(6)瞑想・明想(めいそう)

教えられないのが瞑想である。

 瞑想を教えて下さいという人がおりますが、瞑想は教えられるものではありません。瞑想は当人が心の中で紡ぐ、内的作業のものだからです。あえて内側のものを外側のルートを使って伝えるとすれば、馨も余韻も伝えたいものとは似ても似つかぬものとなり、返って人を惑わしてしまうでしょう。ですから、「瞑想は言葉や文字で伝えられない!」と昔からいわれてきたのです。

 初めてプールに入り戸惑った人は多いと思いますが、初めから泳げる人など一人もおりません。何度も何度も水を飲み、少しずつ泳げるようになるのです。瞑想も同じです。

 大師は自分自身です。自分が自分に教えるのです。勿論努力は必要ですが、一番大切なのは、やり通す意志の強さと根気です。


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本当の自分に一心集中する。

 「悟りとは己を知ることである!」といわれるように、瞑想の目的は本当の自分を知ることです。知るといっても、潜在意識(本当の自分)は知っているわけですから、根っ子をいじる必要はないのです。ただ、潜在意識の思いを表面意識まで浮かび上がらせ、(言い方を変えれば、表面意識を潜在意識にまで潜らせる)同通させる作業が必要なだけです。その同通させる作業を、瞑想とか、内観とか、沈思とか、黙想とか、呼んでいるのです。知花先生は「明想」という言葉を使っておりますが、本当の自分は光ですから、光を「見る、思う、意識を留める」という意味で、そのような言葉を用いているわけです。

 私達は何百万年もの間、"自分は人間である!、肉体である!、個人である!、"と思い続けてきたために、「人間」という思い癖を付けてしまったのです。その思い癖を取るには、"自分は生命である!、神である!、無限である!、"と本来の自分を思い続けるしか無いのです。

 自分の本性が生命でなければ、どんなに生命を思い続けても生命にはなれないでしょう。幸いなことに私達の本性は生命ですから、思い続ければ生命に帰ることができるのです。さあ、"吾生命なり!、吾神なり!、吾無限なり!、"と思い続けましょう。「生命に」「神に」「無限に」一心集中し、本当の自分を思い出しましょう。瞑想は本当の自分を思い出す、最良の方法なのです。


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理屈抜きでしましょう。

 どんな屁理屈をこねても、実践しなければ身に付くことはありません。理屈で泳げるようになった人など、未だかって一人もいないのです。だから覚者は、理屈をこねるより実践しなさいというのです。

 知識に溺れ時間を無駄にしないで下さい。知識に溺れている人は、目的と手段を取り違えているのです。知識では無く、実感が大切なのです。実感がなぜ大切かといいますと、知識を行動に移すにはためらいがありますが、実感を行動に移すにはためらいが無いからです。

 実感を得るには、ただ一心に内側に意識を向けること、本当の自分に意識を向けること、すなわち生命を、を、無限を、思い続けることです。思い続ければ、必ず生命(原因者・本当の自分)とコンタクトが取れるようになります。もうその者は、意識せずとも正しい生き方ができるようになります。生命につながるのに、理屈などいらないことを知って下さい。


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自覚とは?。

 自覚という言葉が随所に出てきましたが、一体「自覚」とは何でしょう?。「自覚せよ!」といっても、自覚がどのようなものか分からなくては自覚のしようがありません。といっても、言葉や文字で伝えられないのも自覚です。ただいえることは、本当にそう思えるのです。自分が生命だと思えるのです。ああ、これがレモンの味なのか!、リンゴの味なのか!、と実感できるように、"私は生命なんだ!"、と実感できるのです。"私は人間だ!"と実感しているように、"私は生命だ!"と実感できるのです。そう思えるのです。なぜそう思えるのかと訊かれても、そう思えるのですから仕方がありません。思えている時は、生命そのもの、宇宙そのものになれ、本当に宇宙を闊歩できる気分になれるのです。この意識状態は、体験した者でなくては分らないでしょう。

 以前、五歳の男の子が火の中から赤ちゃんを助けたという珍事件が話題になりましたが、その子はいつもスパイダーマンの恰好をして遊んでいたといいます。彼は、強きをくじき弱きを助けるスパイダーマンに成り切っていたのです。「成り切っていた!」だから、火の中から赤ちゃんを助けることができたのです。役者は役に成り切ることが大切だといわれますが、本当に役に成り切った役者は、顔も、声も、立振舞も変わるといいます。この「成り切ること、本当にそう思えること、確信こそ」が自覚に近いものなのです。

 良く「合点がいった!」といいますが、これは不明な「」が「」わさった時、そのような言い方をするのです。でも地球上に無い物は、言葉も文字も無いわけですから、合わさる点も無いのです。「自覚」という意識状態も、地球上に無いわけですから、合わさる点(言葉や文字)も無いのです。地球上に無い味や臭いを、言葉や文字で伝えられないのと同じです。その星に無い物は、知るべき言葉や文字も無いのです。地球人類の顕在意識に無いものは、知るべき言葉も文字も無いということです。

 自覚は体験した者にしか分からない!、ということを知って下さい。

 

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自覚は一進一退でやってくる。

 自覚は一挙にやってくるのではありません。一進一退を繰り返しながら、少しずつ、少しずつ、やってくるのです。それも、浅く、深く、押しては返す波のように・・・。これは私の体験からいえることで、まさに最初の自覚は、喉仏に引っ掛かっていた人の名を思い出したような記憶の蘇りでした。しかしその自覚の程度は弱いもので、すぐに失ってしまいました。再びその思いが蘇ったのは、半月ほど後のことでした。今度は忘れまいと、二時間ほど集中して瞑想したのですが、その自覚も電話一本で失ってしまいました。

 自覚した時は、実際に"私は宇宙生命だ!"と思えるのです。思えている間は光に包まれ心地良く、また吸う空気もおいしいのです。次に自覚がやってきたのは、一週間後のことでした。今度こそ失うまいと、五時間ほど必死に瞑想したのですが、夕食後再チャレンジしてみると、何と、自覚できないのです。それほど自覚の維持は難しいのです。しかし、少しずつではありますが自覚の維持できる時間が延びてきて、やがて目をつぶるとすぐに自覚がやってくるようになりました。

 このように自覚は、一進一退を繰り返しながら、少しずつ少しずつ根付いてゆくのです。

 

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【光のメロディー集/・・・自覚・・・

 

 

大切なのは自覚の強さである。

 自覚を高めて行くとエネルギーが強まり、光が強くなってくるのが分かります。自覚を持って瞑想するのと、自覚を持たず瞑想するのと天地の開きがあるのは、自覚の強弱によってエネルギーの強さに開きが出てくるからです。

 初め内的光は見えませんが、自覚が生まれるとボンヤリと紫色の光が見えてくるようになります。さらに自覚が高まると、曇り空の一角から太陽が覗いたような明るさを体験します。時には、光の輪が眉間に向かって飛んでゆく体験をすることもあります。しかし、そんなことより大切なのは、自覚の強さです。「私は生命である!」と、強く思えれば思えるほど内的光は輝いてきますので、その光に一心集中することです。

 内的光の見えるようになった人は、次のような境地で一心集中したら良いでしょう。

 「天に通じる壁に穴を開けるつもり。」

 「天の扉を光でこじ開けるつもり。」

 「意識を光の奥へ奥へと潜り込ませるつもり。」

 このような境地で意識を集中してゆくと、全身が見事なまでに光で包まれるようになります。まるで光のドームの中にいる感じです。これが正しい瞑想の状態です。

 良く瞑想していると、景色が見えたとか、死人の顔が見えたとか、幽界が見えたとかいう人がおりますが、それは「迷想」であって真の瞑想ではありません。何かが見えたら危険ですから、直ちに中止して下さい。私達は形ある物を見るために瞑想しているのではありません。真実を観るために、本当の自分を観るために、瞑想しているのです。真実は姿形が無いので見えないのです。その事をくれぐれも忘れないようにして下さい。    

 

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自問自答と思索を巡らせる瞑想。

 瞑想の一つに、自問自答があります。

 自分は、「汚く、鈍重で、不自由な肉の塊なのか?。」それとも、「清く、精妙で、自由自在な宇宙生命なのか?。」と、自分に問いかける瞑想です。(肉の自分と生命の自分を相対させ問いかける。)問いかけているうちに、「清く、精妙で、自由自在な宇宙生命である!」という思いが、気持ちの良い波動と共に出てきます。この瞑想は、確信を深めるのに大いに役立ちます。

 もう一つ、思索を巡らせる瞑想があります。

 「なぜ私は宇宙生命なのか?。」

 「私の意識はどこから来ているのか?。」

 「私の意識が無くなったら、宇宙はどうなるのか?。」など、自分に問いかける瞑想です。(あなたが疑問に思っていることを問いかけてみて下さい。)始めはすぐに答えは返ってきませんが、続けてゆくうちにヒラメキとして、あるいは気付きとして返ってくるようになります。これが啓示といわれるもので、理解力を大いに高めてくれます。またこの道筋が付けば、問いかけに対して即座に答えが返ってくるようになります。これは実に不思議な気分で、学んだことのない知識や知恵が、フツフツと自分の思いとなって涌き上がってくるのです。ただし、何でも回答が与えられるというものではありません。神は知識欲を満足させるような回答は与えないのです。本当に今必要な知恵、それも今の理解力に相応した知恵しか与えないのです。

 

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瞑想を限定してはならない。

 目をつぶってする瞑想だけが、瞑想ではありません。目を開いていても思いが真実に向いている時は、瞑想していることになるのです。ですから知花先生の講話を聴いている時は、深い瞑想状態にあるわけです。また、花に生命を感じている時も、山に生命を感じている時も、海に生命を感じている時も、人に生命を感じている時も、みな瞑想していることになるのです。その意味では、いつでも、どこでも、瞑想は可能だということです。

 瞑想が進み、本当の自分が光として見られるようになった人は、目を開いていても、目をつぶっていても、また、いつでも、どこでも、本当の自分に意識が留められるようになります。そうなったら瞑想は、もう自由自在です。

 瞑想を限定しないで下さい。瞑想は形では無く、あくまでも意識状態です。座り方がどうとか、手足の格好がどうとか、息の吸い方や吐き方がどうとか、目のつぶり方がどうとか、そんなものに囚われないで下さい。いかに真実に「生命に・神に・無限に、本当の自分に」意識が集中できているかが大切なのです。


                                                     -135-

自覚の味をしゃぶり続ける。

 私達の意識は、限定されたもの(物質)に向いている時は固着し、抽象的なものに向いている時は拡大するようにできています。私達の帰るべきところは無限宇宙ですから、できるだけ大きなものへ意識を向ける必要があるのです。ですから、瞑想(想い)の対象を、次のような言葉マントラに置いたら良いでしょう。

  生命

 

  無限

  普遍

 

 

  本質

  エネルギー

 

 等々・・・。(自覚の境界線を越えれば、マントラはいくらでも見付けることができる)

 これらの言葉は抽象的で掴みどころがありませんから、意識が拡大しやすいのです。といっても、想いが単なる思いの繰り返しであっては意味がありません。「吾生命なり!」と想うなら、生命がどのようなものか?、思いの中に理解力が伴っていなくてはならないのです。私が覚者やそれに近い意識の持ち主の助言を勧めるのは、彼らが語る言葉の中に、理解力を高めてくれる波動が含まれているからです。

 助言を頂き、思索と、瞑想を繰り返すうちに、必ず自覚の訪れる日がやってきます。その証が内的光です。内的光は自覚が得られた印と思って良いでしょう。自覚が得られた時は何をやっていても中止し、一心に自覚の味を噛み締めることです。味が無くなるまでしゃぶり続けることです。

 自覚する!、自覚を失う!、自覚する!、自覚を失う!、しばらくこの繰り返しは続くでしょうが、やがて目をつぶるとすぐに自覚がやってくるようになります。自覚がどのようなものか伝えられないのは残念ですが、一つだけいえることは、自覚の深さには際限が無いということです。浅い自覚から深い自覚まで、その意識の段階は無限に存在するということです。だから、少々自覚が得られたからといって、そこが終着点だと思わないで下さい。

 宇宙の仕組みは、実に深淵にできております。恐らくその深みに際限は無いでしょう。ただ節目節目はあるので、一つの節目にたどり着くまで根気よくやり続けることです。

 

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瞑想は形や作法では無い!。

 瞑想は「生命を想い続ける」ことです。多く思えば思うほど効果が大きいのは、「想念は実現の母」だからです。思うことは、電車に乗っていても、歩いていても、料理をしていても、お風呂に入っていてもできるはずですから、少しの合間も見つけやって下さい。その少しずつの積み重ねが、後々大きな成果をもたらすのです。

 何度もいいますが、瞑想は形や作法ではありません。あくまでも意識状態です。ですから、どんな座り方をしても良いのです。どんな手足の恰好をしても良いのです。足を投げ出してやっても、横になってやっても良いのです。周囲に人がいなかったら、声を出してやっても良いのです。ただ横になってやると眠ってしまいますので、できるだけ起きてやった方が良いでしょう。また声を出す方法は、素人には効果があるかも知れませんが、ベテランは自分の声に邪魔され深く入れないでしょうから、やらない方が良いでしょう。

 何でもそうですが、始め動かす時には力はいるものですが、惰性が付き出したら意外といらないものです。あとは根気よく力を加えて行ければ、ドンドンとスピードアップして行きます。

 「継続は力なり!」といわれるように、根気よく続ければ必ず扉は開かれます。宇宙の仕組みはそうなっているのです。


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【光のメロディー集/・・・瞑想・・・

 

 

できるだけ覚者に添いなさい!。

 「できるだけ覚者に添いなさい!」といわれる理由は、覚者の言葉から強烈な宇宙エネルギーが放出されているからです。特に生の言葉には、強烈なエネルギーが含まれています。知花先生が時々大声を上げて話すのは、私達にできるだけ強いエネルギーを与えてやりたい親心からです。

 もう一つ強調したいことは、覚者は一つひとつの言葉に無限の意味を込めて話せるという点です。噛めども噛めども味が出てくるのはそのためです。私が先生の講話(ビデオやカセットテープも含む)を聴きながら瞑想するのは、先生の言葉によって理解力が高められ、自分では深められない自覚の深まりを体験することができるからです。だから私はいうのです。"覚者の言葉は高下駄を履かせてもらっているようなものである"と・・・。

 どういう意味かといいますと、覚者の力強い言葉は意識を高めてくれるため、普通の意識状態では見えない壁の向こう側を見せてくれるのです。意識を高めてくれることを、高下駄を履かせてもらっているようなもの、といっているのです。高下駄を履かせてもらえば、見えない壁の向こう側が見えるようになるため、色々な発見や気づきにつながるのです。さらにその発見や気付きが、高下駄を自分の足にしてしまうのです。それを続ければ、自分の背丈がドンドンと大きくなり、やがて自覚に結びつくのです。

 このように覚者に添っていると、色々な恩恵を受けることができるのです。


                                                   -138-

自覚の高まりと弱まり。

 これまで述べてきたように、自覚の高まりは一度に押し寄せてくるものではありません。少しずつ、少しずつ、夜が明けるようにやってくるのです。それも押しては返す波のように、ある時は激しく、ある時は静かに・・・、その驚きと喜びは言葉でいい表すことはできません。

 "この状態がいつまでも続いたら、どんなに幸せだろう!"と何度思ったことでしょう。しかし、そう簡単にゆかないのが自覚の高まりです。昨日あれ程自覚が強かったのに、今日の何と低調なこと・・・。また突然自覚が弱まったり強まったりする、この落差とブレは私を悩ませたものです。

 自覚が薄れたり弱まったりするのは、この世の物(情欲・物欲・食欲など)の誘惑を受け、自我(サタン)が活発化するためです。自我(サタン)が活発化すると波動が落ちるため、どうしても自覚が薄れるのです。波動が落ちれば集中力が散漫になりますから、満足に瞑想もできなくなるのです。そうなるとますます波動が落ちるので、さらに自覚が薄れるのです。この悪循環を克服するには、意志を強く持ち、この世の物の誘惑を退けることです。そうすれば、自我(サタン)の活動は弱まりますから、瞑想もしやすくなり、自覚を高めることができるのです。

 自覚が弱まるのは、この世の物に誘惑された時である、ということを覚えておいて下さい。


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自覚するのに理屈は要らない。

 面白いから面白いのです。美味しいから美味しいのです。面白いにも、美味しいにも、理屈が要らないように、自覚も理屈は要らないのです。本当に"私は生命だ!"と思えるのです。ただ、"自分は生命だ!"と思えるのです。そう思えるから、そう思えるのです。生命と思えるのに、何の理屈も要らないのです。本当にそう思えるのですから仕方がありません。そう思えたら、自分が変わるのです。何かに、誰かに、変えてもらうのでは無いのです。そう思えたら、ひとりでに変わるのです。

 いつそう思えるようになるかは、誰にも分かりません。ある日突然、そう思えるようになるのです。思えるようになったら、誰でも変性変容が起きてきます。それも目に見える形で・・・。たとえば、

  細胞が細かく振動するようになる。

  内的光が見えてくる。

  心が安らぎ、幸せな気分になる。 

  気持が良くなる。

  吸う空気がおいしくなる。

  何を見ても自分に思えてくる。だから愛深くなる。

  物欲・色欲・自己顕示欲など、あらゆる欲望が無くなる。

  疲れ無くなる。

  病気をしなくなる。

  あまり眠る必要が無くなる。

  あまり食べる必要が無くなる。

  胸が熱くなる。息が熱くなる。(口の中がヤケドすることもある)

 このように、様々な変性変容が起きてくるのです。あまり現象に囚われてもなりませんが、瞑想(求道)の励みになることは間違いありませんので、あえて強調しておきます。

 今日、そう思えるようになるかもしれません。明日、そう思えるようになるかも知れません。あるいは一年先か?、十年先か?、来生か?、分かりませんが、焦らず希望を持って瞑想を続ければ、必ず思えるようになります。これは宇宙の法則が保証するので間違いありません。


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瞑想と洗礼(霊)との関係。

 洗礼には、水の洗礼と火の洗礼の二通りがあります。水の洗礼はシャワー(お風呂)で体の汚れを落とす外的作業、火の洗礼は心の汚れを落とす内的作業です。火の洗礼の必要な理由は分かりますが、なぜ水の洗礼が必要なのでしょうか?。

 食べた物はエネルギーに変換され、残りかすは排尿排便として体外に出されます。エネルギーの吸収された残りかすは波動が低いのです。汗もアカも波動が低いですから、そんなものを体に付けていては、良い瞑想ができるわけがありません。だから瞑想前に身体の汚れを落としなさいというわけで、昔から水の洗礼が取り入れられてきたのです。事実、お風呂に入った後の瞑想は入りやすいのです。あまりこだわってもなりませんが、できるだけそうした方が良いでしょう。

火の洗礼は心を清める作業といいましたが、これは反省・懺悔によって心の汚れを落とす作業です。身体が汚れていては瞑想がしづらいように、心が汚れていても瞑想はしづらいのです。ですから、どの宗教にも反省・懺悔の行が組み込まれているのです。

 今や洗礼は儀式となってしまいましたが、本当の目的は水と火で体の内外を清めることだったのです。

 

                                                    -141-

囚われた瞑想をしてはならない。

 私達は食事をしますが、何を食べたのでしょうか?。形を食べたのでしょうか?、エネルギーを食べたのでしょうか?。エネルギーを摂取したのです。そのエネルギーは形の中にだけあるのではなく、水の中にも空気の中にもあるのです。

 食事をとると眠気を催すのは、エネルギーが充満したためです。エネルギーが高まると雑念が少なくなるので、眠気を催すようになるのです。深呼吸すると心が落ち着くのも、エネルギーが充満したためです。喉の渇きを癒した時生きた心地になるのも、エネルギーのおかげです。エネルギーは命の素ですから、このようなことが起きるのです。

 食後の瞑想をタブー視する人がおりますが、どこにもそのような決まりはありません。集中できれば、かえって良い場合があるのです。なぜなら、エネルギーが充実しているからです。昔から瞑想に呼吸法が取り入れられてきたのも、気を充実させ雑念を少なくさせるためでした。あまり囚われてもなりませんが、試しにやって見るのも一計でしょう。 

 私がいいたいのは、何でも囚われてはならないということです。食前・食後に囚われるな!、場所や時間に囚われるな!、形や作法に囚われるな!、個人瞑想や集団瞑想に囚われるな!、瞑想はあくまでも本人の意識状態である!、と私はいいたいのです。


                                                     -142-

雑念を追いかけてはならない!。

 瞑想し始めのころは、誰でも雑念に悩まされるものです。これは集中できていないせいですが、あまり気にしないことです。雑念は放っておき、生命マントラに思いを重ねることです。思いを重ねてゆけば、いつのまにか雑念は消えて行くものです。だからメトロノームのような瞑想も、瞑想し始めのころは有効なわけです。ただし、眠くなるので気を付けて下さい。あくまでも意識をしっかり保ち、生命に一心集中することを心掛けて下さい。どうしても雑念が消えない場合は中止し、時を改めてすることです。思い重ねる瞑想のやり方は、具体的にはこうです。

 「吾生命なり!」と思い終わるやいなや「吾生命なり!」と思い重ねるやり方です。思いと思いの間に隙間を入れないのです。隙間があれば、その隙間に雑念が入ってきますので、雑念が入ってこれないよう、「吾生命なり!」の「なり!」の思いが終わらない内に「吾」とすぐに思い始めるのです。これが連続的祈り(瞑想)といって、雑念を入れずに瞑想する方法です。どうか試してみて下さい。

 満足な瞑想ができず悩んでいる人がおりますが、瞑想はそんなに簡単にできるものではありません。この世にいる人で、満足に瞑想できている人は皆無といって良いでしょう。それほど瞑想は難しいのです。ですから、できないからといって余り悩まないで下さい。

 分けも分からず、ただバタバタ泳いでいるうちに泳げるようになるように、瞑想もやり続けていれば必ず出来るようになります。焦ることはありません。瞑想はどこにも逃げて行かないのですから・・・。

 

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瞑想で注意しなければならない点。

 瞑想で一番注意しなければならない点は、焦るあまり”生命になろう!”とすることです。私達の本性はすでに生命ですから、”生命になろう!”とする必要は無いのです。必要なのは、”生命である!”という瞑想です。”生命になろう!”とする瞑想は、生命でないと思っているからなろうとするのですから、頭っから生命を否定していることになるのです。”生命である!”という瞑想は、すでに生命と思っているから、生命を肯定していることになるのです。この違いは、天と地の開きがあるのです。

 ”吾生命なり!”の瞑想は、肯定の瞑想です。確認の瞑想です。認める瞑想です。だから肯定の瞑想を続ければ、本当に「自分は生命である!」と思えるようになるのです。そう思えるようになれば、自分が光ってきます。内的光が見えてきます。そうなった人は、光そのものが自分であると強く思って下さい。光と自分が一つであると強く思って下さい。光と自分とを重ねることです。

 もう一点陥りやすいのは、「気付」きと「自覚」とを混同してしまう点です。「生命」と気付いたからといって、自覚したわけでは無いのです。気付いたのと、自覚したのとは、全く違うのです。この点を誤解するから、"もう私は悟った!"という人が出てくるわけです。

 自覚は”私は生命である!”と思えた状態です。気付きは”私は生命だ!”と知った状態です。どうかこの違いを知って下さい。


                                                   -144-

意識の高まりは、エネルギーの高まりであり、知恵の高まりである。

 瞑想をしながら思索を続けてゆくと、これまで疑問に思っていた回答が与えられたり、予期せぬ気付きが与えられたりすることがあります。私はその気付きや回答を、素早くメモすることにしています。でも不思議なことに、メモったものを後で読んでみると、まるで解らないことがあるのです。なぜそのようなことが起きるかといいますと、瞑想している時はエネルギー(波動)が高められているため理解できるのですが、瞑想していない時はエネルギー(波動)が落ちているため理解できないのです。このことから、エネルギーそのものが知恵そのものであることが解るわけです。エネルギーが知恵そのものなら、エネルギーが高まれば理解力も高まるのは当然でしょう。


                                                 -145-

瞑想ほど大切なものは無く、また瞑想ほど危険なものは無い。

 瞑想は、ご利益を得るためにやるのではありません。真実の自分を発見し、真実の自分を自覚するためにやるのです。神秘力を身につけたい!、幽界と結びつきたい!、健康になりたい!、お金を儲けたい!、など欲望を持ってやる瞑想は、その世界の憑依を受け気を狂わせかねません。

 瞑想をやるなら、一切の欲望を捨てて下さい。悟りたい!、という欲さえ捨てて下さい。ただ一心に、本当の自分に、生命の自分に、意識を集中させることだけ考えやって下さい。なぜ、こうもクドクドいうのかといいますと、私自身大変苦しい体験をしてきたからです。

 今から十数年前の私は、幻に惑わされ発狂寸前でした。その当時の私は、見えないものが見えたり、声なき声が聴こえたりしたのです。何とかしなければならないと思いながらも、そこから抜け出すことができず悩んでいたのです。その悩みを解決してくれたのが、知花先生の科学的瞑想法でした。あれほど見えたり聴こえたりしていた現象が、知花先生の瞑想を始めると、すぐに消えてしまったのです。それはまさに劇的でした。その理由は、波動が上がったためです。それまでの私は、意識を幽界の波動に同調させる間違った瞑想をしていたのです。私の中に、何か神秘力を身に付けたいという不純な思いがあったからなのでしょうが、その不純な思いに同調してくるのがサタン(邪悪な波動)なのです。

 たしかに現象はおもしろいです。色々と不思議な現象を起こしては、私達に興味を持たせます。しかし、これがサタンの付け目なのです。現象に興味を抱くようになると、「本当の自分を知る」という本来の目的から目が逸らされてしまうのです。

 たとえば、世の中には超常現象を見せびらかす人がおりますが、これは黒魔術といって、幽界人に心を売った人達のやる邪悪な技です。また、幽界人の指導を受けているという人もおりますが、迷っているから幽界にいるわけですから、そんな迷っている幽界人の指導を受けても危険こそあれ何一つ得るものは無いのです。

 不思議なことができるから、意識が高いのではありません。生命の自覚の強い人が、意識の高い人なのです。意識の高い人は、不思議な現象を見せびらかすようなことは絶対にしません。ですから超常現象を見せびらかせる宗教の指導者や、祟りの霊の話をする人などにはくれぐれも注意して下さい。現象はすべて幻ですから、決して相手にしないことです。

 これは瞑想そのものについてもいえることです。世の中には色々な瞑想法がありますが、現象を善しとする瞑想は、ことごとくまがいものと思って間違いありません。特に思いを空白にする瞑想は、危険ですから注意して下さい。たしかに、思いを空白にする瞑想は気持ちが良くなり、空の世界に通じているような錯覚が与えられます。でも波動を高めず意識を空白にすれば、邪悪な波動に乗っ取られる危険が大きいのです。

 自分の意識をしっかり保ち、「神に、生命に、霊に、光に、無限に」意識を留める瞑想に危険はありません。なぜなら、一兆八千億ヘルツもの波動を高めてくれるからです。何かが見える瞑想は、波動の低い瞑想ですから直ちに中止して下さい。ぜひ、光だけ見る波動の高い瞑想をして下さい。

 

                                                    -146-

世に貢献したければ、瞑想することである。

 なぜ瞑想すると周囲に良い影響を与えられるかといいますと、私達は宇宙に遍満する本質そのもの、エネルギーそのものだからです。たとえ今どこかに不幸があったとしても、私が瞑想し幸せな気分になれば、本質が光り輝き不幸を軽減してくれるのです。なぜなら、その不幸の中に私がいるからです。私はすべての全てです。その私が光り輝けば、すべてのものに良い影響を与えずにはおかないのです。

 ハルマゲドンとは、闇人間と光人間との戦い自我と真我との戦いです。今地球は闇の思いが強烈に働いておりますが、それはネガティブな思いを持つ人の方が圧倒的に多いからです。もし瞑想によってネガティブな思いを少しでも解消できたら、どんなボランティアよりも地球に貢献したことになるでしょう。目で確かめることはできませんが、私の瞑想が、あなたの瞑想が、不幸を、災いを、軽減していることは間違いないのです。

 世のため、人のため、地球のためになりたいなら、ぜひ瞑想して下さい。瞑想の苦手な人は、「嬉しい!」「楽しい!」「有り難う!」とポジティブな思いを持ち続けて下さい。それだけで、多額の寄付をする人より世に貢献できているのです。

 

                                                    -147-

真理の実践とは生命の自覚を高める瞑想のことである。

 現代宗教では真理の実践を、お経を読んだり、正しい行いをしたり、人助をすることだと教えています。たしかに、正しい行いをすることは大切です。でも、正しい行いをしたら悟れるのでしょうか?。お経を読んだら本当の自分を発見できるのでしょうか?。いいえ、できません。どんなに良いことをしても、どんなに沢山お経を読んでも、本当の自分を発見できなくては何の意味もないのです。

真理の実践の真の意味は、

  本当の自分を発見すること。

  瞑想によって生命の自覚を高めること。

  生命に生きることです。

 瞑想は歩くことなのです。お経を読んだり、良いことをしたりすることは、ただの自己満足に過ぎません。足踏みしているだけで、一歩も前進していないのです。たとえUFOを見ても、幽界人を見ても、どんな現象を見ても、どんな素晴らしい講演を聴いても、生命の自覚が高まらなくては、その人は一歩も前進していないのです。一番大切なのは、外側で何かをすることでも、何かを見たり聴いたりすることでもなく、生命の自分を発見し、生命の自覚を高めることです。それは、瞑想によって自分の心を叩かなくてはできないのです。だから昔から、叩きなさい!、といわれてきたのです。

 さあ瞑想し、生命の自分に目覚めましょう。生命の自覚ができたら、そこに居るだけで、ただ息しているだけで、世に貢献できるのですから・・・。


                                                    -148-

番外編コラム・・・自覚について。

 自覚とは読んで字のごとく、「自ら」に「目覚める」、すなわち、自分が「生命・神」であったことに目覚めるという意味です。ただし、知識的に(頭で)知っただけでは、自覚したとはいえません。心の髄の髄で知って、はじめて自覚したといえるのです。

 今日の伝統仏教も新興宗教も、このことを教えていません。もっとも彼らは、人間が「生命であり神である」ことを信じていないわけですから、教えられるわけがありません。だから今の宗教は、衆生を四苦から解放できないし、この世から争いを無くすこともできないのです。

 そのことはさておいて、では自覚とは、どのような意識状態なのでしょうか?。これは非常に難しい問題です。なぜなら、この世に存在しない「匂いや味」を説明しようがないように、この世に存在しない「自覚」も説明しようがないからです。

 良く医者が病人に、「自覚症状がありますか?」と訊ねることがありますが、この場合の自覚とは、「痛さやだるさ」など肉体感覚のこといっているわけですが、「生命・神」の自覚というのは、見えない心の領域のことをいっているわけですから、これを理解させることは容易ではないのです。長年知花先生の教えを受けた人たちでさえ、「自覚」の意味が理解できていないのですから、一般人に自覚の意味を理解させることは絶無といって良いでしょう。

 どうでしょう。神は見えないのですよ!。生命は見えないのですよ!。見えないものをどう伝えたら良いのでしょうか?。だからお釈迦様もイエス様も、神を喩え話で伝えるしかなかったのです。ここではまず、「自覚」は言葉や文字で伝えることはできない!、ということを知っておいて下さい。


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番外編コラム・・・自覚に至るメカニズム。

 "想念は実現の母!"といわれるように、想念は偉大なことを成し得る力を持っています。それは、想念がエネルギーの増幅器のような働きをしているからです。その想念を利用して「吾神なり!」と想えば、神の波動にまで意識が高められずにはおかないのです。意識が高められるとは、神の自覚が高められるという意味で、これは記憶の蘇りを意味するのです。ただし、「吾神なり!」の想念がどれほど深いか?、どれほど集中して想っているか?、どれほど神の理解力を持って想っているか?、によって自覚の高まり方が違ってくるのです。

 この宇宙には、神の記憶を失った無数の意識核の断片が浮遊しております。それも、薄い薄いオブラートのような意識核の断片です。しかし、どんなに記憶を失った薄い断片であろうと、神意識であることに違いはありませんから、集めて濃縮すれば記憶を蘇らせることができるのです。

 その意識核は、想念を集中させればさせるほど多く集まってきます。それも、理解力の高まりに比例して多く集まってきます。意識核が一定量集まると、自分が神であると思える気付きが起きてきます。さらに意識核が濃縮されると、胸のあたりに思い出せそうで出せない記憶のツッカエが生まれてきます。さらに濃縮されると、そのツッカエがポンと取れ、「ああ、私は神であった!」と本当の自分を思い出すのです。これと良く似ている例えが、手動式ポンプによる井戸水の汲み上げ作業です。

 手動式ポンプで井戸水を汲み上げるには、何度か呼び水を入れてやらねばならないわけですが、その呼び水に当たるのが瞑想なのです。呼び水(瞑想)は、深いところにある井戸水(記憶)を汲み上げる(接触する)ための手段なのです。深いところにある井戸水と呼び水が接触すれば、引っ掛かり(胸のあたりにツッカエ)が生まれます。その引っ掛かりを利用して、勢いよく井戸水(記憶)を汲み出すわけです。一度汲み出すことに成功すれば、あとはいつでも井戸水を汲み出せるように、一度自覚に成功すればいつでも自覚を得ることができるようになるのです。

 これが自覚に至る流れです。

 この自覚に至れば、"自分は神である!、生命である!"と本当に思えるようになるのです。宇宙を闊歩し、何でも創造できる意識状態になるのです。神が最終的に何を意図しているか?、その思いが分かるようになるのです。これは自覚に至った本人しか分からない稀有な意識状態ですから、人に伝えることはできません。私が他力を否定するのは、自覚はあくまでも自分の心の中の出来事だからです。他人の力で、外からの力で、そのような意識状態になることは絶対に無いということです。

 まさに自覚とは、"そうか!、私は神だったのか!"と合点がいった状態なのです。その自覚が生まれれば、心身ともに変性変容が起きると同時に、宇宙そのものになれるのです。個人では理解できない、大きな、無限な、普遍な、意識状態になって、宇宙を自分として生きられるようになるのです。

 

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