(10)平和と宗教を考える

 平和は作るものではありません。もともと平和だったのです。この宇宙には、平和しか無かったのです。その平和を崩したのは誰でしょうか?。人間ではありませんか?。その人間が、平和を作ろうなど矛盾というものです。


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一人一人の感情が戦争の後押しをしている。

 戦争は誰が起こしているのでしょうか?。政治家だという人もいます。軍人だという人もいます。資本家だという人もいます。宗教家だという人もいます。でも本当は、私達一人ひとりが起こしているのです。

 あなたは、人を憎んだり、恨んだり、怒ったり、騙したり、したことはありませんか?。あれが欲しい!、これが欲しい!、と欲望をあらわにしたことはありませんか?。約束事をきちっと守っていましたか?。愚痴や不平不満をいいませんでしたか?。はっきりいって、その思いと行為が遠因となって戦争は引き起こされているのです。確かに戦争を引き起こす一番近くにいるのは、政治家や軍人かも知れません。しかし、私達一人ひとりの悪想念や悪感情や強欲が、間接的に銃の引き金を引いているのです。

 良く指導者はいいます。

 "国民の幸せのために、自国の繁栄のために、自国を守るために、やむなく戦争をするのだと・・・。"

 では、

  • あなた自身の生活は質素だろうか?。
  • 国民は贅沢していないだろうか?。
  • 全国民が困窮しているのだろうか?。
  • 本当に切羽詰まっているのだろうか?。
  • 助け合いはし尽くしたのだろうか?。
  • 国民はみな勤勉なのだろうか?。
  • 努力はし尽くしたのだろうか?。
  • 戦争をしたら必ず人は死ぬ、そうまでしてやらねばならない戦争なのだろうか?。

 ここまで心を広げて、なお戦争しなければならないとは私には思えない。そこには、”国を守るため!・国の繁栄のため!・子孫のため!”と理由を正当化し、国民感情を煽っている国賊や、悪徳商人や、政商や、あるいは死の商人といわれる族が必ずいるはずです。どんなに正当な理由を並べても、所詮国民を悲劇へ引っ張っていることに変わりはないのです。私達は、利権にしがみつき私腹を肥やしている、そんな強欲な権力者の口車に乗って戦争の後押しをしてはなりません。

政治家になって世界平和を訴えるのも結構、反戦運動に情熱を傾けることも結構ですが、最も大切な自分の心を貧しいままで、どうして平和が語れましょうか?。


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【光のメロディー集/・・・平和・・・

 

 

真の平和運動とは?。

 平和とは、戦争のない状態をいうのでは無いのです。一人ひとりの心に、憎しみや、怒りや、欲得が無くなって、はじめて真の平和といえるのです。世界は一人ひとりの集まりですから、その一人ひとりの心が整えば、いやでも世界は平和になるのです。その意味では、平和は一人ひとりの心の延長線上にあるといえるでしょう。世界を平和にしたくば、まず自分の心を平和にすることからはじめるべきです。

 では自分の心を平和にするには、どうすれば良いのでしょうか?。お金が必要でしょうか?。物が必要でしょうか?。地位や名誉が必要でしょうか?。いいえ、本当の自分を知ることが必要なのです。本当の自分を知れば、この世の何物にも執着しなくなるからです。そのような者が一人でも多くなれば、世界は間違いなく変わります。

 真の平和運動とは、外に出て旗を振ったり叫んだりすることでは無く、一人ひとりが本当の自分を知り、正しい思いと行為の下に生きることなのです。それは家にいて、自分の心を見詰めるだけでできるのです。争いの原因は人の心にあるわけですから、その心を正せば平和になるのは当たり前なのです。上流を清めればわざわざ下流を清める必要が無いように、人の心を清めれば黙っていても世界は平和になるのです。


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無知が愚かな戦いを生んでいる。

 宗教戦争ほど愚かな戦いはありません。なぜなら、本当の自分を知れば宗教などいらないことが分かるからです。本当の自分を知った者が宗教を作るでしょうか?。宗教に入るでしょうか?。宗教戦争をするでしょうか?。知らないから、宗教を作り宗教に入り宗教戦争をするのです。

 未だかって偉大な覚者が、宗教団体を作ったためしがありません。モーゼも、釈迦も、イエスも、宗教団体は作っていません。本当の自分を知らない偽教祖が、後に宗教団体を作って信者を惑わし、宗教戦争を起こしているのです。自分を知らないということは、何も知らないということです。そんな無知同士が、何を確信して戦っているのでしょうか?。それは単なる迷いの戦いではありませんか?。真実を得んがための戦いならやむ得ないでしょう。しかし、何が真実で何が非真実かも分からず戦っているのですよ。これほど愚かな戦いは無いのではありませんか?。勿論、真実を知った者が戦うはずがありません。私が何をいいたいのか分かりますか?。

 A国とB国の境界線上に、ただの石ころがありました。A国の無知な者が、"これはダイヤモンドの鉱石だ!"、といい出しました。B国の無知な者も欲に誘われ、"そうだこれはダイヤモンドの鉱石だ!"、と主張し出します。境界線上での騒ぎですから、さあ石の取りあい合戦になりました。

 彼らは無知ゆえにニセモノの宗教を(石をダイヤモンドと信じている)ホンモノと信じ、聖地の取り合いをしているのです。その宗教は、ただの石ころなのですよ。今彼らは、石の取り合いに命をかけているのです。本当の自分を知った者なら、決してニセモノの取り合いはしないでしょう。A国もB国もそれが石だと知ったら、石の取り合いはしないはずです。無知ほど恐ろしいことは無いとは、このことをいうのです。

 あなたは何派だ!、私は何派だ!、と敵視し合っている信者も同じです。どちらもニセモノなのですから、もともと争う価値などないのです。ただ私の宗派の方が正しい!、いや私の宗派の方が正しい!、と自己主張しているに過ぎないのです。何がホンモノを決めると思いますか?。宗教ですか?、宗派ですか?、教義ですか?、経典ですか?、儀式ですか?、そうでは無いはずです。思いと行いではありませんか?。問われるのは、どのように正しい思いと行いをしているかだけです。

 これは、領土や資源の奪い合いにもあてはまることです。この世に存在する物は、すべて消え去る無常な物です。そんな無常な物に、命をかけて戦う価値があると思いますか?。今の私達は、せいぜい生きても100年そこそこです。ならば、生きられるだけの物があれば良いではありませんか?。なぜ欲張るのですか?。死後の世界まで持って行こうとでもいうのですか?。

 良く指導者達は、子孫のために資源の確保は必要であると力説します。でも、子孫にとっては良い迷惑です。なぜなら、余分なエネルギーを持てば持つほど周囲に波風が立つからです。考えても見て下さい。今地球上で起きている争いの殆どは、エネルギー資源の豊な地域で起きているのではありませんか?。親の財産相続で兄弟姉妹が骨肉の争いをするのも、財産家ならでの話です。もし財産が無かったら、兄弟姉妹みな仲良くしていられたはずです。

 エネルギーの偏りは、間違いなく争いの種になります。だから子孫にとって良い迷惑だというのです。それよりも、人類全体のものにしておけば安心ではありませんか?。なぜなら、エネルギー均衡の法則が穏やかな方向へ導いてくれるからです。

 人間は欲があるわりには、欲が無いのです。よろしいですか。あなたは地球上のすべての物を自分のものにするのと、自国の物だけ自分のものにするのと、どちらが豊かになると思いますか?。地球上のすべての物を自分のものにすることですね。では人類は今、そのようなことをやっておりますか?。ここからここまで我が国の物、そこからそこまであなたの国の物、と線引きし合っているのではありませんか?。線引きしなかったら、地球上のすべての物を自分のものにできるのに、線引きしているために自ら貧しくしているのです。自国だけの物としたいその欲が、貧しくしているのです。欲を持たず、国境を作らず、すべての物を人類全体のものとするなら、地球上に貧しい人は一人もいなくなるのです。地球には、使い切れない資源が用意されているのです。資源が枯渇すると考えるのは、神の愛を知らない者だけです。なぜなら、地球は無限の供給源である宇宙とつながっているからです。


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自分を殺す者が平和を作れるはずがない?。

 自分を人間だと思っている人は、どうしても他人を殺してしまうのです。それは、自分を殺しているからです。自分を殺すぐらいですから、他人を殺さないはずがありません。こういうことです。

 今日の社会において死ぬ人は、みな自殺者なのです。病気で死ぬ人は勿論、事故や事件で死ぬ人も、自然災害で死ぬ人も、戦争やテロで死ぬ人も、みな人災なのです。人災ということは、みな自殺しているということです。自分を殺している者は、全員が全員欲を持ち、憎しみを持ち、怒りを持ち、多くの悪想念を放っているわけですから、他人を傷つけ殺し、社会を傷つけ殺し、地球を傷つけ殺さないはずが無いのです。

 自分が出した思いや言葉に、一方通行は無いのです。自分が出した思いや言葉は、相手に影響を与えると同時に、自分にも影響を与えているのです。どうでしょう?。相手に泥をぶつけるのに、自分の手を汚さないでできますか?。

・自分を恨まないで、他人を恨むことなどできないのです。

・自分を憎まないで、他人を憎むことなどできないのです。

・自分を怒らないで、他人を怒ることなどできないのです。

・自分を殺さないで、他人を殺すことなどできないのです。

 自分の中から出てくる汚れた思いや言葉は、まず自分の心を汚し、その後他人を汚しているのです。一方通行が無いとは、そういう意味です。だから、決して汚れた思いや言葉を出さないことです。すなわち、誰も恨まない、憎まない、怒らない、殺さないことです。出すなら、清い思いと清い言葉を出して下さい。そうすれば、自分の心と口は清められるでしょう。

 平和が欲しかったら、自分を汚さないことです。自分を汚さなければ、他人を汚すことはありません。これが世界平和を実現するコツです。

 

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終戦記念日を、心を語る日にしよう!。

 毎年八月十五日の終戦記念日には、国中で様々な式典が行われます。テレビなどでも、当時の悲惨な戦いの映像が放映されたり、多くの人の口から戦争のむごさが語られたりします。でも私達は、どうしていつまでも戦争の傷跡を引きずって生きなければならないのでしょうか?。どんなに式典を行っても、どんなに戦争の悲惨さを語っても、そこから平和は生まれないのですよ!。

 平和が欲しかったら、人の心について語るべきです。なぜなら、戦争の原因は人の心にあるからです。心を無視して、どうして平和が望めましょうか?。これでは一歩も前進していないのです。

 私達がやるべきことは、結果に目を向けることでは無く、戦争の原因である心に目を向けることです。私達はすでに戦争から教訓を受け取ったのですから、それ以上戦争を引きずらないことです。大切なのは、後々に教訓を生かすことです。それが戦争で亡くなった人達への最大の供養になるのです。

 これは戦争に限った話ではありません。環境問題にしても、経済問題にしても、人種問題にしても同じです。どんなに地球環境の酷さを語っても、どんなに経済の破綻状況を語っても、どんなに人種問題の根深さを語っても、何の解決にもならないのです。そんな時間があるなら、原因である心について語るべきです。だから私はいうのです。終戦記念日を、心を語る日にしてはと・・・・。

 心を語るようになれば、

「人間は何ものなのか?」

「人はなぜ生まれ、何のために生きているのか?」

「人はどこに向かって進むべきか?」

 など、人間存在の根本に論点が向けられるでしょう。これなら前進です。ぜひ、意義のある終戦記念日にしたいものです。

 

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宗教の仕事。

 どこの仏典にもどこの聖典にも、修行して神・仏になるとは書いてありません。何と書かれてあるかといいますと、

 「人間は生まれながらにして神・仏である!」

 と書かれているのです。それを後の宗教家達が、修行しなければ神・仏になれないと書き換えてしまったのです。

 お釈迦さまも、イエスさまも、人間の本性は神・仏である、すなわち生命である、とはっきりいっておられます。インドのサイババ先生も、”私達は神の化身である”とはっきりといっております。”私”とはいっておりません。”私達は”と複数形を用いていっております。

 人間が戦争をしたり様々な犯罪を犯すのは、人間と思っているからです。もし生命だと知ったら、決して戦争も犯罪も犯さないでしょう。だから私はいうのです。もろもろの罪の所在は宗教家にあると・・・。

 宗教の仕事は、人に正しい生き方を説くことでも、葬儀でお経を読むことでも、お墓の番人になることでもありません。一人でも多くの人に人間の本性を知らしめ、生命の自分に目覚めさすことです。人間が生命に目覚めたら、教えなくても愛深い生き方をするようになり、教えなくても正しい生き方をするようになります。そうなったら、何もしなくても世界は平和になるのです。

 覚者が"無知と闇と悪に打ち勝たねばならない!"と語調を強めていうのは、もろもろの不幸は無知からきているからです。すなわち、真実を知らないから不幸になるのです。真実を知れば、今地球上で起きている一切の不幸は無くなってしまうでしょう。だから私は、一人でも多くの人に本当の自分を知ってほしいと願うわけです。


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