まどろみの中で

大地は母であり、天は父である

 地のものは地に帰り、天のものは天に帰る、これは定めである。地とは物質(肉体)であり、天とは心(意識・魂)である。我々は母なる大地から肉をいただき天の心を宿したが、いつの日か天に帰らなくてはならない。その時は、地からいただいたものは地に返し、天からいただいたものは一段と輝けるものとして天に持ち帰らなくてはならない。そのために我々は肉を持ったのである。

泥道をなぜ好む

 人は言う。なぜこのような苦しみを味わわねばならないのだろうと・・・。しかし、今のあなたの苦しみは、泥道を歩いたその代償ではないのか?。考えても見たまえ、畦道を嫌い泥道を歩けば足をとられるのは当たり前ではないか?。畦道を行けば歩きやすいし足も汚さないのに、なぜあなたは泥道を好むのか?。

 法外とは泥道であり、法上とは畦道である。

天の心を知れ

 『難しい漢字になぜ振り仮名を付けないのか!と怒る前に、辞書を引く努力をしなさいとの天の心を知るべきだ。

 苦労して探し当てた道は忘れないが、人に教えてもらった道はすぐ忘れてしまうもの。もし簡単に真理が得られるなら、人は努力することを忘れ、堕落の坂道を下り落ちるだろう。

手本

 この世は暗闇ばかりではない。派手では無いが光り輝ける場所もある。その気になって探せば、手本はいくらでも見つけられるものである。なのにあなたは、どうして暗闇ばかりを探すのだろうか?。その方が楽だから!、とあなたは言うのか?。それではいつまでたっても光は見出せないだろう。

鶏卵の巡り

 宇宙はなぜ永遠なのか?、と疑問を持つ人もいるだろうが、私はその人に、宇宙は鶏卵の巡りだからと答えよう。鶏卵の巡りとは、こういうことである。

 ここに一個の卵があったとすれば、その卵を産み落とした親鳥の存在がなければならない。その親鳥は卵から産まれた。したがって、その卵を産み落とした親鳥の存在がまた必要である。そしてまた、その親鳥を産んだ卵の存在も・・。こうしてこの話は、永遠に堂々巡りをすることになる。

 宇宙もこれと同じことがいえる。宇宙が今厳然と存在していることは誰も否定しないだろう。しかし、この宇宙が今存在しているということは、この宇宙を生んだ宇宙がその前になくてはならない。そしてその宇宙を生んだ宇宙がその以前に存在し、そしてまたその宇宙を生んだ宇宙がその以前に存在していたことになる。宇宙はこうして、永遠の堂々巡りをすることになるのである。

不幸の積み立て

 日々良心に背いて生きている人は気の毒な人である。なぜなら、不幸の種を毎日積み立てているからである。その種は利息に利息を生み、いつか大きな不幸となって返ってくるだろう。

 反対に良心に従って生きている人は幸い人である。なぜなら、幸せの種を毎日積み立てているからである。その種は利息に利息を生んで、いつか大きな幸せとなって返ってくるだろう。

 撒いた種は、必ず何らかの結果を生むようになっている。ならば、幸せの種を撒いた方が利口ではないか?。

厭なことから逃げるな

 人の成長は、苦難の中でこそ培われるものである。その意味では、人に厭なことを押し付けている人は、気の毒な人といわねばならない。なぜならその人は、成長の種を人にただで与えているようなものだからである。反対に、人から厭なことを押し付けられている人は、幸運と思わなくてはならない。その人は、成長の種をただで戴いているようなものだからである。あなたは成長の種をあげる人になるのか?、もらう人になるのか?、どちらだろう?。

労働本位制は連帯意識を強める

 貨幣は物を手に入れる手段として、利殖の媒体として、また価値の貯蔵もできる便利なものだけに、人の心に欲望を育ててしまう。また貨幣は、目に見え、手で触れるだけに、何とか楽して手に入れられないものかと、よこしまな心を育ててしまう。ギャンブルでひと儲けしよう、人を騙し儲けよう、あるいは金を盗む、偽札を作る、儲け仕事に目の色を変える、ガムシャラに働く、こうしてこの社会は、お金が敵と呼ばれる修羅場に変わっていくのである。もしこの社会に貨幣が存在せず、労働の循環によって支えられる労働本位制の社会だとしたら、私達の生活はどう変わるだろう?。

 労働者は自らの意志で職場に赴き、そこで天職をまっとうし目的物を完成させる。この段階で自分の労働がどのような社会的意義があったかは分からないが、資本主義社会のようにここでつながりが断ち切られることはない。なぜなら、ここで貨幣という果実をもらわないからである。したがって、労働者の責任は家庭内にまで持ち込まれ、良い意味での余韻を残すのである。もし手抜きでもしようものなら、その影響は自分の家庭内にまで忍び込み、日々の生活を苦しいものにしてしまうだろう。また資本主義社会では、労働の目的が賃金であるところから、共に苦労してつくった目的物も、その感激が貨幣にすり替えられてしまうため、社会的性質を持つ労働力が孤独に浮き上がってしまう。しかし労働本位制の社会では、それが消費生活を通じて感得されるため、喜びを共に分かち合うことができるのである。これでは、厭でも連帯意識が高まらないわけにはいかないだろう。また他人の生活の中に自分の労働成果が輝いて見えるようになり、何故かその人たちが他人のように思えない不思議な感情も生まれるのである。

満足を擦り減らす

 ある人が便利な物を買ってきたとしよう。その人はそれを使って快適さや便利さを謳歌し、一時を満足した。明日再びその物を使って便利さや痛快さを謳歌し、一時をある程度満足した。次の日再びそれを使って満足しようとしたが、一昨日のような満足は得られなかった。しかし、まあ何とか満足した。だが次の日には、全く魅力の無いものとなるだろう。こうして人は満足をすり減らし、新たなる満足を探し求めてゆくのである。その代償として、自然は汚れやせてゆく。

順応性のある心

 物質は順応性があるといわれる。たとえば空気の汚れたところに住むと、鼻毛がよく伸びるし、砂漠地帯に住むとまつげが長くなる。だがどんなに順応性があっても、物質には限界がある。当然、物質は質量を持ち一定の空間を必要とするから、同時に二つの物が一つの場所を占拠することはできない。つまり、それだけ物質は不自由なのである。それに対して心はどうだろう?。

 心は空間を占拠しないし、どのようにでも伸び、どのようにでも広がる柔軟性を持っている。しかし反面、使いようによっては狭く、細く、小さくなる厄介なものでもある。もし、心を小さく使ったらどうなるだろう?。摩擦を生じさせ、たちまち争いを引き起こすだろう。逆に広く大きく使ったら、どんな争いも克服してしまうだろう。だから我々は、どうしても心の修行が必要になってくるのである。

 『戦争と平和これは一重に人の心の使い方いかんにかかっているのである。

感謝は不幸を吹き飛ばす

 人の不幸は、不平不満や無感謝の心に宿るものである。もし本当に幸せになりたいなら、どんなことにも感謝できる心を持ちなさい。またどんな厭なことからも逃げない、勇気と行動力を持ちなさい。その者は手に何を持たなくても、最高の幸せを手にしたことになるのである。

神を見せる

 『神を見せてくれたら神の存在を信ずる、と人はいう。風は見ることができないが、鈴の音が風の存在を教えてくれているように、神は見ることはできないが、神の体現である花・鳥・風・月が神の存在を教えてくれているのである。

現実と非現実

 我々は何を持って現実と断定するのか?。これは簡単なようでなかなか難しい問題である。たとえば我々はよく夢を見るが、これは一般的には非現実と思われている。また麻薬による幻覚も非現実的なものとして忌み嫌われている。でもこれらの現象は、本当に非現実なのだろうか?。

 悪者に追われ必死に逃げている夢を見る。麻薬による幻覚症状で虫が肌をはいずり回る感覚を持つ。あるいは柳を幽霊と見間違って心臓を凍らせる。その時、当人にとってみれば、これみな現実なのである。つまり現実とは、心を揺れ動かしたその時、すでにその状態にあると言えるのである。

科学的生き方とは

 科学的生き方とは、実行力のある生き方を言う。何もしないで結果だけ求める生き方は科学的とはいえない。したがって、毎日何もせず神頼みしている人は、タマゴを前にして" 早く雛にかえってください! "と祈っている親鳥のようなものである。本当に雛をかえしたいなら、一生懸命タマゴを抱くことである。

 『原因あれば結果ありが科学的生き方だからである。

貨幣はあらゆる責任を断ち切ってしまう。

 貨幣本位制の世界では、どんな責任も貨幣によって清算することができる。どんなに無謀な消費をしても、どんなに無責任な生き方をしても、(法律を犯さなければ)お金さえあれば責任回避が可能なのである。だからこの世界では、お金さえあればが人をお金の亡者にしてしまうのである。労働本位制の世界ではどうだろう?。

 その世界では、一人一人の責任は輪廻するごとく循環し、再び自分のところに帰ってくる。たとえば、Aという人がある物を無謀に消費したとすれば、その物を生産している労働者だけでなく、資源を掘り起こしている労働者にも、原料を作っている労働者にも、輸送をしている労働者にも、市場で働く労働者にも波及していき、すべてが労働者であるこの世界では、そのツケはいつか無謀に消費したAのところに帰ってくるのである。したがって、無謀な行為がいつか我が身に帰ってくるという物理的あるいは心理的脅迫によって、その世界では節度ある消費がなされるのである。また人に迷惑をかけた償い方も、本人が身を尽くして示す誠意しかないから、相手も欲を募らすこと無く、ただ誠意を待つのみとなるだろう。こうしてこの世界では、誠意と誠意の施し合によって穏やかに解決されるのである。

イライラには二つの種類がある

 一つは、モノや金や地位などを欲するにもかかわらず、思うように手に入れられないときに起きる欲求不満のイライラである。もう一つは、何の努力もせず、ただのんべんだらりと生きるがゆえに生じる魂の嘆きのイライラである。人は何かに打ち込んでいるとき、何かに挑戦しているとき、何ともいえぬ輝きを見せるものである。何によらず、ひたむきに打ち込んでいる人を見ると感動を覚えるのは、その輝きを見せつけられるからである。その輝きに決して上下は無い。だが楽ばかり、安逸な人生ばかりを追い求めている人から滲み出ているものは、どんよりとした曇天のような暗さである。そのような人は、どんなに物質的に満たされていても、心底から喜べないのである。だからまた、その満たされぬ喜びをモノや享楽で埋めようとするのだろうが、それではいつまでたってもイライラの堂々巡りから抜け出せない。

 厭なことに勇気を持って挑戦するとき曇天は去り、人は晴れ晴れとした爽やかな気分になれるのである。

一生懸命生きる

 『もし、今日人類が滅亡すると100%分かっていても、私は息子のために弁当を作ります。この母の言葉は実に感動的である。
 あと数年もすれば世界は滅亡するのだから、何も一生懸命勉強したり働いたりすることはない。どうせ死ぬのだから・・・。こんな放言を吐く若者が最近増えているという。このような若者が増えている背景には、最近ブームになっているノストラダムスの予言書のせいだろう。つまり、もう数年もすれば死ぬのだから、今更あくせく働いて金をためても仕方がない、だからせいぜい面白おかしく生きた方が利口だ!、彼らの考えはそんなところだろう。しかし、"人類が滅亡することは決してない!"、と断言しよう。もしノストラダムスの予言を信じ、何もせずただ漫然と生きるとすれば、二十一世紀を迎えたとき、その若者は大あわてするだろう。

 もし仮に人類が滅亡するにしても、何もせず死を迎えるのは万物の霊長たる人間の生き方ではないだろう。今日命がなくなると分かっていても、なくなるその瞬間まで一生懸命生きることが、与えられた命に対する礼儀ではないだろうか?。これは何も人類の滅亡に限った話ではない。人間の一生の生き死ににしても同様である。

 人はいつか必ず死ぬのである。死ぬと分かっているからといって、何もせず一生ブラブラ過ごすとすれば、人は一体何のために生まれてきたのか?。死ぬと分かっている。分かってはいるが、死の訪れるその瞬間まで悔いの無い生き方をするところに、人間の尊さがあるのではないだろうか?。今日、一生懸命生きてこそ、明日もまた輝いて生きられるのである。そんな生き方をしている人には、何の不安もない。なぜなら、やることをやり遂げた人の心には、ひとカケラの悔いも残っていないからである。不安を抱くのは、ノンベンダラリと生きてきた悔恨の情が、心を煙らせているからである。

何事も飯の種にしていては真心はこもらない。

 教育にしても、政治にしても、宗教にしても、科学や芸術にしても、それを飯の種にしている限り本物にはなり得ない。

 どんな人の心にも、必ず正義の虫は宿っている。しかし、悪の虫も同居しているのである。その悪の虫は、華やかなもの、金ピカなものに弱く、権力には更に弱い。したがって正義を貫こうと思っても、それを貫くことによって生活が破綻するとすれば、悪の虫がそんな馬鹿げたことは止めろ!と囁くだろう。現実に返って見ると、やはり我が身が大切なのである。仕方なく、不本意ながら不正義を通すことになる。そして、もっともらしく弁解するのである。

 

  • このプロジェクトは専門家の我々から見ても危険はない!、だから進めるべきだと・・・。
  • 喜捨しなさい、さすればきっとあなたは救われるでしょうと・・・。
  • あまり出来栄えは良くないが、早くお金にしなければならないので、このへんで妥協しようと・・・。
  • 締め切りが迫っているので、適当に書きつないでおこうと・・・。
  • 儲けるためには質より量だと・・・。
  • 地位確保のため、あるいは金儲けのためなら、自らの信条を曲げてでも従おうと・・・。

 

 こうして正義は飯の種にねじ曲げられ、良心は牢獄の中に封じ込められるのである。もし生活に心配がなければ、人々は堂々と正論を語り、誠心を表し、偽らない自分を現わすことができるだろうに・・・。

安心して生きるには

 あなたが不安なのは、良心に逆らって生きているからである。良心は知っている。法を犯す者は法にて罰せられると・・・。法とは、宇宙の秩序を守っている番人である。その番人は、毀誉褒貶に惑わされないパーフェクトな法の執行人である。愛と秩序と正義を貫く者は、法の心に従順であるがゆえにその者のところには安らぎと平安が訪れる。だが法に逆らう者は、常に苦しみと悲しみを背負わなくてはならないのである。これは誰が悪いのでもない。自らが進んで甘受した浄罪罪を償うの姿である。だから賢い者は決して法に逆らわない。もろもろの苦しみに喘いでいる人たちは、人の目にはかわいそうに見えるけれど、良心()はその理由をちゃんと知っているのである。

自然許諾

 自然はすべての生き物に、自然許諾を認めている。生きるために本当に必要ならば、相手の命を奪っても構わない、そんな許しまで与えているのである。したがって人間も、本当に生きるに必要ならば、人の物であっても使うことは許されるのである。ただし人間は、万物の霊長として相手を思いやり、相手を脅かさない節度が求められている。したがって、使うにしてもそこにおのずと限界があるだろう。しかし、その行為が相手の命を脅かさず、対立しなければ、そして節度が守られているならば、人の物であっても使うことは許されるのである。ところが人間は、明日に憂いを持って生きる悲しい生き物ゆえに、我が身かわいさのあまり手に一杯の物を持っていても他人に分け与えようとしない。そこに争いの要因があるのである。

 法は実に平等である。もし欲をかかず、余っているものを困っている人に分け与えるなら、" 情けは人のためならず! "で、必ず自分も助けられるようになっているのである。自然許諾とは、そういった意味も含まれているのである。

生きるために消費を作る愚かさ

 私たちは生きるために消費するのであって、生きるために消費を作っているのではない。今日の資本主義経済は、生きるために消費を作っているのである。

 ここに一人の大工がいたとしよう。その大工は、一年の生活費を家一軒建てることで得ていた。家の耐用年数が20年なので、この町にある20軒の家を毎年1軒づつ建て替えていったら、大工の仕事は一生なくならない。したがって生活も困らないだろう。ところが、もう一人の大工がこの町にやってきて店を開いたために、古株の大工の仕事が半分になってしまった。そればかりではない。競って仕事をもらわなくてはならなくなったので、値段も以前の半値になってしまった。仕事も少なくなったし収入も減った。大工はすっかり困ってしまい、何とか仕事を増やす方法は無いものかと考えた。

 ある年の暮れ、今まで一度も起こったことのない火事が立て続けに二件も起きた。勿論、二人の大工に仕事が転がり込んだのは言うまでもない。

 さて、消費を作らなければやっていけないのが今日の資本主義経済であり、その火付け役が企業である。どこかこの話と似ていないだろうか?。

どちらが賢い分け方か?

 ここに五人の人がおり、五個の食べ物があったとしよう。この五個の食べ物を一個ずつ分け合うのと、奪い合うのと、どちらが賢い分け方だろうか?。万物の霊長である人間ならば、当然前者の方と思うだろう。では今日人類は、その賢いやり方をしているだろうか?。今日の資本主義経済は、弱肉強食まがいの後者の方ではないだろうか?。つまり我々は、万物の霊長にふさわしくない愚かな配分方法を今採用しているのである。

人の不幸を漫然と見過ごすな!

 我々の周りには多くの不幸がある。その不幸を漫然と見過ごしていては人に進歩はない。たとえば、お葬式で、病院で、人の不幸を見る。あるいは家庭崩壊で涙する人を見る。そのとき我々は、その不幸の陰に潜んでいるもの、その不幸が訴えているものに目を向けなければならないのである。

 なぜこの人は苦しんでいるのだろうか?、人生とは何だろうか?、老いとは何だろうか?、死とは何だろうか?、等々・・・。特に、身内の不幸は強烈なインパクトを与える。それだけに自分のこととして受け止められ、人生の思索を深めるきっかけともなるのである。その意味では、不幸をただの悲しみとせず、修道の材料として厳粛に受け止めなくてはならない。他人の不幸を自省の材料にできない人は、今度は自ら不幸を招くことによって、人生に対する疑問を持たされるのである。

鉄は熱いうちに打て

 鉄は熱いうちに打て!、それも打てば打つほど良い!。まだ何色にも染まっていない時期に徹底してやることが大切である。特に、徳育はこの時期には持ってこいである。それも厳しければ厳しいほど良い。

 今日学校でちょっと厳しい躾をすると、父兄はすぐに先生をつるしあげる。これでは本当の教育はできないだろう。真に子供が愛しいと思うなら、鉄と同じように厳しく打つことを認めるべきである。ただし先生のムチも、怒りで打つのではなく叱りで打ってほしい。その打ち方いかんによっては、鬼にも仏にもなろうからだ。

頭上の刃物

 資本主義経済は成長なしには成り立たない。したがって、国家挙げての景気振興策が取られる。経済が成長すればそれに見合うエネルギーも必要になってくるから、電気はますます入用になる。つまり、原子力発電所の必要性が増すのである。我々は今日物質文明に酔いしれているが、その姿は、鋭い刃物の下でワインに酔いしれダンスを踊っているようなものである。

 原発推進派の人たちは、刃物そのものは危険だが、その刃物をつりさげている紐は頑丈で決して切れないから安心である、ともっともらしい言い訳をしているが、たとえその紐が切れないにしても、我々は果たして楽しくダンスを踊っていられるだろうか?。今や頭上にぶら下がっている刃物は、四十個以上にもなっているのである。人間のやることである。間違って落ちてこないとも限らないだろう・・・?。

国民はこれ以上の繁栄を望んでいるのか?

 『あなたはこれ以上の繁栄を望んでいますか?との問いを、一度国民にしてほしいものである。おそらくもう必要ない!との答えが返ってくるだろう。もしまだ望む人がいるとしたら、物質が幸せをもたらすと錯覚している人たちだけであろう。多くの人は、物質に囲まれて生活することに辟易しているはずである。といっても、我々はもう、どうすることもできない。なぜなら、一度転がり出した資本主義経済にストップをかけることは、坂道を下る特急列車に、ブレーキをかけるようなものだからである。もし急ブレーキをかければ、乗っている全員が大怪我をするのは目に見えている。しかしこのまま進めば、電車は断崖絶壁から落ちて、間違いなく全員即死してしまうのである。

 死ぬよりも、怪我の方がましではないか?。その勇気を持とうではないか・・・?。

寂しい人のために

 世の中には、寂しい思いをしている人は意外に多いものである。たとえば、

幼い時に親と別れ別れになった。

 幼い時に親を亡くした。

 子供を亡くした。

 恋人を亡くした。

 こんな時、人は悲嘆にくれるものである。人生とは寂しいものだ、侘しいものだと・・・、しかし負けてはならない、忘れてはならない、思い出してほしい、その環境を選んだのは自分自身であることを・・・。

 ではなぜ、そのような環境を選ばなければならなかったのだろうか?。

 人は幸せに浸っているときには、決して人生に疑問を持たないものである。しかし、不幸に出会い悲しみにうち震えるとき、人生とは何だろうか?、人間とは何だろうか?、死とは何だろうか?、と疑問を持つようになる。あなたは人生に疑問を持つために、そのような厳しい環境を選んだのである。その環境を決して無駄にしてはならないだろう。

嘆くより無言の行動を示せ

 環境が悪い!、相手が悪い!、と嘆いてもらちがあかない。そのときは、自分の心を変えることだ。変えれば必ず相手も変わってくれ、環境も良い転換を見せるだろう。何もせずただ愚痴ばかりこぼしていては、心はおろか、体まで傷めてしまうだろう。利口な者は人を当てにせず、まず自分の心を変えることから始めるものだ。自分の心を変えれば環境が変わるのは、心が(波動が)環境を呼び寄せるからだ。嘆くよりもまず心を変え、行動おこすことである。

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