(4)真の人間像を解明する

1.死について

 「もしあなたが死んだら、あなたはどうなるでしょうか?。」

 「・・・?。」

 「肉体がなくなった以上、何もかも終わりになるのは当然だ、肉体あればこその自分なのだから・・・、とあなたは答えますかな?。それでは肉体が全てで、意識は肉体が作り出すとの観点に立って話を進めましょう。

 今あなたが存在しているのは、紛れもない事実ですね。ならば確率論的にいえば、これから後の存在も無しにはならないでしょう。なぜなら、0.000000000000001の偶然とも思える確立で存在しているあなたも、無限時間の宇宙においては偶然でなくなるからです。

 分かりやすく、あなたが仮に10兆年分の1の確立で存在(誕生)したとしましょう。たとえこの分母が、我々の知らない呼び名の数であったとしても、0を並べるわけにはいきません。なぜなら、今現にあなたが存在している事実があるからです。ならば10兆年後に、再びあなたは存在することになる。宇宙は永遠ですから、時間も当然永遠に続くでしょう。ならば、無限時間×10兆年分の1=無限回数となり、存在する回数は無限数となるでしょう。勿論、存在しているのは今の肉体のあなたではないが、あなたというあなたではある。

 さて唯物論者は、肉体が自我意識を作っていると信じていますから、肉体の死は無意識の始まりとなり、死に至った人はその瞬間から無意識に陥り、次生まで10兆年かかろうとも、無意識においては一瞬と感ずるでしょう。そうなると死と生はつながり、本人からすれば一瞬たりとも休みなき生の旅路が続くことになる。もし唯心論者(第三章宇宙と人間を参照)のいうように、死は肉体だけの現象で意識は永遠に存続するとの観点に立てば、死と生の区分けができ、肉体から離脱した人は一時の安らぎが与えられるでしょう。

 さて、この確率論で結論づけられるのは、あなたは再び生まれてくるという事実であり、その回数は無限数であるという事実です。よって唯物論者の生死観は、生の連続となって休みなき肉体の旅が続くことになる。それではA・B・C・Dのあなたは、まったく関連性のないあなただろうか?。すなわち、今私と思っている私と、未来で私と思っている私との関連性はどうなるかということです。これは実に興味深い問題です。

 

[A]という名のあなたの誕生[A]という名のあなたの死

[B]という名のあなたの誕生[B]という名のあなたの死

[C]という名のあなたの誕生[C]という名のあなたの死

[D]という名のあなたの誕生[D]という名のあなたの死

 

 私がここで言いたいのは、唯物論や唯心論に関わりなく、あなたは再び生まれてくるという事実であり、それはあなたという意識の再生であるという事実です。ただ唯心論においては、次のような生命の循環が人間を高貴な存在に押し上げているといえるでしょう。すなわち、

人間は肉と心をもった二重生命体であり、時がくれば肉体は死んで大地や大気に還元されてしまうが、心、つまり意識は永遠に生き続け、再び別な肉体に宿り人生体験を積んでいくものである。つまり人間は、輪廻転生人は生き死にを繰り返しているを繰り返し進化する永遠の生命体であるという人間観です。これを理解するのは、容易なことではありますまい。しかし、この理解なしにこれ以上話を進めることができませんので、私の話を聞いている間だけで結構ですから、人間は輪廻転生を繰り返す生命体であると思っていただきたい。いや、何もむり強いしているのではありません。私の話を聞いている間だけ信じていただければ結構なのです。後に詳しくこのことに触れ、理解してもらうよう努力はするつもりですが・・・。

 マルクスが唱えた史的唯物論は、たしかに物質社会を前提に考えれば説得力のある理論でしょう。すなわち、すべての社会形態は物質経済の上部構造をなし、人の考えも文化も教育もすべて物質経済に規定されてしまうという論理は、特に今日の物質偏重社会においては万人を納得させる説得力があります。しかし、人間が肉体で無く、命であるとすれば、この史的唯物論も色あせてしまうのではないでしょうか?。」

 「しかし観念的には理解できても、現実にどこまで信じられるでしょうか?。やはり私たちは、目に見え、肌で感じる、肉体しか信じられないのです。」

「ついこの間まで、電波はおろか空気の存在すら認められていませんでした。勿論、地球が動いているなどは狂人のたわごとでした。ですからガリレオは宗教裁判にかけられ、持説を強引に曲げられてしまったのです。その当時の人たちは、卓越したガリレオの考えが理解できなかったのです。しかし理解できなくても、現実に宇宙の動きが人びとの生活に影響を与えていたではありませんか。同様に、“それは観念論だ!”といったところで、その観念の影響を今私たちはもろに受けているのです。事実私たちの周りには、いろいろな苦しみや悲しみがあるではありませんか?。これは、人の心が作った結果ではありませんかな。すなわち、観念が現実の世界に影を落としている証なのです。これは現代人が電波の存在を信じているように、地球が動いていることを肌で感じているように、百年後には常識化される事実なのです。いや百年といわず、数十年もすれば科学的に実証される事実なのです。そうなれば、もう観念と現実は切り放せなくなるでしょう。

 意識とは実に不思議なものです。すべての存在は、人の意識があればこそ認められるものだからです。その意味では、死も、生も、私たちの意識の中に存在しているといえるでしょう。同様に、人の欲望もこの意識を離れては存在しないのです。

2.欲望について

 「それでは人の欲望を、少々視点をずらして考えてみることにしましょう。人の欲望には限界が無い!ということについて異論を挟む人はいないでしょう。しかし、基本的な生存にかかわる欲望だけに限定すれば、そうはいえなくなるのです。つまり、衣・食・住の基本的欲望が満たされると、そこで一段落がつくということです。動物などはそこが終着点でしょうが、そこで終わらないのが万物の霊長である人間です。欲心をつのらせ、更なる欲望の旅を開始します。この欲心があるから人間は向上してゆくのでしょうが、それだけに危険も伴うわけです。

 それでは、基本的生存にかかわる欲望が満たされた次にもよおす欲望とは、どのような欲望でしょうか?。それは次の三つの欲望です。

1つは肉体を喜ばしたいという欲望

2つは優越を誇示したいという欲望

3つはモノそのものに対する欲望です。

 この三つの欲望が複雑にからみあい欲心の拡大が進むわけですが、企業はこの微妙な心理を逆手にとって利益につなげているわけです。

 1つ目の肉体を喜ばしたい欲望は、五感を刺激することによって得られるため、外界のあらゆる刺激が欲望の対象になります。たとえば、舌が喜ぶもの、肌に心地よいもの、芳しい香りのもの、目に美しいもの、また耳ざわりのよい音曲などがそうでしょう。これらの欲望は、基本的欲望が満たされた後に生まれてくる、いわゆる賛沢欲といわれるものですが、一旦手に入ると急激に色あせるため常に補給が必要になります。それも、より刺激的でより新鮮なものが効果的ですから、ますますエスカレートしていくことになります。

 2つ目の優越を誇示したい欲望は少々違います。これは相手が必要になります。しかも持続性の長い欲望ですから、これにとりつかれると始末に終えません。

・あなたより私の方が美人である

・私の方が家柄がよい

・私の方が頭がよい

・私の方が金持ちである

・私の方が足が早い、力が強い

・私の方が良い物をより多く持っているなど・・・。

 とりわけ、私の方が良い物をより多く持っているという物に対する優越感は、お金さえあれば誰でもひたれるものですから、人は競って金儲けに走るようになるわけです。

 最後に、モノそのものに対する欲望について考えてみましょう。モノそのものに対する欲望とは、こういうことです。普通私たちが物を欲するのは、生理的欲求を満たすためか、肉体を喜ばすためか、あるいは優越を誇示するためです。しかし、骨董品・古美術品・絵画・宝石などにとりつかれるのは、単に人にみせびらかし優越感に浸りたいだけでは説明のつかないところがあるのです。(焼き物や宝石を手にし、一人二ヤニヤしているなどはその好例です)

 実は私たちが物にとりつかれるのは、物の奥に隠されている神秘的なもの、掴めえないもの、未知なるもの、を求める心の働きであり、更にその心理状態を深く追求してゆくと、喜び・感動・安らぎ・幸せ求める心にゆき着くのです。物はそれを具象化させる代替え品になっているのです。実はこの心の動きは、肉体を喜ばしたい!優越感に浸りたい!という欲望にも通じているのですが、通常それは快楽や快哉の高ぶりの中に隠されてしまい、自分が何を求めているのか、分からなくなっているのです。

 このように、私たちの欲望は喜び・感動・安らぎ・幸せを求める心の現れであり、それはもう物の世界の話などではなくなるのです。覚者が物に執着しないのは、その喜びに直接触れる技術を身につけているからです。もし多くの人間が、この技術を身につけることができたら、もう物を奪い合う愚かな戦いなどしなくなるでしょう。私が精神論を強く訴えてきた理由は、そこにあったのです。だから生活水準があるところに達すれば、人の欲望を物から心にそらす努力が必要になってくるのです。

 さて、人間の本性が命であることを見破りました。更に、欲望は幸せを求める心の現れであることを発見しました。ではその人間には、一体どのような使命が与えられているのか?、次に明らかにすることにしましょう。」