(1)必然性の原理

 さて人類の歴史はこれまで、偶然に進行してきたのでしょうか?、それとも必然的支えによって運ばれてきたのでしょうか?。

 新聞の社会欄を広げると、交通事故や殺人事件の記事や、先生が生徒の暴力行為によって負傷した記事や、自殺者の記事などが載っています。一面をひっくりかえせば、中東におけるきな臭い記事や、テロによる破壊行為の記事や、経済摩擦による関係大臣の苦悩の記事などが載っています。その裏をひっくりかえせば、農薬被害や酸性雨被害などの記事が紙面を賑わしています。どこを見ても、ほほえましい記事など見当たりません。失意と、落胆と、溜め息ばかりの世の中です。こんな世の中を政治家は、この繁栄は我が党の政策のお陰であると自慢しているのですから、狂気の沙汰としかいいようがありません。これが人類が取るべき道だったのでしょうか?。他に取るべき道はなかったのでしょうか?。またこんな世の中が、いつまでも続くと思っているのでしょうか?。

 誰も思っているわけはないのです。何かがおかしい?、どこかが狂っている?、と心の底で思っているに違いないのです。ではどこが狂い?、何がどうおかしく?、一体どうすべきか?、と問われても誰もが首を傾げてしまう。またどんな世の中を望み?、どんな世界なら納得できるのか?、と問えばなお混乱してしまうのが、一般人の正直な気持ではないでしょうか?。

 特に今の若者は、生まれた時すでにテレビがあり、冷蔵庫があり、車があった。冷暖房つきの快適な環境が整い、親は痒いところまで手を差し伸べてくれ、将来の設計もすでに打ち立ててくれている。若者はただ、親が敷いてくれたレールの上を進むだけです。しかしそんな環境が整っているにも関わらず、彼らはなぜか落ち着かず、なぜか満足できないでいる。そして何かがおかしく?、何かが変だ?、そんな疑問がいつも頭の片すみに潜んでいる。でもその疑問も目の前の華やかさに打ち消され、それ以上深く考えようとしない。そして、

  • 人種が違うのだから国境があって当然で、その国境を守るためには軍隊は必要不可欠であると思ってしまう。
  • だから侵略には武力をもって対抗するのは当然だ、と疑問もなく思ってしまう。
  • 人それぞれ能力が違うから、地位や身分に差ができるのは当り前と思い、そこから生まれる貧富の差もまた当然と考える。
  • だから物の多寡が人生を決めると思ってしまう。
  • その物の配分には貨幣が必要で、その貨幣を増やすことが人生の最大の目的だと思ってしまう。
  • 人の運命は偶然によって決まるとするから、正しく生きるより自分の都合のよい生き方をした方が得であると思ってしまう。
  • また心は肉体(頭脳)の産物と思うから、心を大切にするより肉体を大切にしたがる。つまり唯物的考えに陥ってしまう。
  • 肉体が全てであるとの考えが、生きている間は、せいぜい楽しく生きたら良い!、という考えに走らせてしまう。
  • 死は避けられない現実と思いつつも、できるだけ死を考えないようにする。だから死後のことなど考えようともしない。
  • したがって、神仏の存在など信じない。

 殆どの人が、こんな人生観を持って生きているのではないじゃろうか?。私はこういう人生観を、真っ向から否定するわけではありません。それよりも、当然と思っているくらいです。宇宙心から見ればそれも進化の道すがら、そんな人生観も成長段階には必要だからです。でもそんな唯物的考えも、人生の荒波にもまれるにしたがい、いかに精神的なものが大切か知るようになるのです。私はこれを、必然性の原理が働いた結果であると思っています。これは次のような例え話で分かってもらえるでしょう。

  • ある幼子が(生まれたばかりの魂)欲しい物を手に入れたいがために、人殺しをしてしまったとしましょう。その反作用として、殺されるに等しい苦しみを、味わわされました。そこでその幼子は、人を殺めれば自分も同じような苦しみを味わうのだな?!、という勉強をさせられたのでした。
  • 次生その子供は人殺しはしなかったが、物が欲しいばっかりに人を傷つけるという罪を犯してしまい、その反作用として自分も同じような傷をおわされたのでした。そこでその子供は、人を傷つけると自分も傷つけられるのだな?!、ということを学んだのでした。
  • その教訓を生かし次生では、人を殺めず人を傷つけないよう心掛けました。でも、どうしても人の物が欲しくて、今度は盗みをしてしまいました。ところが、全く逆さまな事件が起こったのです。現実に自分の物が盗まれて見ると、何とも腹立たしく何とも悔しい気持ちです。そこでその少年は、そうか人の物を盗むと人の気持ちをそれだけ傷つけるのだな?!、ということを学んだのでした。
  • 次生では、人を殺めず、人を傷つけず、人の物を盗まない戒めを守りましたが、人を陥れるという罪を犯してしまいました。そしてまたまた、自分が陥れられるという反対の体験をさせられたのでした。陥れられて見ると、その腹立たしさと悔しさは何ともやりきれない思いです。そこでその青年はそうか人を陥れたらこんな憤りを感じるのだな?!、ということを更に勉強させられたのでした。

 私たちはこのようにして、一歩一歩成長の階段を上っていくのです。これが、因果応報によって矯正される必然性の姿です。人類はこれまで、何度も過ちを犯して報いを受けてきましたが、それは必然性の中を黙々と歩かされた結果といえるでしょう。」

 「それでは人生における不幸な出来事は、みな必然性の産物だといわれるのですか?。」

 「そうなのです。私たちには惑わされやすい、五感というものが備わっています。勿論、五感があるからこそ、無事に物質世界で生きられるわけですが、それに惑わされてしまうと、とんでもない過ちを犯す事になる。そこで宇宙心自らが法の中心に座り、人間に警鐘を鳴らしているのです。その警鐘が、痛みや苦しみや悲しみなのです。この図を見て下さい。これは宇宙における大河と見立てることができるでしょう。」

 老人は、石で土の上に線を引きはじめた。

 「人類はこの大河の中を、進化の最終地点であるP点に向かって進んでおります。でも中には、流れに逆らう渦もあれば、流れの外へ出ようとする渦もあります。しかし、いかに逆らおうと法網に跳ね返され、正しい流れに引き戻されてしまいます。逆らった分だけ苦しみを味わい、人より立ち遅れるばかりです。私たちは、宇宙号という特急列車に乗っているようなものなのです。乗っているのがいやだからといって、特急列車から飛び下りることができるでしょうか?。

 地球の進化は人類の双肩にかかっているわけですが、その地球は太陽系の進化の流れに乗ってP点に向かっています。その太陽系もまた銀河系の進化の流れに乗ってP点に向かっています。大宇宙もしかりです。だからいかに人類が逆らおうと、この流の外に飛び出すわけにはいかないのです。ということは、いかに人類社会が混迷していようと、いつまでもそのような姿ではいられないということです。」

 「それでは人類の行くべき道は、すでに決定しているといわれるのですか?。」

 「そうなのです。私が示した奉仕社会への道は、その決定した道の一つです。」

 「待って下さい!。個人の運命も、人類の運命も、すでに決定しているなら、私たちは何も努力して苦しむ必要はないでしょう。」

 「反面からみれば、その努力を生み出させるのも、必然性の原理によるものといえるでしょう。五感はそのためにあり、私たちはこの五感の強制力によって必然性の道を進まざるを得ないのです。つまり必然性の原理は、すべての法則を包摂した究極の法体ですから、それから逃れることは絶対できないということです。」

 「ならば私たちは何もせず、ただ苦海に身を任せていれば良いのではないでしょうか?。」

 「あなたは何もせず苦界に浮かんでおれますか?。おそらく苦しくて手足をバタバタせずにはいられないでしょう。それでも何もしないというなら、ただ溺れ沈んでいくしかないでしょう。

 はっきり言いましょう。どんなに屁理屈をこねても、生命の取る道は、進化・前進・発展しかないのです。これは宇宙生命の目的ですから、いやでも進化・前進・発展の道を歩まねばならないのです。」

 「・・・・」

 「失業し家でブラブラしていると、段々と覇気がなくなりこのまま自分は駄目になってしまうのではないか?、と不安になるものですが、これは進化・前進・発展を目指す本能が、そのような不安を誘っているのです。人間は、何かに挑んでいなければいられないようにできているのです。一番恐ろしいのは、何もしないことなのです。」

 「でも悪いことをするより、何もしないでいる方が無難ではないでしょうか?。」

 「悪も作用しているからこそ善にも変われますが、何もしないということは、何も変わらないということで、これほど悲惨なことはないのです。もし本当に何もしないなら、(五感があるので、何もしないではいられない)意識は闇の中に沈澱し、永久に底無し沼で喘がねばならないでしょう。だから、いやでも泳ぎ続けなければならないのです。」

 「それで人間の尊厳が保たれましょうか?。」

 「すべての法を包摂した究極の法体が、必然性の原理だといったはずです。つまり必然性の原理は、因果律を含めあらゆる法則の最上位にあるので、どんなに愚かと思える行為も、どんなに逆向きと思える行動も、作用を及ぼしている限り無意味とはならず、善悪の相互消却を通していつか進化の道に置かれることになるのです。ただ人間はその中にあって、ある幅をもって生きる自由意志は与えられています。」

 「しかし、その意志が法則の枠からはみ出せないのなら、本当の自由意志とはなりえないのではないですか?。」

 「自由意志が発揮できるからこそ、逆流したり横道にそれる者も出てくるのではありませんかな?。その為に苦しんだり悲しんだりするのは、その人の自由意志と行為の結果です。」

 「とはいえ、最終的に本流に返ってくるなら、それは作家の意志を忠実に演じる役者と同じで、単に小説の筋道を歩まされている操り人形にしか過ぎません。すでにこういう筋書で、こういう結果になると書かれた筋道を、私たちはただ歩いて行くだけなのでしょうか?。私たちは、宇宙心という作家の操り人形なのでしょうか?。」

 「しかし、人間にその筋道が分かりますか?。その筋道が最終的に同じ道に通じているとしても、行く先々に無数の分かれ道があり、その先に人生の無限のパノラマが開けているのですぞ・・・。その分かれ道を、どの方向にどれだけのスピードで進むか、そこに人の生き方の自由があるのです。」

 「・・・?」

 「よろしいですかな。たしかに大道を踏み外すことはできないが、その大道の中でどう生きるかは、人それぞれ自由なのです。人間の尊厳はその中で見いだすべきでしょう。」

 「それでは、その流れは一体どんな流れなのでしょうか?。宇宙には、それ以外の流れはないのでしょうか?。」

 「それは、愛と正義に満たされた光明の法道、つまり慈愛の大道です。これ以外の道は絶対ありません。私たちが善をなした時、何ともいえぬ喜びで心が洗われるのは、法道上を歩いている満足感によるのです。反対に悪を犯したとき不安が募ってくるのは、法道を踏みはずした悔恨の情によるのです。もし法道が存在せず、邪悪と不正義の道しかないとしたら、宇宙はどうなるでしょうか?」

 「・・・?」

 「その道は破壊の道であり、混沌の道であり、暗黒の道です。宇宙は一瞬の存在も許されないでしょう。つまり無への突進です。愛と正義に包まれているから宇宙は光り輝き、そこに温もりあるさまざまな生命が息吹はじめるのです。不正義には原理は存在しません。あるのは破壊と混沌だけです。愛と正義に満たされた宇宙だからこそ、私たちの未来は明るいのです。要するに目指す頂上は、夢と希望に満ち溢れているのです。その頂上をどう目指すか、そこに人間の生き方の自由があり、人の世に無限の物語が展開されていく素晴らしさがあるのです。

 直線を登るのも方法、螺旋を描いてゆっくり登るのも方法、途中で寄り道して息を抜くのも方法、時には下がるのが楽だからといって下がるのも一つの方法かも知れないが、どんな方法を使っても、いつか必ず頂上を目指さなければならないのが人間の定めなのです。ならば急ぐ必要もないが、逆らって苦しむ必要もない、できるだけ着実な方法で登るのが利口でしょう。人生というマラソンに一着はないのですから・・・。」

 「でも、私たちにはそれが見えません。見えるのは目の前の生事のみで、それ以外は全くの手探り状態なのです。」

 「しかしこの世で体験を積んでいけば、何が善で何が不善か、何が正義で何が不正義か、どんな生き方が幸・不幸をもたらすかが見えてきて、行くべき道も定まってくるはずです。」

 「・・・」

 「さて時代の節目には、必ず偉大な指導者が現れ人類を引っ張っていくものですが、これも必然性の原理が働いている結果といえるでしょう。イエスキリストの誕生、アイザックニュートンやカールマルクスの誕生みなそうです。」

 「では、あのヒットラーのような独裁者の誕生も、その原理の落とし子といわれるのですか?。」

 「歴史の全体像を見れば、それも必然性の働きによるものでしょうが、それも逆流する渦の一つに過ぎず、人類の歴史はキッチリと進化の階段を上っていたのです。私たちは歴史の一部分を輪切りにして見るから悪や不幸が見えますが、もし全体像を見渡すことができたら、人類の歴史が素晴らしい流れに乗って進んでいることが分かるでしょう。」

 老人はニッコリと笑って見せた。