ

 私たちの本性は神ですから、本来、私たちの心には、シミ一つ付いていないのです。しかし残念なことに、殆どの人が心に汚れを付けております。でもそれは、汚れが付着しただけで、心そのものが汚れたわけではないのです。汚れを落とせば、そく神の心に戻すことができるのです。良く水が汚れたといいますが、いまだかって水が汚れたことは一度もありません。水にゴミが付着しているだけです。ゴミを取り除ければ、そく綺麗な水に戻るのです。心の汚れも同じなのです。ではどうすれば、心の汚れを落とすことができるのでしょうか? それは、反省(懺悔)をすることです。反省(懺悔)は、心の汚れを落とす一番の方法なのです。(反省の仕方は、人類の夜明2「自分を変える瞑想」の中に書いてありますので参考にしてください。)

 反省で一番大切なことは、反省後「二度と過ちを犯さない! 」と堅く良心に誓うことです。あとは、心に汚れを付けないよう日々注意して生きれば、神の心と自分の心が同調し神の光が入ってくるようになります。この現象は第一次の変性変容が起きたことを意味し、自分が変わった証です。このように、反省によっても自分を変えることができるのです。

 

 

言葉33・・波動を高める簡単な方法

 この宇宙で一番波動の低いのは物質です。次に低いのは幽質です。一番高いのは霊質です。物質文明が栄えると病気が増えるのは、物質人間が多くなり、地球の波動を落してしまうからです。今地球の波動は最低にまで落ち込んでいますが、これを上げることができるのは、唯一波動を落としている人間です。波動を落としたのも人間ならば、上げるのも人間なのです。波動を上げる一番の方法は瞑想ですが、瞑想はなかなか難しく一般人には不向きです。そこで私は、次のようなことを提唱したいと思います。

 それは、 “ありがとう! はい! 行ってきます! 行ってらっしゃい! お帰りなさい! お休みなさい! おはようございます! いただきます! ごちそうさま! ”といった言葉を、意識して使うことです。日常生活で使っているごく当たり前の言葉ですが、ただ儀礼的に使っているだけで、意識して使っている人は殆どいません。意識してという意味は、「心から」という意味です。

  • 心から有り難いと思うから、“ありがとう! ”というのです。
  • 心からそうだと思うから、“はい! ”と返事するのです。

 心を込めて使った言葉には、その人の心音が感じられます。この心から語ることを本音で語るといい、神の媒体としての大切な役割の一つなのです。本音とは、神の御心が奏でる響きのことで、言霊(ことだま)のことです。言葉は、心がこもってこそ生きてくるのです。心を込めて語った言葉は、間違いなく波動を高めます。ぜひ、心を込めて良い言葉を語るようにしてください。そのような人が一人でも多くなれば、地球の波動は間違いなく上がります。小さなことかもしれませんが、難しいことをやるより、できることから始めた方が確かだと思い勧めるわけです。ちなみに波動の良い言葉は、「あ・い・う・え・お」のあ行の清音の言葉です。「愛! ありがとう! うれしい! 安心! 平安!」などの言葉は、その清音の代表でしょう。反対に波動の悪い言葉は、「ば・び・ぶ・べ・ぼ」のば行の濁音の言葉です。バカ、グズ、ドジ、ブス、ダメなどの言葉は濁音の代表かも知れません。言葉も使うなら、できるだけ波動を高める「あ行」の言葉を使うようにしましょう。

 

 

言葉34・・汝の理解力が汝を救う!

 「汝の信仰汝を救う! 」とは、「汝の理解力が汝を救う! 」という意味なのです。なぜ理解力が高ければ汝を救うのかといいますと、理解力の高い人は法を犯す愚かなことはしないからです。壁に頭をぶつければ怪我をします。これは、「ぶつけた」原因に対して「怪我」という結果が帰ってきたからです。この法則を知りながら、わざわざ壁に頭をぶつけに行く人はいません。でも理解力の乏しい人は、自らぶつけに行くのです。それは、法の存在を知らないからです。知っても、認めないからです。認めても、信じないからです。世の中には、このような人たちが沢山いるのです。世間の人たちは、苦しんでいる人を見て可愛そうだといいますが、これは自業自得なのです。人間は、この身で痛みや苦しみを体験しなければ、法の存在を認めようとしないし、信じようとしないのです。だから私は、可愛そうだと思う代わりに、“一日も早く理解力を高め、法の存在を認めてください! 信じてください!実踐してください! ”と祈るのです。

 

 

言葉35・・環境を変えるには?

 世間には、“一向に環境が変わらない!”と愚痴をこぼす人がおりますが、それは努力が足りないからではありませんか。例えば、一生懸命努力して成績を上げれば、会社での地位も給料も上がるでしょう。そうなれば、アパート暮しからマンション暮らしに変えられるかもしれません。もっと努力すれば、一軒家が持てるかもしれません。それどころか重役に抜擢され、大邸宅が持てるかもしれません。心の環境を変えるのも同じなのです。

 努力して疑問を追及すれば理解力が高まります。理解力が高まれば気付きが起き、気付けば自覚が高まり変性変容が起きます。これは努力という原因に対して、変性変容という結果が起きたためです。怠けていて、どうして環境が変わりましょうか。怠けているということは、歩いていないということですから、景色(環境)が変わるわけがないのです。私が他力を否定するのは、自分の足で歩かなければ前に進まないからです。進まなければ、周囲の景色(環境)が変わるわけがないのです。

 自分の足で歩くという意味は、

  • 嫌なことに挑戦し、自分を大きくするという意味です。
  • 普段の生活の中で、生命を意識し、生命に委ね、生命に生きるという意味です。
  • 思索をするという意味です。(自分に疑問を問いかける)
  • 自力で理解力を高めるという意味です。
  • 瞑想し自覚を高めるという意味です。

 何事も努力なしには得られません。これは当たり前のことです。もし努力も向上心も不要なら、この世にそのような言葉は無かったはずです。あるのは、まだ人類に必要だからです。

 

 

言葉36・・ポックリ死ぬことは良いことか?

 世の人々は、ポックリ死ぬことを願っております。苦しまず一瞬のうちに死ねれば、こんな幸せな死に方はないからです。でもポックリ死ぬことは、本当に良いことなのでしょうか? 世間ではガン宣告することを避けています。特に末期ガン患者に対しては、その傾向が強いようです。今の医学ではガンは死を意味するので、宣告された途端絶望し生きる気力を失ってしまうからでしょうが、でも刻々と死が近づいているというのに、何の準備も何の学びもさせず過ごさせることが、本当に本人のためになっているのでしょうか。ガンで死ぬ人は、死ぬまで相当の時間が与えられます。ガン宣告はショックかもしれませんが、宣告されることで本人は、きっと人生の思索を始めるはずです。ガン患者は最後の学びをしようとしているのです。 

  • 死とは何か? 
  • 人は死んだらどうなるのか? 
  • 人生とは一体何だったのか? など・・・。

 この思索は魂を大きく飛躍させます。自殺や横死が犬死だといわれるのは、ポックリ死んでは何の学びもできないからです。その意味では、死刑執行まで時間が与えられている死刑囚は、少なからず学んで帰っているはずです。死刑囚とガン患者を一緒にするのは不謹慎かもしれませんが、思索の時間が与えられている点では同じだと思います。だから私は、死ぬまで時間の与えられるガンに「ありがとう!」といいたいのです。(死ぬまで時間の与えられている他の病気も同じです。)

 本当にその人を愛するなら、苦しみを避けて通してはなりません。非情な言い方ですが、これは愛するがゆえと思ってください。とはいっても、青い果実を強引にもぎ取るようなことはしないでください。つまりガンを宣告するにしても、魂の成熟度がどれほどか? 本人の心情がどのような状態か? さらに良くよく機会を伺い、適切な判断を持ってやることです。もし、魂が幼すぎて宣告が耐えられないようなら、避けるべきでしょう。

 苦しんでいるのは、当人だけではありません。肉親も一緒になって苦しんでいるのです。その苦しみを苦しみで終わらせないためにも、病気から学んでください。人間は近視眼的なモノの見方しかできませんので、事の真意が把握できないでおりますが、神の意図は苦しみの中にこそ息づいているのです。どうか、苦しみの奥に隠されている真意をくみ取ってください。そうすれば、苦しみや悲しみの意味が納得して受け入れられるでしょう。本当は、苦しまず死を迎える方がいいに決まっています。でも幼い魂の多い今の地球では、死の苦しみは必要なのです。その意味において死は、地球人類の魂の成長につれ、静かに、穏やかに、ポックリと、やってくるようになるでしょう。

 

 

言葉37・・生命核(魂・原子核)を増やす三つの方法

  1. 決意(決心)することによって増やす方法
     瞑想は生命核(魂)を成長させる最も有効な手段ですが、決意(決心)が生命核(魂)を成長させることは、あまり知られておりません。これは大変な見過ごしであり、求道者にとって大きな損です。私たちの思いと行いを良く観察してみてください。意識するしないにかかわらず、行動する前には必ず決意が伴っているはずです。たとえば手足を動かす場合も、勝手に手足が動いているのではなく、動かそうと思って動かしているはずです。もっとも無意識に近い反射運動もありますが、これは浅い意識レベルの(エネルギー的に低い)決意の伴わない行動ですから、魂の成長にはあまり貢献していないのです。しかし、深い意識レベルでの行動には、必ず決意が伴っていますから、魂を成長させているのです。
     やろうと強く決意すると、エネルギーが集まるのです。それは意識核が集まること、原子核が増えること、すなわち魂が成長することなのです。それも嫌なことであればあるほど強い決意が必要ですから、それだけ魂が成長するのです。たとえば、冬の朝、寒ければ寒いほど寝床から出るのに強い決意がいるでしょう。人の嫌がる仕事を引き受けるにも、強い決意がいるでしょう。人にお金を恵む場合も、なけなしのお金を恵むときには強い決意がいるでしょう。私たちは嫌なことを避けたがりますが、これは魂の成長にとって大変な損なのです。このことについて、私の体験談を二つほど紹介しましょう。
     それはそれはとても嫌な集会があり、そこで謝らなければならない立場になったことがありました。そのとき手足が震えるほどの強い勇気と決意がいりました。でも、やり終えた後の達成感、あのすがすがしさ、あの充実感は、嫌なことを補って余りあるものでした。私はそのとき、何となく自分が成長した感じがして嬉しくなったものです。もう一つは、人生の一大転換を図ったときのことです。そのときの私は、断崖絶壁から飛び降りるくらいの勇気と決心がいりました。でも、やり終えた後の私は、すっかり人が変わってしまったのです。これは原子核が増えたために起こった変化だと、今でも私は思っています。このように私の体験からいっても、嫌なことに挑戦すればするほど自分を成長させることができるのです。だから私は、人から嫌なことを押し付けられたら、宝物をタダでもらったようなものだから喜んで引き受けなさいというのです。でも多くの人は、嫌なことを人に譲ったり先送りしたりしています。どんなに先送りしても、課題を克服しない限りまた同じ課題が与えられるのですから、先にやった方が気楽です。では、なぜ私たちは嫌なことを避けたがるのでしょうか?
     私たちの肉体には五感が備わっていますが、この五感は、心地良いもの、快適なもの、怠惰なものに傾きやすく、苦しいこと、きついこと、厳しいことは避けたがるのです。サタンの誘惑とは、この五感(肉欲)の誘惑のことをいっているわけですが、殆どの人はこの誘惑に負け楽な方へ楽な方へ身を置いています。特に快適・便利・快楽を追い求める今日の文明は、多くの人たちを堕落へと運んでおります。確かに嫌なことはしたくないものです。でも、それでは、魂を成長させることはできないのです。どうか強い決意をもって自我(サタン)の誘惑を退けてください。これが聖戦とかジハードとかいわれる戦いで、私たちはこの戦いに勝ってこそ、この世に生まれてきた甲斐があるのです。
     近年、嫌な仕事を外国人労働者に押し付ける傾向にありますが、これは日本人にとって大きな損です。人の嫌がる仕事を率先してすれば、自分を大きく成長させることができるのですから、決して人に押し付けないこと、逃げないことです。インドのマザーテレサは生涯人のために身を捧げましたが、それは自分のためでもあったのです。もし、人から嫌なことを押し付けられたら、自分が成長できるチャンスだと考え、喜んで引き受けてください。
     
  2. 思索によって増やす方法
     私の恩師である知花先生は、常々「なぜ? なぜ?」と疑問を持ちなさいとおっしゃっておられました。それは、大自然の中に真理を解くカギが隠されているからです。大自然はまさに神の体現化したものです。その大自然の中に、人間の謎を解くカギ、宇宙(神)の謎を解くカギが、教材として隠されているのです。神は人間に、「この教材を通して真実を知りなさい! 」とおっしゃっておられるのです。謎を一つ解けば気付きが起き、気けば原子核が増え、神の自覚が高まります。どうか疑問を持ってください。思索してください。神が何を目的として自然界を作られたのか、考えてください。それが神に近づくコツです。神の自覚を得るコツです。
     
  3. 瞑想によって増やす方法
     この宇宙には神の意識核、すなわち原子核が無数に浮遊しております。通常その原子核は、宇宙に均一に遍満しているため、そのままでは使いものになりません。使えるようにするためには、濃縮しなければならないわけですが、その濃縮作業が瞑想なのです。なぜ瞑想すれば原子核が増えるかといいますと、私たちの想念は、エネルギーを集める力を持っているからです。想念力といわれるように、想念は創造力そのものなのです。エネルギー=原子核ですから、想念力を利用すれば原子核を増やすことができるのです。瞑想は、遍満している原子核を早く多く集める有効な手段なのです。

 

 

言葉38・・人間の思い癖を取る

 私たちは気の遠くなる年月、人間として生きてきたために、神でありながら神と思えなくなってしまいました。オオカミに育てられた人間の子が、オオカミだと信じ込んでしまったように・・・。この思い癖を取るには、神に対する深い理解力と気づきと瞑想が必要です。どうか理解力を持って「吾神なり!」の瞑想をしてください。人間の思い癖を取るには、何度も何度も「神」を瞑想するしかないのです。根気良く想い続けていれば、必ず思い癖は取れます。くどいようですが、「私は神である!」と無意識に思えるようになるまで想い続けてください。騙されたと思って想い続けてください。例え今生何の変化が起きなくても、決して無駄になることはありません。それは原因と結果の法則が、裏支えしてくれているからです。原因を作れば、必ず結果に結びつきます。これは宇宙の法則ですから、間違いありません。自分探しの旅は、今までも続いていたし、今も続いているし、今後も続きます。やれば、必ず成果が上がります。「神を想い続けること、瞑想すること 」これが自分探しの旅の秘訣であることを知ってください。

 

 

言葉39・・天上天下唯我独存(尊)の意味

 お釈迦様は生まれてすぐ三歩あゆむと、天と地を指さしながら”天上天下唯我独存(尊)”と唱えたといわれます。でもこれは、お釈迦様を神秘化するために作り上げた偽りの話です。お釈迦様は、私たちと何ら変わらない手順を踏んで生まれた普通の人間です。どうでしょう。生まれたばかりの赤ちゃんが歩くと思いますか? 話すと思いますか? 天上天下唯我独尊の字も意味も、誤謬化して伝えられています。「天上天下唯我独尊」という字が使われていますが、本当は「天上天下唯我独(存)」が正しいのです。その意味も、「この宇宙で自分が最も尊い者」と伝えられていますが、本当は「この宇宙には自分(私)しか存在しない!」というのが正しい解釈なのです。事実お釈迦様は説法の中で、“この宇宙には私しか存在しません! ”とはっきりいっておられます。この「私しか! 」という意味は、仏しか(神しか)存在しないという意味です。その私が仏(神)の化身ですから、お釈迦様が“私しか存在しない!  ”といった理由も分かろうというものです。(仏と神は同じ)

 

 

言葉40・・本音で語る

 よく本音で語りなさいといいますが、この本音とは何かといいますと、本心(神の心)から発せられた音のことです。この本音は神音とか聖音とか呼ばれ、波動の高い精妙な音なのです。この宇宙には清く精妙な波動の高い、この聖音のみが存在するのです。でもその聖音はあまりにも精妙なため、通常音として捕えることはできません。音にするためには媒体が必要になるわけですが、その役割を担っているのが人間なのです。人間の声帯は、まさに神の思いを響かす聖なる場所です。だからその場所を、「のど仏」とか「聖帯(声帯)」とかいわれているのです。しかし残念なことに、今の地球人類の「のど仏」からは、歪んだ音が多く発せられております。歪んだ音とは、偽心で語る言葉のことです。だから今地球人類は、役割を果たしていないのです。今の地球において聖音を降ろす役割を担っているのは、聖人たちだけです。

 ちなみに聖人という字には、次のような意味があります。「聖」という字は、「耳」と「口」と「王」(王とは天のこと)と書きますが、これは天の言葉を正しく「耳」で聞き、正しく「口」に出して話す人のことを指しているのです。天の言葉は波動が精妙なため、正しく受け取るには大きな耳が必要です。また口が歪んでいては、正しく伝えることができませんのでまっすぐな口が必要です。だから聖人の耳たぶは大きく、口はまっすぐな口をしているのです。政治家に口の歪んだ人が多いのは、偽りの言葉を多く語っているからです。

 この聖音は二千五百年前にはお釈迦様を通して、二千年前にはイエス様を通して降ろされました。では今は、聖音は降ろされていないのでしょうか? いいえ、この地球上に聖音の閉ざされた時代は一度もありません。いつの時代にも、どんな場所にも、どんな人種にも、聖音は平等に届けられています。天はえこひいきするようなことはしないのです。ただ降ろされた聖音を、どのような解釈力を持って受け取るかが重要なのです。

 聖音を正しく受け取るには、次のような注意が必要です。

  • 素直に受け取ること。
  • 既成概念や観念を捨て、先入観のない真っ白な心で受け取ること。
  • 頭で受け取るのではなく、心で受け取ること。
  • 権威や名声を物差しにするのではなく、語られた言葉の内容(波動)を物差しにすること。

 以上の四点を守れば、歪みのない聖音を受け取ることができるでしょう。先程、地球上に聖音の閉ざされた時代は無いといいましたが、理由は、聖者がこの世を去る時には必ず後継者にバトンタッチして帰るからです。

 

 

言葉41・・特別な話ではない!

 外側のモノは、外側にいる人は貰えます。でも内側のモノは、外側にいる人は貰えないのです。貰うためには、外側の扉を開けて内側に入らねばならないのです。これは当たり前の話であって、何も特別な話ではありません。しかし人間はどうしてか、外側にいて内側のモノを貰おうとしているのです。これでは、いつまでたっても内側のモノを貰うことはできないでしょう。しかし、そのことに一人も気づいていないのです。

 外側のモノとは、物質のことです。内側のものとは、真理のことです。外側のモノは誰からでも貰えますが、内側のモノは当人しか貰えないのです。なぜなら、内側のモノは一人ひとりの心の中にあるからです。だから欲しかったら、自らが外側の扉を開け内側に入らねばならないのです。それは人に頼んで、できることではないのです。

 どうか、内側に入って真理を受け取ってください。それは、あなただけにしかできない自力です。他力信仰が無意味なのは、自力でしか内側の扉は開けられないからです。宗教は他力です。科学は自力です。だから私は、科学的な生き方をしなさい!、というのです。

 

 

言葉42・・無名でありなさい!

 世の人々は、有名人になることを憧れているようですが、私は“無名でありなさい!  ”といいたいのです。理由はこうです。

 有名という字は、「名」が「有」ると書きますが、名が有るということは、限定されているということです。今でさえ、人間という名に限定され、個人という名に限定され、誰の誰べえという名に限定されているのに、これ以上名前に限定されてどうするのでしょうか。私たちの本性は、自由無碍なる生命ですから、本来名前も自由でなくてはならないのです。自由とは、制限が無いということです。無碍とは、障害がないということです。つまり、無限であるということです。その無限を目指さなければならない生命が、どうして不自由な名に囚われるのでしょうか。有名であればあるほど、動きがとれなくなってしまうのですよ!  その証に、有名人は、いつも自分を殺して生きております。顔形を気にし、着る物を気にし、言葉づかいを気にし、行いを気にし、常に人目を気にして自分を殺しています。

 白色の中には無限の色が包含されておりますが、その白色から赤色だけを取り出してみてください。赤色だけの小さな存在になってしまいます。無名の中から有名を取り出してみてください。有限の小さな存在になってしまいます。私は、そんな小さな存在になりたくありません。だから私は、「無名」でありたいと願うのです。どんなに有名になっても、この世限りのものであって、永遠に名が残るわけではないのです。しかし宇宙の中で「無名」になったら、宇宙は永遠ですから永遠に名が残るのです。名に囚われて、大きな自分を小さな自分にしないでください。できたら、今持っている誰の誰べえという名前さえ忘れてください。世の中には、「空海」だとか「天海」だとか、偉そうな名前を付けている人がおりますが、彼らは真理の中身で人を引きつけられないから、名前で権威を保とうとしているのです。私の恩師である知花敏彦先生は、生まれもらった名前を一生通して使われました。ナザレのイエスもゴータマ・シッダールタ(お釈迦様)も、生まれもらった名前で一生通されたのです。キリストだとか、ブッタなどの偉名は、後の人たちが付けた異名です。

 この宇宙は、たった一様の神によって創られたのですから、創られたものはみな神であるはずです。すべてのものが神ならば、神という名が一つあればいいのではありませんか。人間が神から遠ざかってしまったのは、人間の名だけでなく、個人の名まで付けてしまったからです。個人名は、有限を意味するため小さな存在にしてしまうのです。でも「無名」は、無限を意味するため大きな存在にしてくれるのです。私が「かとう はかる」という名を重視しないのは、すでに神という名を持っているからです。私たちは神の子ですから、本当は神(生命)という名を一つ持てばいいのです。だから仏教では、人間から神に改めるという意味で、戒名(正しくは改名)しなさいというわけです。いずれ私たちは、みな神という一つ名を持つようになるのです。ちなみに「無名」とは、一つ名という意味です。すなわち、たった一つしかない「神の名」のことを、「無名」というのです。

 

 

言葉43・・精神性の高い人とは?

 見えないものを信じられる人は、意識の高い人です。反対に信じられない人は、意識の低い人です。この宇宙の真実は、見えないモノの中に隠されていますから、見えないものを信じられる人は精神性が高いのです。では宇宙の「真実」とは何でしょうか?    

 真実の「実」とは、結実したもの、形に現れたもの、つまり表現世界のことを意味します。「真」とは、「真空」といって見えない空を意味します。「空」はエネルギーあるいは命のことですから、通して解釈すれば、見えない「モノ」と見える「物」が一体となった表現宇宙が「真実」という意味になります。精神性の高い人はそのことが理解できるため、見えないものが信じられるのです。エネルギーは見えません。命も見えません。でも、その見えないエネルギー(命)が、この宇宙を差配しているのです。だから、常にエネルギーの高低が問題になってくるのです。精神性の高い人は、エネルギーが高いため知恵が豊かです。判断力が鋭いです。悪を嫌います。謙虚です。素直です。純粋です。向上心が旺盛です。我慢強いです。エネルギーの持つ性質上、そのようになるのです。これは転生輪廻において培った、徳といっていいかもしれません。精神性の高い人は、エネルギーを高めるために日夜瞑想しています。嫌なことにも怯みません。常に疑問を持っています。どうか精神性の高い人になってください。真実の扉を開く権利は、精神性の高い人に与えられていることを知ってください。

 

 

言葉44・・何を追い求めるべきか?

 私たちはいったい、何を追い求めるべきでしょうか? 消えて無くなるお金や物や地位や名声でしょうか? それとも永遠に無くならない真理でしょうか? 永遠に無くならない真理ですね。理由は、私たちそのものが永遠不滅の真理(神・生命)だからです。宇宙は、実に正直に私たちの要求に応えてくれます。真実を求めれば真実が・・・幻を求めれば幻が・・・。だから聖書では、「真実を求めなさい! さすれば必ず与えられるであろう。」と謳われているのです。また聖書では、「子供がパンを欲しがるのに石が与えられましょうか、石を欲しがるのにパンが与えられましょうか 」とも謳われています。私は求めたが与えられなかったという人は、求め方が少なかったか、間違った求め方をしていたかのどちらかです。「想念は実現の母」ですから、真剣に求めて与えられないはずがないのです。

 人間が作った法は裏切りますが、宇宙(神・生命)が作った法は絶対裏切りません。真の求道者が、どんな困難にも怯まず真理を求め続けるのは、宇宙法則の完全性を信じているからです。さあ、宇宙法則を信じましょう!   宇宙法則を守りましょう! 宇宙法則を実践しましょう! 宇宙法則は、きっとあなたの要求に応えてくれるでしょう。

 

 

言葉45・・即身成仏とは?

 即身成仏とは、ミイラになることではありません。肉体を持ったまま生命の自覚を持つことを、即身成仏というのです。生命の自覚を持った人は、肉を持ちながら生命なのです。地にいながら天にもいるのです。すなわち、成仏しているのです。「死んだらみな仏になるのですよ!、」というお坊さんがおりますが、人間だと思って死んだ人が、どうして生命だと思えるようになるでしょうか。人間だと思っている人は、死んでも人間だと思っていますので、向こうへ帰っても人間のままでおります。つまり彼らは、人間意識を持ったまま幽界に留まっているのです。ですから幽界は、迷った人たちで一杯なのです。慣性の法則は幽界でも働いていますので、肉体に執着を持っている幽界人は、再び肉を持って生まれてきます。つまり輪廻転生するのです。生命の自覚を持った人は、肉体を脱いだら直接霊界(生命の世界)へ帰りますので、もう肉を持って生まれることはありません。

 よく滝行や、断食行や、山野を駆け巡るなどの荒業をして悟ろうとする人がおりますが、肉体をいじめて悟った人などいまだかって一人もいません。肉体をいじめて悟れるなら、スポーツ選手はみな悟っていなくてはなりません。悟りはあくまでも意識状態です。心の中のできごとです。だから、肉体業はしないことです。

 

 

言葉46・・現象に囚われている限り、真実を掴むことはできない

 世の中には、霊が見えるとか声なき声が聴こえるとかいう人がおりますが、真理を追究する者にとってこれほど障害になることはありません。なぜなら、真実から目が逸らされてしまうからです。不思議なことができるから、何かが見えるから、何かが聴こえるから、意識が高いのではありません。そういう人は幽界の低い階層に結びついていますので、返って意識の低い人なのです。私たちが求めるべきものは真理です。本当の自分です。それは、何かが見えたり聴こえたりするところには無いのです。真理は無形無双の光一元の世界にあるのですから、決して現象の世界(闇の世界)に興味を抱いてはなりません。

 真の求道者は真理のみを追い求めます。彼らは謙虚です。素直です。向上心が旺盛です。忍耐強いです。諦めません。自尊心で真理を閉ざす愚かなことはしません。特別なことのできる人は自尊心が強いため、人のいうことに耳を貸そうとしません。ですからそのような人は、今生真理を掴むことは絶対できないのです。さあ、真理のみを追い求めましょう。そこには何の奇跡も、何の現象も、必要ないのですから・・・。

 

  

言葉47・・神になるのに努力はいらない?!

 学びの友の中に、このようなことをいう人がおりました。

 “ お風呂に入ってくつろいでいたとき、突然自分が神だと気付いた、だから私は神になる努力はしなくていいのです。何せ私は、このままにして神なのですから・・・” そういって彼女は、以後瞑想しなくなったのです。確かに人間は神ですから、神になる努力は必要ありません。でも彼女は、本当に心の底から自分を神だと思っているのでしょうか? 神と気付くことと、神の自覚は別なのですよ?

 人間はもともと神です。生まれながらにして神です。このままにして神です。だから仏典にも聖典にも、努力して神になるとは一言も書かれていないのです。何と書かれているかといいますと、「人間は生まれながらにして神仏である!」と書かれているのです。だからといって、今まで散々人間として生きてきた者が、急に神と思えるようになるでしょうか? もし努力せず神と思えるようになるなら、どうして聖者たちは瞑想するのでしょうか? 神と思えることが難しいから、瞑想しているのではありませんか?

どうでしょう。地金が金だからといって、金にまつわり付いているドロを取らないで金の輝きが出せますか? 今までアヒルと誤解し地を這いずり回っていたカモが、目覚めたからといって急に空を飛べるようになれますか? 今まで人間と誤解し生きていた者が、神だと知っただけで、急に神だと思えるようになれますか? 金を輝かせるにも、空を飛べるようになるにも、神と思えるようになるにも、それなりの努力が必要なのです。

 彼女は、気付きと自覚を誤解して受け取っているのです。もともと神だから神になる努力はいらないけれど、神と思えるようになる努力はいるのです。この点を誤解するから、“ 瞑想など必要ない!  ”などといい出すのです。もし彼女が本当に神だと思えているなら、変性変容が起きているはずです。変性変容が起きないのは、単に神だと気付いただけで、実際には神の自覚がないからです。どうでしょう。本当に草木が成熟しているなら、花を咲かせ実を付けているのではありませんか? 花も実も付けないのは、そこまで草木が成熟していないからではありませんか? つまり神の自覚がないから、変性変容が起きないのです。ではなぜ、そのことに気付かないのでしょうか? それは増長しているからです。自分を優秀な魂だと自負している者は、どうしてもこの落とし穴に陥りやすいのです。だから彼女は、いまだに自我人間として生きております。どんなに偉大な魂でも、神の自覚がなければ、自我人間と何も変わらないのです。どうか尊大な心を捨ててください。謙虚になってください。この表現世界に「努力」という言葉があるのは、まだ「努力」する必要があるからです。どうか「神に気付くこと」と、「神の自覚を得ること」を、混同しないでください。

 

 

言葉48・・私たちは天使である

 天使とは、「天」の「使い」という意味です。天とは神のことですから、天使とは、神の使いということです。私たちは肉体と生命の結晶ですから、誰でも天使の資格を持っているのです。ただ、生命の自覚が持てないから、天使でありながら天使の生き方ができないだけです。この宇宙に天使でないものなど一物も無いのです。どんなものも、神の意識核によって創られた神の分身ですからみな天使なのです。神は自分を表現するために、この表現世界に自らを分化し遣わしたのです。神の使いこそ、天の使い、すなわち天使たちなのです。だから鉱物も、植物も、動物も、天使たちです。ならば、人間が天使なのは当り前ではないでしょうか。天使でありながら、人間として生きている私たち、何と哀れなことでしょう。私たちの中には、間違いなく天使の種が宿っているのです。その種に水を与え、光を与え、大切に育てましょう。そうすれば、必ず芽を出し花を咲かせ実を着けるでしょう。さあ、自分が天使であることに目覚めましょう。

 「人」は、肉体と生命の結晶なのです。どちらが欠けても、「人」の存在はないのです。ということは、この表現世界に送られた時、すでに半分天使の資格を持っていたということです。その半分の資格を持つ人間は、やがて完全なる天使になるのです。どうか、天使としての自覚を持ってください。天使として生きてください。あなたは間違いなく、天から遣わされた天使なのですから・・・。

 

 

言葉49・・堂々と神を語ろう

 この地球には、アラーとかヤハウエとか仏陀とかゼウスなど、様々な神の呼び名がありますが、この宇宙にはたった一様の神しかおられません。呼び名は違っても、みな同じ神なのです。ただ、その時代にその地域でどう呼ばれていたか、それだけのことです。神は一様です。その一様の神が私たちなのです。ですからイエス様は、私は血や肉に非ず、「吾神なり!」 とはっきり宣言しておられたのです。お釈迦様も、私は人間に非ず、「吾仏なり!」と宣言しておられたのです。しかも彼らは、「あなたたちも神なのですよ! 」とはっきりいっておられたのです。「私だけが神だ! 」とはいっていません。ということは、今人間だといっている私たちは、嘘をついていることになりませんか? そうです。私たちは神なのに、今人間だと嘘をついているのです。これは神に対する冒涜です。神は一様です。一様の神が、鉱物・植物・動物・人間の中に宿って生きて働いているのです。どうか、人間と嘘をつかないでください。大人が嘘をつけば、子供たちも嘘をつきます。どうか子供たちに、“ 私たちは神ですよ! ”と本当のことを告げてください。そろそろ地球も、そのような時代に入っても良い頃です。どうか、堂々と神を語れる世の中にしてください。きっと神は喜んでくれると思います。

 

 

言葉50・・真の目明き人とは?

 目明き人には、第一段階の目明き人と、第二段階の目明き人がおります。第一段階の目明き人とは、五感で物を体験し理解できた人、つまり今の人間のことをいいます。私たちは普段、目で物を見て見えていると思っていますが、これでは本当に見えているとはいえないのです。その物が理解できて、はじめて見えている状態になるのです。理解できないものは、(納得できないものは)ただ網膜に写っているだけで、実際に見えている状態になっていないのです。だから赤ちゃんは、なめたり、しゃぶったり、触ったり、匂いを嗅いだり、叩いたりして物を理解しようとしているのです。今私たちが納得して見ている物も、実際この身で体験し理解した物ばかりです。ですから一度も見たことのない物は、見ていても実際に見ている状態になっていないのです。このように、第一段階の目明き人とは、五感で物を理解し納得できた人間のことをいうのです。

 第二段階の目明き人とは、物の本質を理解し納得できた人のことをいいます。物の本質が心底で理解できるようになると、見えないものが観えるようになってくるのです。お釈迦様がいっていた「正見」とは、物を色や形で見るのではなく、物の本質を観なさいということだったのです。そのためには、物の本質を見る理解眼(心眼・本質眼)を開かねばなりません。覚者たちは、この理解眼が開かれているのです。このように、第二段階の目明き人とは、物の本質を理解力で観れる覚者たちのことをいうのです。

 今地球上では、痛ましい出来事が多々起きていますが、これは人類が第二段階の目明き人になるための試練です。つまり今人類は、様々な痛みや苦しみを通して理解力を身につけ、目明き人になろうとしている真っ最中というわけです。痛みや苦しみは、大いなる疑問を持たせることができます。中でも病気はその筆頭です。病気は、人類を成長させるための事案なのです。その事案を解決するには、物の本質を追求する必要があるのです。

 なぜ物の本質を追求することが大切かといいますと、形は時と共に消え去る幻ですが、本質は永遠に無くならない真実だからです。外形の幻を見ている状態は「見る」なのです。内面の真実を見ている状態は「観る」なのです。病気を根絶するためには、「見る」から「観る」に方向転換しなければならないのです。地球に真の平和を持ってくのも、「見る」から「観る」に方向転換しなくてはなりません。本質を心底で理解できるようになると、自分を本質として観られ、本質として生きられるようになるため、何事にも執着を抱かなくなるのです。その者は、第二段階の目明き人になったのです。つまり、真の目明き人になったのです。その者は、もう病気になりません。もう争い事は起こしません。

 今日の教育の一番の問題点は、原因(本質)を教えないで結果(形・物)ばかり教えている点です。そんな結果をいくら教えても、たいして意味のあることでは無いのです。なぜなら、消えて無くなる幻の教えだからです。教えるべきことは、永遠に無くならない、原因・真実・すなわち真理です。真理を教えなくては、真の教育とはいえないのです。真の目明き人に育てる教育こそ、真の教育なのです。このことに早く気づいて欲しいと思います。

 

 

言葉51・・魂の熟成した人の特徴

 魂の熟成した人の特筆すべき点は、第一に意志が強いこと、第二に想念力が強いことです。その意志や想念力の強さは、魂の熟成度の高さを示しており、それだけ多くの転生を重ねてきた証なのです。でもそれは、単に魂の歴史が短かったか長かったかの違いで、自慢することではありません。魂の成熟した人の第三の特徴は、不思議なことに興味を持つことです。自然や宇宙に興味を持ちます。超常現象などに興味を持ちます。人の死に対して興味を持ちます。特に、人生の不可思議さに対して疑問を持ちます。第四の特徴は、どんな困難に出会ってもくじけないことです。例え躓いても、すぐに起き上がります。決して諦めません。また、常に高みを目指して努力します。今の今を大切に生きます。機転が利き、判断力が優れています。いざという時、持っている以上の力を出します。第五の特徴は、ポジティブな生き方をすることです。何でも良く受け取ります。だから明るいのです。魂が成熟すると、エネルギーが強くなるのです。エネルギーが強くなると、意識は地より天の方に向かうので明るくなるのです。ということは、エネルギーの強い人は、それだけ神に近い人ということになるでしょう。そうです。魂の成熟した人は、神に近い人、天に近い人なのです。その人は、神と近しくしていたから、エネルギーが強くなったのです。どうか、神と近しくしてください。近しくするコツは、常に神を想うことです。神と会話をすることです。すなわち、瞑想をすることです。その者は、驚くようなエネルギー人間になるでしょう。

 

 

言葉52・・決意の大切さ!

 この世の中には、中絶される堕胎児がおります。産道を通るだけの体験をする死産児がおります。産まれて数年で死ぬ幼子がおります。なぜ彼らは、そのような薄命をもってまで生まれてくるのでしょうか。それは、少しでも魂を成長させたいからです。すぐ死ぬと分かりながら生まれてくるのに、どれほどの決心が必要だったと思いますか。それはそれは、断崖絶壁から飛び降りるくらいの決心が必要だったはずです。この決意・決心が、魂を大きく成長させるのです。赤ちゃんが泣き声をあげ生まれてくるのは、この世の厳しさを体験するのが嫌だからだといいます。また赤ちゃんがニコッと笑うのは、魂を大きくできる嬉しさからだといいます。どちらにしても、この世に肉体を持つということは大変なことなのです。

 なぜ幽界では魂の成長は少ないかといいますと、痛い、苦しい、寒い、暑い、などを感じる肉体が無いからです。幽界人は、生温い湯に入っているようなものなのです。生温い湯に入るのに決心はいりませんから、あまり原子核が増えないのです。この世においても、甘やかされて育った御曹司は、すぐに弱音を吐いたり逃げ腰になったりします。これでは魂を成長させることはできません。私たちの魂は、強く決心すればするほど、嫌なことに挑戦すればするほど、増える仕組みになっているのです。これは善悪に関係なくです。だから私は、嫌なことから逃げてはなりませんよ! 果敢に挑戦してくださいよ! というのです。もし臆病風を吹かし家に閉じこもっている人がいたら、どうか外に出て嫌なことに挑戦してください。間違いなく魂を成長させることができるでしょう。

 

 

言葉53・・神の子の教育をしよう!

 このメッセージは、真剣に真理を求める人たちに届くようプログラムされてあります。ここまで読み進んできたあなたは、その中の一人です。そのことを踏まえた上でお願いしたいのは、ぜひあなたのお子さんに、神の子の教育をしていただきたいというお願いです。こんなことをいうと世間の人たちは、“そんな非常識な事! ”と怒るかもしれませんが、あなたなら分かっていただけると思います。といっても、特別な教育をお願いしているわけではありません。日常生活の中で普通にできる教育です。

 例えば、

  • 神の子の誰々ちゃん、おはようございます! 
  • 神の子の誰々ちゃん、いってらっしゃい! 
  • 神の子の誰々ちゃん、こちらにいらっしゃい! 

 このように、声をかけるだけの教育です。ただその場合、その子を神の子として認め、神の子として接するよう心掛けねばなりません。ですから、悪いことをしても怒ってはなりません。叱ってください。勿論、体罰はいけません。体罰を加えないでも分かる魂だからです。それより良いところを引き出す、ほめる教育をしてください。この教育は、今妊娠中のお母さんにもぜひお願いしたいと思います。やり方はまずお腹に手を当て、“お母さんのいうことをよく聞いてくださいね!” といってから、

  • あなたは神の子ですよ!
  • 神の子さんお元気ですか?
  • 神の子さんすくすく育ってくださいね!

 と、やさしく声をかけてやることです。他にも、童話を語ってあげても良いでしょう。童謡を唄ってあげても良いでしょう。心穏やかになる音楽を聴かせてあげても良いでしょう。要するに、子供が喜ぶようなことなら何でも結構ですからやってあげてください。そのように接すれば知らず知らずのうちに、“ ああ自分は神の子なのだ! ”という意識が芽生えてくると思います。どうでしょう。神の子の教育は悪いことでしょうか? 良い子には育っても、決して悪い子には育たないと思います。幼い頃に受けた教育というものは、大人になっても決して忘れないものです。ぜひ、あなたのお子さんに神の子の教育をしてください。これは選ばれた者の義務だと思ってやってください。これから地球は、聖なる星に向かって突き進んでゆきます。その牽引車となるのが、あなたのお子さんです。どうか立派な牽引車に育つよう、神の子の教育をしてやってください。

 

 

【神様からの手紙2・・あなたは生命(神)の子です】

 これまで私は、" あなたたちは生命(神)の子ですよ! ”といってきました。でも、そのことを心底で理解できた人は殆どいないと思います。それは頭で知っただけで、実際には体感していないからです。宇宙の景色の素晴らしさは、実際に体感した者にしか解らないのです。私のいうことを疑い、宇宙にそんな景色があるはずがないといわれる人は、登ってからいってください。登ってもいないのに疑るのは、宇宙に対して失礼です。ぜひ、山に登ってください。そして山頂から、宇宙の絶景を眺望してください。私のいっていたことが、本当であったことが分かっていただけるでしょう。