第一集 2015年

2015年

1月

01日

願望が叶えられる世界

 私たちが住んでいるこの表現世界は、自分の願望が必ず叶えられる世界です。それは良し悪しに関係なくです。すなわち、良いことを願えば良いことが、悪いことを願えば悪いことが・・・。ということは、自分が願望しないことは絶対叶えられないということです。なぜなら、原因を作らなければ結果はあり得ないからです。私たちは、映画を見たいと思い映画館に行きます。旅行に行きたいと思い旅行に行きます。お金持ちになりたいと思い、お金持ちになるのです。ただその願望がどれだけ強いか、つまりどれだけ強い原因を作っているかで、実現の程度が違ってくるだけです。

 人に騙されるのは、自分の中に人を騙したい思いがあるからです。人に憎まれるのは、自分の中に人を憎む思いがあるからです。人に殺されるのは、自分の中に人を殺したい思いがあるからです。自殺するのは、自分の中に死にたい思いがあるからです。すべて自分の願望の現れです。でも痛みや苦しみがくるまで、自分がそのような願望を持っていることに気づかないのです。

 想念は見えませんから、見えない状態では想念の働きが分かりません。それでは想念の学びができないため、私たちはこの表現世界で自分の思いを実現させ、想念の偉大さや恐ろしさを学んでいるのです。この表現世界が学びの道場といわれるのは、願望したことが実際に実現し、それを肌で感じることによって、自分がどのような願望を持っていたか気付くことができるからです。気付けば当然、良い願望は育てようとするでしょうし、悪い願望は捨てようとするでしょう。しかし残念なことに人類は、その想念の偉大さをまだ知らないのです。だから想念を悪く使って、苦しんでいるのです。今地球上に悪しきことが沢山起きているのは、多くの人たちが悪しき想念を使っているからです。

 このようにいうと、“ 私は何も悪いことは想っていません! “という人がおります。では、その人に私はお聞きしたい、あなたは、一日何を思っていますか?と・・・。過去を悔んだり、未来を憂いたり、今を悩んだり、人を憎んだり、恨んだり、嫉妬したり、怒ったり、心配したり、しているのではありませんか。或いは、妄想で自分を傷付けたり、人を傷付けたり、しているのではありませんか。特に政治家たちは、敵対政党の人たちや敵対国の人たちと、想念で喧嘩し合っているのです。想念で喧嘩し合っているということは、すでに争いの原因を作っているわけですから、いずれ闘争や戦争に発展するのです。

 戦争も、病気も、事件も、事故も、自殺も、自然災害も、すべて人類の想念の作品です。それは願望したからです。原因を作ったからです。この表現世界は、願望を写しだす鏡のような世界なのです。願望したことは、いずれ表現世界の鏡に写し出されるのです。今あなたに悪しきことが起きているなら、自分の悪しき想いが鏡に写し出された結果だと思ってください。

 人類が想念の働きを知り、多くの人が想念を良いことに使うようになったら、地球はそく聖なる星になるでしょう。どうか想念の偉大さを知ってください。” 願望は必ず実現する! ”ということを知ってください。

 

弱腰になってはなりません。

良いと思ったことは、何でもやってみましょう。

人生において最悪なのは、何もしないことです。

人生において最良なのは、何かをすることです。

 

2015年1月1日更新

 

 

 

2015年

1月

15日

表裏一体

 普通、表裏一体という言葉は、「表と裏は一体である」という意味で使われていますが、でもこの言葉には、文字で表せない深い意味が込められているのです。では、どのような深い意味が込められているのでしょうか?

 表と裏の境目が無いのが表裏一体ですが、境目がないということは分けられないということです。それは、表と裏は一つだからです。どこからが表で、どこからが裏だといえないのが、表裏一体なのです。しかし、一体ではあるけれど、表は実際にあるし、裏も実際にあるのです。表が裏に変わることもなければ、裏が表に変わることもありません。表は永遠に表のまま存在するし、裏は永遠に裏のまま存在するのです。つまり、表はどこまでも表であるし、裏はどこまでも裏なのです。

 その表は、裏がなくては存在できません。また裏は、表がなくては存在できません。どちらが無くても存在できないのが、表裏一体の正体なのです。つまり、厳然として存在しているのが、表と裏なのです。でも厳然として存在しているけれど、それはあくまでも一つとしてです。なぜこのようにクドクドいうのかといいますと、一つのものしか無いということを、心の底で知ってほしいからです。

 この宇宙は、絶対宇宙(裏)と相対宇宙(表)によって成り立っていますが、それは二つで一つなのです。絶対宇宙も別にあって、相対宇宙も別にあるわけではないのです。この二つの宇宙は、表裏の関係にあるのです。絶対宇宙(裏)も相対宇宙(表)も厳然と存在しているけれど、それは一つとして存在しているのです。一つしか無いから、宇宙は無限であり永遠であり完全なのです。二つの宇宙があるなら、宇宙は有限になり無常になり不完全になってしまいます。一つしか無いという意味は、無限であり永遠であり完全であるという意味なのです。だから、宇宙は一つしか無いのです。一つゆえに、宇宙は永遠に存続できるのです。

 例えば、善もあり悪もあるなら、二つのものがあることになり、それでは無限でも永遠でも完全でもなくなります。表もあって裏もあるなら、二つのものがあることになり、それでは無限でも永遠でも完全でもなくなります。それでは一つしか無いという真理は崩れ、この宇宙は消滅しなくてはなりません。二つのものがあるということは、善もあり悪もあり、表もあり裏もありということになりますから、宇宙は不完全になってしまうのです。不完全な宇宙は、存在できないのです。今、現に宇宙が存在していること自体、一つの宇宙しか無いことを証明しており、宇宙の完全性を証明しているのです。

 一つしか無い宇宙において、何かが存在しているということは、その何かは無限であり、永遠であり、完全でなくてはならないのです。その何かは、一つの現れだからです。だから何かが存在していること自体が、無限であり永遠であり完全である証になるのです。ゆえに、今、あなたが存在していること自体が、無限であり永遠であり完全であることになるのです。一つのものは、無限なのです。一つのものは、永遠なのです。一つのものは、完全なのです。表裏一体の言葉を深く突き詰めれば、そこに到達するのです。だから私は、表裏一体のことをクドクドと説明するのです。

 繰り返します。表裏一体とは、一つのものしか存在しないという意味です。ということは、人間は、その一つのものであるということです。つまり、神ではあるということです。なぜなら、今、人間は現に存在しているからです。何せ、一つのものしかないのですから、神しかないのですから、当然です。だから、現に存在している人間は、神なのです。私が「人間神の子」と断言するのは、この表裏一体の真理がちゃんと証明してくれているからです。

2015年1月15日更新

 

 

 

2015年

2月

01日

天が生み出した命は、天の手によって帰すべき

 死刑制度はあってはならないことです。人間が生み出した命なら、人間の手で天に帰してもいいかもしれませんが、命は天が与えてくれたものですから、天の手で帰すのが道理なのです。なぜ、「天寿」という言葉があるのでしょうか? 天によって生み出された命だからではないでしょうか。その意味でも、天寿を全うさせることが、天に対する礼儀なのです。

 本来、生も死も人が関わってはならないことなのです。時がくれば誰でも死ぬのですから、わざわざ人の手で殺す必要はないからです。考えて見てください。死刑執行命令を出す法務大臣の心情を・・・、死刑執行員の心情を・・・それは心穏やかではないはずです。人為法によって人が人を殺すなど、とんでもないことです。なぜなら、創られた者が創られた者を裁く権利はないからです。また、人為法には、間違いが多いからです。唯一、人を裁けるのは、自分の中におられる神だけです。その方が、間違いがないからです。 

 神がおられるなら、死刑制度が許されていいはずがないのに、地球にはいまだに、死刑制度というものがあります。では神はなぜ、死刑制度を許しているのでしょうか? それは、今の地球人類には必要だからです。神に顔を背けている幼い魂には、死を直視させることが必要なのです。どんなに神を信じない者であっても、死を目前にすれば、死に対して疑問を持つようになるでしょう。「死んだらそれでお終いなのだろうか?  人は死んだらどうなるのだろうか? 人生って一体何のためにあるのだろうか? 神はいるのだろうか? 」と・・・。なかには、神に許しを請う者も出てくるかもしれません。苦しい時の神頼みをする者も出てくるかもしれません。どんな極悪人も死を目前にすると、神に顔を向けざるを得なくなるのです。

 がん患者に対する宣告も同じです。今の医者は、がん宣告を避けているようですが、それでは魂の成長のためには良くないのです。厳しくても、宣告してやるのが愛だと思います。本人はショックかもしれませんが、ガン宣告されることによって必ず人生の思索をするようになるはずです。死を直視させることほど、魂を成長させることはありません。どうでしょう。何も疑問を持たずに死ぬのと、疑問を持って死ぬのとでは、どちらが魂の成長のためになると思いますか。

 本当は、死刑制度などあってはならないことです。でも、今の幼い地球人類には、必要不可欠な制度なのです。ただし、死を直視させなくても神に顔を向けるようになった暁には、死刑制度は廃止すべきでしょう。神を直視するようになった者のお尻を叩く必要がないからです。

 今、この世で起きているどんな出来ごとも、魂を成長させるために必要な試練なのです。今の地球人類には理解できないかもしれませんが、いつかきっと合点のゆく日がくるでしょう。「そうか、そのために必要な試練だったのか!」と・・・。

2015年2月1日更新

 

 

 

2015年

2月

15日

大もなければ、小もない (神もなければ、人間もない)

 皆さんは、大きなモノもあって小さなモノもあると思っていますが、宇宙にはたった一つのモノがあるだけです。ただし、一つのモノだけでは、一つのモノになれないのです。もう一つのモノと相対させて、はじめて一つのモノは一つのモノになれるのです。だから宇宙は、もう一つのモノ(相対宇宙)を創って、一つのモノの存在を明らかにしているのです。

 大だけでは大はないのです。小だけでは小はないのです。大は小と相対させて大になり、小は大と相対させて小になるのです。だから宇宙は、大を持ってきて小を明らかにし、小を持ってきて大を明らかにしているのです。宇宙には、もともと大小などないのです。あるのは、たった一つのモノだけです。その一つのモノを大にしたのは、小を持ってきたからです。小にしたのは、大を持ってきたからです。要するに相対させたから大小が生まれただけで、大小が別々にあったわけではないのです。大も小も一つの同じモノなのです。これを神と人間に当てはめてみると、神と人間の関係がはっきり解ると思います。

 宇宙にもともと大小がなかったように、もともと神も人間もなかったのです。そこには、たった一つのモノがあっただけです。そのたった一つのモノを神と呼んでいるだけです。しかし、たった一つのモノだけでは、一つのモノの存在はあり得ないので、宇宙はもう一つのモノを持ってきたのです。それが人間です。ですから、初めから神があったわけでもなく、初めから人間があったわけでもないのです。違うモノを相対させたから、神が生まれ人間が生まれただけです。神だけでは神になり得ないのです。人間だけでは人間になり得ないのです。神と人間を相対させて、はじめて神は神となり、人間は人間となったのです。もし神だけなら、神とは思わないでしょう。もし人間だけなら、人間と思わないでしょう。神と人間を相対させて、はじめて神であった、人間であった、と解るのです。白板の上に白墨で絵を書いても分からないように、神の上に神を描いても分からないのです。だから分かるように、宇宙は人間を持ってきたのです。大が大であるためには、小を持ってこなくてはならないのです。小が小であるためには、大を持ってこななくてはならないのです。その大を神と呼び、その小を人間と呼んでいるだけです。だからといって、大が小より優れているわけではないし、劣っているわけでもないのです。なぜなら、大がなければ小はないし、小がなければ大はないからです。だから私は、大と小は同等の価値があるというのです。つまり、神と人間は同等の価値があるというのです。神が存在しなければ、人間は存在しないのです。人間が存在しなければ、神は存在しないのです。

繰り返します。

 宇宙には、もともと神も人間もいなかったのです。たった一つの存在者がいただけです。小を持ってきたから大になったように、人間を持ってきたから神になっただけです。神だけなら神はないのです。甘いものだけなら甘いものはないのです。一つのモノだけなら、一つのモノはないのです。このことを、しっかり理解して欲しいと思います。

2015年2月15日更新

 

 

 

2015年

3月

01日

痴呆症は必要悪

 「痴呆症は必要悪である」というと、そんな馬鹿な! と思われるかもしれませんが、これは本当の話なのです。神は完全です。その完全なる神が、意味のない痴呆症を与えるわけがないのです。痴呆症には、二つの目的があるのです。

一つは、地球をこれ以上悪想念で汚染させないためです。

 今地球の周りは、悪想念でいっぱいです。それは、多くの人が、悪想念の垂れ流しをしているからです。これ以上悪想念の垂れ流しをされたのでは、地球は持ちません。だから神は、垂れ流しにストップを掛けるために、痴呆症を用意したのです。ボケ老人を見てください。何の心配も、何の悩みもない顔をしています。左脳の機能が失われると、悪想念(心配・恐怖・憎しみ・怒りなど)が持てなくなるのです。神は、左脳の機能を失わせ、人生の悩みから開放すると同時に、悪想念の垂れ流しを止めようとしているのです。

もう一つは、真理を知らしめるためです。

 私たちは、「本当の自分を知るため」、つまり「神を知るため」に生まれてきました。しかし、殆どの人は、この世のことに夢中になり、神を知ろうとしません。知ろうとしないどころか、多くの人が神を否定しています。これでは、この世に生まれた意味がありません。そこで、どうしても神に顔を向けない唯物的な人たちのために、「痴呆症」という病気を用意したのです。

 痴呆症という病気は、前述したように左脳の機能が失われる病気です。左脳の機能が失われると自我が弱まるため、これまで頑なに真理を否定していた人が、素直に耳を傾けるようになるのです。頭のおかしい人に真理の話をしても無駄ではないか? と思われるかもしれませんが、その反対なのです。

 左脳は物質的なものを重んじる脳です。右脳は精神的なものを重んじる脳です。左脳の働きが鈍くなってくると、今まで抑えられていた右脳の働きが活発化してくるため、真理の受け入れる土壌が整うのです。痴呆症になると、徘徊したり、物を集めたり、物を隠したりする、おかしな行動を取るようになりますが、これは神を求める右脳の働きによるのです。彼らは、神探しを、何かをすることで紛らわせているのです。紛らわせているわけですから、そんな人に真理の食べ物を与えれば、むさぼるように食いつくのです。頭がおかしいと思わず、真理を植え付ける絶好のチャンスだと思って、真理の話をしてあげてください。自我は聴いていなくても、魂はしっかりと聴いているのですから・・・。

 このように痴呆症は、真理に顔を向けさせるための神の計いなのです。もし、この計らいがなければ、魂の進化は相当遅れるでしょう。どうか、わけの分からない人だと思わず、真理の話をしてあげてください。うつろな瞳の向こうで、魂はしっかり聴いているのですから・・・。

2015年3月1日更新

 

 

 

2015年

3月

15日

悪の本質を知れば、悪は見えなくなる!

 よく世の悪を見て、嘆いたり、怒ったり、嫌ったり、する人がおりますが、その人は自分の中に悪があるから、世の悪が見えて仕方がないのです。自分の中に悪がなければ、世の悪は見えないのです。その証に赤ちゃんは、泥棒を見ても笑っているでしょう。それは、赤ちゃんの中に悪がないからです。私たちは、悪を見せられることで、自分の中にある悪に気付かされるのです。その意味では、世の悪は反面教師の役割を果たしているといえるでしょう。

 この宇宙は、「真・善・美」によって整然と運ばれています。整然と運ばれているがゆえに、宇宙は延々と存続してこられたのです。もし、この法則がなかったら、とっくに宇宙は消滅していたことでしょう。「真・善・美」とは、法則のことです。法則ゆえに、「真・善・美」から離れれば痛みや苦しみがやってくるのです。私たちが、偽りや不善や醜いものを見せられると嫌な気分になるのは、「真・善・美」から離れれば、痛みや苦しみがやってくることを、本能的に知っているからです。では、どうしたら悪を見ずにすむのでしょうか? それは、悪の本質を心の底で知ることです。

 この宇宙に、本質的な悪などありません。完全なる神が悪を創るわけがないからです。悪は悪ではなく善なのです。悪の本質を知れば、悪は善に変わってしまうのです。覚者は悪の本質を知っているため、悪を見なくなるのです。悪というのは、善の裏返しなのです。神の目を持ったら悪を見なくなるといわれるのは、どんな悪も善たらしめる悪として見られるからです。善たらしめる悪は善なのです。このことを心の底で知れば、悪は見えなくなるのです。ですから、悪の体験がないから悪が見えない赤ちゃんと、悪の本質を知って悪が見えない覚者とは、根本的に違うのです。

 世の人々は、苦しみを悪と見ます。でもそれは、成長のために必要な悪ですから善なのです。苦しみがなかったら、自分の中にある悪に気づかないので成長できないのです。私が苦しんでいる人を見て平気でいられるのは、苦しみの背後に成長があることを知っているからです。このようにいうと、苦しんでいる人は怒るかもしれませんが、それは苦しみの本質を知らないからです。

  • 苦しみの本質は進化なのです。
  • 苦しみの本質は成長なのです。

 苦しみの中に成長の種があるのです。苦しみは、人を大きく成長させてくれるのです。また、苦しみは、業(原因)を解消している姿でもあるわけですから、これは良いことなのです。私が殺すより殺される方が良いというのは、殺される(結果)ことで業(原因)の解消がなされるからです。もし、私が戦場に兵士として駆り出されたら、空鉄砲を持って一番先に殺されに行きます。殺す方より殺される方が、罪作りをしないですむからです。考えても見てください。罪の上塗りをするのと、罪を解消するのと、どちらが賢い生き方だと思いますか・・・。

 世の中には、一生懸命「業」を無くそうとする人がおりますが、「業」は罪の上塗りさえしなければ、原因と結果の法則が自動的に消してくれるのですから、無くす必要がないのです。すべきことは、今の今良い原因を作ることです。良い原因を作るとは、「身・口・意」の実践です。すなわち、良い想いを持ち、良い言葉を口にし、良い行いをすることです。良い想いの筆頭は、神を想う瞑想です。さらに、ポジティブな想いを持つことです。

 悪(苦しみ)は、善たらしめるための悪ですから、嫌わないでください。そのような見方ができれば、人を責めず、世を責めず、運命を責めず、神を責めず、また、自分を責めないですみます。どうか世の悪(苦しみ)を嘆かないでください。また、自分の中にある悪を嘆かないでください。

 嘆く時間があるなら、身・口・意の実践をすることです。瞑想をすることです。

2015年3月15日更新

 

「どうしたら、悪を見ずにすむのでしょうか? 」

この質問は、

  • どうしたら、不完全を見ずにすむのでしょうか?
  • どうしたら、コップを見ずにすむのでしょうか?
  • どうしたら、分数を見ずにすむのでしょうか?
  • どうしたら、物質を見ずにすむのでしょうか?
  • どうしたら、闇を見ずにすむのでしょうか?
  • どうしたら、相対を見ずにすむのでしょうか?
  • どうしたら、人間を見ずにすむのでしょうか?

と同じ質問なのです。

  • 悪の本質を知れば、悪は見えなくなるのです。
  • 不完全の本質を知れば、不完全は見えなくなるのです。
  • コップの本質を知れば、コップは見えなくなるのです。
  • 分数の本質を知れば、分数は見えなくなるのです。
  • 物質の本質を知れば、物質は見えなくなるのです。
  • 闇の本質を知れば、闇は見えなくなるのです。
  • 相対の本質を知れば、相対は見えなくなるのです。
  • 人間の本質を知れば、人間は見えなくなるのです。

 本質は善であり、完全であり、ガラスであり、元数であり、エネルギーであり、光であり、絶対であり、神でありますから、心の底で本質を知れば、悪も、不完全も、コップも、分数も、物質も、闇も、相対も、人間も、見えなくなるのは当然なのです。悪が見えなくなるということは、一しか見えなくなるということですから、一である神の自覚に結びつくのです。

 

 

2015年

4月

01日

今に生きる

 私たちは、今の今にしか生きられないようにできております。人生で足跡を残せるのは、今の今のみなのです。その今をみなさんは、どのように生きているでしょうか?。殆どの人が、過去を悔い、未来を憂い、今の生事や雑事に生きているのではないでしょうか?。これでは、大切な今を逸してしまいます。

 とはいっても、肉体を持っている限り、この世のことを否定するわけにはゆきません。でも、この世のことに生きるにしても、せめて次のような生き方をして欲しいのです。

  1. 真・善・美を犯さない生き方をすること。
  2. 何事もやるなら、心を込めてやること。
  3. 集中してやること。
  4. 今やらねばならないことを後回しにしないこと。思った時が最善の時であると思い、今すぐやること。つまり、腰軽になること。
  5. 嫌なことを率先してやること。
  6. 繰り返すことを嫌がらないこと。
  7. 何事も良く受け取ること。
  8. ポジティブに、前向きに、希望を持って生きること。

 このように生きれば、間違いなく魂を大きくすることができます。ぜひ、意識してやってください。勿論、今の今を神に生きられたら、これ以上素晴らしい生き方はありませんが・・・。

2015年4月1日更新

 

 

 

2015年

4月

15日

見えないものこそ 真実なるもの!

 この宇宙には、一つのモノしか有りません。一つのモノしか無いということは、見えるモノも見えないモノも、その一つのモノであるということです。見えるモノも有って見えないモノも有るなら、二つのモノが有ることになり、一つのモノしか無いという真理は崩れてしまいます。

 見えるモノも見えないモノも、同じ一つのモノなのです。見えるモノは見えないモノであり、見えないモノは見えるモノなのです。見えていても見えていなくても、それは同じ一つのモノ・・・ただ、五官で感じられるか感じられないかだけの話です。しかし、実際に有るのは見えないモノです。なぜなら、見えるモノは必ず消えて無くなるからです。ということは、消えて無くなるモノは幻であるということです。そもそも、この表現宇宙そのものが消えて無くなる幻ですから、幻の中に存在するモノが常在することは不可能なのです。

 この宇宙は、見えないモノがベースになっているのです。見えないモノの中に、見えるモノが浮いているのです。それは、海の上に氷が浮いているようなものです。氷が融ければ海に帰るように、見えるモノが融ければ、見えないモノに帰るのです。それは、見えないモノから生まれた見えるモノだからです。見えないモノから生まれた見えるモノは、いつか必ず見えないモノに帰るのが定めなのです。

  • 海から生まれたモノは、海なのです。
  • 見えないモノから生まれたモノは、見えないモノなのです。
  • 宇宙から生まれたモノは、宇宙なのです。
  • 神から生まれたモノは、神なのです。

 海が神なのです。見えないモノが神なのです。宇宙が神なのです。私たちは、「その海から」「その見えないモノから」「その宇宙から」生まれたのですから、私たちは間違いなく神なのです。だから私は堂々と、「私は神である! 」と大宣言するわけです。

 私たちが求めるべきものは、見えるモノではありません。永遠不滅の見えないモノ、すなわち真実です。どんなに過去世のことを知ったって、幽界人に会ったって、物質化できたって、UFOに乗ったって、それはみな現象ですから、夢を見ているようなものなのです。私たちは、一日も早く見えるモノから抜け出さねばならないのですよ! 。なのに現象に囚われていては、本末転倒になりかねません。どうか真実に目を向けてください。真実を探し当ててください。見えるモノに時間を使うほど、愚かなことはないのですから・・・。

 現象に時間を使っている人は、死んでいる人です。神の自覚を得ることに時間を使っている人は、生きている人です。そのことを私は、声を大にしていいたいと思います。

2015年4月15日更新

 

 

 

2015年

5月

01日

想念の偉大さを、もう一度 噛み締めて・・・

 殆どの人が、想念を軽んじて使っています。それが、どれほど自分たちを苦しめているかも知らないで・・・。この宇宙は神の完全な想念で創られていますので、本来この宇宙に苦しいことが起るわけがないのです。人間が想念を悪用するから、苦しいことが起こっているだけです。

 次に掲げる悪しきことは、すべて人類の悪想念が原因で起きているのです。

  • 世の中には、” なぜ私は、こんな不遇な環境のもとに生まれ、苦しまねばならないのだ! ” と嘆いている人がおります。その人は、その苦しみが誰かのせいでなったと思っているのです。だから、親を恨み、人を恨み、世を恨み、神まで恨んでいるのです。しかし、誰もその人を苦しめていません。苦しめているのは本人自身です。つまり、その人の悪想念が、不遇な環境を呼び寄せ苦しんでいるのです。
  • 今、多くの人が病気で苦しんでおります。その病人は、偶然に病気になったと思っているのです。だから、人に憐れみを乞うようなことをいうのです。本来この宇宙に病気など無いのです。なぜなら、私たちの肉体細胞を支配しているのは、完全意識の生命だからです。完全意識で支配されている肉体に、病気など起きるわけがないのです。私たちが、憎み、恨み、怒り、心配、恐怖、イライラなどの想念を持つから、細胞意識を弱め(生命力を弱め)病気になっているだけです。私たちの想念が健全であれば、病気などになるわけがないのです。特に精神を病んでいる人は、よほど想念の持ち方に注意しなければなりません。※詳しくは「病で苦しんでいる人の為の小冊子・・第四章究極の癒しの方法」を読んでください。
  • 事故や災害やテロに巻き込まれ、苦しんでいる人がおります。これみな、人類の悪想念が生み出した悲劇です。「想念は実現の母」といって、想念は何でも生み出すのです。悪い想念を持てば悪いことが・・・。良い想念を持てば良いことが・・・。すべて想念の作品です。
  • 今地球では、急激に腐敗が進んでいます。人の想念が陰に傾けば、エネルギーのバランスが崩れるため、腐敗が進むのです。陰的想念とはいうまでもなく、ネガティブな想念のことです。昔は今よりも、食べ物の日持ちがしたのです。しかし今は、当時に比べ腐敗のスピードが増しています。これは、農薬や化学肥料によるエネルギーの低下も原因の一つですが、賞味期限に神経質になっている人の想念が、腐敗に拍車をかけているのです。人の想念がポジティブであれば、これほど腐敗は進まないのです。
  • 気象異変がますます深刻化しています。火山の噴火や地震も頻繁に起きるようになっていますし、その規模も拡大しています。すべて、人類の悪的想念が関与して起きている異変です。自然界が人類の想念に添う動きを示すのは、誤ちに気付いてもらいたいからです。「あなたたちは、そのような悪的想念を持ってはいけませんよ!」自然界はそのようにいっているのです。
  • 人の悪想念は、空気を汚し、水を汚し、土を汚しています。近年、春になると花粉病が蔓延しますが、昔も花粉は飛んでいたのです。でも、花粉病などありませんでした。それは、今より空気が澄んでいたからです。要するに、空気の汚れが陰陽のバランスを崩し、花粉病を生み出しているのです。また、「そろそろ花粉が飛ぶ季節になりますよ!」と言ったネガティブな情報が、花粉病に拍車をかけているのです。これはアレルギー病にもいえることで、「このような食べ物を食べたらこのようなアレルギー病になりますよ!」と言ったネガティブな情報が、アレルギー病を蔓延させているのです。たしかに、物理的要因がないわけではありません。でも、その物理的要因も突き詰めれば、人のネガティブな想念が作っているのです。
  • 世間には凶暴な犬がおりますが、これは飼い主の悪想念の影響を受けているためです。近年、犬や猫が糖尿病になったり、歯槽膿漏になったり、風邪を引いたりするようになりましたが、これも人間の悪想念の移入によるのです。花や木も、扱い主の想念の影響を受けて育ちます。優しく扱うと、長持ちして美しく咲いてくれます。邪険に扱うと、あまり長持ちしません。想念の持ちようで、このように植物や動物にも影響を与えてしまうのです。
  • よく子供のことを心配する親がおります。子供がちょっと家に帰るのが遅くなると、何かあったのではないかと心配し、ちょっと咳をすると、風邪を引いたのではないかと心配します。この心配の想念が、どれほど子供に悪影響を与えているか親は知らないのです。世の人々は、心配してやることが良いことだと思っています。また、心配される方もそれを望んでいます。ひどい人になると、「やはり、私の心配が当たった!」と、あたかも預言でも当たったかのようにいう人がおります。そう思ったから、そうなったのです。
  • 想念の影響が端的に現れるのが、スポーツ競技です。アスリートの気持ちが明るくなれば、自分たちの都合の良い方へボールが転がり、暗くなれば、都合の悪い方へ転がります。だからスポーツ競技では、連勝連敗がつきものなのです。私たちの普段の生活においても、悪いことが起きれば悪いことが続けて起こり、良いことが起きれば良いことが続けて起きる、といったことが良く見られます。すべて想念がやっていることなのです。
  • 人のアクビにつられ、自分もしたくなったり、人のクシャミにつられ、自分もしたくなったりすることがよくありますが、これは外側の現象につられ、自分の思いが動くからです。よく柳の木を幽霊と見間違え冷や汗をかくことがありますが、これは想念が肉体に影響を及ぼす顕著な例です。心配すれば、胃が痛みます。恐怖すれば、心臓の動悸が激しくなります。憎んだり怒ったりすれば、腎臓や肝臓の機能が低下します。病気は、すべて想念の作品なのです。 
  • パソコンや携帯電話が真っ盛りの地球では、毎日のように悪想念が垂れ流しになっています。このまま悪想念の垂れ流しが続けば、地球は破壊されてしまうかもしれません。事実、テロ、暴動、事件、事故、病気、自殺、自然災害などが増大しているではありませんか。人間は、あまりにも想念の管理がずさん過ぎます。

 

 このように人類の悪的想念が、個人に、自然に、地球に、悪い影響を与えているのです。想念は創造の力です。想念は何でも作れるし、何でも破壊できるのです。想念ほど頼もしく、また恐ろしいものはないのです。この世の悲劇という悲劇は、すべて人類の想念が生み出しているのです。だから、正しい想念の管理が問われるのです。もし、想念を正しく使ったら、上記に書いたすべての災いは、雲散霧消してしまうでしょう。

 想念を正しく使うとは、建設的な思い、積極的な思い、前向きな思い、希望溢れる思い、すなわち、ポジティブな思いを持つことです。ポジティブな思いの一番は、神の想いです。神を思っている時には、悪いことは思えません。悪いことを思わなければ、病気にもならないし、事件や事故にも遭わないのです。これは原因と結果の法則によるものですから間違いないのです。

 今日から、どんな悪しき話題も、良い話題に変えてしまいましょう。どんな悪い話題も良く受け取れば、良い話題に変えられるのです。これは考え方ひとつなのです。一例として、家族の誰かが怪我をしたとしましょう。「これは業が消えている姿だから、良いことなんだよ! あるいは、この怪我のお陰て注意する事を覚えたのだから、これは良いことなんだよ!」とポジティブに捉えれば、どんな悪しき話題も良い話題に変えられるのです。

 私たちは、自由意思によって何でも思えるのです。その自由な思いを、どうぞ良いことに使ってください。良いことに使えば、幸せになれるのですから・・・。

2015年5月1日更新

 

 

 

2015年

5月

15日

思い立った時が最良の時である

 「思い立った時が最良の時である!」というのは真理であり、とても大切な生き方の一つです。今、思い立ったのは、必要だから思い立ったのですから、これは必然なのです。ですから、すぐに実行に移せば良い結果が得られるのです。思い立ったことを後回しにすれば、思いを引きずって生きなければなりませんから、今やっていることもうまくゆかないのです。「心残りは良くない!」といわれるのは、心残りなことを抱えていては、目の前のことに集中できないからです。特に、嫌なことを後回しにすればするほど、気になって目の前のことに集中できなくなります。思い立った時にやってしまえば区切りがつくため、心にしこりを残さないのです。さらに、今やれば原子核が増えるため、一歩高い環境に変わるのです。一歩高い環境に変われば、一歩高い体験ができるため、原子核が倍に増えるのです。後回しにすれば、今の環境の体験しか出来ないため、同じ量しか原子核が増えないのです。これは数学の自乗と同じなのです。

 億劫がる想いは、サタン(自我・肉我)の思いなのです。逃げ腰の想いは、サタンの思いなのです。腰軽な想いは、天使(真我・神我)の思いなのです。積極的な想いは、天使の思いなのです。誤解しないで欲しいのは、出来ないことを今しなさいと言っているのではありません。今その場で、今出来ることをしなさいといっているのです。思いを残しながら、集中した瞑想などできません。晴れやかな気分になって瞑想してください。

 腰軽な癖をつければ、気持ちの強い、意志の強い、自分になれます。どんなことにも負けない、どんなことにも挫けない、強い自分になれます。ぜひ、腰軽な人になってください。

2015年5月15日更新

 

 

 

2015年

6月

01日

外側の世界を変える必要はない

 外側の世界を変えようなど、傲慢というものです。なぜなら、外側の世界は結果次元だからです。結果をいじくりまわしても、絶対変えることはできないのです。では、どうすれば良いか、それは原因を変えることです。つまり、自分の宇宙を変えることです。  

 外側の世界は、内側の宇宙の反映です。原因宇宙の反映が結果の世界なのです。一人一人が自分の宇宙を変えることで、その反映である外側の世界は変わるのです。外側の世界は川下なのです。内側の宇宙は川上なのです。川上を綺麗にすれば、黙っていても川下は綺麗になるのです。どうか原因を良くしてください。あなたがどんなに外側の世界を良くしようともがいても、自分の宇宙が良くならない限り、外側の世界を良くすることはできないのですから・・・。

 今、地球人類は、皆で自分の心を見ているようなものなのです。つまり、自分の心の写し絵を見ているようなものなのです。自分の宇宙がゴチャゴチャだから、地球もゴチャゴチャなのです。あなたの宇宙のゴチャゴチャを変えれば、ゴチャゴチャな地球も変わるのです。だから相手を変えたければ、自分を変えればいいと私はいうのです。

 よく人の欠点を指摘する人がおりますが、相手の欠点が気になるのは、自分の中に同じ欠点があるからです。でも、そのことに気付かない内は、どうしても人を責めるのです。人を責めれば相手からも責められますから、そこではじめて自分の中に同じ欠点があることを気づくのです。ということは、相手は自分の欠点を気付かせてくれた恩人だということです。

 いつもいうように、この世に偶然というものはないのです。あなたの前に嫌な人が現れたのは、意味合って現れたのです。その嫌な人は嫌な人でなく、あなたの中にある嫌な部分を気付かせるために現れた恩人なのです。その人との出会は、自分の欠点を発見する絶好の機会なのです。嫌な人を嫌な人で終わらせては、自分に成長はありません。この宇宙は完全です。完全宇宙に偶然は無いのです。人と人との出会いは、すべて意味合ってなされているのです。その意味を自分の成長に結びつけることです。

 人の欠点を見せられるには、見せられる理由がちゃんとあるのです。それは、人の欠点を見て自分の中にある同じ欠点に気付きなさい、という理由です。気付いて直せば、もうその欠点は見せられなくなります。私も相手の欠点を見せられることがありますが、私はあまり気にならないのです。気にならないのは、私にとってあまり重要でないからです。つまり、この世界が幻だと知れば、この世のことに拘ることがなくなるため、あまりこの世のことを重要視しなくなるのです。重要視したり、拘ったりするのは、まだこの世のことが本当にあると思っているからです。

 たしかに、私も人にこうして欲しいと願うことはあります。でも、その願いは希望であり、ぜひそうして欲しいという強いものではないのです。なぜなら、そうしてもらっても、そうしてもらわなくても、どちらでも良いことだからです。この世は幻ですから、「ねばならない!」ということは一つもないのです。そんな幻のことに、目くじらを立てるほど愚かなことはありませんから、私は拘らないのです。そのような考えに立てば、人の欠点が見えなくなるのです。たとえ見えても、気にならなくなるのです。気になるのは、まだ自分の中に同じ欠点(課題)があるからです。あなたにその欠点が無くなれば、相手にその欠点を見なくなります。ぜひ、人の振り見て我が振り直してください。人の欠点を捕まえていては、自分の宇宙を汚してしまいます。これは自分の宇宙にとって大損です。

 外側の世界(相手)を変えようとする暇があるなら、どうか自分の欠点を直してください。そうすれば、あえて外側の世界(相手)を変える必要はなくなります。

2015年6月1日更新

 

 

みなさんは、とても大事なことをやっているつもりですが、この世の事はみなお遊びなのですよ!。そんなお遊び事に、目くじらを立て、悩み、苦しむなど愚かです。よく考えてみてください。この世の何を成しても、残しても、みな消えてしまう幻なのですよ! この世は、本当の自分を知るためにあるのです。この世のどんな事も、自分を知るための方便(手段)です。その方便に目くじらを立て、争っているのが人類なのです。そんな方便のために自分の宇宙を汚すくらいなら、そんな方便は捨てたら良いのです。方便は目的ではないのですから、無くなったって、失ったって、痛くも痒くもないのですから・・・。この世に真に問題になる問題など、一つもないのです。肉体が無くなったって、地球が無くなったって、それはみな幻なのですから・・・。でも、心は永遠に無くなりません。永遠に無くならない心を問題にしましょう。どうか感情的にならないでください。そして、方便が大切か?、目的が大切か?、良く考えてみてください・・・。

 遊びましょう!。この世の事はみな幻なのですから・・・。悩み苦しむ価値の無い世界なのですから・・・。本気にならないでください。お遊びだと思ってください。何が無くなろうと、何が起ころうと、どうせ消えてしまう幻なのですから・・・。そう思えれば、気楽に生きられます。もう目くじらを立てる必要はなくなります。

 

 

 

2015年

6月

15日

想念の活用の仕方

 想念には、偉大な力が秘められています。その想念を有効に使わない手はありません。では、その想念の有効な使い方を教えましょう。

 

【1】

自分の心が不安や心配や苦しみに襲われた時、次のように想ってください。

「私の心が」平安とやすらぎに満たされますように・・・

「私の心が」光に満たされますように・・・

 

【2】

愛する人に、親しい人に、すべての人たちに、次のように愛念を送ってください。

「誰々さんの心が」平安とやすらぎに満たされますように・・・

「誰々さんの心が」光で満たされますように・・・

「すべての人たちの心が」平安とやすらぎに満たされますように・・・

「すべての人たちの心が」光で満たされますように・・・

 

【3】

地球に、宇宙に、次のように愛念を送ってください。

「地球が」光で満たされますように・・・

「宇宙が」光で満たされますように・・・

 

 想念は実現の母ですから、目には見えなくても間違いなく思いは届きます。どうか想念を大いに活用してください。

2015年6月15日更新

 

 

 

2015年

7月

01日

言葉のやりとりは、すべてアドバイスです。

 エネルギー均衡の法則に支えられている宇宙に、一方通行のアドバイスはありません。アドバイスした人も、アドバイスされた人も、共に学んでいるのです。こういうことです。

 アドバイスしたということは、エネルギーを出したということです。出したエネルギーは、エネルギー均衡の法則に基づいて必ず相手から帰ってくるのです。それも、被アドバイス者の思いのこもったエネルギーが帰ってくるのです。ですから、意識して受け取れば、被アドバイス者の心情が分かるのです。

 オ~イと叫んだ山彦は、向こうの山にぶつかってオ~イと帰ってきます。でも、そのオ~イは、ただのオ~イではないのです。何かを学んで帰ってきたオ~イなのです。

 私がこのようにいうのは、私がアドバイスしている時、必ず被アドバイス者から何かを学んでいるからです。私はアドバイスしながら、相手の心情(エネルギー)を探り、その心情の動きから、アドバイスするヒントを得ているのです。だから私は快くアドバイスするし、アドバイスされることも嫌わないのです。

 エネルギーは一つです。そのエネルギーは、自分と相手との間を行き来しながら、思いの交換をしているのです。私がおしゃべりを否定しないのは、おしゃべりから何かを学べるからです。ただし、何も受け取らないおしゃべりは、単なる雑談になってしまいますので注意が必要です。言葉のやりとりは、エネルギーのやり取りなのです。出した言葉の中には、必ず思いのエネルギーが込められているのです。言葉を交わしながら互いに相手の思いを汲み取れば、自分も学べるし相手も学べるのです。だから言葉のやりとりは、すべてアドバイスだというのです。

 今日から、話し相手から何かを学んでください。もしかしたら、相手の欠点から自分の欠点が見付けられるかもしれません。あるいは、相手の心の微妙な動きを通して、今まで気付かなかった、自分の良い点が発見できるかもしれません。神は完全です。意味のないことは成されないのです。意味あってその人とお話することになったのですから、そのチャンスを無駄にしないことです。

2015年7月1日更新

 

 

 

2015年

7月

15日

真の信仰心とは?

 私の本を読んだ人は、自分が神であることは知識では知ったと思います。でも、どこまで神の確信がいっているのかは疑問です。単に頭で知っただけでは、絵に書いたボタモチなのです。つまり、自分に何の変化が起きなくては、何の意味もないのです。

 世間には「奇跡を見せてくれたら神を信じる」という人がおりますが、こういう人は真の信仰者にはなれません。例えば、物質化現象を見せられ「この宇宙には不思議な事がある、やはり神はいるのか?」、と思ったとしましょう。その人が、奇術師に同じ物質化現象を見せられたら、「何だ!、あれは奇術だったのか!、やはり神などいないのだ!」と途端に信仰心が崩れてしまうのです。

 現象で築かれた信仰心は、現象で簡単に崩されるのです。現象で築かれた信仰心は、付け焼き刃なのです。だから私は、現象を嫌うのです。真の信仰心の持ち主とは、何も見せられても見せられなくても揺らがない信仰心を持った人のことです。渋柿を焼酎で熟成させたのでは、本当の旨味は出せないのです。時間を掛けじっくりと熟させた柿が、本当の旨味を出すのです。信仰心も同じなのです。

2015年7月15日更新

 

世の奇術者は、意識せずサタンの手先になっています。どんなにサイババさんがホンモノの物質化現象を見せても、彼らがいる限り単なる奇術で終わってしまうのです。それが、サタンの付け目なのです。つまり、真実から大衆の目を逸らすことが、サタンの目的なのです。

 サタンが一番恐れるのは、大衆の眼前で真実が披露されることです。大衆が神を信じるようになったら、自分達の居場所がなくなってしまうからです。だから彼らは、必死になって物質化現象をニセモノに見せかけるのです。

 

 

 

2015年

8月

01日

同化とは

 この地球では、異質のモノが一つに溶け合う、合体する、融合することを同化するといっているようですが、これは誤りです。なぜなら、この宇宙に異質のモノはあり得ないからです。同じモノ同士だから、同化できるのです。異質のモノは、同化できないのです。

 人間はもともと生命だから、生命と同化することができるのです。つまり、人間はもともと神だから、神と同化することができるのです。

 この宇宙に、異質のモノは一つもありません。みな一つの神から出てきた兄弟姉妹です。形は違っても、その本質はみな神なのです。みな神なるがゆえに、愛し合うことができ、許し合うことができるのです。私が大も小も無いというのは、一つしか無いモノは比べることができないからです。二つのモノがあるならば、比べられるので大小がありますが、一つのモノしか無いから比べることができないのです。

 意識を一点に集中してみてください。どんなに集中しても一点の中に収まりきれないはずです。意識を無限大に拡大してみてください。どんなに拡大しても拡大しきれないはずです。それは一つのモノしかないからです。すなわち、一つの意識しか無いから、一点の中に収まりきれないし、無限大に拡大しきれないのです。一つのモノしか無い宇宙は、無限なのです。無限は一つである証であり、一つは無限である証なのです。だから、唯一の意識を持つあなたは、一つであり、無限なのです。一なるモノは、無限なるモノは、神しかおられませんので、あなたは神そのものであり、神はあなたそのものなのです。

 一つのモノが、一つに同化するのです。神が神に同化するのです。人間が神に同化するのではありません。一つの神が一つの神に同化するのです。このことが心の底で理解できたら、あなたは神と同化できるでしょう。なぜなら、あなたはもともと神そのものだからです。

2015年8月1日更新

 

 

 

2015年

8月

15日

認識について

 私たちは、先に何かがあるから認識できると思っていますが、一つの意識しか無い宇宙において、認識に先立って何かが存在することはあり得ないのです。つまり、原因なしに先に結果が存在することはないということです。

 意識を持っている認識者は、すべての本質であり原因者です。原因者あっての形です。今、形が認識できるのは、原因者(認識者)である本質が、形の中に宿ってその形を生み出しているからです。形の中に認識者がいなければ、つまり本質がなければ、認識される形は生まれないわけですから当然です。だから先に認識者がおり、その認識者が認識することで形が生み出されるわけです。認識される形は、認識されてはじめて存在できるのですから、認識に先立って形が存在するわけがないということです。認識者(原因者)である皆さんがいなければ何も無いというのは、原因者がいなければ、結果である形はあり得ないからです。

 認識がすべてを創っている宇宙において、認識されないものは、どんなに目の前にあっても無いのです。例えば、私が友達に「おおい!」と手を上げても、友達の視線が美人に釘付けになっていたら、その友達にとって私は存在していないのです。

 でも今見ている山が、どうしても自分が作ったとは思えない、山が先にあってそれを自分が認識しているとしか思えない。それは、自分が作った記憶が無いからです。記憶が無いのは、創造主と自分とを別けてしまっているからです。私たちが創造主の元に帰れば、つまり、創造主と一体になれば、創造したことを思い出すのです。

 皆さんが山を作った覚えがないというのは、まだ創造主と自分との関係が理解できていないからです。でも理解できなくても、創造主と皆さんが一つなのは間違いないのです。皆さんは、海水の一滴なのです。その一滴が大海に帰れば、大海そのものになるのです。大海そのものになったら、大海のすべての創造過程が分かるのです。私たち分身(海水一滴)は、いつか必ず本源である創造主の元に帰るのです。本源である創造主の元に帰ったら、この宇宙のすべての創造過程が分かるのです。

 これを理解するには、原子核を多く集めるしか無いのです。さあ、社会体験を通して、瞑想を通して、思索を通して、原子核を多く集めましょう。

2015年8月15日更新

 

 

 

2015年

9月

01日

本当にあるモノしか無い!

 本来この宇宙には、絶対も相対も無いのです。大も小も無いのです。有るのは、本当に有るモノだけです。この宇宙で本当に存在するのは、本当に有るモノだけ・・・。

 絶対宇宙は相対宇宙が有るから有るのです。相対宇宙は絶対宇宙が有るから有るのです。つまり、絶対宇宙は相対宇宙が有る時に有り、相対宇宙は絶対宇宙が有る時に有るのです。大は小が有る時に有り、小は大が有る時に有るのです。絶対も相対も大も小も、一つだけでは有りようがないのです。二つが一つに融合された時、本当の有るモノが生まれるのです。すなわち、絶対宇宙にも相対宇宙にも偏らない、中庸宇宙に留まる意味を知った時、本当に有るモノが生まれるのです。いや、生まれるのではなく、もともとそれしか無かったのです。それだけが有ったのです。

 私たちが相対宇宙で様々なことを学ぶのは、中庸宇宙に留まる意味を知るためです。私たちはすでに、絶対宇宙のことは知り尽くしているのです。だから相対宇宙を知り尽くすことで、中庸宇宙に留まる意味を知るのです。留まる意味を知るとは、中庸宇宙に留まることで、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せの中に入ることができるという意味です。

 本来この宇宙には、神も人間も無かったのです。本当に有るモノだけが、永遠の昔より有ったのです。でも、それでは宇宙の存在の意味がないので、宇宙は人間を創り、その認識を通して、宇宙の永遠性と無限性と完全性と全能性を誇っているのです。私たちは神でも人間でもない、永遠の昔より有った、「本当に有るモノ」だったのです。

 

※「神も人間も無かったのです。本当に有るモノだけが、永遠の昔より有ったのです。」このようにいうと、神をマントラにしている皆さんは戸惑うと思いますので、次のように言葉を変えてください。「神も人間も無かったのです。中庸の神だけが永遠の昔より有ったのです。」

どうか引き続き、神という言葉をマントラに使ってください。以前よりも深みの帯びたマントラになるでしょう。

2015年9月1日更新

 

 

 

2015年

9月

15日

類は類を呼ぶ法則と同性愛との関係

 陰陽の法則は、宇宙の根本法則です。しかし類は類を呼ぶ法則は、表現世界のみ必要な自然の法則で、絶対世界には不要な法則です。なぜなら、絶対界には二つのものが無いからです。一つしかない世界に異質のものはあり得ないわけですから、類が類を呼ぶ法則が不要なのは当然でしょう。では、類が類を呼ぶ法則のある表現世界で、同性愛は許されて良いのでしょうか? いいえ、許されません。なぜなら、類は類を呼ぶ法則の背後には、陰陽の根本法則が働いているからです。

 光と影は、絶対切り離せないのです。物質とエネルギーは、絶対切り離せないのです。つまり男と女は、絶対切り離してはいけないのです。切り離せば危険物になるからです。例えば、酸素は水素と結びついて水という安定した状態になっています。アルカリは酸と結びついて中性という安定した状態になっています。陰と陰・陽と陽が結びついていては、光が生まれないのです。つまり、新しい命が(子供が)誕生しないのです。陰と陽がバランス良く結びつくことによって、光が生まれ、新しい命が誕生するのです。離れていては、与えられた役割が果たせないのです。

 陰と陰・陽と陽が結びつくのは偏りなのです。偏りは不調和です。大変危険なのです。類が類を呼ぶ法則は、表現世界の波動の秩序を保つ上では必要ですが、根本的秩序を保つ上では必要ないのです。その意味では、類が類を呼ぶ法則は、あくまでも陰陽の法則の後に付いてくる付属的な法則と考えるべきでしょう。同性愛が許されないのは、このような理由からです。

 でも神は、同性愛も許しています。なぜ許しているかといえば、同性愛に偏ることで痛い目に遭い、真の愛が何かを知るようになるからです。幼い子には、体験が必要なのです。宇宙の理を心の底で知るには、許されないことも体験する必要がある、ということです。

2015年9月15日更新

 

 

 

2015年

10月

01日

自我(サタン)を退散させる秘訣

 サタンとは、自我のことです。弱い自分のことです。その自我にやられているかどうか見破るには、自我の特徴を知る必要があります。特徴を知り、見破ることができれば、自我はコソコソと退散してゆくしかありません。

 では、自我はどのような特徴を持っているのか、考えてみることにしましょう。

  • 自我は、身体を動かすことが大の苦手です。
  • 自我は、厳しいことをするのが嫌いです。
  • 自我は、集中することが嫌いです。
  • 自我は、我慢することが嫌いです。
  • 自我は、繰り返すことが嫌いです。
  • 自我は、消極的です。後ろ向きです。ウジウジしています。臆病者です。
  • 自我は、協調性がありません。
  • 自我は、反対したり、否定したがります。
  • 自我は、判断力が鈍いです。見分けることが苦手なのです。
  • 自我は、明るいところが嫌いです。肉体は闇ですから光を嫌うのです。
  • 自我は、清いものが嫌いです。
  • 自我は、五感を喜ばしたがります。
  • 自我は、楽なことが好きです。怠け者なのです。
  • 自我は、感情的です。すぐに怒ります。憎みます。恨みます。妬みます。誹ります。嫉妬します。
  • 自我は、欲望的です。肉欲・金銭欲・物欲・地位名誉権勢欲など、あらゆる欲望が強いのです。
  • 自我は、心配症です。悪く受け取ります。クヨクヨします。悔やみます。自分を虐めます。
  • 自我は、嘘をつきます。騙します。陥れます。人の苦しみを見て喜びを感じます。
  • 自我は、甘えん坊です。すぐに人を頼ろうとします。人に憐れみを乞います。人に心配されたいのです。親のすねをかじって生活している人は、みな自我にやられているのです。
  • 自我は、「真善美」を嫌います。すなわち、「真・誠・信」「善・正義・道理・法則」「美しさ・清さ・浄さ」を嫌うのです。
  • 自我は、真理の話を嫌います。
  • 自我は、わざわざ物事を難しくします。簡素簡潔なことが嫌いなのです。自我は必要以上に時間を掛けたがります。整理整頓が苦手です。当然、不衛生な環境になるでしょう。
  • 自我は、ひねくれた考えを持ちます。素直でないのです。
  • 自我は、自己顕示欲が強いです。自分を良く見せたいのです。人に認めてもらいたいのです。自分の成果を誇示したいのです。ですから、もったいぶります。
  • 自我は、人を責めたがります。人を攻撃するのが好きなのです。気がすむまで相手を許しません。
  • 自我は、自分の弱みや欠点を指摘されると腹を立てます。
  • 自我は、争い事が好きです。すぐに騒ぎ立てます。小さな問題も、わざわざ大きくします。

 

 書き切れないのでこのくらいにしておきますが、自我は全てにおいて偏った性質を持っているのです。だから、躁と鬱が交互にやってくるような特徴を見せるのです。

 このような性質が自分の中にないか、一度確かめてください。

 自我の一番苦手なことは、身体を動かすことです。私が運動を勧めるのは、自我の一番の弱みを突くためなのです。その弱みを突くことができたならば、他の弱みも総崩れになってしまうでしょう。

 なぜ彼らは身体を動かすことが苦手かといいますと、動かすと原子核が増えるからです。ですから、サタンの弱みを突きたかったら運動を始めて下さい。はじめは軽い運動から、徐々に強い運動に、最後はフルマラソンをやるくらいまで挑戦してみてください。運動をして、汗をかいた後のあの爽やかさ、清々しさ、みなさんも体験があると思います。汗をかくとなぜ爽やかになるかといいますと、老廃物が汗と共に体外に出るからです。余分な脂肪も燃やします。身体から老廃物が出ると波動が高くなるので、身体が軽くなるのです。

 さらに運動が良いのは、手足の筋肉が多く酸素を取り込むため、体内エネルギーが高くなるからです。酸素は宇宙エネルギーの一種ですから、酸素を多く取り込めばエネルギーが高まるのです。エネルギーが高まるということは、光が多くなるということですから、光に弱いサタンは退散するしかないのです。運動選手に心身共に健康な人が多いのは、エネルギーを多く取り入れ、サタンを入れる隙間を与えないからです。

 このように身体を多く動かせば、精神的にも肉体的にも健康な人になるのです。今サタンで苦しんでいる人は、まず身体を動かすことから始めて下さい。運動が生活の一部になれば、サタンと無縁な人になるでしょう。

 最後に、真理の探求をお勧めします。サタンにやられやすい人は、私の本を読んでください。光のメロディー集を見てください。勉強会の動画を見てください。特に勉強会の動画は効果があります。自我は、本当の自分を知られることが恐ろしいのです。だから、真理の話を聴きに行こうとすると邪魔をするのです。瞑想したくなくなるのも、サタンの仕業です。サタンは弱い自分を様々な方法で誘惑し、真理を求めさせないようにするのです。

 繰り返します。サタンとは自我のことです。弱い自分のことです。サタンにやられるのは、自分が弱いからです。どうか弱い自分に負けない、強い精神力の持ち主になって下さい。

2015年10月1日更新

 

特注・・サタンにやられ気分が落ち込んだ時には、汗をかくぐらい体を動かしてください。間違いなく気分が明るくなります。

 

 

 

2015年

10月

15日

審美の目

 私はこれまで、この世のことは五十歩百歩やれば良いと思っていました。ですから、あまり自分の車の洗車をしなかったのです。そのためか、私の車に鳥が糞をしてゆくのです。それも、ますますひどくなるのです。

 皆さんは、汚いゴミ入れと綺麗なゴミ入れの、どちらにゴミを捨てますか。汚いゴミ入れの方ですね。鳥も同じように、汚いものの方に糞をするのです。私はこの体験から、自然界に審美の目(五十歩百歩のルール)があることに気付かされたのです。

 では自然界は、私たちにどのような審美の目を持ちなさいといっているのか、今の地球の現状から探ってみることにしましょう。

 今地球では、空気が汚れ、水が汚れ、土が汚れ、人の心まで汚れています。自然界の審美の目から見たら、これは明らかに五十歩百歩のルール違反です。だから、自然災害が増え、戦争やテロなどの争いごとが増え、事件や事故が増え、自殺が増え、病気が増えでいるのです。

 では自然が望んでいる審美の目とは、どのような目なのでしょうか?。

 それは中庸の目です。足ることを知る目です。偏り過ぎない目です。私たちは、腹いっぱい食べられたら、それ以上食べ物はいりません。寒さをしのげたら、それ以上着る物はいりません。大の字になって寝られたら、それ以上空間はいりません。

これが、自然界が望む審美の目なのです。

 人生の目的は何んでしょうか?・・・

 お金やモノを多く持つことですか?・・・

 地位や名誉を得ることですか?・・・

そうではないはずです。

 人生の目的は、本当の自分を知ることです。本当の自分を知るために、沢山のお金やモノはいりません。勿論、地位や名誉も不要です。私たちは、お金や物や地位や権力があれば幸せになると思っていますが、返って多く持てば持つほど不幸せになるだけです。本当の自分を知るためには、心の穏やかさが必要なのです。自然界の審美の目は、私たちにそのことを教えてくれているのです。

2015年10月15日更新

 

 

 

2015年

11月

01日

想念の偉大さを再認識しよう。

 近年、糖尿病や歯槽膿漏にかかる猫や犬が多くなっていますが、本来、完全な生命が宿っている鉱物や植物や動物に、そんな病気があるわけがないのです。ペット病は、人間の悪想念の移入によって起きている想念病です。いかに人間の想念が偉大か、このことからも分かろうというものです。想念にしてそうですから、言葉による影響はさらに大きいでしょう。

 よくテレビで「花粉が飛びますので気をつけてください! 」とか、風邪が流行っていますので気をつけてください!」とか言いますが、あれほど社会に悪害をもたらしている言葉はありません。その語っている者が、社会的地位が高ければ高いほど、社会に与える影響は大きいのです。

 例えば医者は、この社会で高い地位を占めていますが、もしその医者が、ネガティブな言葉で患者に接するとしたら、患者の命を縮めるほどのダメージを与えてしまうのです。よく"あと何ヶ月しか生きられません!"などと死の宣告をする医者がいますが、寿命を握っているのは、医者ではありません。肉体の中に宿っている生命力です。

 人の言葉に惑わされ、自分の心(宇宙)を汚してはなりません。自分の心(宇宙)の管理者は自分自身です。その自分を信じてください。自分を信じるとは、自分の想念を信じるという意味です。想念を正しく使えば、絶対悪いことは起きません。人の言葉に惑わされ悪想念を持つから、病・事故・事件などの災厄が起きるのです。すべて自己責任です。

 人が幸不幸を決めるのではありません。人が人生を決めるのではありません。医者が寿命を決めるのではありません。すべてその人の想念が決めるのです。どうか、自分の想念力を信じてください。想念は実現の母です。良いことを思えば良いことが・・・悪いことを思えば悪いことが・・・。ぜひ、想念を正しく使ってください。

2015年11月1日更新

 

 

 

2015年

11月

15日

生命力を信じよう!

 大自然をご覧なさい! 見事に調和が取れています。それは、全ての自然物の中に生命が生きて働いているからです。その証に、自然界に病気というものはありません。不調和な人間界にだけ病気があるのです。

 生命は宇宙をも創造する偉大な力を持っているのです。その偉大な生命が、私たちの肉体の中で生きて働いているのですから、本来病気になどなるわけがないのです。しかし残念なことに人間は、心配、恐怖、怒り、憎しみ、恨み、など様々なネガティブな想いを持ちます。そのネガティブな想いが、肉体細胞の生命力を弱め病気にしているのです。

  • あなたの肉体は、偉大な生命力によって支配されているのです。
  • あなたの肉体は、生命力に満たされて光り輝いているのです。
  • あなたの肉体は、それはそれは神々しく光り輝いているのです。
  • あなたの肉体は、まるで水晶のように一点の汚れもないのです。
  • あなたの肉体は、完璧な働きをしているのです。

 さあ、「私の肉体は生命力に満たされて光り輝いている!」と思ってください。

「生命力を信じなさい!」

「生命力に任せなさい!」

「生命力に委ねなさい!」

 自分で生きようとしないことです。自分で生きようとすれば、どうしても力んでしまいます。それでは、生命力が働いてくれません。肉体のことは、生命力に任せましょう。生命力に委ねましょう。所詮、あなたが生きることなどできないのですから・・。そうなのです。肉体のことは、肉体を管理している、生命に任せてしまえば良いのです。こんな気楽な生き方はありません。任せるという意味は、

  • 病気のことを考えないようにするという意味です。
  • 必要以上に食べ物に気を使わないという意味です。(中庸を守れば良い)
  • 必要以上に肉体に気を使わないという意味です。(中庸を守れば良い)

 気を使うのは、「病気にならないだろうか?」と心配しているからです。それでは、病気を掴んでいるようなものですから、かえって病気になるのです。肉体のことを色々考えるのは、自分で生きようとしているからです。そんな生き方をしている限り、生命力は働いてくれません。生命はこう言うでしょう。「そんなに私が信じられないなら、自分で勝手に生きてください!」と・・・生命は気を悪くしてしまうかもしれませんよ!・・・。

 今日まで無事に生きてこられたのは、生命が肉体を維持・管理・運営していたからです。あなたが生きていたわけではないのです。さあ今日ただ今から、肉体のことを考えないようにしましょう。肉体のことは生命に任せましょう。その代わり、良い想念を持つようにしましょう。良い想念の一番は神です。神の想いは、思いの中でも最高級品です。ぜひ、神を思うようにしましょう。

2015年11月15日更新

 

 

 

2015年

12月

01日

相対的体験を通して進化する私たち

 どんなに人を口で諭しても、諭されるものではありません。また自分も、人から諭されるものではありません。体験のみが、人を諭してくれるのです。その体験内容は、糾える縄のようにすべて裏返しです。

 例えば、

  • 乱暴したから、乱暴されたのです。
  • 苦しめたから、苦しめられたのです。
  • 虐めたから、虐められたのです。
  • 殺したから、殺されたのです。

 “私はそんなことをした覚えはない!”と言われるかもしれませんが、それは過去世の記憶が無いからです。エネルギー均衡の法則で支配されている宇宙に、一方通行というものはないのです。エネルギーを出したから、必ずエネルギーが帰ってくるのです。それも、同じ強さの同質のエネルギーが帰ってくるのです。ですから、今自分を苦しめている人は、過去世の自分を見ていると思ったらいいでしょう。

 神が考えられた進化の歩みは、すべて相対的体験を通して行われるようになっています。光は、光だけでは進化できないのです。幸せは、幸せだけでは進化できないのです。闇を体験して、苦しい体験をして、進化するのです。ですから、今苦しいからといって自暴自棄になってはなりません。進化のために必要な苦しみだと、良く受け取ってください。

 一本の縄では、強いワラジはできないのです。二本の縄を交互に編むことによって、強いワラジができるのです。つまり、裏返しの体験を交互にすることによって、中庸の強い自分に成長するのです。私たちが男と女を交互に体験するのも、中庸の自分に成長するためです。だから私たちは、過去世において男と女の体験を交互にしてきたのです。今、女性の方は、前生、男だったと思ったら良いでしょう。今、男性の方は、前生、女だったと思ったら良いでしょう。これは90パーセント以上の確率で間違いありません。ただし、何らかの理由で学びきれない場合は、同性を二度三度体験することもあります。世の中には、性同一障害という心の病がありますが、その人は同性を続けて二度三度体験することによって、形は男(女)でありながら女(男)のような心を持つようになるのです。これは慣性の法則が働くためで、何も不思議なことではありません。同性愛も同じです。同性が二度三度続くことで、同性を愛する異常な心が生まれるのです。

 このような心の病が増えているのは、物質文明が末期に近づいている証なのです。なぜなら、物質文明は同性愛と同じ偏りから生まれているからです。人類は、一日も早くそのことに気づかねばならないでしょう。

2015年12月 1日更新

 

 

 

2015年

12月

15日

失敗は成功のもと

 過去どう生きたかが大切なのではなく、今どう生きるかが大切なのです。今どう生きるかとは、今を真実に生きるという意味です。今を真実に生きれば、過去の失敗は失敗で無くなるのです。いや、失敗どころか、成功になるのです。なぜなら、今真実に生きられるようになったのは、過去の失敗から学んだからです。反対に、今の今を真実に生きていない人は、過去どんなに成功だと思っていても失敗になるのです。なぜなら、今真実に生きられないのは、過去で学んでいなかったからです。学びのない過去は、失敗なのです。でもその失敗も、失敗ではないのです。失敗から必ず学ぶからです。だから「失敗は成功のもと」と言われるのです。

 完全は成功からは生まれないのです。失敗から生まれるのです。神が創られた完全宇宙に、失敗などあるわけがないのです。何事もポジティブに考えてください。きっと、やる気が湧いてくるでしょう。

2015年12月15日更新

 

 

 

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