今週の真言集_2017

2017年

1月

01日

● 思索のやりかた

 私は思索をしなさいとよく言いますが、人間の立場から思索しなさいと言っているのではなく、神の立場から思索して欲しいと言っているのです。神は、なぜそのような物をお創りになったのか? なぜそのような物を与えているのか? なぜそこに置いているのか? なぜそのような性質を持たせたのか? なぜそのような動きや働きをするようにしたのか? なぜそのようなことを起きるようにしたのか? なぜそれを見せようとしたのか、なぜそれを体験させようとしたのかなどを、神の立場に立って思索して欲しいのです。その疑問が解け、神の意図、思惑、大意などが解れば、神の高み、厚み、深み、大きさが増し、「吾神なり!」の瞑想がより深くなるのです。

 どうか、神の立場から思索してみてください。人間の立場から思索したのでは、知識で終わってしまいます。

 

※人の道に外れても、神の道に外れてはなりません。人の道は時代と共に変わりますが、神の道は永遠に変わらないからです。これは、人の前で正直でなくても、自分の心の前で正直であったら良い、という考えにも通じると思います。

 

 

 

2017年

1月

08日

● 限定枠を外す

 今日は、「魂は一生の内に三段階成長できる」、という言葉の意味を説明したいと思います。よく参拝一礼とか、万歳三唱とか、三三九度とか、三つ子の魂百までもとか、三の数字の絡む言葉を使いますが、この三という数字は、無限を意味する数字なのです。それは、1を3で割っても割り切れないからです。ということは、「魂は一生の内に三段階成長できる」という意味は、「魂は一生の内に無限に成長できる」と言う意味になるのです。もし皆さんが、「一生の内に三段階までしか成長できない」という意味で受け取っているなら、そんな考え捨ててください。そんな限定的な思いを持っていては、本当に三段階までしか成長できなくなります。私たちは、想念の使い方次第でいくらでも成長できるのです。

 もう一つ注意したいのは、”自分はこんな狭い心を持っているから、こんな悪い性格を持っているから、こんな悪いことをしたから、自覚の境界線を超える資格が無いのでは?” と思わないことです。天使とて地獄に落ちると言われるくらい、この表現世界は厳しいのです。熟した魂であっても目覚める前は、一般人と同じように悪い思いを持つし、悪い言葉を吐くし、悪いことをするのです。私も目覚める前は、人間のクズだったのです。そんな私でも自覚の境界線を超えられたのですから、皆さんが超えられないはずはないのです。悪いことをするのと魂の大きさとは関係ないのです。一度大きくなった魂は、たとえ人殺しをしたって小さくなることはないのです。自覚の境界線を超えられるかどうかは、あくまでも魂の大きさです。理解力の高さです。理解力の高さが自覚の境界線を超えさせるのです。

 自分を成長させるのは、自分の努力でいくらでもできるのですから、限定的思いを持たないことです。

 

 

 

2017年

1月

15日

● 想念の偉大さ!

 私が地球人類に声を大にして言いたのは、想念の偉大さを知って欲しいと言うことです。私たちの一想い一想いの想念が、人生環境を、社会環境を、世界環境を、自然環境を、良くも悪くもしているのです。それは、私たちの想念が、神と寸分も違わない力を持っているからです。

 あなたは、想念を使って車を手に入れたのではありませんか? 想念を使って嫁さんを手に入れたのではありませんか? 想念を使ってお金を手に入れたのではありませんか? いや、病気も、事故災難も、家庭の不和も、人との諍いも、みな自分の想念で作ったのです。私はそんなモノ作った覚えがないと言われるかもしれませんが、あなたの憎しみ・恨み・怒り・心配・恐怖・イライラの想いが遠因となって、そのような不幸を作ったのです。

 神の世界には、何も存在しないのです。何も存在しないのは、神が想念を動かしていないからです。想念を動かさなければ何も生まれないのです。それでは自分の存在がないので、神は想念を動かして表現世界を創り、そこに自分の分身である人間を送られたのです。そのとき持たされたのが、神と寸分も違わない想念だったわけです。ただし、一つだけ神の想念と違う点は、「一時も何も思わないでいられない!」と言う違いです。でもその想念が、私たちを成長させてくれるわけですから、その想念を持たされたことは有り難いことなのです。

 あなたはいつも何を思っていますか? 良いことですか? 悪いことですか?

あなたは良い想念が持てなくて、悩んでいるのではありませんか? 人生の目的は、この想念を正しく使えるようになることなのです。

 もし何も思わなかったら、何一つ苦しみは生まれないでしょう。しかし、喜びも幸せも生まれないでしょう。勿論、私たちの存在もありません。それどころか、一瞬にして表現世界は消えてしまうでしょう。幸いなことに何も思わないでいられないから、私たちも、表現世界も、安泰なのです。それほど私たちの想念は、偉大な力を持っていると言うことです。

 私が想念の偉大さを知って欲しい言うのは、想念の使い方次第で人生をどうにでも変えることができるからです。人生万端想念次第です。何もかも想念次第です。どんな問題も、想念で解決できるのです。どうか、想念の偉大さを知ってください。

 

 

 

2017年

1月

22日

● 見えないモノの実体を知る

 皆さんは、見えないモノを軽んじていますが、見えないモノの実体を知ることはとても大切なことなのです。なぜなら、見えないモノの実体を知れば、幸せに近づくことができるからです。それでは、見えないモノの実体を探ってみましょう。

 なぜ、見えないのでしょうか? それは、波動が精妙で私たちの視覚で捕らえられないからです。反対に見えるモノは、波動が荒いので視覚で捕らえられるのです。私たちが住んでいるこの表現宇宙は、波動の組み合わせによって出来ている摩擦の世界なのです。波動が摩擦を生み出し、その摩擦が見えるモノを生み出すのです。見えるということは摩擦があるという意味であり、見えないということは摩擦がないという意味なのです。ということは、見えるモノの沢山ある世界は、摩擦の多い世界だということです。摩擦のある世界は抵抗があるので、いつか必ず消えて無くなります。つまり摩擦のある世界は、有限の世界なのです。しかし摩擦のない世界は、永遠に無くなりませんから無限の世界なのです。では、摩擦のある世界と摩擦のない世界のどちらが、幸せ多い世界でしょうか? それは、当然、摩擦のない世界です。なぜなら、摩擦のある世界では、次のような厄介事が起きるからです。

抵抗が生まれます。

引っかかりが生まれます。

熱が生まれます。

衝突が起きます。

躓きが起きます。

行き違いが起きます

争いが起きます。

 さらに、

情報が多くなります。

交流が多くなります。

体験が多くなります。

 このように摩擦(凹凸・波動)のある世界では、様々な波風が生まれますので、苦しみが多くなるのです。摩擦がなければ、引っかかりも、衝突も、争いも起きませんので、摩擦のない世界は苦しみがないのです。要するに、悩み苦しみが生まれる世界は不完全で、悩み苦しみが生まれない世界は完全であると言うことです。見えるモノ・一時のモノ・有限のモノは、不完全なのです。見えないモノ・永遠のモノ・無限のモノは、完全なのです。だから私たちは、見えないモノを大切にしなければならないのです。

 では神は、なぜこのような摩擦の多い世界をわざわざ創られたのでしょうか? もうお解りのことと思いますが、摩擦の多い世界では、様々な体験ができるからです。魂は体験を通して大きく育つのです。ですから摩擦の多い世界は、魂の成長のためにはどうしても必要な世界なのです。でも、皆さんのような熟した魂には、もうこのような苦しい世界は必要ありません。さあ、今皆さんが持っている見えるモノと見えないモノの見識を変え、一日も早く摩擦の多い世界から卒業しましょう。

 

※何が幸せをくれるのでしょうか? 物やお金でしょうか? 地位や名誉でしょうか? いいえ、意識です。意識が幸せをくれるのです。なぜなら、意識が幸せを感じるからです。その意識は実在です。ということは、その意識が感じている幸せも実在ということです。幸せだけは、どんな幸せであっても実在なのです。例えば、夢の中で味わっている幸せも、この世で味わっている幸せも、幽界で味わっている幸せも、自覚の境界線を超え節目節目で味わう幸せも、みな実在なのです。実在という意味では、どんな幼い魂が感じている幸せも、どんな高度な魂が感じている幸せも、平等なのです。勿論、幼い魂が味わっている幸せも、高度な魂が味わっている幸せも、比べることができませんから、幸せにおいても平等なのです。このように、実在においても、幸せにおいても、神の公平性は保たれているのです。

 

 

 

2017年

1月

29日

● 神そのものと成って瞑想せよ!

 真理を深めてゆくと、外側のものはすべて幻で、実在しているモノでないことが解ってきます。そうするとその人は、瞑想の時、外側のモノから離れようと意識するようになります。でも、意識すれば意識するほど外側のモノが気になり、いつまでたっても外側のモノから離れられません。

 外側のモノを意識している状態は、実際に無い幻のモノを作っている状態なのです。つまり、肉体を意識している状態は、実際に無い幻の肉体を作っている状態なのです。なぜなら、意識は何でも作ってしまうからです。とはいっても、五感がある限り、どうしても肉体を意識してしまいます。ではどうすれば、肉体から意識を離すことができるのか?・・・それは、意識を内側の一点に集中させることです。

 私たちが五感で感じているモノは、すべて外側の幻です。その外側の幻で、一番近くにあるのが自分の肉体です。私たちは、その肉体をいつも意識で感じているのです。意識で感じているわけですから、意識を肉体から離せば肉体は消えてしまうはずです。では意識を肉体から離すには、どうすればいいのでしょうか? 一番簡単な方法は、背中の奥の奥の一点に意識を置くことです。背中の奥の奥の一点に意識を置くと、次第に外側のモノが消え、肉体感覚さえもなくなります。どうしてそのようなことが起きるかといいますと、実在しないモノは意識しなければ消えて無くなる仕組みになっているからです。外側のモノは、一時描かれた絵のようなモノですから、意識しなければ消えてしまうのです。でも実在しているモノは、意識しなくても消えないのです。意識そのものが、実在そのものだからです。

 私たちは、外側のモノが実在していると誤解しているのです。それは、五感があるためです。五感が、実在しているような誤解を生んでいるのです。実在しているのは、自分の意識だけです。その実在している意識に意識を集中するのが、瞑想なのです。意識が意識を意識するのです。意識が意識を瞑想するのです。意識そのものが、神だからです。だから、神が神を意識するのです。神が神を瞑想するのです。このことを知花先生は、次のようにおっしゃっておられました。「神を礼拝するには己が神そのものと成って礼拝せよ!」と・・・。つまり、「自分が神そのものに成って神を瞑想しなさい!」というわけです。

 

※ 瞑想は想念力に頼っています。想念は、何でも実現させる力を持っているからです。その想念の力を、瞑想に利用しているだけです。だから、想えば良いのです。ただ、それだけです。

 

 

 

2017年

2月

04日

● 意識は幸せがあればいい!

 人が何を言おうが、自分が楽しければいいのです。こう言うと、“エゴイストだ!” と思うかも知れませんが、真理を深く知った人なら、私の言っていることが解って頂けると思います。

 私たちは、意識そのものなのです。その意識は、宇宙に一つしかありません。一つしか無いということは、私たちは宇宙そのものであるということです。ではその意識は、何を欲しているのでしょうか? 物でしょうか? お金でしょうか? 地位や名誉や権力でしょうか? いいえ、自分の心が、   

平安になること!・・・

楽しくなること!・・・

愉快になること!・・・

嬉しくなること!・・・

爽快になること!・・・

 すなわち、幸せになることを欲しているのです。

 世の人々は、躍起になってこの世のモノを追いかけていますが、それは幸せを得る一つの方便であって、そんなモノが無くても幸せになれるのです。なぜなら、幸せは、肉体が感じるのではなく、意識が感じるからです。

 意識は実在しています。幸せも実在しています。ですから、実在している意識は、実在している幸せを欲するのです。その幸せは、誰かが与えてくれるのでも、何かが与えてくれるのでもありません。自分が自分に与えるのです。では、どのように自分に与えるのでしょうか? それは、自分が意識そのものであると心の底で知った時、自動的に与えられるのです。どうか、自分が意識であることを心の底で知ってください。知ればその幸福感は、全宇宙に波及して行きます。それは前述したように、宇宙そのものが私たちだからです。

 よく考えてみてください! あなたは何が欲しいのですか? 幸せだけが、欲しいのではありませんか? その幸せは、外から得られますか? 何かモノから得られますか? 誰かから得られますか? 何も、誰も、与えてくれないのです。あなたが、"自分をどう思うか" で与えられるのです。

 繰り返します。あなたは、意識そのものなのです。その意識は、楽しいことが好きなのです。嬉しいことが好きなのです。つまり、幸せが好きなのです。

 

※ 肉体は、あなたではありません。意識があなたです。肉体は、意識の乗り物です。

 意識は、いつか必ず肉体から降りるのです。その意識が持って帰れるのは、幸せだけです。

 

 

 

2017年

2月

12日

● 実在するモノとは?

 見えるモノは非実在です。見えないモノは実在です。見えるモノは、表面だけの(中身のない)モノですから非実在なのです。しかし見えないモノは、奥の深い(中身のある)モノですから実在なのです。

  • 見える状態は、観えない状態なのです。
  • 見えない状態は、観える状態なのです。

 また見えるモノは、何の発展性も何の可能性もない死に絵です。見えないモノは、無限の発展性と無限の可能性のある生き絵です。その意味では、人間は見えるモノですから死絵なのです。神は観えないモノですから生き絵なのです。だから人間は非実在で、神は実在だというわけです。ただし、人間の中に宿っている意識は実在します。人間の形は殻ですから非実在ですが、その中に宿っている意識は中身ですから実在するのです。

 私が「人間は神である!」と断言するのは、人間の中に宿っている意識は神だからです。形は結果です。意識は原因です。原因と結果は切り離すことが出来ませんから、神は人間であり人間は神であると言うことになるわけです。「人間は神である!」こんな確かなことを、どうして人間は信じようとしないのでしょうか? 

 

※ 幸せや善は実在しますが、不幸や悪は実在しません。なぜなら、実在しない人間が作った不幸や悪だからです。でも、幸せや善は実在するのです。それは、実在する神が創った幸せや善だからです。

 

 

 

2017年

2月

19日

● 宇宙は単純に出来ている!

 宇宙は、単純に出来ています。子供でも解るように易しく創られているのが宇宙なのです。その証拠に神は、一番必要なモノほど私たちの身近に置いてくれています。例えば、空気・水・土・労働力の順で、身近に置いてくれています。また肉体は、それよりも近くに置いてくれています。更に近いのは魂です。そして、その魂が発信する想念です。この想念が人生を作っているわけですから、最も身近な存在と言えるでしょう。その想念が、幸せをくれるのです。しかし世の人々は、外に出てお金を稼ぎ、外から幸せを買おうとしています。それは、幸せが何処にあるのか知らないからです。神が、一番必要なモノを身近に置いてくれているように、幸せも一番身近なところに置いてくれているのです。それも、お金もいらず、何処へ行く必要もなく、「ただ、神を想うだけで良い!」と言う簡単な方法で・・・。

 難しく考えないでください。今あなたがやらねばならない事は、

  1. 肉体を維持するために必要な事を真心を込めてやる事です。
  2. 神を想う瞑想をする事です。

 この二つをやっていれば、あなたは幸せになれます。これは、今日まで自分の想念によって人生を作ってきた実績が証明しているのですから間違いないのです。

 

  • 肯定的な想念を持つようにしよう!
  • 肯定的な言葉を使うようにしよう!
  • 行動的な人になろう!
  • 明るいところの好きな人になろう!
  • どんなことも良く受け取るようにしよう!

 

 

 

2017年

2月

26日

● 自分を責めてはならない!

 悪い思いを持つ自分を責める人がおりますが、自分を責めてはなりません。なぜなら、たとえ悪い思いを持ったとしても、それは今の原子核の量によって思ったことですから、それは必然であり、良いことだからです。事実その人は、悪い思いを持つことによって痛い目にあい、成長してきたではありませんか? ということは、その思いは良い思いだったと言うことです。私が “あなたの選択した人生の道は、みな良い道なのですよ!” と言うのも、今のあなたの原子核の量で選んだ必然の道だからです。たとえ、その道が苦しい道であったにしても、苦しみが成長を促すのですから、それは悪い道では無かったと言うことです。悪い必然など無いのです。必然は、みな良いことなのです。必然は、成長を促す法則だからです。

 “私は容姿も醜く、こんな性格で、こんな欠点を持っている何もできない人間です!” と自分を責める人も同じです。たとえ、どんなに醜く、能力的に劣っていても、その肉体環境は、魂を成長させるために与えられた必然の環境ですから、自分を卑下してならないし、惨めになってもならないし、責めてもならないのです。私たちは、失敗の中から学び、苦しみの中から強くなり、悪い環境の中から、美しい花を咲かせるのです。そう思えれば、どんな人にも、どんなモノにも、どんな環境にも、また自分にも、感謝できるでしょう。

 

※なぜ、必然は良いことか? それは、必然は完全から生まれてくるからです。もし必然が悪いことなら、神は不完全な宇宙を創ったことになり、神は不完全になってしまいます。そんな神がいるわけないのですから、必然はどこまでも完全で良いことなのです。

 

 

 

2017年

3月

05日

● なぜ私は(自分は)、存在しなければならないのですか?

 「なぜ私(自分)は、存在しなければならないのですか? 何も、私が存在しなくても良かったはずです。誰が、私を存在させてくれと頼んだのですか? 私はそんなこと頼んだ覚えもないし、お願いした覚えもないのに、どうして私が存在しなければならないのですか? 存在しなければならない義務でもあるのですか? この宇宙に私がいなくても、何の問題もないはずです。なのに今私は、存在させられています。いや、気が付いたら存在していたのです。そのために、苦しい人生を送らなければならない、こんな理不尽な押し付けないのではありませんか? 」と、あなたは文句を言うかも知れません。そうですよね。自分が存在していなければ、何の苦しみも悲しみも体験しないで済んだのですからね。でも、良く考えてみてください。もしあなたがいなかったら、この宇宙がありますか? あなたがいるから、宇宙があるのですよ! それはあなたが宇宙の創造主だからです。あなたがいなければ、何も始まらないし、何も生まれないのです。これは、今始まったわけではないのです。永遠の昔からそうだったのです。宇宙は永遠に存在していたわけですから、あなたも永遠に存在していたのです。ということは、あなたそのものが、宇宙そのものであるという意味です。このことは、あなたのような熟した魂なら解るはずです。

 私も真理を噛じり始めの頃、あなたと同じ疑問を持ちました。自分を存在させてくれるなど、お節介だと・・・自分の意識がなかったら、何も苦しまないで済んだのにと・・・。ですから私は、「自分の意識を無くしてください!」と神様に頼んだ時期があったのです。でも、「お前がいなかったら宇宙は存在できないではないか、宇宙はお前で、お前が宇宙なのだから!・・・」との神様からの返答でした。それで私は、意識の無くなることを諦めたのです。

 意識は絶対無くすことができないのです。これだけは、神様の勝手な押し付けだと言ったって、どうしようもないことなのです。あなたは、自分の意識の無くなった後の事を考えられますか? 絶対、考えられないはずです。これはあなたの意識が、意識の当体であり、意識の源であり、意識の大元だからです。すなわち、原因無き原因者だからです。あなたの意識が、あなたの意識を生み出したのです。この宇宙に、あなたしかいないからです。絶対無くならない意識なら、どうすれば良いのですか? 幸せの中に入るしか無いではありませんか・・・。そうです。苦しみたくなかったら、幸せの中に自分の意識を留めるしかないのです。その留める方法が、神の自覚に入ることなのです。

 

注意・・この「私は」肉体の私ではなく、意識の私のことを言っているのです。誤解のないように・・・。

 

 

 

2017年

3月

12日

● 神を想い続けていれば、どんな問題も解決する

 「吾神なり!」を想い続けていれば、どんな問題も解決するのです。「ありがとう!」を想い続けていれば、幸せになれるのと同じです。なぜなら、「吾神なり! ありがとう!」を想いながら、同時に悪い想いを持てないからです。問題を解決する、こんな簡単な方法があったのです。皆さんは、難しく考え過ぎなのです。何か難しいことをしなければ、問題が解決しないと思っているのです。

 人生は、想念次第でどうにでもなるのです。良く考えてみてください。今まで何が人生を作ってきたと思いますか? 肉親ですか? 隣人ですか? 学校ですか? 会社ですか? お金ですか? 地位や名誉ですか? 社会ですか? 国ですか? ・・・。 すべて自分の想念が、作ってきたのではありませんか?  旅行に行きたいと想い、旅行に行ったはずです。自動車が欲しいと想い、自動車を手に入れたはずです。嫁さんが欲しいと想い、嫁さんを手に入れたはずです。すべて自分の想念の成果です。モノだけではありません。病気も、事故も、自然災害も、みな自分の想念が作ったのです。あなたは、“私はそんな不幸など作った覚えがない!”と言うかも知れませんが、あなたの憎しみの想いや、恨みの想いや、怒りの想いや、心配・恐怖・イライラなどの想いが遠因となって作られたのです。想念は、何でも作るのです。それは、神と同じ想念を持っているからです。自分の想念で不幸を作ったのであれば、幸せも自分の想念で作れるはずです。それは良い想念を持てば、すべて問題解決するという意味なのです。

 良い思いの一番は、神を想うことです。神を想っていれば、あなたの人生は間違いなく良い方向へ変わって行きます。それは、神を想っている時は、悪想念を持てないからです。「ありがとう!」の思いは、確かに波動の良い思いですが、でも「ありがとう!」を思っている時は、悪い想いが持てないというだけで、何かを作るわけではないのです。しかし「神を想い続けていれば」、

  • 原子核を増やすことができるのです。
  • 地球を浄化することができるのです。
  • 自分の欠点を無くすことができるのです。

 どうか、想念を有効に使ってください。あなたの人生は、想念次第なのですから・・・。

 

※思ったことは必ず実現する。思わないことは絶対実現しない。この意味の深さを噛み締めてください。

 

 

 

2017年

3月

19日

● 真理の目から見た人助け

 世の中には、ボランティアーをやったり、寄付をしたりして人助けしている人たちが大勢おりますが、心から“人助けしたい!”と思ってやっている人が、どれほどいるでしょうか? つまり、純粋な動機で人助けしている人が、どれほどいるでしょうか? そこに、何らかの成算が入っていないでしょうか? 例えば、人に良く見られたいとか、犯した罪の償いのためにとか、生きがいのためにとか、(心の空白を埋めたいため)自分の名を知らしめたいとか、自己満足のためとか、・・・。 殆どの人は、自己満足のためにやっているのではないでしょうか? 私はこれを批判するつもりはありませんが、「安易な人助けは罪になる!」ということだけは、心に留めていて欲しいと思います。では、なぜ安易な人助けは罪になるのか、真理の目から考えてみましょう。

 人助けする場合、本当にその人のためになっているか? よく考えてせねばなりません。近年では、災害が起きると各地から被災地に沢山の救援物資が送られてきます。時にはあまり多すぎて、処分に困るほどです。勿論、被災地の人たちは喜んでおりますが、本当に被災人の為になっているのでしょうか? このように言うのは、あまりやり過ぎると、自力で立ち直る意欲を奪いかねないからです。たしかに、切羽詰まっている場合は、助けてやらねばならないでしょう。でも、どの程度まで助けてあげるか?、見極めが大切なのです。

 なぜ、苦しいことが起きるのでしょうか? 自分が苦しい原因を作っていからではありませんか? 事件や事故や自然災害の苦しみも、病気の苦しみも、貧困による苦しみも、みな自分が原因を作っていたから起きたのです。なのに、安易に苦しみを取っては、そのことに気付かないではありませんか? それでは、成長が望めません。だから、安易な人助けは罪だと言うのです。では、マザーテレサのやっていた人助けは悪かったことか? ということになるわけですが、どんなに動機が良くても、人の成長を考えず人助けしていたなら、それは良いとは言えないでしょう。ただし、こういうことは言えます。

 たとえば不純な動機で人助けしたとしても、それは助けた人の今の原子核の量において助けたいと思ってした必然ですから、それは良いことなのです。助けられた人から見たら、どんなに安易な助けられ方であっても、助けられるべきにして助けられた必然だからです。助けられるべきにして助けられた必然には、ちゃんとした意味があり、また安易な助けられ方の中にも、ちゃんとした意味があるのです。それは、どんな助けられ方の中にも、ある部分を成長させる材料が含まれているからです。

 世の中にはなぜ、助けられる人と助けられない人がいると思いますか? それは、その背後に原因と結果の法則が働いているからではありませんか? 助けられた人は、助けてくれる人に出会ったのも必然、助けられる環境にいたことも必然、助けられる時代に生まれてきたことも必然です。一方助けられなかった人も、助けてくれる人に出会えなかったのも必然、助けられない環境にいたことも必然、助けられない時代に生まれてきたことも必然です。マザーテレサは、今の自分の原子核の量(魂の熟成度)によって人助けしたいと思って人助けしたわけですから、それは必然的行為として良いことであり、それによって助けられた人も、助けられるべきにして助けられた必然ですから、それは良かったのです。必然は、みな良いことなのです。

 必然によって運ばれている宇宙に、悪い人助けなど無いのです。とは言え、原因と結果の法則を無視した人助けは、できるだけ避けるべきでしょう。動機が大切なのは、法則を犯さないためです。人助けするなら、相手の成長を考え、やり過ぎない配慮のもとにやりたいものです。

 

※ 安易な人助けは、罪になると言う話は、安易に病苦を取っては成長の妨げになると言う話に通じています。簡単に病気を治したのでは、その人から成長材料を奪ってしまうからです。またこれは、人にお節介を焼く事とも通じている話なのです。世の人々は、良かれと思ってお節介を焼くのでしょうが、お節介を焼くことで人から成長材料を奪っている場合が往々にしてあるのです。

 お節介焼きの心理状態は、自分がお節介を焼いて欲しいからです。これは、人に教えたがる人の心理状態と似ています。自分の中に教えて欲しい思いがあるから、人に教えようとするのです。これは人を頼る癖をつけてしまい、良いこととは言えません。何ごとも、努力して、厳しいことをして、成長してゆかねばなりません。その意味では、厳しいことをさせてやることが愛です。努力させてやることが愛です。いらぬ手助けは、人を堕落させます。たとえどんなに動機が良くても、やり過ぎは成長の妨になるわけですから、中庸を見極め助けてやることが大切です。その中庸の見極めも、魂の熟成度によって違うわけですから、助け方もみな違ってくるということです。

 

 

 

2017年

3月

26日

● 補完し合う仕組み

 奇数と偶数があります。この二つの数字は交互に置かれていますが、これは補完し合うためです。この宇宙は、相反するモノが補完し合いながら成長してゆくようにできているのです。

  • 相対宇宙と絶対宇宙
  • 人間と神
  • 見えるモノと見えないモノ
  • 陰と陽
  • 影と光
  • 女と男
  • 体と心
  • 自我と真我
  • 偽と真
  • 悪と善
  • 醜と美

 熟語として普通は、左側に「善・悪」の「善」とか「美・醜」の「美」とか「幸・不幸」の「幸」と言った良い意味の字を置くのに、なぜここでは左側に悪い意味の字を置いたかと言いますと、左側は実際に無いモノで右側は実際に有るモノだからです。左側の世界(陰の世界・物質の世界)は、実際に無い世界なのです。右側の世界(陽の世界・意識の世界)は、実際に有る世界なのです。 物質の世界は、一時存在しているニセモノで、意識の世界は永遠に存在しているホンモノなのです。だからと言って、物質の世界を軽んじるわけにはゆきません。なぜなら、物質の世界が無くては、意識の世界の存在意味が無いからです。その意味では、物質の世界と意識の世界は、同等の価値があると言っていいでしょう。

 物質の世界と意識の世界は、互いに補完し合いながら存在価値を高め合っているのです。しかし、物質には何の力もありません。ですからホンモノを存在させるために、ホンモノがニセモノを装っ活躍しているのです。つまり、神を存在させるために、神が人間を装って活躍しているのです。

 二つは一つであり一つは二つでなくては一つになれないと言う、何とも不思議な関係にあるのが、物質宇宙(相対宇宙)と意識宇宙(絶対宇宙)の関係なのです。つまり、人間と神が補完し合いながら存在を保っている不思議な関係にあるのが、物質宇宙と意識宇宙のなのです。

 

 

 

2017年

4月

02日

● 真理を学んでいるから、自覚の境界線が超えられるのではない!!

 学びの友の中に、真理を学んでいれば自覚の境界線が超えられると勘違いしている人がおりますが、真理が自覚の境界線を超えさせてくれるのではありません。真理を実践することによって、自覚の境界線が超えられるのです。真理は、あくまでも道理を示しているだけです。実践の伴わない真理は、単なる絵に書いたボタモチです。それは、毎週 日曜日 キリスト教会に行って賛美歌を歌っているようなものです。私の本を読んで私の話を聴いて満足しているのは、賛美歌を歌って満足しているようなものなのです。 

 真理の実践とは、原子核を増やす三つの方法のことを言っているのです。つまり、社会体験をすること、瞑想をすること、思索をすることです。

  • 社会体験している時は、心身を動かしているので実践になっているのです。
  • 瞑想をしている時は、想念を動かしているので実践になっているのです。 
  • 思索している時も、想念を動かしているので実践になっているのです。

 この三つの方法は、実際にエネルギーを動かしているわけですから、間違いなく前に進むのです。

 歩くから景色が変わるのです。座っていては、景色は変わらないのです。景色が変わらないということは、成長しないということです。あくまでも自力です。自力で成してこそ、扉が開かれるのです。私は努力の大切さを言っているのです。何かを成し遂げるには、努力が必要なのです。

 くどいようですが、繰り返し言います。真理が自覚の境界線を超えさせてくれるのではありません。真理を実践することによって、自覚の境界線が超えられるのです。くれぐれも誤解なきように・・・。

 

 ※

瞑想できる有り難さ!

瞑想できる幸せさ! 

瞑想できるところまで進化してきた自分を、どうか褒めてやってください!

私たちは、本当に幸せなのですから・・・。

 

 

 

2017年

4月

09日

● 1を知れば10を知る!?

 1を知れば10を知ると言われますが、そんな半端なものではありません。 1を知れば無限数を知ることができるのです。なぜなら、無限数は1の分化したものだからです。この宇宙には、1から分かれた無限数の原子番号が有るのです。つまり、元数1から分かれた無限の分数が有るのです。無限の分数は、元数1から分かれたものですから、分数の一つを知っただけでも元数1を知ることができるのです。

 今この地球では、百十数個の元素が発見されていますが、宇宙には無限に近い数の元素があるのです。その一つ一つの元素は、元数1から出てきた同じ仲間ですから、一つの元素を知れば元数1の正体が解るのです。鉱物・植物・動物・人間は、その元素の組み合わせによって作られたモノですから、鉱物を知っても、植物を知っても、動物を知っても、人間を知っても、元数1の正体を知ることが出来るのできるのです。

 今 科学者は、見えないモノに様々な名前をつけておりますが、どんな名前をつけても出処は1ですから、その本性はみな同じ元数1、つまり神なのです。どうか名前に惑わされないでください。どんなモノも、元数1から出てきた同じ神の子なのですから・・・。

 この宇宙に神でないものは無いのです。どうか、全ての兄弟姉妹を愛してください。あなと同じ神の子なのですから・・・。すなわち、自分なのですから・・・。

 

※ 1が二つも三つもあっては無限でなくなります。一つしか無いから無限なのです。無限が二つも三つもあっては無限でなくなります。一つしか無いから無限なのです。だから1は無限であり、無限は1なのです。つまり、どんな数も1であり、無限なのです。これが、私が1であり無限であると言える根拠です。

 

 

 

2017年

4月

16日

● 真理の奥深さ!!

 ある人は言います。「真理を知れば知るほど自覚の境界線が遠のく」と・・・。そうなのです。この宇宙は、探っても探っても届かないほど奥が深いのです。それは、宇宙は無限だからです。無限をどうして知ることができましょうか? 

 あなたは、「これ以上無い幸せな意識体験をした!」と思うかも知れません。でもそれは、ほんの一端の体験です。なぜなら、宇宙は無限だからです。私が、「人は永遠に悟ることができない!」と言うのは、宇宙は、神は、本当の自分は、無限だからです。どこまで探っていっても掴めないのが、宇宙なのです。神なのです。本当の自分なのです。ですから、「私は悟った!」と言わないでください。どんな覚者も永遠に悟れない真理なのですから・・・。

 宇宙の奥深さを知った者は、

  • 謙虚になります。頭の低い者になります。
  • 自分の成長を唯一の目的とします。
  • 内側に多く意識を向けるようになります。(瞑想を多くするようになる)

 それは、主観宇宙の確信を得たからです。つまり、自己完結型宇宙の確信を得たからです。でも宇宙の奥深さを知らない者は、

  • 自負します。高慢になります。
  • 人の成長や世界の平和を望みます。
  • 外側に多く意識を向けるようになります。(あまり瞑想をしない)

 それは、まだ主観宇宙の意味を知らないからです。つまり、自己完結型宇宙の意味を知らないからです。だからと言って、その人を批判してはなりません。なぜなら、その人の原子核の量によって思った事ですから、それは必然だからです。

 一挙に成長する者などいないのです。少しずつ少しずつ成長するのです。私もそうだったのです。あなたもそうだったのです。その人もそうなのです。ですから、温かい目で見守ってやりましょう。

 

注意・・ 学び始めの頃は、誰もが「明日にでも自覚の境界線が超えられる!」と思うものです。でも学びが深まれば、簡単でないことが分かってきます。それは、学べば学ぶほど真理の奥深さが観えてくるからです。だからと言って、諦めないでください。なぜなら、風呂桶にどれくらいお湯が溜まっているかは、誰も分からないからです。明日 百本目の刀が得られるかも知れないのですよ! ですから、希望を持って真理を学び続けましょう。

 

 

 

2017年

4月

23日

● 人はどうして拘るのか?

 人間は、時間に拘ったり、年齢に拘ったり、性別にな拘ったり、職業に拘ったり、慣習や風習に拘るなど、沢山の拘りを持ちます。拘れば拘るほど自分を窮屈にするのに、人はどうして拘りを持つのでしょうか?

 「人間の一番不可思議なところは、拘りを持つことである」とある覚者は言っていますが、これは自我人間の特徴の一つで、他の生き物にはない部分です。では、一体この拘りはどこから来るのでしょうか?

人に負けたくない、競争欲から来るのでしょうか? 

自分を良く見せたい、自分を誇示したい、自己顕示欲から来るのでしょうか?

自分の身を守りたい、自己保存欲から来るのでしょうか?

 自分の身を守る自己保存欲の拘りは仕方がないとしても、慣習や風習など他の拘りは、うまく立ち回れば、あるいは人の目を気にしなければ、拘らなくても良い拘りです。では人間は、なぜ拘りを持つのでしょうか?

 それは、心が満たされていないためです。心が満たされていないと、空白を埋める何かを探そうとするのです。でも、その空白を埋めてくれるモノが何か解らないのです。だから、じれったいのです。歯がゆいのです。もどかしいのです。その鬱憤を、拘りで晴らそうとするのです。

 真理を学び自分の本性を知った者は、拘りを持つことが少なくなります。それは、心の空白が埋まったからです。ですから覚者は、一切拘りを持たないのです。

 

※拘りは囚われであり、自己保存欲の一つです。そんな拘りに囚われては、自分を不自由にします。どうか拘りを捨ててください。この世の拘り事など、実際には無いのですから・・・。

 

 

 

2017年

4月

30日

● 瞑想の仕組み

 瞑想の仕組みの根底にあるのは、私たちが持っている想念です。この想念は、神の意識から生まれたモノですから、神と同じ創造力が付与されているのです。「想念は実現の母」と言われるのも、想念したことは何でも実現するからです。その想念の力を利用して成し遂げようというのが、瞑想なのです。

 私たちは、常に何かを思っています。私たちは、何も思えないでいられないようにできているのです。と言うことは、常に瞑想していると言うことです。瞑想とは、想うことなのです。何か想っている時は、瞑想していることになるのです。と言うことは、この世界で瞑想していない人は一人もいないと言うことです。皆さんは、毎秒 毎秒 瞑想しているのです。ただ私たちは、そのことに気付いていないだけです。

 今の今だけが実在です。その今の今を感じられるのは、私たちの意識です。意識が想念を生み出し、その想念が物事を成就させているのですから、私たちはその想念を使って今日まで人生を作ってきたのです。事実 私たちは、学校に入りたいと想って(瞑想して)入ったではありませんか。お金を儲けたいと想って(瞑想して)お金を儲けたではありませんか。自動車が欲しいと想って(瞑想して)自動車を手に入れたではありませんか。伴侶が欲しいと想って(瞑想して)結婚したではありませんか。このように私たちは、瞑想によって何でも得てきたのです。ならば神を想って(瞑想して)、神の自覚を得ることもできるのではないでしょうか? 

 想った事は何でも実現するのが想念の力ですから、その力を利用しないではもったいないです。さあ、瞑想し神の自覚を得ましょう。

 

※ この地球で、真の瞑想をしている人は殆どいません。それは、瞑想の意味を知らないからです。瞑想は、無・空になることではありません。また、気持ち良くなることでもありません。神の想いを深め、神の自覚を得ることです。この「自覚」の意味が理解できないため、真の瞑想ができないのです。

 理解できなくても良いですから、想念の力を信じて神を想い続けてください。きっと「ああそうか!」と解る時がきます。

 

※ 私たちは、何と幸せなのでしょう! なぜなら、瞑想できるからです。鉱物や植物や動物は瞑想できません。でも私たちは、瞑想できます。これは凄いことなのです。どうか、瞑想できるとろまで進化してきた自分を褒めてやってください。

 

 

 

2017年

5月

07日

● 運命を創っているのは自分の想念である

 運命とは「命」を「運ぶ」と書きます。命を運んでいるのは、誰でもありません。自分の想念です。良い想念を使えば運命は良くなります。悪い想念を使えば運命は悪くなります。なぜそのようなことが起きるかと言いますと、良い想念は光を呼び、悪い想念は闇を呼ぶからです。事実 人類は、悪い想念を使って病気や事件や事故や自然災害など呼び寄せているではありませんか。これは、光は良いモノを実現させ、闇は悪いモノを実現させている分かりやすい実証例なのです。あなたが、今の苦しい運命を好転させたいと思うなら、どうか良い想念を使うよう心掛けてください。

 私は最近よく想念のお話しますが、それは想念ほど頼もしく、また恐ろしいモノはないからです。人生は想念次第なのです。いや魂の進化は、想念次第なのです。それほど想念は偉大なのです。どうか、良い想念を使うよう心掛けてください。そうすれば、もうあなたの運命は保証されたも同然です。

 

※ 命は永遠です。ですから運命は、永遠の命の歴史を通して考えなくてはなりません。今生の運命は、前世の運命を背負っているのです。前世の運命は、前々世の運命を背負っているのです。前々生の運命は、その前の世の運命を背負っているのです。だから、アナログ的な運命の見方が必要になるのです。

 今生運命が良いからと言って喜んでいてはなりません。今の自分の一刻一刻の想念が、運命を決めていると言う自覚を持って、想念を使ってください。

 

 

 

2017年

5月

14日

● 出を重視しよう!

 「出入り」という言葉はあっても、「入出」という言葉はありません。

 「出発」という言葉はあっても、「発出」という言葉はありません。

 「呼吸」という言葉はあっても、「吸呼」という言葉はありません。

 何事もそうですが、先に出があり後で入りがあるのです。電車でもエレベーターでも、先に人が出て後で人が乗るのです。そのことを知っている熟した魂は、「出」を重視します。知らない未熟な魂は、入を重視します。だから未熟な魂は、物を多く集めようとするのです。物を多く集めれば、当然ゴミを多く出すでしょう。ゴミの多い社会が幼い社会だと言われるのは、幼い魂は物を沢山集めるからです。それは、心が満たされていないからです。心に空白を抱えている幼い魂は、どうしても物を多く集めようとするのです。

 宇宙の整然とした働きをご覧なさい。エネルギー均衡の法則によって見事にバランスが取れています。人間社会はどうでしょうか? エネルギー収支のバランスが完全に崩れています。その良い証しが、病気・事件・事故・自然災害などの多発です。物質文明が進めば、エネルギーが低くなるため災厄が多くなるのです。

 これは、思いの使い方も同じです。私たちは、どんな思いを出し、どんな言葉を出し、どんな行為を出しているでしょうか? 出した思い、出した言葉、出した行為には、必ず回答(結果)が返ってくるのです。良い思い、良い言葉、良い行為には、良い結果が、悪い思い、悪い言葉、悪い行為には、悪い結果が・・・。これは一ミリの狂いもありません。今 人間が苦しんでいるのは、悪い思い、悪い言葉、悪い行為を出しているからです。苦しい人生にしたくなかったら、「出すもの」を良くしてください。つまり、良い思い、良い言葉、良い行為を出してください。その人は、幸せな人生を歩むことが出来るでしょう。

 

 

 

2017年

5月

21日

● 必然の法則について!

 必然とは、当然という意味です。なるべきにしてなると言う意味です。この宇宙は、必然によって運ばれているのです。なぜ必然によって運ばれているかと言いますと、原因あっての結果だからです。結果があったと言うことは、結果を生み出した原因があったと言うことです。原因のない結果はあり得ないのです。原因と結果は一つなのです。切り離せないのです。必然しかない理由は、原因と結果は切り離せないからです。

 もう一つ知って欲しいのは、必然とは、秩序ある状態を言います。偶然とは無秩序の状態を言います。秩序が保たれるのは、法則があるからです。必然は法則なのです。

 

「何もしないのに返ってくる、何もしないのに起きる、何もしないのに現れるのが偶然であり、無秩序の状態であり、法則のない状態です。何かしたことが返ってくる、何かしたことが起きる、何かしたことが現れるのが必然であり、秩序のある状態であり、法則のある状態です。」

 

 あなたが、石に躓いて怪我したのも必然です。頭に鳩の糞が落ちてきたのも必然です。スリにすられたのも必然です。あの人との出会も、この人との出会も、そのモノとの出会も、あのモノとの出会も必然です。この苦しみも、あの悲しみも、この喜びも、あの感動も、必然です。何もかも必然の産物なのです。ですから、法則も必然の産物なのです。これまで宇宙が永続してこられたのは、必然の法則の下に秩序正しく運営されてきたからです。もし必然の法則がなかったら、この宇宙はとっくに消滅していたことでしょう。すべて「法則が・必然が」宇宙を支えてきたのです。

 あなたが、

  • この表現宇宙に生まれたのも必然です。
  • 地球に生まれたのも必然です。
  • 日本国に生まれたのも必然です。
  • 今の家族の下に生まれてきたのも必然です。
  • 今の肉体環境に生まれてきたのも必然です。
  • その環境の中で、苦しみや悲しみの人生を歩んできたのも必然です。
  • また、その苦しみや悲しみから真理を学ぶようになったのも必然です。

 すべて、神の思し召しによって運ばれている必然です。なぜ必然が神の思し召しかと言いますと、どんな苦しいことも、どんな悲しいことも、どんな厭なことも、みな進化成長へ引っ張ってくれている必然だからです。神は、私たちを成長させたいのです。ですから、安心して今やるべきことを真心を込めてやることです。そうすれば間違いなくあなたは、最終目標に到達できるでしょう。これが、必然の宇宙における進化の歩みなのです。

 

 

 

2017年

5月

28日

● 真心を込めてやる!

 どんな困難な問題も、真心を込めてやれば必ず解決できます。神は、そのように宇宙を創っているのです。真心とは、神の心のことです。その同じ心を誰もが持っているのですから、真心を込めてやれば相手に伝わらないはずはないのです。家庭内の問題も、隣人との問題も、仕事での問題も、どんな困難な問題も、真心を込めて当たれば、解決できないことはありません。

 これは、真理の学びにおいても同じです。今やるべきことを、真心を持ってやること、瞑想も真心を込めてやること、思索も真心を持ってやることです。そうすれば、真理の扉は必ず開かれます。真心は岩をも砕くのです。すなわち真心は、天の岩戸も開くのです。そのためには、強い意志がいります。強い決意が入ります。努力と忍耐が入ります。何でもそうですが、何かをやり遂げるには努力が必要なのです。楽して得たものは、ホンモノではありません。苦難の中から得たものが、ホンモノなのです。

 人生の目的は、魂(原子核)を大きくすることです。困難なことは、魂(原子核)を大きくするための教材ですから、やり遂げれば間違いなく原子核は増えます。原因あれば結果ありです。どうか、強い気持ちを持って困難なことに挑戦してください。あなたは、間違いなく変わります。あなたが変わった分、周りの環境も変わります。

 

※治療が難しいと言われている精神病患者(憑依霊)でも、真心を持ってお世話すれば、快方に向かうと私は信じています。みな同じ神の心を持っているのですから、真心を持って接すれば通じないはずはないのです。

 

 

 

2017年

6月

04日

● 人の涙と神の涙

 人の涙は、情から生まれた汚れた涙です。神の涙は、愛から生まれた清い涙です。同じ涙ですが、込められいるモノが全く違うのです。では、その違いは一体何でしょうか?

 人の涙には、何らかの成算が入っています。たとえば、自分を哀れんで流す自己憐憫の涙、人の目を気にして流す自己顕示の涙、感情を掻き立てて流す作り涙、人の気を引くお芝居の涙など、不純な涙が多いのです。この宇宙には、悲しみの涙とか、苦しみの涙とか、怒りの涙とか、悔しみの涙とか言った汚れた涙など無いのです。あるのは、独りでに出てくる魂の喜びの涙だけです。その涙の中には、何一つ不純な思いが入っていないのです。だから、清いのです。美しいのです。その涙に触れた途端、どんな汚れも流れ落ちる清純な涙です。

 私たちは、そんな涙を流したいものです。

 

 

 

2017年

6月

11日

● 私には嬉しいことが8つある

 私には嬉しいことが8つあります。

1つは、私は消えて無くなる肉体では無く、永遠不滅の生命意識であると言う嬉しさ・・・

2つは、この宇宙には、本当に有(真のみが有る)るものだけが有ると言う嬉しさ・・・

3つは、この宇宙は、善と正義によって守られていると言う嬉しさ・・・

4つは、この宇宙は、美と灑によって飾られていると言う嬉しさ・・・

5つは、この宇宙は、永遠であり、無限であり、完全であると言う嬉しさ・・・

6つは、この宇宙は、必然の法則(因果の法則)によって進化成長へ運ばれていると言う嬉しさ・・・

7つは、自分の人生は、自分の想念によってどうにでもできると言う嬉しさ・・・

そして8つは、これが私の最も嬉しいことですが、私の行く先には、永遠に尽きない、永遠に色あせない、幸せが待っていると言う嬉しさです。

 私たちは、きっちりとした秩序の中に生かされています。ですから法則を守って生きていれば、誰でも幸せになれるのです。こんな素晴らしい宇宙に生かされている私たち、何と幸せなのでしょう!?

 私たちがやるべきことは、今できることを精一杯やることです。つまり、真心を込めて家事をすること、真心を込めて仕事をすること、真心を込めて神を求めること、すなわち、瞑想することです。

 

 

 

2017年

6月

18日

● 自我の思い通りに生きたら良い!

 世の中には、お金や物や地位や名誉や権力などを追い求めている人と、精神的なモノを追い求めている人の二通りの人種がおります。なぜそのような人種が生まれるかと言いますと、物質の世界が本当に有ると信じている人が、物質的なモノを追い求めるのも当たり前ですし、また意識の世界が本当に有ると信じている人が、精神的なモノを追い求めるのも当たり前だからです。つまり、信じられるモノを追い求めるのも当たり前、信じられないモノを追い求めないのも当たり前だからです。確信の持てないモノを、「追い求めなさい!」と言う方がおかしいのです。

 一般人も、真理を求めている人も、誰もが、今の原子核の量の自我の思い通りに生きているのです。それは、必然の生き方しかできないからです。必然の生き方しかできないのは、今の原子核の量の思いしか持てないからです。思えないことをやれるわけがないのです。だから、自我の思い通りに生きたら良いのです。例えその思いによって痛い目にあったとしても、その痛い目が魂を成長させてくれるのですから、それは良いことなのです。完全な神が、無駄なことを思わせるわけがないし、やらせるわけもないのです。すべて意味あって思わせ、意味あってやらせているのです。どうかそのことを信じ、今の原子核の量の自我の思い通りに生きてください。ただし、次の二つのことだけはやってください。

 一つは、今やるべきことを真心を込めてやること・・。

 もう一つは、真心を込めて瞑想することです。

 この二つをやっていれば、必ず原子核が増えます。増えた分、自我の思いが真我の思いに近づきますから、良い思いが持てるようになり、良い行いができるようになります。これが、神が考えられた最良の進化の方法なのです。

 

※「外側の何も変わらなくても、自分の意識が変われば良い!」

この短い言葉の中には、掴んでも掴みきれない無限の意味が込められているのです。どれほど深い意味が込められているかは、原子核が大きくなり理解力が増せば、増した分の深みを、自分から教わるでしょう。その時あなたは、驚愕するはずです。

 

※ 真理を学び続けている人は、心の深みで確信を得たからです。途中で学びを止めてしまった人は、心の深みで確信を得ていなかったからです。私が、神キチガイと言われるまでに神を求めるのは、そこまで原子核の量が増え確信を深めたからです。私と同じように原子核が増えれば、誰だって神キチガイになるのです。これはあたり前のことであって、何も不思議なことではないのです。いずれ、地球人類の誰もが神キチガイになる時代が来るでしょう。

 

 

 

2017年

6月

25日

● 心配してはならない!

 「私は若い時、こんな悪いことを思っていた! だから今までも悪いことが起き、これからも起きるのではないか?」、と心配する人がおりますが、あまり深刻に考えないでください。なぜなら、今まで 起きていた悪いことは、業の消えていっている姿だからです。もし悪いことが起きたら、「ああ、今、業が消えていっている!  消えていっている!  良いことだ! 」と思ってください。心配して業の上塗りをする方が良くありません。さあ、今の今をポジティブな思いで生きてください。それは、難しいことではありません。ただ、神を想ったら良いだけです。

 想念は実現の母です。あなたはこれまで悪いことを思っていたから、不幸がやって来たのです。その悪い思いを良い思いに変えたら、もう不幸がやってくることがないのです。

 良い思いの一番は、神を想うことです。

 心配しても何の益にもなりません。心配する時間があるのなら、神を想うことに時間を使ってください。その時間は建設的な時間になります。生きている時間になります。どうか心配しないでください。あなたの宇宙を良くも悪くもするのは、あなたの思い一つなのですから・・・。

 

※人類が苦しんでいるのは、法則を使い切っていないからです。この宇宙には、「原因と結果の法則」と言う、素晴らしい法則があるのです。その法則を人類は、正しく使っていないのです。良い思いを持てば、良い原因を作っているのですから、良い結果が来るのです。こんな素晴らしい法則の下に生かされているのに、人類はその法則を悪いことに使い、良いことに使っていないのです。

 

※「私は心配性だ! 私は人を愛せない! 私はダメな人間だ!  」なんて自分を責めないでください。原子核を増やせば自然と自分の欠点は無くなるのですから・・・

 

 

2017年

7月

02日

● 意識している時は、原子核を増やしている時である

 何をしなくても、今の時を、今の自分を、今の世界を、今の宇宙を、感じている時は、原子核を増やしているのです。なぜなら、感じている状態は意識している状態、意識している状態は原子核を増やしている状態だからです。意識すれば必ず原子核が増えるのです。それは、意識すれば原子核が集まるようにできているからです。何を意識しても原子核が増えるのですから、神を意識している私たちは、日々どれほど沢山の原子核を増やしていることでしょう。

 “私は瞑想がうまくできないから原子核が増えない!” と思わないでください。意識している事自体、原子核を増やしているのですから・・・。

 意識を持っているあなたに、無駄な日々はありません。意識を持っているあなたに、無駄な人生はありません。どうか自分の人生に自信を持ってください。

 

 

 

2017年

7月

09日

● 自分を信じてください!

 皆さんは何十億年もの時をかけ、真理の基礎を築き、真理の柱を立て、真理の壁を作り、真理の屋根を上げ、やっと真理の建物を完成させる寸前まできた魂です。もしその真理が間違いだったら、苦労して築いて来た建物を壊さなければならないのですよ! あなたはもう一度、何十億年もの時をかけ建物を建て直すつもりですか? もしこの真理が間違いだったら、あなたの眼力が未熟だったことになるのですよ! それだけではありません。今日まで導いてくれたあなたの守護霊まで否定してしまうことになるのですよ! あなたは、自分の眼力を信じないのですか? あなたの守護霊を信じないのですか? 自分を信じないで、守護霊を信じないで、一体何を信じるというのですか? 

 たしかに、真理を求め続けるのは大変な根気が入ります。自分の中にも外にも、あなたを惑わすサタンがいるのですから・・・。そのサタンは、巧みな言葉であなたを惑わします。ですから、気持ちが揺らぐのも無理は無いのです。でも、負けてはなりません。この真理に出会って感動した、あの時の自分を思い出してください。

 良いのです。苦しかったら来なくても良いのです。でも帰ってきたくなったら、いつでも帰っていらっしゃい。門はいつも開かれています。「過ちては改むるに憚ることなかれ! 」です。恥じることなどありません。いや、かえって勇気ある魂だと私は敬服します。

 

※あなたは、私に感動の涙を流させてくれました。そしてあなたも、一緒に涙を流してくれました。いいえ、あなたや私だけではありません。沢山の人たちが、今も涙を流しています。彼らの感動の涙は、嘘の涙なのですか? あなたと私が流したあの感動の涙は、嘘の涙だったのですか? 

 

 

 

2017年

7月

16日

● 自我で生きたら良い!

 よく「自我丸出し!」とか「自我人間だから仕方がないよ!」などと自我を悪く言う人がおりますが、これは自我の意味の知らない人の言う言葉です。自我は決して悪いモノではありません。いやむしろ、必要不可欠なモノです。なぜなら、自我が無くては自分の存在が無いからです。

 自我とは・・・

自分を認めている自分の事です。

相手を認めている自分の事です。

 つまり・・

妻子を認めている自分の事です。

地球を認めている自分の事です。

宇宙を認めている自分の事です。

 相手が認められるのは、自我があるからです。自分を認める自我があればこそ自分が存在でき、相手も存在できるのです。これは当たり前のことであって、何の不思議もありません。

 あなたは今日まで、自我の思いに添って生きてきました。自我の思いに添って生きてきたがゆえに、苦しかったことが沢山あったでしょう。でも、その苦しみがあったればこそ真理につながったのですから、それは良かったのではありませんか? そうです。今日まで自我で選んで来たあなたの人生は、みな良かったのです。

 私たちは、自我の思いに添って生きるしかないし、また自我でしか生きられないのです。なぜなら、猫の前に鰹節を置いたら必ず食べるのです。これは当たり前のことです。私たちの人生も同じです。自我で生きるのは猫が鰹節を食べるようなもので、誰でも食べるのです。これは、神が許している必然なのです。ですから、自我で生きるのは悪いことではないのです。

 どうか安心して、今の自分の思いに添った生き方をしてください。ただし、次の2つのことだけはやってください。

一つは、今やるべきことを真心を込めてやること、

もう一つは、真心を込めて瞑想することです。

 この2つのことをやっていれば原子核が増えるので、自我の思いが真我の思いに近づいてゆきます。そうすれば学びやすい環境が与えられます。当然、これまで以上に原子核が増やせるでしょう。

 神は私たちに、出来ないことをしなさいとは言っていません。出来ることをしなさいと言っているのです。それが、自然な生き方だからです。

 「人生の道」の曲を見て、今日まで歩んできた自分の人生を振り返ってみてください。きっと、勇気がわくはずです。私の歩んできた人生に間違いはなかったと・・。

 

【光のメロディー集/・・・人生の道・・・

 

 

 

2017年

7月

23日

● 余計な情報を発信してはならない!

 なぜ、余計な情報を発信してならないかと言いますと、余計な情報を発信すれば、余計な情報が入ってくるからです。余計な情報が入ってくれば、当然、余計なことを考えるでしょう。余計なこと考えれば、余計な連想をします。それも一旦連想が始まれば、止めどもなく連想するのです。その連想の中身は、大方が悪いことばかりです。想念は実現させますから、当然、悪いことばかりが起こるでしょう。つまり、原因と結果の法則によって、悪い結果がやってくるわけです。

 人間は全員が全員、妄想によって自分を苦しめているのです。でも、そのことに誰も気付いていないのです。”私はなぜこんな苦しい目に合わねばならないのだ!”と人間は嘆きますが、それは自分が妄想していたからです。

 私たちは肉体を持っていますので、肉体を維持するために必要なことはやらねばなりません。でも、今 必要なことを考え、今 必要なことを話し、今 必要なことをすれば良いのです。余計なことを考えるから、余計なことをしなければならなくなるのです。どうか、余計な情報を発信しないでください。そうすれば、余計なことを考えないで済みます。余計なことを考えなければ、苦しみはやって来ません。今 あなたがやるべきことは、今 生きるに必要なことを精いっぱいやること、そして瞑想することです。

念を押します。

  • 今やるべきことを、真心を込めてやること。
  • 真心を込めて瞑想すること。

 この二つをやっていれば、自覚の境界線に近づくことを私は保証します。

 

※ 想わなければ、何も生まれないのが宇宙の仕組みです。当然、何の悩みも、何の苦しみも、何の不幸も、生まれません。しかし、楽しみも、喜びも、幸せも、生まれません。これでは、生きていると言えるでしょうか?

 皆さんは、想わなければ不幸せを体験せずに済むけれど、幸せも体験できないと言うことをどう思いますか? 「想念を持っていれば、不幸を作るから想念なんか要らない!」と言うのですか、それとも「不幸は体験するけれど、幸せも体験できるから持っていたい!」と言うのですか?

「生きている」とは、何でしょうか? 苦楽を体験することが、「生きている」と言う意味ではありませんか? つまり、幸不幸を体験することが「生きている」と言う意味ではありませんか? 何の体験もできないようでは、「生きている」とは言えないはずです。

 

 

 

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