(11)覚者の思い

覚者の思いを推し量ることはできない。

 覚者の思いを推し量ることは誰もできません。それは夫婦であろうと、血を分けた親子であろうと、兄弟姉妹であろうともです。なぜなら、覚者の意識は無限大になっているからです。無限をどうして推し量ることができるでしょうか?。ですから、決して覚者を批判してはならないのです。

 覚者の言葉を、

  • 素直に受け入れましょう。
  • 素直に信じましょう。
  • 素直に実践しましょう。

 そうすれば、覚者の思いの深さ、知恵の深さを知るでしょう。


                                                      -222-

覚者の真の姿を見る。

 神の化身がこの世で活動するには、この世の言葉や、習わしや、ルールなど、人間臭さい表現方法を身に付けなくてはなりません。自我の世界では、自我の表現方法が(個性)必要だからです。でもそれが仇となって、誰も神の化身と認めようとしません。特に肉親や近親者に、その傾向が強く見られます。でもどんなに人間臭くても、口にする言葉は神の言葉に違いないのです。

 高い意識の持ち主は、覚者の言葉の中に強いエネルギーを感じ取っています。また、意識を高めてくれる強い思いも受け取っています。気持ちの良い波動で全身が震える体験もしています。でも、意識の低い人はそれが分からないのです。 彼らにとって覚者の言葉は、ただ空気を揺らす振動にしか過ぎないのです。たとえ真剣に聴いていても、受け取り方が違っているため真意が伝わらないのです。

 人間を見ないで下さい。姿形を見ないで下さい。言葉尻だけ捕らえ判断しないで下さい。覚者の背後に鎮座する、神の御姿を見て下さい。それが覚者の真の姿なのですから・・・。

 このようにいうと、覚者を神秘化してしまいそうですが、覚者も私達も同じ生命から生まれた兄弟姉妹で、何一つ変りません。ただ覚者には生命の自覚があり、私達にはその自覚が無いだけです。だから覚者を決して神秘化しないことです。と同時に、自分を卑下しないことです。覚者も私達も、同じ神であり生命であることは間違いないのですから・・・。

 

                                                   -223-

外から呼びかける覚者。

 一旦ボディーを持てば、殆どの人は本当の自分を見失ってしまいます。本当の自分を見抜く人は稀で、殆どの人は気の遠くなる年月さ迷い続けます。このままでは、永久に迷い続けなくてはなりません。そこで神は自分の分身を送り、外側から迷っている人達に呼びかけることにしたのです。それが肉を持った覚者達です。

 神の御使いは、私達が心を開くのを待っています。そして準備のできた者に呼びかけます。

  「さあ、私の下においでなさい!」と・・・。

 外側に夢中になっている者は気付きませんが、心を開いた者は気付きます。そして集まってきます。

  「あなた達は、自分でここに来たと思っていますが、私が呼んだのですよ!」

 と覚者がおっしゃるのは、そのことをいっているのです。


                                                   -224-

自然熟成の法に従う進化の歩み。

 ある人はこういいます。「本当に覚者がいるなら、地球を即座にユートピアにできるはずだ!」と・・・。確かに、神の意識に達した者なら、どんなことでもできるでしょう。でも覚者はそうはしません。

 宇宙には、

 「進化の歩みは自然熟成の法に従わねばならない!」

、という決まり事があるからです。一人の手で一挙に進化を推し進めるのは、自然熟成の法を犯すことになり宇宙のバランスを崩しかねません。もし強引に推し進めるなら、大きな代償を払わねばならないでしょう。

 青柿は渋くて食べられないし、寿命半ばの若人の死は大きな苦しみを伴います。自然熟成すればおいしいし、寿命をまっとうした老人の死は苦しみを伴いません。

 神は自然熟成によるユートピアを、気長に待っているのです。


                                                   -225-

実相を見ている覚者。

 イエスは手を下さず病を癒したといわれますが、なぜそのようなことができたのでしょうか?。それは、仮相()を見ず実相()を見ていたからです。私達の実相は神ですから、そこには光があるだけです。イエスは、病も、悩みも、不幸も、闇の産物であることを知っていましたので、闇を無視し光だけを見詰め病を癒したのです。

 人間の中に全知全能の神が宿っているにもかかわらず、人間はそれを認めようとしないのです。認めれば即神そのものになれるのに、どうしても形を見て人間だと見下げてしまうのです。人間と思えば、人間以上の力が発揮できないのは当然です。認めなければ一億円持っていても使えないように、認めなければ神の力も使えないのです。

 知花先生が時々、

 「私はあなた達を、仮相である人間として見ているのではありません。実相である神として見ているのですよ!・・・。」

 とおっしゃるのは、そのことをいっているのです。


                                                     -226-

理解してくれる者だけに伝える。

 神の自覚を得るのは、容易なことではありません。この自覚という言葉さえ、殆どの人が理解できないのです。だから知花先生は、すべての衆生に真理を伝えるのでは無く、理解できる人だけに伝えようとしているのです。勿論、来る者は拒みません。ですから先生は、「来る者拒まず去る者追わず」の姿勢を貫いておられるのです。

 今は理解できなくても、覚者の話を聴いていれば、後々重要な布石になることは間違いありません。ですから、今理解できないからといって諦めないで下さい。また真理の縁を結んでおくためにも、今のチャンスを逃さないようにして下さい。

 今日あなたが学んでいられるのも、以前に縁を結んでいたからで、決して偶然に学ぶようになったのではありません。求道は永遠と続くものです。決して閉ざさないこと、決して諦めないことです。


                                                  -227-

覚者の歯痒さ。

 覚者が一番歯痒く思うのは、真理を理解してもらえない歯痒さです。いや、真理を理解してもらえない段階ならまだしも、それ以前の段階、いやそれ以前の段階で、すでに理解の境界線から遠のいている歯痒さです。このようにいっていることさえ理解してもらえない歯痒さに、覚者は落胆と諦めの狭間で唇を噛んでいるのです。

 解ってもらえる言葉が無い、文字が無い、思いの入れてもらえる隙間が無い、正にお手上げ状態です。私達求道者でさえそうなのですから、一般人ならなおさら分かるはずがありません。ただ見ているしか無い、ただ黙って氷の解けるのを待つしかない、これほど歯痒いことがありましょうか?。

 でも仕方ありません。青い果実を強引に赤くすることなどできないのですから・・・。たとえできたとしても、人工的に赤くしたのでは、まともな味が出せるわけがありません。だから覚者は、愛の目でジッと熟すのを待っているのです。


                                                 -228-

増やすか?、減らすか?。

 こんな譬え話があります。ある社長が、三人の社員に有る金数のお金を与え旅に出ました。数年後旅から帰った社長は、三人の社員を呼び付け、与えたお金がどうなったか訊ねました。

 一人の社員は、与られたお金をすべて使い切り1円無しになっていました。もう一人の社員は、一円のお金も使わず大切に持っていました。三人目の社員は、与えられたお金を投資し、莫大な財産を築いておりました。さて、社長はどの社員を褒めたでしょうか?。

 この譬え話は、与えられた真理を俗世の泥にまみれ失った人と、与えられた真理は大切にはしていたが、少しも理解力を高めようとしなかった人と、与えられた真理を自力で追究し、何倍もの理解力を高めていた人の中で、真の求道者は誰か?、を問うている話なのです。

 

                                                  -229-

真理が一つなら、教えも一つで無くてはならない。

 真理は一つしかありません。一つの真理しかないならば、教えが二つも三つもあるわけがありません。答えが一つしか無いのに、二つも三つも違う答えが出てくるわけがないからです。覚者の言葉が一つの教えで固まっているのは、真理が一つしか無いという証しなのです。

 今この世の中に沢山の宗教があるということは、間違った教えが沢山ある証であり、それは取りも直さず偽者の指導者の多い証しともいえるのです。

ある人がこんな話をしていました。「知花先生は、昔はこんなことをいっていたのに、今はこのようなことをいっている、いっていることが違ってきているのではないか!?」と・・・。確かに、表現の仕方は変わってきているかも知れません。でも、真理の内容そのものは何一つ変わっていないのです。

 どんな人も進歩しているのです。覚者とて同じです。昔より今の方が、表現の仕方に進歩があって当然ではありませんか?。


                                                   -230-

覚者の言葉には、無限の思いが込められている

 「真理は文字や言葉で伝えられない!」といわれるように、文字や言葉は実に不便です。多く使えば使うほど的から遠のいてしまうのが、文字や言葉です。だから覚者は語彙をできるだけ少なくし、簡潔に語ろうとするのです。といっても、覚者の言葉の中身はすべて別モノです。たとえば、「愛」という言葉一つ取って見ても、今朝語った「愛」と昨夜語った「愛」とは違うのです。覚者は一つの言葉の中に、無限の思いを(意味)込めることができるのです。ですから同じ言葉でありながら、初心者には初心者の理解力に合った内容となって、中級者には中級者の理解力に合った内容となって、古参者には古参者の理解力に合った内容となって届くわけです。しかもその言葉は、永遠に生き続けているのです。ある日突然気付きが起きるのはそのためです。

 気付きは成長の証です。意識が高まると理解力が高まり、気付きが起きます。気付きが起きると自覚が高まり、さらに意識が高まります。意識が高まると理解力が増し、次の気付きにつながります。こうして、段々と自覚が高まって行くのです。「できるだけ覚者に添いなさい!」といわれるのは、覚者の生の言葉には、理解力を高めてくれる強いエネルギーが込められているからです。

 

                                                      -231-

覚者がお金を求めない理由。

 お釈迦様もイエス様も、在家からいただいた貢物(寄付)と、山や川の幸で生活しておりました。知花先生も十数年間朝晩講話しておられましたが、一円のお金も取ったことがありませんでした。なぜ覚者はお金を求めないのでしょうか?。その理由はこうです。

 ○真理は自分が与えるのであって、人が与えるのではありません。だからお金を取ってはならないのです。いや取れないのです。

何でもそうですが、与えてこそお金が取れるのです。与えないで、どうしてお金が取れるでしょうか?。

 ○神が語り神がエネルギーを与えているのに、どうして人間がお金を取るのでしょうか?。これでは神様から、"あなたは盗んでいますよ!"といわれても仕方がないでしょう。

 ○話は聴いてくれる人がいて、成り立つのです。これは、おあいこなのです。ですから、話す人がお金を取って、聴く人がお金を払う、ということはおかしなことなのです。

 ○知花先生は良くいいます。"私はお話ししながら自分も学んでいるのですよ!"と・・・。そうなのです。この宇宙に一方通行は無いのです。与えれば必ず与え返されます。これは、宇宙の法則なのです。なのにお金を取っては、二重取りになってしまいます。

 ○与える喜びは貰う喜びより大きいものです。そんな喜びを貰っているのにお金を取っては、これも二重取りになってしまいます。

私がお金をもらって嫌な気分になるのは、喜びが相殺され小さな喜びに変わってしまうからです。

 ○一番恐ろしいのは、見返りを望む欲の心を育ててしまうことです。これは他力依存につながる落とし穴で、最も注意しなければならない点です。悲しいことですが人間は、お金を出したら見返りを貰って帰らなければ損だと思ってしまうものなのです。真理を学びながらそんな心を育てるなら、学ばない方がましです。

 ○神は貧乏人であろうとお金持ちであろうと、悟りの機会を平等に与えています。なのに貧乏人が学べないのでは、悟りの平等性を欠いてしまいます。悟りの門戸をできるだけ広くしておくのが、覚者の務めなのです。

 

 神の名を語ってお金儲けしている人は、"詐欺を働いている!"、といわれても反駁できないでしょう。なぜなら、神はお金を必要としないからです。お金を必要としているのは、人間だけです。

 

                                                    -232-

なぜ覚者は簡潔に語るのか?。

 機械を部品ごとに細かく解体すると、どうしても全体像がボヤけてしまいます。真理も同様で、明細に説明すればするほど核心から遠のいてしまいます。

私達は宇宙を総合的に知らねばなりません。それには全体像をできるだけ簡潔に説明し、あとは聴いた人の理解力に委ねた方が間違いないのです。なぜなら、聴いている人の中に、何でも知っている全能の神がおられるからです。覚者から聴いた言葉を自問自答し、全能の自分から答えを得る、これほど確実なことはないでしょう。

不平をいう前に実践しよう!。

 良く師の教えに不平不満を漏らす人がおりますが、"ではあなたは頂上まで登ったのですか?"、と私はお訊きしたい・・・。まだ裾野にいながら景色が悪いと不満を漏らすのは、おかしな話ではないでしょうか?。素晴らしい景色が見たければ、頂上に登って見ることです。きっと景色の素晴らしさに、唖然とさせられることでしょう。

 恩師はよくいいます。

「 私の見ているものをあなた達にも見せてやりたい!」

と・・・。これは、一日も早く素晴らしい景色を見せてやりたい、親心から出た言葉なのです。

 

                                                     -233-

自分を失うのを恐れている?。

 知花先生はおっしゃいます。

 「あなた達は、霊的自覚を持つことによって自分が無くなるのではないか、と恐れているのではありませんか?」

 と・・・。そんなことはありませんので安心して下さい。

 確かに霊的自覚が高まれば、人間臭さは剥落してゆきます。たとえば、テレビや映画などにあまり興味を持たなくなる、どんな娯楽も馬鹿らしくなる、あまりおしゃべりをしたくなくなる、肉親の情に流されなくなる、といったふうに、昔と違った自分に変わって行きます。でもどんなに霊的に目覚めても、個性を失うことはありません。なぜなら、全体は個性の集まりだからです。

 氷が水に溶ければ、全一体の水となります。一滴の水が大海に戻れば、全一体の大海になります。そうなれば、知恵も力も無限大になるでしょう。でもいかに全一体になろうと、一個の分子としての記憶と個性は失うことはないのです。

小さな自分と大きな自分は、どこまでも一つです。個の自分と全体無限の自分は、どこまでも一つであり続けるのです。

 

                                                     -234-

賢者は必然に生き愚者は偶然に生きる。

 すべてが必然によって運ばれているがゆえに、私達は日々安心して生きられるのです。もし偶然というものがあるなら、いつもビクビクして生きねばならないでしょう。

 「必然」は神の愛の証です。悟り人がいつも穏やかでいられるのは、神の愛を心より信じているからです。「神に生きているならそこに不幸はあり得ない!」、その不動の確信が安心感を生み出しているのです。

 神に生きるとは、光(法則)に生きることです。光の中に闇は入ってこられませんから、光に生きている者は安泰なのです。賢者はそれを知り光に生きているわけですから、心穏やかに生きられるのは当然なのです。でも愚者はそのことが信じられないため、自ら不幸の種をまきながらそれを偶然と考え、苦しみや悲しみに喘いでいるのです。

 「賢者は必然に生き、愚者は偶然に生きる」とは、そういった意味なのです。

確かに、不幸を偶然の名で処理してしまえば、自分が責任を取る必要が無いように思え、気分的には楽かも知れません。でも、それはそう思っているだけで、実際はすべて自分が責任を背負わなければならないのです。痛みとして、苦しみとして、悲しみとして、・・・その証に、愚者は様々な悩みや苦しみに喘いでいるではありませんか?。

 この宇宙に偶然などありません。すべて必然です。原因あっての結果です。


                                                  -235-

人間は偉大な能力の持ち主である。

 ヒマラヤの聖者達は、姿を消したり、水の上を歩いたり、空中から物を取り出したり、色々な不思議な事が出来るといわれます。彼らも私達も、何ら変らぬ手順を踏んでこの世に生れた人間なのに、なぜそのようなことができるのでしょうか?。

 この宇宙に特別な人間など一人もおりません。ただヒマラヤの聖人達には「生命」の自覚があり、私達には無いだけです。だからイエスはいわれたのです。「本当の自分を知れば、あなた達も私以上の御技を成すであろう」と・・・。

しかし私達は、自分を人間として見下げ生きています。そして何か不都合が生じると、「人間だから仕方がない!」といって自己弁護しています。

 そうなのです。

  • 人間だから仕方がないのです!。
  • 人間だから悪いことをするのです!。
  • 人間だから愚かな戦争をするのです!。
  • 人間だから病気になるのです!。
  • 人間だから不幸になるのです!。
  • 人間だから無能なのです!。

 自ら無能な人間に成り下がり、幸せになりたいとは、あまりにも虫が良すぎます。悪を犯す人間を認めながら、幸せが欲しい!、健康が欲しい!、と願うのは、矛盾というものだからです。幸せになりたかったら、人間を認めないことです。

この宇宙には、私達の知らない神秘がごまんと存在します。でも知ってしまえば、神秘は当たり前になるのです。ヒマラヤの聖者達を特別な人間と思うのは、宇宙の仕組みを知らないからです。本当の自分を知らないからです。本当の自分を知れば、誰もが「何だ、当たり前なんだ!」と苦笑するはずです。


                                                   -236-

覚者の言葉に無駄なものは無い!。

 何気なしに語っている覚者の言葉を良く噛み締めてみると、実に深い意味合いがあり感心させられます。言葉一つ一つに自覚へ導く、味と、響きと、馨が折りたたまれているのです。

 たとえば、

  • 境目が無い。
  • つながらなくては不毛である。
  • 全体は一つ。
  • 一つは全体。
  • 一元である。
  • 切り離せない。
  • 独立したものなど無い。
  • 源は一つ。
  • 一つのものである。
  • 一つのものだから分けられない。
  • 大いなる一体。
  • 初めからそうである、等々・・・。

 言葉尻だけ捕らえれば何の変哲もない言葉ばかりですが、覚者の口を通すと生き物に変わるのですから驚きです。一言一句が自覚の呼び水になり、気付きの切り口になっているのです。だから、覚者のどんな言葉も良く噛み締め味わうことが大切なのです。

 さあ、もう一度聴き直しましょう。もう一度読み直しましょう。

 

                                                   -237-

根気よく訴えかける覚者達。

 波頭の生みの親は大海ですが、波頭は自分のことを大海だと思っていません。だから海に帰っても、すぐに戻ってくるのです。そのまま放っておいたのでは、いつまでも波頭と大海の間を行き来し続けるでしょう。そこで大海は、波頭を目覚めさせるべく導き人を派遣したわけですが、それが釈迦であり、イエスであり、知花先生であり、名も無い覚者達です。派遣された覚者は波頭の一つに姿を変え、外から根気良く訴えかけます。「あなたは波頭(人間)では無く、大海(生命)だよ!」と・・・。訴えかける内に、一人、また一人と、目覚める者が出てきます。

 波頭には、それぞれ誕生の歴史の違いがあるため、一挙に目覚めることはありません。だから覚者が目指す当面の相手は、熟しかかった果実です。一人でも目覚めさすことができれば大成功です。

 「私を手ぶらで帰さないで下さい!」という知花先生の言葉の裏には、目覚めさすことの大変さが伺い知れます。でも、どんなに大変でも覚者は決して諦めません。一人でも多く目覚めさそうと、今日も、明日も、明後日も、必死になって訴え続けているのです。

 2012年にアセンションが起き、人類の意識が変わるといわれていますが、知花先生のような覚者達の出現によって、着実に人類の意識は変わりつつあります。アセンションとはこのように、覚者達の言葉を通して真理が地上に下ろされることを言うのです。何か特別な力によって人類の意識が変わるわけではないのです。その意味では、アセンションはすでに始まっているといえるでしょう。


                                                  -238-

天道を示す覚者。

 これまで沢山の宗教の指導者達が世に輩出されましたが、殆どの指導者は人の道を解くことに終始し、天に入る道を説こうとしませんでした。なぜでしょうか?。それは、どの指導者も天がどこにあるか知らなかったからであります。 

知花先生は自分がどこから来て、どこに帰るか知っております。つまり、天に入る道を知っているのです。だから「我は道なり!」と平然と公言し、私に添いなさい!、私に着いてきなさい!、と訴え続けているのです。

 知花先生のような指導者が出てきた背景には、地球の事情があるようです。地球に一大転換期が近付いているようなのです。今地球に熟した魂が沢山生まれているのはそのためです。彼らは、言葉に囚われぬ優秀な魂ばかりです。だから先生は、これまで誰も公にしなかった「密教」を開き、一つの思想になるような説き方をしているのです。

 先生は見事なまでに真理をスリム化して説いております。これほど分かりやすく説いた指導者は、未だかって一人もいなかったでしょう。といっても、天に入るには自力に寄らなくてはなりません。どんなに解りやすく説かれても、天に入る方法は昔も今も何ら変りはないからです。だから先生は口癖のように「生半可では駄目ですよ!」といわれるのです。それほど天に入る道は、いばらで、細く、長く、厳しいということです。


                                                    -239-

悟りに、ねばならないという言葉は無い!。

 「酒を飲み、タバコを吸い、妻子を持つ者に本者の悟り人はいない!」という人がおりますが、そんなことはありません。悟りはあくまでも本人の志し次第です。それを実証して見せてくれたのが知花先生です。

 知花先生は大酒を飲み、タバコも吸い、妻帯もし、五人の子供も設けていますが、やる気と強い意志があれば、そんな障害など問題では無いということを私達に実証して見せてくれたのです。

 学びの友の中にも酒を飲み、タバコを吸い、家族を持っている人達が沢山おりますが、それが障害となって悟れないなら、その人達は今生諦めなくてはなりません。先生はそんな人達のために、

 「悟りは形では無く、本人の志し次第ですよ!」

 ということを自ら実証して見せてくれたのです。先生だって、わざわざ障害物を背負いたく無かったはずです。事実先生の計画は、10年遅れたといわれます。でも10年遅れても、既成概念を打ち壊す方が重要だったのです。だからといって、先生の真似をしなさいといっているのではありません。障害物は少ない方が良いに決まっています。それでなくても、悟ることは難しいのですから・・・。


                                                   -240-

常人にはできない普及への熱意。

 本当の自分を知るのは、容易なことではありません。このことは、自覚が深まれば深まるほど思い知らされるものです。ですから覚者は、一旦普及を諦めてしまうのです。しかし、宇宙の仕組みを深く知れば知るほど己の役割の大きさに身震いし、「何としても伝えねば!」と、再び憑かれたように普及活動に熱を入れるのです。それが言葉を強める理由です。常人なら、何年も説いていればトーンが下がるところですが、知花先生の場合は益々高くなっているのです。これは驚くべきことです。この思いの陰には、「数少なくても必ず解ってもらえる人がいるはずだ!」との強い確信があるからだと思います。

 知花先生の熱意は常人ではありません。それが、覚者の覚者たるゆえんなのでしょうが・・・。


                                                   -241-

聖者は自分の中におられる。

 多くの人達が、聖者を求めヒマラヤに行きます。しかし、未だかって聖者に巡り会えた人は一人もおりません。当然です。聖者は外側にいるのでは無く、自分の中におられるからです。自分の中に聖者を見付けられない人が、どうして外側に聖者を見付けられましょうか?。

 外側には幻しかありません。幻から真実を見付けることなどできるわけはないのです。聖者に会いたいなら、自分の中を探すことです。

  ・自分の中に聖なる泉があるのです。

  ・自分の中に聖なるヒマラヤがあるのです。

  ・自分の中に聖者キリスト・仏陀・知花先生がおられるのです。

  ・自分の中に聖書があるのです。

 だから、いわれるのです。

  「神を知る前に己を知りなさい!、己を知った時、神を知るのである」    と・・・。

 すなわち、

  「聖者に会う前に己に会いなさい!、己に会った時、聖者に会えるのである」と・・・。

 

 聖者も、聖なる場所も、聖書も、自分の中におられるし、あるのですから、わざわざ外に探しに出かける必要はないのです。

 イエス様を拝んではなりません。お釈迦様を拝んでもなりません。聖者を拝む者は、みな偶像崇拝者です。聖者は拝むべきものでは無く、「見習うべき」ものです。

 

 匠の技を知るのは、真に匠の技に近づいた者だけである。


                                                   -242-