(8)体験こそ宝

この世は体験道場である。

 人を諭そうとしても、諭せるものではありません。また、自分も人から諭されるものでもありません。人を諭そうなど、傲慢というものです。では、何が人を諭してくれるのでしょうか?。それは体験です。体験だけが人を諭してくれるのです。特に裏返しの体験は、諭しの効果は大きいでしょう。

 たとえば、

  • 夫が大酒飲みで苦しんでいる妻は、以前自分が大酒飲みで妻を苦しめていた裏返しを体験させられているのです。
  • 強制労働させられている人は、以前怠けて働かなかった代償を今払わされているのです。
  • 不自由な体を持ち苦しんでいる人は、以前人の自由を奪った代償を今払わされているのです。(自ら家族の学びのために犠牲になっている場合もある)
  • 盗まれたこと、殺されたこと、騙されたこと、犯されたこと、すべて裏返しを体験させられているのです。

 人間は、相手に与えた痛みや苦しみをこの身で体験しなければ、犯した罪の重さが分らないのです。だから魂は、わざわざ苦しい環境に身を置くのです。安易に人の苦しみを取ってはならないといわれるのは、そういった理由があるからです。

 間違いに気付き、生き方を正したら、苦しみは去ります。もう体験する必要がなくなったからです。「なぜ、いつまでもこんな苦しみを味あわねばならないのだ!」と人は嘆きますが、魂はその理由をちゃんと知っているのです。だから、「人は苦しんでいるけれど魂は喜んでいる」、といわれるのです。

 

                                                  -171-

苦しめば苦しむほど成長する魂。

 日々戦争や災害や交通事故など、悲惨な報道がなされています。人はそれを見て可哀そうだといいます。でも私は、平然と見ていられるのです。なぜなら、私は苦しみを悪いことだと思っていないからです。

 人を諭せるのは苦しい体験だけです。苦しまなければ、人は過ちに気付かないのです。大病を患った後人が変わったといわれるのも、大きな事故に遭った後生き方が変わったといわれるのも、過ちに気付かされたからです。

  ・人に踏みにじられ、しおれてゆく野の花を見ます。

  ・寒空の下、路上でうづくまっている痩せこけた猫の姿を見ます。

  ・厳寒の朝、裸足で震えている浮浪者の姿を見ます。

  ・骨と皮だけになった幼子が、乳の出ない母親の胸にすがって泣いている姿を見ます。

 神がおられるなら、なぜこのような酷なことを許しているのだろうと思われるかもしれません。でもこれも、厳しい体験を通して魂を成長させる神の計らいなのです。

 体験のみが人を成長させてくれるのです。だから私は可哀そうと思う代わりに、一日も早く目覚めて下さい!、一日も早く気付いて下さい!、一日も早く成長して下さい!、と祈るのです。


                                                   -172-

相対を知って絶対を知る。

 なぜ宇宙に、絶対界と相対界が存在するのでしょうか?。それは、次のような理由からです。

 もし一つしかないなら、その一つの存在をどうして知ることができるでしょうか?。もし自分だけなら、自分の存在をどうして知ることができるでしょうか?。(姿形があるなら、鏡を見て知ることができるかも知れないが、姿形のない自分をどうして知り得ようか?。)

 棒が長いか短いかは、もう一つ棒を持ってきて比べてみなければ分からないのですよ!。速いか遅いかは、二つを競わせてみなければ分からないのですよ!。

 

 ・光の中にいては、光を知ることはできないのです。

 ・闇の中にいては、闇を知ることはできないのです。

 ・幸せの中にいては、幸せを知ることはできないのです。

 ・不幸せの中にいては、不幸せを知ることはできないのです。

 

 何かを知るには、一つだけでは知ることができないのです。何かを判断するには、二つの物を比べて判断するしかないのです。 

 私達は、本物と偽物の勉強、善と悪の勉強、完全と不完全の勉強など、絶対界では学べない貴重な体験を、今相対界においてさせてもらっているのです。

このように、絶対を知るには、相対を通して知るしか無いのです。真実を知るには、非真実を通して知るしか無いのです。だから、不幸を単なる不幸と捕えてはならないのです。


                                                      -173-

体験はことごとく善の塊である。

 今あなたが味わっている苦しみは、あなたが求めた苦しみで、人から与えられた苦しみではありません。すべて自分が引き寄せた苦しみです。自分が望んだのです。自分が欲したのです。それは、その苦しみから学ぶ必要があったからです。

 "どうしていつまでも苦しみから抜け出せないのだ!、"と嘆く人がおりますが、それはまだ課題を克服していないからです。課題が克服できない内は、何度も何度も同じ体験をさせられるのです。苦しみから抜け出したいなら、一日も早く課題を克服することです。苦しみや悲しみは、早く課題を克服しなさいという神様からのメッセージなのです。

 「この世に不必要な体験など無い!」といわれる理由は、体験でしか課題を克服することができないからです。だから体験は、ことごとく善の塊であるといわれるのです。


                                                      -174-

人生を教えてくれるのは体験である。

 人生を教えてくれるのは、人ではありません。体験です。人生を教えましょう!、という人がいたとすれば、その人は傲慢な人です。誰も人生を教えることはできません。自分が自分の人生体験を通して自分に教えるのです。

  一つの痛みは、一段階段を上らせてくれます。

  一つの苦しみは、一段階段を上らせてくれます。

  一つの悲しみは、一段階段を上らせてくれます。

 それは、自分の足で上ったのです。本を読んで、人の話を聞いて、階段を上った人など一人もいないのです。自分の足で上ってこそ、本当に上ったといえるのです。

 不思議なもので、豊富な体験者ほど苦しみや悲しみが少なく、少ない体験者ほど多いのです。なぜでしょう?。それは、体験豊富な者は因果の法に逆らわず生き、少ない者は逆らって生きているからです。つまり体験豊富な者は、それだけ苦しまない方法を多く学び、体験少ない者は学び少なかったということです。これは、人生体験から得た貴重な学びの成果です。

 だから私は、"人生を教えてくれるのは体験である!"と断言できるのです。


                                                  -175-

どんなものも動いている。

 動いているものを動物といい、生きているものを生き物といいます。鉱物も、植物も、動物も、微生物も、人間も、みな生きて動いています。原子さえ振動しています。物質を絶対零度に凍結しても、振動は止まりません。では、なぜ物はみな動いているのでしょうか?。

 動けば必ず出会いがあり体験があります。動くということは、体験できるということです。体験は、魂を成長させる最善の方法なのです。だから、原子も、微生物も、水も、空気も、衛星も、惑星も、恒星も、銀河も、みな動いているのです。

 良く家に閉じこもっている人がおりますが、その人は振動すること(体験すること)を嫌っているのです。これでは大きな成長は望めません。何でも良いのです。外へ出て動くことです。働くことです。体験することです。そうすれば、あなたの人生は価値あるものとなります。それも厳しい体験であればあるほど、実り多い人生となるでしょう。


                                                   -176-

神の国に住む権利。

 今の自分に満足している者は、何も求めようとしません。それは満足心に酔っているからです。能力的にも体力的にも恵まれたアスリートが、大した成績も残せず終わってしまうのは、自分に満足していたからです。満足心に酔っている者は、向上心が芽吹かないのです。芽吹いても少ないのです。それは苦しみが少なかったからです。疑問を持つことが少なかったからです。

 神の国に住む権利は、苦しい体験をした者のみに与えられます。もし神の国の住者になりたかったら、大いに苦い薬を飲んで下さい! 。苦い薬を飲んで沢山疑問を持って下さい! 。その者は、必ず神の国を見るでありましょう。


                                                      -177-

変化は成長である。

 人は全員が全員、自分の波動に合った生き方をしています。その方が楽だからです。しかし、いつまでも同じところで足踏みしていては、成長は望めません。そこで真我なる私は、それを打開しようと環境を変える画策をします。それが変化です。変化は酔生夢死の人生にカツを入れる特効薬なのです。

 その変化は病かも知れません。事故かも知れません。肉親との別れかも知れません。離婚かもしれません。あるいは会社の倒産かも知れません。そこで人は、「なぜこのようなことが起きるのだろうか?」と疑問を持つようになります。疑問は気付きをもたらし、気付きは波動を高めます。波動が高まれば環境が変わります。変わった環境の中で一段上位の体験をします。そして成長します。再び変化が訪れます。気付きます。環境が変わります。新しい体験をします。このようにして私達は、環境の変化と共に少しずつ成長して行くのです。こういえるのも、私が体験者だからです。

 環境の変化は、ステップダウンでは無くステップアップなのです。だから変化がやってきたら、ステップアップできるチャンスだと考え、果敢に挑戦することです。恐れる必要は全くありません。


                                                   -178-

三位(身)一体を体験する。

 固体を扱うのはそう神経を使いませんが、液体を扱う場合は慎重にせねばなりません。固体はこぼしても元に戻すのは簡単ですが、液体はそうはいかないからです。これが気体なら、なお一層の慎重さが要求されるでしょう。

 これは固体・液体・気体によって組み立てられた物質世界だからできる体験で、これを三位(身)一体の体験といい、判断力や、集中力や、忍耐力や、緻密さを養うのに役立ちます。固体を扱う意識と、液体を扱う意識と、気体を扱う意識は、同じ意識ではできないのです。特に気体を扱う場合は、意識を高める必要があります。意識を高めれば、粗雑な世界から精妙な世界へ昇華できるのが宇宙の仕組みですから、この三位(身)一体の体験は、この世でどうしてもやっておかねばならない学習の一つなのです。

 どのような意識を持てばどのような結果を招くか?、どのような意識を使えばどのようなことを成し得るか?、その体験の場がこの地上界というわけです。

 

 ●集中力を養う学び

 ●忍耐と努力を養う学び

 ●精妙な意識を持ち続ける学び

 ●美意識を養う学び

 ●誠を()を打立てる学び

 ●善を全うする学び

 ●完全を見続ける学び

 ●正しい想念を持ち続ける学び等々・・・。

 

 頭を使う体験も、体を使う体験も、感性を磨く体験も、みな意識を高みに押し上げてくれるのです。いや、どんな体験も意識の高揚へつながっているのです。それも低度なものから高度なものへ、幼稚なものから高尚なものへ、厳しいものから穏やかなものへと、学びの要点を変えて行くのです。無駄な体験など一つもないとは、そういう意味なのです。

 

                                                  -179-

体験を恐れてはならない!。

 体験を恐れて何もしない人に成長はありません。憶病風を吹かせ何もしない者に、果実が与えられるわけがないからです。何でも良いのです。やって見ることです。たとえそれが危険なことでも、・・・。なぜなら、それをやるべきかやらざるべきかを見分ける判断の目も、体験を通してこそ養われるからです。正しい判断力は、体験なしには培われないのです。その意味では、無駄な体験など一つも無いことになります。

 神は不必要な体験は用意しません。必要だから、今あなたに用意されたのです。たとえそれが不善と思われる体験であっても、その体験から学んだことは、いつか必ず役に立つのです。歩いてこそ躓くのです。躓けば、その者は必ず何かを拾って起き上がります。躓かなければ何も拾うことはありません。

 といっても、わざわざ嫌な体験をしに行きなさい!、と言っているのではありません。与えられた場合逃げてはなりませんよ!、と言っているのです。

心配いりません。必ず何かを得ます。体験はことごとく善の塊なのですから・・・。


                                                 -180-

無用な体験は避けよう!。

 鉱物も植物も動物も、食べられることに喜びを感じています。特に、自分より上位の者に食べられることを喜びとしています。なぜなら、上位の者に食べられることで、より高次の体験ができるからです。といっても、弱肉強食や共食いは創造主の本意ではありません。進化の追随に、それも必要に迫られた場合のみ許される行為です。野生の生き物が、必要最低限度の殺しや破壊しかしないのはそのためです。人間はどうでしょうか?。

 人間は無用の体験をしようとします。無用の体験とは、遊びや、自己顕示欲や、欲望を満足させるためにやる殺しや破壊のことです。無用な殺しや破壊は、無用な苦しみを生み出すだけで、何の益にもなりません。

 無用とは、不要という意味です。無用な体験は無用(不要)なものですから、できるだけ無用な体験は避けるべきです。それでなくても人間は、無用な争いに首を突っ込みたがるのですから・・・。


                                                     -181-

夢も貴重な体験の一つである。

 今朝方私は、亡くなった娘と夢の中で語り合いました。取り留めのない話ばかりでしたが、二人にとっては楽しい一時でした。また昨夜私は、幽界で母と幸せな一時を過ごしました。どちらも、夢・幻の世界での話です。

 今あなたは大きな仕事を成し遂げ、時の人となっています。今あなたは素晴らしい記録を打ち立て、アスリートの鏡となっています。でもその得た富や名声は、永遠のものでしょうか?。いいえ、一時夢を見ているに過ぎないのです。

この世の出来事も、夢の中の出来事も、幽界での出来事も、みな夢幻の中の出来事です。そこで成し得たことに、何一つ意味は無いのです。だから夢幻を軽んじて良い、といっているのではありません。成し得たことに意味は無くても、夢幻の中での、苦しみ、悲しみ、喜び、感動といった心象、あるいは忍耐、集中、努力、といった体験は、決して夢幻で終わることはないからです。魂にとって、夢幻の中のどんな体験も、みな貴重な学びの糧になっているということです。

 このように神様は、夢幻の中にも成長の種を残してくれているのです。


                                                     -182-

誰もが通る道。

 なぜ幸な人と、不幸せな人がいるのでしょうか?。それは法則を正しく生きた人と、生きなかった人との違いではないでしょうか?。言い換えれば、人生体験を多くした人と、しなかった人との違いです。これは誰が悪いのでもありません。ただ体験不足なだけです。体験不足はその人のせいではありませんから、劣等感を持つ必要はありません。体験を多く積んでゆけば、誰でも幸せの人生を歩むことができるのですから・・・。

 赤ちゃんは、いつまでも赤ちゃんのままではありません。子供は、いつまでも子供のままではありません。少年・少女は、いつまでも少年・少女のままではありません。日々色々な体験を通して大人に成長して行くのです。

 

 ○火傷をして火の扱い方を覚えるのです。

 ○手を切って刃物の扱い方を覚えるのです。

 ○病んで健康の有り難さを知るのです。

 ○傷付いて戦いの愚かさを知るのです。

 

 私達は地球という学習道場で色々なことを体験しながら、少しずつ大人になって行くのです。だから幼いからといって、人を見下してはならないのです。あなただって、昨日までそうだったのですから・・・。


                                                    -183-

体験し、知る、学ぶ。

 幼子は宇宙のルールを知りませんから、欲するままに生きるのも止むえないかもしれません。でも、それを放置していては宇宙の秩序は保たれませんから、神様はある限度を越えた時赤信号を出すようにしたのです。それが痛みであり、苦しみであり、悲しみです。

 「幼子よ!、この世で大いに楽しんで下さい!。でも、足ることを知った上で楽しんで下さい!

 「幼子よ!、この世で大いに楽しんで下さい!。でも、偏らない生き方をした上で楽しんでください!と神様はいわれているのです。

 

  • 赤信号を無視した幼子は、事故を起こします。そこで幼子は、「そうか赤信号は止まれという合図なのだな!?」ということを学びます。
  • 偏った生き方をした幼子は、病気になります。そこで幼子は、「そうか偏った生活をしたら病気になるのだな!?」ということを学びます。
  • 人を殴った幼子は、人に殴り返されます。そこで幼子は、「人を殴れば自分も殴られるのだな!?」ということを学びます。
  • 人を殺めた幼子は、自分も殺されます。そこで幼子は、「人を殺せば自分も殺されるのだな!?」ということを学びます。

 

 私達は、一挙に今のような見識を持つようになったのではありません。気の遠くなる年月をかけ、やっとここまで成長してきたのです。今後も色々な体験を積みながら、成長し続けるでありましょう。


                                                    -184-

悪は無いことを体験する。

 悪を知った者が悪を見るのであって、悪を知らぬ者が悪を見ることはないのです。神様は悪を知らぬがゆえに、神様の目には悪は見えないのです。私達も神様と同じような目を備えねばならないわけですが、そのためには悪の本質を体験的に知る必要があるのです。だから私達は、生身の体を纏ってこの世に生まれてきたのです。

 

 ○苦しみを知って喜びを学ぶ体験

 ○不幸を知って幸せを学ぶ体験

 ○不完全を知って完全を学ぶ体験

 ○悪を知って善を知る体験など・・・。

 

 神様の目に悪が写らないのは、悪と見えるものすべてが善の塊だからです。悪は悪では無く、善ならしめる悪なのです。だから悪は善なのです。このことが心から理解できるようになると、神様のように何を見ても笑っていられるようになるのです。

 生身の体が必要なのは、痛みや苦しみの体験なしに善悪の判断ができないからです。

 

                                                   -185-

体験を通して悟りの道具を磨いている。

 どうして、このような苦しみや悲しみを味わわねばならないのか!?、と人は嘆きます。幼い内は、その苦しみや悲しみの意味が分からないのです。でも、何度か体験している内に意味が解ってきます。これが体験知です。そして、

 ○このような思いを持てば、このようなことが起きる。

 ○あのような思いを持てば、あのようなことが起きる。 

 ○このようなことをしたら、このようなことが起きる。

 ○あのようなことをしたら、あのようなことが起きる。

 その思いと行為の恐ろしさ、素晴しさ、確かさ、を学ぶのです。また愛の峻厳さ、完璧さ、優しさも同時に学ぶでしょう。こうした一つ一つの体験が、最終的に悟りにつながって行くのです。


                                                    -186-

警告すべきか?、すべきでないか!?。

 ある人はこういいます。

 "人は苦しみを通して成長するのだから、苦しむことは良いことだ!"と・・・。

 またこうもいいます。

 "おせっかいな人助けは、人から成長材料を奪うことになるから、安易な人助けはすべきでない!"と・・・。

 たしかに、苦しみは人を成長させるかも知れません。だからといって、みすみす苦しむのが分かっているのに、見て見ぬふりをしていて良いものでしょうか?。今深みにはまろうとしているのに、何もせず見過ごしていて良いものでしょうか?。どんなにおせっかい焼きといわれても、私にはできません。なぜなら、中には聞く耳を持つ者もいるはずだからです。

 幼い魂は耳を貸さなくても、熟した魂は人のいうことを聞く素直さが身に付いているものです。今はただ迷いが濃いため正しい判断ができず、深みに足を向けているだけです。彼らはもう苦しむ必要のない魂です。だから警告してあげるべきです。警告を受け入れるか否かは、本人の自由意志に任せれば良いのですから・・・。

 必要な苦しみは避けて通れないにしても、無用な苦しみはできるだけ避けて通るべきです。私達の苦しむ姿を見て、神様が喜ぶはずがないからです。


                                                   -187-

体験を通して不完全の無いことを知る。

 この世には、様々な苦しみや悲しみがあります。全能の神がおられるなら、なぜこのような不完全があるのだろう?、と疑問に思うのも当然です。

 実は、不完全は完全の証なのです。完全が完全のままでは終結を意味します。終結は止めであり終わりですから、それ以上進展も発展もしません。進展も発展もしない世界は「無」を意味します。それでは宇宙の死です。宇宙が永遠に存続するためには、動き、循環し、進展し、発展していなければならないのです。それは、不完全と完全の循環によってのみ可能です。完全たらしめるためには、不完全との交わりが必要なのです。

 完全は満足している状態です。向上心の無い状態です。思考の停止です。それでは死んでいるのと同じです。死なないためには、

  • 嘆きたくなる不完全が必要なのです。
  • 疑問を持たせる不完全が必要なのです。
  • 向上心を鼓舞する不完全が必要なのです。

 だから不完全は完全なのです。完全たらしめる不完全は完全なのです。私達が肉を持ってこの世に生まれてくる理由は、そのことを知るためです。

つまり、

  • 不完全が何なのか知ればこそ、完全が何なのか知るのです。
  • 不完全を熟知すればこそ、さらなる完全を求めて努力するのです。
  • 不完全の姿を知ればこそ、完全の完全な姿を知るのです。

 神が完全な目を持っているように、私達も完全な目を持つためには、不完全から色々学ぶ必要があるのです。


                                                   -188-

すべてを味方につけよう!。

 人生の幸・不幸は、どのような想念を持つかで決まります。殆どの人は取り越し苦労をしたり、心配ごとをしたりしては心を痛めています。これでは、良い運命が引き寄せられるわけがありません。といっても、過去生の暗い体験が災いとなって、なかなかネガティブな思いから抜け出せないのも事実です。ではどうすれば、ネガティブな思いを捨てることができるのでしょうか?。そのコツは、何でも味方にすることです。  

 もしあなたに何の苦しみも無く、一生平々凡々の日々が続いたら、あなたの人生に一体何の教訓が残るでしょうか?。

  • 野に咲く雑草は踏まれれば踏まれるほど強くなるものです。
  • 傷ついた皮膚はより丈夫になるものです。
  • あんは練れば練るほど艶を出すものです。
  • 鋼は叩けば叩くほど強靭になるものです。私達も苦しめば苦しむほど強くなって行くのです。

 不幸を味方にして下さい。不幸が起きたら、「この不幸は自分を強くするためにわざわざ起きてくれた有り難いことだ!」と、ポジティブに受け取り感謝することです。感謝すれば何でも味方になってくれます。味方にすれば痛みや苦しみは半減します。ポジティブな思いは、光(宇宙エネルギー)を強めてくれるからです。

 自分を憎む人も、悪さをする人も、病気も、事故も、災害も、みな味方にして下さい。

 「あの人がいなかったら強くなれなかった!、彼は私の恩人だ!、有り難いことだ!、」

 「この病気が無かったら気付けなかった!、有り難いことだ! 」

 「この災害(事故)が無かったら、酔生夢死の人生を送っていたかもしれない!、有り難いことだ!」

と感謝できれば、ますます光は強くなるでしょう。もうあなたの人生に、一カケラの暗闇も見当たらないでしょう。

 

                                                      -189-

ボディーは環境である。

 ボディーは、心に最も敏感に反応する環境の一つです。ゆえに、健全な思いを持てば即健康なボディーとなり、不健全な思いを持てば即不健康なボディーとなって現れるのです。要するに、心の動きが最も顕著に現れるのが、肉体という環境なのです

 こんな体験はありませんか?。

 人のアクビを見て自分もしたくなったとか、かなきり音を聞いて背筋がゾーッとしたとか、嫌な匂いを嗅いで胸が悪くなったとか、うまい物を味わって嬉しくなったとか、ヌルーとしたものを触って身震いしたとか、また神経を使い過ぎ胃の調子がおかしくなったとか、怖いものを見て心臓の動悸が激しくなったとか、・・・。このようにボディーという環境は、見て、聞いて、嗅いで、味わって、触って感じたことを正直に表現してくれるのです。勿論、社会も、自然も、地球も、ボディーと同じく敏感に反応する環境です。

 

 ○病気は、肉体環境が発信する危険信号です。

 ○事件や事故や自殺は、社会環境が発信する危険信号です。

 ○生き物の異常行動は、自然環境が発信する危険信号です。

 ○自然災害は、地球環境が発信する危険信号です。

 

 その原因の源は、人間の心です。みな人の心が関係しているのです。


                                                     -190-