(11)真の幸せを求めて

 人生の目的は真の幸せを得ることです。しかし真の幸せを得たいと思っても、真の幸せの意味が分からなくては得られるものではありません。では幸とは何なのか?、それも真の幸せとは何なのか?、このことは悟りの根源にかかわる重要問題なので、慎重に考えて見たいと思います。


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人間はなぜ幸せを求めたがるのか?。

 あなたは耐え切れない悔悟の念に襲われた時、これまでの一切の記憶を失いたいと思ったことはありませんか?。このまま眠りに就き、永久に目覚めなければどれほど幸せか、と思ったことはありませんか?。しかし、目覚めの来ない日はありません。たとえ肉体が無くなっても、目覚めないことは無いのです。私達の意識は、永久に無くなることはないのです。もし無くせるなら、これほど幸せなことはないでしょう。なぜなら、何の苦悩も持たずに済むからです。いや、こんな考えさえ持たなくて良いのですからね・・・。しかし残念なことに(幸いなのかも知れませんが)、私達の意識は永久に無くなることはありません。無くならないから、意識の処遇に苦慮せねばならないのです。

  より苦しみ少ない状態に・・・。 

  より幸せ多い状態に・・・。

 永久に無くならない意識を苦しみの中に置くより、幸せの中に置きたいと思うのは、意識あるものにとって当然の願いだからです。これが真の幸せを求めたがる理由です。

 もう一つ、人間が真の幸せを求めたがる理由は、真の幸せがどのようなものか本能的に知っているからです。知っているから求めたがるのです。でもその幸せがどこにあるか分からない?、どうしたら得られるか分からない?、だから人間は、幸せを求めて旅を続けるのです。では真の幸せは、何処に、どんな形であるのでしょうか?。


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この世の幸せとは?。

 私達はおいしいものを食べている時、幸せだなあと感じています。またディズニーランドで乗り物に乗っている時も、幸せだなあと感じています。しかしその幸せも、"喉もと過ぎれば熱さを忘れる"のごとく、すぐに過去のものとなってしまいます。"あの時は楽しかったなあ!"、という思い出にしか過ぎなくなるのです。家族と共に過ごす幸せだって、いつまで続くか分かりません。子供は独立し離ればなれになってゆきますし、元気だった親も年老い、病に倒れ、死んでゆきます。自分だっていつまで健康でいられるか分かりません。こうして見ると、この世に一時の幸せはあっても、永遠の幸せの無いことが分かります。

 この世の形ある物は、必ず消えて無くなる運命にあるのです。すべての物は、無くなる方向へ流れているのです。無常の世界、消えてしまう世界、幻の世界、これがこの世の実態です。そんな世界で、永遠の幸せが得られるわけがありません。真の幸せを考えるに当たり、まずこの事実を知って下さい。

 

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この世の幸せは意識の持ち方次第。

 ある哲学者が、人の感覚とその認識について研究しているうちに、面白いことに気付きました。それは、

 「感覚の強さを等差級数的に増すには、刺激の強さを等比級数的に増してやらねば効果が薄い」というものでした。感覚はあくまでも主観的なものですから、外から認識したり観察したりすることはできませんが、一定の法則に基づいて変化して行く実態は定量化できるというわけです。たとえば感覚を、1、2、3、4・・・と一定の強さで増すためには、刺激の強さを2、4、6、8・・・と、一定の比率で高めてやらなくては効果が薄いのです。つまり年収百万円の人が二百万円に昇給した時の喜びと、年収一千万円の人が一千百万円に昇給した時の喜びの大きさは、著しく違ってくるというわけです。

 私達は自分の幸せと他人の幸せを比べたがりますが、比べる幸せは幸せの中に入るのを妨げるのです。幸せの中にいても、幸せとは思えないのです。こんな小話があります。

 あるヤドカリが、隣のヤドカリを大層うらやんでおりました。"自分もあのような大きな家が欲しいなあ!"、うらやめばうらやむほど自分がみじめになります。ある日隣のヤドカリが家を留守したのを幸いに、隣の家に引っ越したのです。引っ越したのは良かったのですが、どうも居心地が良くありません。広すぎるし、手入れや掃除も大変です。"やはり自分の家の方がいいや"そう思ったヤドカリは元の家に戻ろうとしたのですが、何とすでに誰かが住んでいるではありませんか。住んでいたのは、この家に住んでいたあのヤドカリでした。人の花は赤く見えるといいますが、彼らもそう見えたのでしょう。こんな思い出話もあります。

 子供のころ、いつも苦い顔をしている隣のおじさんから、アメ玉一個もらったことがありました。その時の嬉しさ、今思い出しても胸が躍るほどです。果たして、今の子供達はどう思うでしょうか?。"幸せの中に幸せは無い!"といわれるように、幸せ厚い人は、幸せの中にいながらそれを実感できない不幸せな人です。幸せ薄い人は、常に幸せを意識している幸せな人です。幸せの基準など、どこにも無いのです。自分が幸せだと思ったら、それが幸せなのです。だから未だかって、外から幸せをもらった人など一人もいないのです。幸せの青い鳥を探しに旅に出たチルチルミチルの話は、私達にそのことを教えているのではないでしょうか?。

 これも私ごとになりますが、子供のころの私は、毎日が楽しくて仕方がありませんでした。朝食を終えるとすぐに家を飛び出し、道端で、広場で、近くの山や川で、日の落ちるまで夢中で遊んだものです。気の利いた遊び道具など一切ありませんでしたが、何も無くても楽しかったのです。一番幸せだったのは、家族全員でテーブルを囲む夕餉の一時でした。ごちそうといえば月に一度のカレーライスくらいなもので、肉など殆ど入っていませんでしたが、母の気持ちのこもった手料理は私にとって何よりのごちそうでした。このように物は豊かではありませんでしたが、その当時の私は幸せだったのです。

 物が豊かになった今日、なぜもこう家庭崩壊が多いのでしょうか?。多くの親は、経済的に豊かになれば幸せになると思い、子供を放りぱなしにして共働きに出ます。その反動が子供の非行です。子供達は寂しいのです。愛に飢えているのです。だから心の隙間を埋めようと、ゲームに夢中になったり、お金をせびったり、反抗的になったりするのです。子供達は犠牲者なのです。そんな子供達を、大人達がどうして責められましょうか?。

 大金持ちがきらびやかな衣装や宝石で身を飾ったり、豪華客船で世界一周旅行に出かけたりするのも、心の隙間を埋めようとする行動です。お金をかければ、幸せの味が増すとでも思っているのでしょうか?。一食十万円かける夕食と、千円かける夕食のおいしさの差が、百倍あるとは私には思えません。また一億円のダイヤの指輪をするのと、千円のガラス玉の指輪をするのと、その美しさに十万倍の差があるとは思えません。彼らの味わっているのは、食べ物の味や美しさではなく、見栄や虚栄心ではないでしょうか?。どんな豪華な食べ物を食べようと、どんな貧素な食べ物を食べようと、お腹に入ってしまえばみな同じなのです。どんな羽根布団で寝ようと、どんなセンベエ布団で寝ようと、眠ってしまえばみな同じなのです。お腹がすいていたらどんな食べ物でもおいしいし、眠かったらどんな布団でも寝られるのです。すべて心の持ち方一つです。

 このようにこの世の幸せは、あくまでも本人の感じ方一つ、心の持ち方一つなのです。


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究極の幸せを求めて旅している私達。

 さて、この世に永続する幸せの無いことが分かりました。また、心の持ち方一つで幸せの味が変わることも知りました。永遠の心が、永続性の無い幸せを掴んで満足するはずが無いし、また飽きがくる、色褪せる、そんな不安定な幸せを掴んで満足するはずもないからです。ですから心は、永遠に色褪せない!、永遠に失わない!、幸せを求めて旅を続けようとするのです。多くの人が心の成長に比例するように、求める幸せの種類を変えて行くのはそのためです。

 例えば、今までこの世的な幸せで満足していた者が、ある時から満足できなくなる。そこで様々な趣味に興じる、山登りをする、お遍路参りをする、でも何をやっても心は満足しない。そこで哲学書を読む、宗教に入る、一時満足しても再び疑問がわいてくる、そこでさらに偉大な指導者を探し真理を学ぶ、こうして物質的な幸せから精神的な幸せへ、この世的な幸せから究極の幸せへと、求める幸せを変えてゆくのです。このように考えると、幸せを求める旅は魂の進化の旅といえるかも知れません。


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私達が求める究極の幸せとは?。

 では永遠に飽きのこない、色褪せない、陳腐化しない、究極の幸せは一体何処にどんな形であるのでしょうか?。

 私達は先ほど、幸せは意識状態であることを知りました。幸せが意識状態であるということは、意識は私達が持っているわけですから、もともと私達の中に幸せの種があったことになります。なのに私達は、外側に幸せがあると思い違いし、外側に幸せを探し求めてきたために発見できなかったのです。どうやら私達は、遠回りしていたようです。では究極の幸せとは?・・・。

 究極の幸せを一言でいえば、

 「自分が生命そのものであると悟った時に得られる喜びです。」

 なぜ自分が生命だと悟れば、そのような喜びが得られるのかといえば、生命にはすべてのものが与えられているからです。つまり、

  • 永遠に病まない、老いない、傷つかない、死なない、命が与えられています。
  • 無限の知恵と力と光と愛が与えられています。
  • 無限の自由が与えられています。

 これを天の幸せといい、永遠に尽きない平安と安らぎと喜びの境地です。ですから天の幸せを掴んだ者は、もうどんなものにも見向きもしなくなるのです。それほど天の幸せは、喜び多い幸せだということです。私達はこの究極の幸せを掴むために、これまでも奮闘してきたし、今も奮闘しているし、今後も奮闘しなければならないのです。

 念を押します。究極の幸せを得るためには、

 「心の底から生命だと思えるようになること、つまり生命の自覚を持つことです。」

 その生命は、意識としてはじめから私達の中にあったのです。ですから私達は、すでに喜びの味を知っているのです。知っているから求めたがるのです。「生命イコール私達です。生命イコール意識です。意識イコール私達です。」

 この熟知と自覚です。私達が何かを求めバタバタしているのも、すべて究極の幸せが欲しいためです。地球上のどんな物を手に入れても、宇宙の何を知っても無意味なのは、外側の物はみな消えて無くなる幻だからです。しかし私達の意識は、永遠に無くなりません。その永遠に無くならない意識を、永遠の幸せの中に置くには、自分が永遠の生命であることを悟るしかないのです。その意味では、悟りも永遠の幸せ(究極の幸せ)を掴む手段に過ぎないということです。

 繰り返します。

 「真の幸せは外側にあるのでは無く、自分の心の中にあるのです。自分の意識の中にあるのです」だから幸せは、意識状態だというのです。このことを強調しておきたいと思います。


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【光のメロディー集/・・・幸せ・・・