(3)生み出した本質が本物である

生み出した本質が本物である。

 何もないところから、ぽっかりと物が生まれることはありません。物が生まれるからには、その物結果を生み出した本質原因が必ずあるのです。形がもう一つの形を生み出すことができ無いように、結果が結果を生み出すことはでき無いからです。原因が結果を生み出すがゆえに、生み出された形は偽物で、生み出した本質が本物なのです。その証拠に、本物である本質は無くなりませんが、偽物である形は必ず消えて無くなります。無くなるのは、実際に無いからです。無くならないのは、実際に有るからです。

 また実際に有るものは、生まれることはありません。実際に無いものが生まれるのです。生まれるということは、死ぬということです。現れるということは、消えるということです。ならば生まれて死ぬもの、現れて消えるものは、すべて幻ということになりませんか?。本当にあるものなら、生まれもしなければ死ぬことも無いからです。だから形ある物はすべて幻で、見えない本質こそ本物といえるのです。

 繰り返します。

 物質は必ず無くなりますので幻です。生命は永遠に無くなりませんので本物です。ゆえに人間は幻で、生命こそ本物といえるのです。

本質から離れた形は無い!。

 形が作られる場合、形から本質が離れて作られることはありません。創られたと創り主である本質(生命)は、絶対不可分なのです。ということは、創られた私達の中に、創り主である本質(生命)が存在していることになります。形があるということは、本質である生命が必ず内在しているということです。ならばすべての物は、生命そのものではありませんか?。

 あれも生命、これも生命、それも生命、みな生命です。あなたが先ほど食べたハンバーグも、蹴飛ばした猫も、罵声を浴びせた店員も、みな生命です。

 そうです。

 私は生命そのものなのです。あなたは生命そのものなのです。万象万物は生命そのものなのです。これは絶対覆せない真理です。私が生命であると平気でいえるのも、本質から離れた形はないからです。つまり、生命から離れた人間はないからです。

見えない本質無くして見える形は無い。

 見えないものを頑なに否定する人がおりますが、見えないものが無くては絶対見えるものはあり得ないのです。

 ・あなたは見えない空気を吸って生きているのではありませんか?。

 ・見えない空気が風車を回し電気を生み出しているのではありませんか?。

 ・見えない空気が火を明々と燃やしているのではありませんか?。

 このように見えないものが無くては、見える物の働きはあり得ないのです。見えないもの、それは本質です。本質があればこそ、形があり、物があるのです。その本質が生きているのです。その本質が働いているのです。その本質がものを考え、工夫し、創造しているのです。その本質を私達は、生命とか、神とか、呼んでいるのです。

 今私達が存在できているのは、生命が私達の中で生きて働いているからです。形が生きることは絶対無い!、物が生きることは絶対無い!、ということを知って下さい。

人間が実在しない理由。パート3

 何かが有るからには、その何かを生み出した本質(素材)が必ずあるはずです。本質が無くては、何も有り得ないからです。

 私達は、建物が有るとか肉体が有るとかと言っていますが、本当に有るのは、それらの物を形作っている材料であり細胞です。もし本当に建物や肉体があるならば、建物や肉体から本質を差し引いても、建物や肉体は残らなくてはなりませんが、本質を差し引いたら、建物も肉体も消えて無くなるのです。消えて無くなるのは、実際には無いからです。だから私は、人間は実在しないというのです。私達は消えて無くなる人間に(形に)"誰々さん!"と名前を付けて呼び合っているだけです。

 このように何かがあるからには、必ず大元である本質があるのです。その大元のことを、私達は本質とか、生命とか、霊とか、神とか、エネルギーとかと呼んでいるのです。

本質を無視して形態は存在しない。

 どんな形も、素材あっての物種です。形があるということは、その背後に必ず素材である本質があるということです。形と本質は絶対不可分といって、切り離すことができないのです。本質が形そのものとなっているわけですから、これは当たり前の話です。

 良く、一つ目とか二つ目とかいわれますが、創られた物もあり創り主もあると見るなら、二つ目になります。創られた物と創り主が同じと見るなら、一つ目になります。

 つまり、

  ○一つのものしか無いのに、二つのものが有ると見るのは迷いの目です

  ○見えないものが本物なのに、見える物を本物と見るのは迷いの目です。

  ○本質が実在なのに、形を実在と見るのは迷いの目です。

 

 二つの物があるのではありません。そこにはただ一つの、見えないもの、本質的なもの、創り主のみが存在するのです。

 宇宙には、本質のみがあるのです。ですから何を見ても本質を見ること、本質を思うこと、本質を感じることです。そう見えたら、思えたら、感じられたら、開眼(一つ目)です。

 宇宙には一つのものしか無い!、すべては一つのものの現れである!、と思えるようになるまで瞑想しましょう。

原子一個の体験も糧になる。

 糧になるのは原子であって、形ではありません。なぜなら、形はただの演技者で、役割が終われば消えてなくなる虚しい存在だからです。でも原子は、表現宇宙を進化させる素材として永遠に受け継がれてゆくものですから、決してなくなることは無いのです。原子は様々な体験を栄養とし、表現宇宙の血や肉になっているのです。原子一個一個の体験が、原子一個一個の進化を促し、さらに表現宇宙の進化を促しているのです。

 その原子一個一個も、最終的には絶対原子の核に取り込まれ、本来の自分に帰って行く運命にあります。本源から出てきたものは、体験を積んで大きく成長し、いつか必ず本源に帰るのです。

 鉱物や植物や動物が、上位の生き物に食べられることを喜ぶのは、原子一個一個が得た糧を、人間にバトンタッチできるからです。彼らがバトンタッチしてくれた貴重な糧を、私達は無駄にしたくないものです。(私達の魂の中に、彼らが得た貴重な糧が蓄積されている。)

復活祭とは?。

 なぜ人間が真実を知ることができないかといえば、人間は実在していないからです。実在しないものが、真実を知ることなどできるわけがないのです。真実を知らないから人間をやっているのですから、そんな無知な者が真実を知ることなどできるわけがないのです。だからいわれるのです。

 「真実を知るには真実そのものとなって知りなさい! 」すなわち、「生命(神)を知るには生命(神)そのものになって知りなさい! 」と・・。

 神を、生命を、心から知るには、自分が神そのもの、生命そのものとなって知るしか無いのです。言葉や文字で知ろうと思っても、それは無駄骨というものです。

 あなたが私を知るには、あなたが私になるしかないのです。あなたが生命を知るには、あなたが生命になるしかないのです。そんな無茶な!?、といわれるかも知れませんが、私達はもともと生命だったのですから、できないことはないのです。今はただ、その記憶を失っているだけです。記憶を呼び戻せば、そく生命に返り咲くことができるのです。

 神は私です。生命は私です。その私が、私(神・生命)のことを知らない方がおかしいのです。だから記憶を取り戻せば、そく神に、そく生命に、復活できるのです。

 「復活祭とは、本来の自分に返り咲いた時にするお祭りのこと・・・すなわち、本当の自分を知った時にするお祭りのことです。」

 キリストの再臨とは、イエス・キリストが再び誕生するという意味ではないのです。本当の自分(神・生命)を自覚した時、再臨したというのです。

 キリストとは、神のことです。生命のことです。だから本当の自分を自覚すれば、誰でもキリストになれるのです。

一番大切なことは?。

 何が一番大切かといえば、本当の自分を知ることほど大切なことはありません。この世の何を知っても、何を成しても、何を手に入れても、自分が何なのかを知らなくては、何の意味もないのです。

 あなたは学校で、アメリカの何代目の大統領は誰であるとか、何代目の天皇は誰であるとか教えられたと思いますが、それがあなたを変えましたか?。たとえ相対性理論を知ったところで、古代遺跡を発見したところで、彗星を発見したところで、あなたが変わらなくては何の意味もないのです。ただ増上慢を一人作るだけです。

 一番大切なのは、自分を変える生命の自覚です。この世の何を知ろうと、何を発見しようと、何を手に入れようと、そんなものはみな偽物ですから、何の偉業にもなりませんが、本当の自分を発見した人は真実を手に入れたのですから、これは大変な偉業です。

 さあ、真実を発見しましょう。そのために人生はあるのですから・・・。

人が人を生むことはない!。

 「私が子供を産んだ!というお母さんがおりますが、人が人を産むことは絶対ありません。もし産んだのなら、子供の悪くなった体の部品を取り換えることができるはずです。

 人間は爪一つ、髪の毛一本作れません。人間を生み出したのは、宇宙生命です。人間は、宇宙生命の理念の具象化したものなのです。つまり理念の主である宇宙生命が、素材を組み立て創った傑作品が人間なのです。

 人体の仕組みの精緻さ、働きの精密さ、能力の偉大さ、これは宇宙生命ならばこそ創れる逸品です。その肉体を私のものというなら、その人は盗みの罪と嘘の罪を犯していることになります。

 人間が生きているのでも、肉体が働いているのでもありません。生きて働いているのは全能の生命です。その生命にすべてを委ねましょう。そうすれば、幸せな人生を送ることができるのですから・・・。

原因と結果についてパート3(因果の法則は神の慈悲)

 原因と結果が一致するのは、壁に頭をぶつけたくらい確かなことです。でも、誰もこのことを深く考えようとしないのです。壁に頭をぶつけた原因に対する結果は、すぐに痛みとなって返ってくるので分かりますが、普段の思いや行いの結果はすぐに返ってこないので、どうしても無視してしまうのです。もし結果が目に見える形でやってくるなら、世に悪人は一人もいなくなるのでしょうが、残念なことに目や肌で感じられないために、どうしても因果の法則を無視してしまうのです。

 因果の法則が信じられないのは、時間的ずれがあるためと、原因に対する結果が歪んだ形で現れるためです。でも、これは神の慈悲なのです。もし結果が一直線に、しかもすぐに現れるなら、私達に救われる暇はありません。時間的ずれがあるから、結果がやってくる前に悔い改め、苦しみを和らげたり回避したりすることができるのです。

 この神の慈悲の有り難さに感謝しましょう。

原因と結果についてパート4

 宇宙の完全性は、「原因と結果は必ず一致する」という因果の法則の絶対性が支えています。今宇宙が存在できているのは、その証といって良いでしょう。もし原因と結果が一致しないなら、宇宙はとうに滅びているはずだからです。

 この宇宙は、絶対宇宙と相対宇宙の対によって成り立っています。絶対宇宙は原因の世界で、相対宇宙は結果の世界です。相対宇宙で起きている出来事は、すべて絶対宇宙で作られた結果なのです。いい替えれば、相対宇宙は絶対宇宙によって映し出された影で、真実ではないのです。

 影が影を生むことはありません。光が影を生むのです。この光原因と影結果の関係は、想念と行為の関係に置換えることができるでしょう。つまり、私達の想念は絶対宇宙に属し、肉体行為は相対宇宙に属するのです。原因である想念は見えませんが、結果である肉体行為は見えます。その見えない想念が始めに動き、後に肉体行為が付いてくるのです。事の起こりの背後にあるのは、すべて想念であるということです。だから心原因のあり方が大切になってくるのです。このことを前提に、この世の出来事を考えてみましょう。

 スポーツにおいて結果が重視されるのは、原因のあり方が勝敗という形で私達の目にはっきりと見えるからです。つまり結果が良いということは、「心・技・体」において相手を上回る原因を作っていたということであり、それは努力のたまものです。スポーツはこの因果関係がはっきり見えるため、原因が修正しやすく、リベンジも適うわけです。

 経済面においても、裕福な人は一生懸命働いた結果であり、貧乏人は怠けて働かなかった結果です。働かざる者食うべからずの諺は、悪い原因を作った者は悪い結果に甘んじなさい!、との誡めの言葉なのです。"いや、私は働きたいけれど、どこも雇ってくれない!"、と言い訳をいう人がおりますが、それは仕事を選んでいるからです。人の嫌がる仕事なら沢山あるのです。

 病気になるのも、偏った生き方をした結果であり、誰のせいでもありません。要するに、幸せな人は幸せになる原因を作った結果であり、不幸せな人は不幸せになる原因を作った結果であって、偶然に幸・不幸になったわけではないということです。

 自然災害は、一見止む得ぬ不幸のように見えますが、これとて人類の不調和な集合意識が生み出した必然的結果であって、偶然に起きたわけではありません。だから、不幸を全員で平等に分け合わねばならないのです。不幸を全員で平等に分け合わねばならないという意味は、一人ひとり応分の原因に見合った結果を、一人ひとり応分に受け取らねばならないという意味です。だから、同じ自然災害にあっても、被害の多い人と少ない人が出てくるのです。

 人の不幸は無知が原因です。つまり、自分が不幸の種を撒きながら、それに気付かない無知が不幸をもたらしているのです。

 ぜひ、このことに気付いて下さい。

この世に悪なるものは、何一つ存在しない。

 この宇宙には、たった一つの生命しか存在しません。その生命は、愛そのものであり完全そのものですから、本来この宇宙に悪なるものがあるはずが無いのです。でも私達の世界には、なぜか悪しきものが存在します。なぜでしょうか?。

 いいえ私達の世界も、愛そのものであり完全そのものなのです。人間の迷いの思いが、悪なるものを生み出しているだけです。こういうことです。

 大調和の意味合いは、陰と陽がほど良く混ざり合った状態を指します。生命はこの表現世界に、相反する物を一対として誕生させたのです。その相反する物の働きが拮抗している時、自然界の調和が保たれているのです。しかし、人間の欲によって均衡が崩されると、陰の働きの方が勝つようになり、人間にとって不都合な事が現象化してくるのです。でもそれは人間とって不都合なだけで、自然界にとってはバランスを保つ上で必要な働きなのです。その働きを、人間は悪と決めつけているのです。

 人間はバイ菌や害虫を毛嫌いしますが、本来はバイ菌も害虫もいないのです。いるのは、調和のとれた一対の菌や虫だけです。人間が調和を崩すから、均衡を保とうと反対の働きをするのであって、彼らは彼らの持ち場でしっかりと役割を果たしているだけです。

 この世に、悪なるものは何一つ存在しません。愛の塊である生命が、どうして悪なる物を作るでしょうか?。人間のご都合主義で、勝手に悪と呼んでいるだけです。だからどんな悪なるものを見ようとも、決して悪感情を持ってはならないのです。悪感情を持つのではなく、なぜそのような姿を見せているのか?、その理由を冷静に考えることが大切なのです。冷静に考えれば、必ずその意味が分かってくるはずです。

一つの本質、一つの光。

 なぜすべての物が私なのかといいますと、一つしかない本質イコール私だからです。私を形作っている本質は、この宇宙に一つしか無いのです。一つしか無い本質が、私の中にも万象万物の中にも生きて働いているわけですから、すべての物が私なのは当然なのです。これは丁度、光と影になぞらえることができるでしょう。

 この世に写し出された様々な影は、一つの光の現れとして存在するのであって、影一つ一つに光一つ一つが有るわけでは無いのです。たった一つの光が、様々な影を写し出しているのです。一つしか無い光が、私を、あなたを、万象万物を写し出しているのですから、私も、あなたも、万象万物も、同じ影なのは当然ではありませんか?。

 同様に、一つしか無い本質が、様々な形を現わしているのですから、そこには一つの物しか無いはずです。名前の違うパンや、クッキーや、ケーキが同じ小麦粉で作られているように・・・。

 「本質」は宇宙に一つしか無いのです。「光」は宇宙に一つしか無いのです。その本質が、その光が、知恵を持ち、力を持ち、生きて働いているのです。様々な形の中で生きて働いている本質は、共有されているのであって、形によって区分されているわけではないのです。共通の本質です。普遍的本質です。だから、すべての物が私であるといえるのです。

四苦の克服とは?。

 どの宗教でも、私達の宗教に帰依したら救われると説きます。でも、人間を認めている宗教に入っても、決して救われることはありません。なぜなら、人間は必ず老い、病み、死ぬものだからです。

 真の意味での生・老・病・死の克服とは、こういうことです。

肉体は時が来れば必ず死にます。しかし生命心・意識・魂は、永遠に生き通しです。私達は肉体を自分だと思い込んでいますが、本当の自分は生命なのです。思い、考え、語り、肉体を操っているのは生命なのです。その生命を自分として生きれば、四苦は克服できるのです。

 どうでしょう?。肉体を自分だと思っている者が、四苦を前に平然としていられますか?。いつも、恐怖し、心配し、怯えていなければならないのではありませんか?。宗教が人を救うことができないのは、死ぬ人間を認めているからです。死ぬ人間を認めて、どうして人を救うことができるでしょうか?。

 人を救うには、死なない自分を知らしめなくてはなりません。すなわち、人間の本性が生命であることを、知らしめなくては救えないのです。それも、心の底から知らしめる必要があるのです。なぜなら、頭で知っただけでは変化は起きないからです。心底から生命の自覚ができてはじめてその心境になり、心身ともに変化が起きるのです。だから、単にキリスト教に帰依したから、仏教に帰依したから、イスラム教に帰依したから、といって四苦を克服できるものではないのです。あくまでも、生命に対する理解力と自覚の強さが鍵になるのです。それは己の意識の問題で、外のいかなる問題でも無いのです。

 確認します。

  本当に有るものは何でしょうか?。肉体ですか?、生命ですか?。肉体の自分をどんなに大切にしても、必ず老いて、病になり、死んでしまいます。でも生命の自分は、決して老いることも、病になることも、死ぬこともありません。ならば、何を大切にしなければならないのでしょうか?。永遠に死なない生命ですね。ではあなたは今、生命に生きておりますか?。死ぬ肉体に生きているのではありませんか?。それでは心が安らぐはずがありません。

 さあ、四苦を克服したかったら、生命を自分として生きましょう。そのためにはまず、本当の自分が生命であることを知ることです。知ったら、生命に対する理解力を高めることです。更に、生命の自覚を強めることです。

 瞑想はそれを可能にする方法です。

人間が実在しない理由。パート4

 人間には花子だとか太郎だとか色々な名前がつけられていますが、それは形を区別するために付けられた固有名詞であって、名前そのものが実在しているわけでは無いのです。本質は一つしかありませんので、形の違う物を同じ本質の名で呼び合っては区別がつかないので、便宜上個別の名前を付けただけです。形の数だけ本質があるなら、形に名前を付ける必要は無かったのでしょうが、本質は一つしかありませんので、そうするしかなかったわけです。でも人間はその固有名詞に惑わされ、あたかも名前が実在するかのような錯覚に陥っているのです。

 例えばコップとは、コップの形をしたガラスです。コップは形に付けられた固有の名詞で、実在するものではありません。実在しているのは、ガラスです。ガラスが形を取ったものに、コップと名前を付けているだけで、実際にあるのはコップでは無くガラスです。コップは名前だけの存在ですから、実在していないのです。しかし私達は、あたかもコップがあるような錯覚に陥っているのです。

同様に人間とは、人間の形をした生命です。実際にあるのは人間ではなく、生命という名の本質です。生命が形を取ったものに、人間と名前を付けているだけで、実際にあるのは人間ではなく生命です。人間は名前だけの存在ですから、実在していないのです。その証拠に、コップを粉々にすれば、誰もコップとは呼びません。人間を分子状に粉々にすれば、誰も人間とは呼びません。もし本当に実在するなら、コップも人間も分析できますが、コップも人間もタダの名前ですから、分析しようがないのです。だから私は、人間は実在しないというのです。

なぜ錯覚がいけないかといいますと、本質に生きないで名前に生きてしまうからです。つまり生命に生きないで、人間に生きてしまうからです。生命に生きれば四苦から解放されるというのに、人間に生きるために四苦に翻弄されてしまうのです。私達は今、実在しない人間に生きながら、本当に生きていると信じているのです。

 

 形が形を生むなら、それは形かもしれません。しかし本質が形を生むのですから、それは本質であるはずです。

本質について。パート2

 では本質のベールを、一つずつ剥がしてみることにしましょう。その実態が分かれば、いかに自分が偉大な存在かも分かるでしょう。

 1、本質は、意識そのものです。意志そのものです。理念そのものです。

 本質には意識と意志があります。ということは、理念があるということです。理念があるということは、計画性があり目的があるということです。その本質で埋め尽くされているのが宇宙ですから、宇宙のどんな動きにも、働きにも、意味があることになります。だから宇宙に偶然はありません。すべてにおいて目的があり、計画性があり、その意志の基に物が造られ、動き、働き、消滅しているのです。

 2、本質は、一にして無限です。

 本質は今絶対界意識界に一点として存在し、同時に相対界物質界・表現世界・現象界に無限として存在しております。相対界に「多」なる物として存在し、絶対界に「一」なる意識として存在しているという意味です。ではなぜ「一」なる意識が、沢山の物質の中に存在できるのでしょうか?。この辺りが非常に理解のしづらいところですが、このように考えて下さい。一つの光が無数の影を作り、その影と光が表裏一体になっていると・・・。

「多」なる物とは原子のことで影を意味します。「一」なるものとは光のことで本質を意味します。光と影は表裏一体、物質と意識は表裏一体、一と無限は表裏一体、本質と原子は表裏一体、だからその原子で造られている私達も、一にして無限の存在なのです。

 3、本質は、永遠です。完全です。

 本質は永遠不滅です。決して無くなることはありません。本質は生まれもしなければ無くなりもしない、アルファーにしてオメガなのです。アルファーにしてオメガなるがゆえに、宇宙は完全なのです。

この宇宙には、不完全な物は一つも無いのです。もし不完全な物が一つでもあるなら、神は完全ではなくなります。不完全があるように見えるのは、人間の目を通して見るからで、遠くを見通せる神の目で見れば、そこに不完全はないのです。どうか神のような、遠くを見通せる目を持って下さい。そうすれば、宇宙の完全性がはっきりと見えるはずです。

 4、本質は、絶対善なる存在です。

 本質は絶対なる性質を持っています。だからその本質で創られている宇宙に、悪なる者がはびこることは無いのです。どんなに悪に見える者も、みな善の塊なのです。なぜなら、本質()は完全だからです。

勧善懲悪は宇宙の性なのです。因果応報がそれを支えています。ゆえに宇宙には、善のみが輝いているのです。

 5、本質は、知恵そのものです。力そのものです。光そのものです。愛そのものです。

 本質は「知恵」そのものです。因果の法則の存在がそれを証明しています。宇宙の法則に齟齬が無いのは、その知恵から生まれたものだからです。だからこの宇宙に、不要な創造も、不要な動きも、不要な働きも、不要な消滅も無いのです。

 また本質は「力」そのものです。宇宙の創造原理は、この力が源となっています。その力は時折偏るうねりを見せますが、それは均衡を保つ運動調整の一環で、最終的には平坦へと運ばれているのです。それを支えているのが、エネルギー均衡の法則です。だからこの宇宙は、常に安定した運航が可能なのです。

「光」は表現宇宙を照らすサーチライトのようなものです。理念そのものが光なのです。その光の放射によって様々な影が生まれ、表現世界に無限の物語が展開されて行くのです。

 「愛」はその光と影をバランス良く結びつける接着剤のような存在です。だから愛あるところに生命体形・結晶が生まれるのです。愛は陰陽のバランスを司る主導的役割を果たしているのです。

 6、本質は、時空を超越しています。

 本質は時空を超越しています。時空を超越しているという意味は、2000年前イエス様の中に宿っていた同じ本質が、今私達の中にも宿っているという意味です。本質は絶対界に属するものですから、そこに時空は存在しないのです。

時空は現象界にのみある姿です。つまり本質が原子の姿を取った時、時空が生まれているのです。私達が時空を感じているのは、その原子によって造られた宇宙を認め、物質を認め、人間を認め、信じているからです。

 さて、本質のベールを一つずつ剥がしてみましたが、お解かりになったでしょうか?。もし自分が本質そのものであると心の底で思えたら、本質の持つ能力が自分のものとなるでしょう。そのためには、自分を含めあらゆる物が本質の現れだと、心の底で思えなければなりません。物を見るのに理解力と実感体験が必要なように、本質を見るにも、理解力と実感体験が必要なのです

本質について。パート3

 ここで見えないもの本質がすべての物を生み出し、すべてのものを牛耳っている証しを立てて見たいと思います。

 

 ○見える物が見える物を生み出しているなら、それは見える物かも知れません。でも、見えないものが見える物を生み出しているのですから、それは見えないものであるはずです。あなたは、見える物から見える物が生まれたのを見たことがありますか?。種も、卵も、赤ちゃんも、どんな物も、見えない処から生まれ出てくるのですよ。

形だけが人間ですか?。もし形だけが人間なら、勝手に口が動くはずです。勝手に手足が動くはずです。でも、口を動かしているのも、手足を動かしているのも、見えない思いなのです。

思いは形ですか?。形は見えない思いによって、動かされ、働かされているのですよ!。だから、形だけを見ては片手落ちになるのです。

 

 ○見える物は、見えないものによって生かされ働かされているのです。その証拠に、力も、知恵も、愛も、見えません。勿論、意識も、意志も、理念も、見えません。その見えない意識や意志や理念が、すべての物を創造し、生かし、動かし、働かしているのです。

 

 ○この世には、運動エネルギーや、位置エネルギーや、熱エネルギーや、バネエネルギーなどのエネルギーが存在しますが、そのエネルギーを見た人は一人もいません。でも目には見えなくても、厳然として存在し役立ってくれているのです。

 

 ○もし見える物が永遠に実在するなら、この宇宙は見える物で埋まってしまい身動きできなくなります。幸いに見える物は消えて無くなるから、この宇宙は安泰なのです。

 

 ○もし見える物が実在するなら、肉体は永遠の命を持っていなければなりません。でも肉体は、必ず消えて無くなってしまいます。それは実在しないからです。

 

 ○もし見える物が実在するなら、自分の先祖や子孫と永遠に顔を突き合わせて暮さねばなりません。また肉体が不滅なら、病み傷つく私達は、永遠に苦しまねばなりません。幸いなことに、見える物はみな消えてなくなるから、私達は安心して生きられるのです。

本質に生きるとは?。

 もし人間が形だけの存在なら、形に生きても仕方が無いかも知れません。でも人間は、形と本質(生命)が一体となった生命体なのです。ならば、どう生きるべきでしょうか?。そうです!、形と生命の両方を意識して生きるべきです。両方を意識して生きるといっても、私達は形を意識し過ぎていますから、もう形を意識する必要はないのです。

 日常生活において、できるだけ生命を意識して生きれば良いのです。

 具体的には、

何を思っていても、何を見ていても、何をやっていても、今生命が思っている!、今生命が見ている!、今生命がやっている!、と思いながら生きることです。肉体の自分が思っている、見ている、やっている、と思ってはなりません。肉体を動かしている生命が思っている、見ている、やっている、と思い生きることです。慣れるまでは大変でしょうが、慣れたら無理なくできるようになります。

 本質に生きるとはこのように、出来うる限り生命を意識して生きることなのです。ぜひ挑戦してみて下さい。

本質について。パート4

 殆どの人は、人間が実在すると思っています。でも人間って、一体どこに実在するのでしょうか?。実在とは、永遠に無くならないもののことを意味しますから、無くなってしまう人間が実在するわけはないのです。

 人間には二つの側面があるのです。一つは形の側面、もう一つは本質の側面です。形は無常なる物ですが、本質は永遠なるものです。私達は無常なる形の側面だけ見て、永遠なる本質の側面を見ていないのです。ということは、名前だけ見て中身を見ていないということです。どうでしょう、名前は実在するものですか?。形に実体が無いように、名前も実体がないのですよ。実体ないものを、どうして分析するのですか?。

 人間を論じ合っている学者達は、実際に無い名前をマナ板の上に乗せ、ああ捌こう!、こう捌こう!と論じ合っているようなものです。実体のない名前を論じ合うなんて、お金の浪費、時間の浪費です。論じ合うなら、実在する本質にしましょう。

 たしかに人間という形は、目を見開き、言葉を語り、手足を動かし、色々なパフォーマンスをします。だから、本当にあるような錯覚を与えるのも無理はありません。でもその人間という形は、一時空中に浮いている雲のような存在なのですよ。雲は実在していますか?。実在しているのは、雲の形をした水蒸気ではありませんか?。人間も実在しているのは、人間の形をした本質ではありませんか?。私達は形に惑わされ、本当の自分を見失っているのです。もし本質が自分だと心の底で思えたら、途端に自分が変わるのです。観念的に変わるのではなく、現実的に、実際的に、変わるのです。つまり、生・老・病・死から解放されるのです。なぜなら本質は、生まれもしない、老いもしない、病にもならない、死にもしないからです。

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