物理の法則の中に「作用と反作用の法則」があります。これは、「作用すれば必ず反作用が起こる」と言う法則です。つまり、「原因を作れば必ず結果が生まれる」と言う「因果の法則(宇宙の法則)」と同じ法則です。ただし「作用と反作用の法則」は、物質世界にだけ働く法則ですが、「因果の法則」は物質世界にも意識世界にも働く法則なのです。物質世界で働く「作用と反作用の法則は」人の目に見えても、意識世界で働く「因果の法則」は人の目に見えませんから、実際に「因果の法則」が働いているかどうかは人には分かりません。だから科学者は、「因果の法則」の存在を認めようとしないのです。でも「因果の法則」は、目に見えなくても間違いなく働いているのです。その良い証拠が、この世に沢山の苦しみがあることです。「作用と反作用の法則」で言えば、今の苦しい状態は反作用を受けている状態で、それはその前に苦しくなる作用があった証です。「因果の法則」で言えば、今の苦しい状態は結果(反作用)を受けている状態で、それはその前に苦しくなる原因(作用)があった証です。
このように、今、苦しい状態があることが、「因果の法則」が働いている証なのです。もし「因果の法則」が働いていなかったら、今、苦しい状態があるわけがありません。原因なしに結果だけがあるわけがないからです。どうしても「因果の法則」の信じられない人は、次のことを良く考えてみてください。
利口な人なら分かるはずです。
この「因果の法則」は、「必然性の法則やエネルギー均衡の法則」を支えている根本法則なのです。
2018年1月1日更新
新しくこの真理に出会った人もいると思いますので、復習を兼ね学びの再確認をしたいと思います。
1、学びの目的
まず、人生の目的を知ることです。私たちは、真理を学ぶために生まれてきたのです。
では、真理の何を学ぶのか?・・ それは「自分が神である」ことを学ぶのです。
何のために学ぶのか?・・ それは「自分は神であった!」と自覚するためです。
2、学びの手順
学びの目的は、神の自覚を得るためですが、それには神の色々な側面を知らねばなりません。その知識は、私の本と勉強会の動画から得てください。ここまでが、学びの初歩の段階です。
知識を得たら、実践に入ってください。実践することは2つあります。一つは社会体験ですが、これはすでにやっておりますから、あえて言うことはありません。もう一つは瞑想ですが、真理が言葉や文字で教えられないように、瞑想も言葉や文字で教えることができません。ですから、自分で自分なりの瞑想を開拓してください。瞑想そのものは、何も難しいことはありません。ただ、マントラを想えば良いだけです。そのマントラですが、できるだけ神の深みを持ったマントラを選んでください。マントラについては、本にも書いていますし動画でも語っておりますので、そこから知識を得てください。
学びの手順を確認しましょう。
3、瞑想の注意点
以上、学びの再確認をしました。学びで必要なのは、続けることです。続ければ、必ず結果は得られます。これは因果の法則が保証してくれるので間違いありません。
2018年1月15日更新
※ 私が嬉しいのは、何でも思える、何でも出来る、何でも生み出せる、想念を持っていることです。もう一つ嬉しいのは、「やればやった分なる!」と言う原因と結果の法則が働いてくれることです。この「想念」と「原因と結果の法則」がある限り、あなたの望みは必ず叶えられます。ただし、やり続けなければ叶えられません。これだけは言っておきます。
皆さんは一般人と違い、見えないモノが真実で、見える物は幻であることを知っています。さらに皆さんは、見える物は見えないモノから生まれ見えないモノに戻り、再び見える物に生まれる輪廻転生のことを知っています。しかし、科学者も一般人もそのことを認めません。だから科学者も一般人も、人間は死んだらお終いだと思っているわけです。
見える物がいずれ見えなくなることは、科学者も一般人も知っています。ならば、見えないモノから見える物が生まれることを、認めなくてはならないはずです。もし見える物から見える物が生まれるなら、見える物は永遠でなくてはならないからです。でも見える物は、必ず見えなくなるのです。と言うことは、見えないモノから見える物が生まれることに疑問の挟む余地はないはずです。このように言うのは、この宇宙には見える物と見えないモノの二つのモノしかないからです。ならば見える物が生まれるには、見えないモノが見える物になるか、見える物が見える物になるしかないはずです。でも前述したように、見える物から見える物が生まれることはあり得ないわけですから、見えないモノから見える物が生まれるしかないのです。と言うことは、見えないモノも見える物から生まれるしかないはずです。「見えないモノも見える物から生まれるしかない」と言うのは、おかしいと思うかもしれませんが、見えない世界から見れば、見える物が見えなくなる変化は、見える物から見えないモノが生まれたように見えるのです。それは、見える物も見えないモノも、同じ一つのモノだからです。一つのモノが、見える物になったり見えないモノになったりしているだけです。その一つのモノを私は、意識と言ったり、エネルギーと言ったり、神と言ったりしているだけです。
2018年2月1日更新
※ 想った通りのものが帰ってくる。こんな単純で確かな法則はありません。「良いことを想ったら、良いことが帰ってくる。悪いことを想ったら、悪いことが帰ってくる。この世のことを想ったら、この世のことが帰ってくる。神を想ったら、神の原子核が帰ってくる。」単純にそれだけのことなのです。
私、私、私、私・・・・と、自分の意識を追いかけて行ってみてください。どこまで追いかけても、自分の意識は掴めないはずです。それは、自分の意識の源が分からないからです。自分の意識の源が分からないと言うことは、初まりも終わりも無いと言うことになります。初まりも終わりも無いから、生まれた体験も死んだ体験も無いのです。
そうです。私たちは、今まで死んだこともなければ生まれたこともないのです。永遠に生き通しだったのです。だから死後のイメージも、生前のイメージも、持てないのです。
ある学びの友が、このようなことを言っていました。“もし自分の意識の源が発見できたら、こんな怖ろしいことはないですね!” と・・・もし自分の意識の源が発見できたら、死ぬ自分を発見したことになりますから、こんな怖ろしいことはありません。だから神は、どんなに「私、私、私、私・・・」と追いかけて行っても掴めない意識を私たちに与えたのです。
あなたは永遠に死にません。だから、安心して生きたら良いのです。
2018年2月15日更新
※ 原子核を増やす方法は、1に社会体験、2に瞑想だと言ってきました。1も2も、想念を動かしやっているわけですが、例え、体を動かさなくても、想念を動かせば原子核は増えるのです。私が「体を動かせば原子核が増えるから大いに体を動かしてください!」と言ってきたのは、その説明の方が分かりやすいからです。もし体を動かすことでしか原子核が増えないなら、体の不自由な人は原子核を増やせないことになります。神はそのような不平等な仕組みを作るわけがないのです。
体を動かさなくても想念さえ動かしたら、原子核は間違いなく増えるのです。体を動かすことに囚われ過ぎている人がいるようですので、ご注意申し上げます。
でも、やはり体はできるだけ動かしてください。重い体を動かすには、やろうと言う強い気持ちが必要で、その強い気持ちが(決意・決心)が、原子核を増やすのです。運動は家の中でも、家の周りでも、どこでもできます。どこへ行く必要も、お金をかける必要も、ありません。神は、「簡単に手短に」原子核が増えるようにしてくれているのです。
今あなたの環境で起きているどんな問題も、すべて瞑想で解決できます。なぜなら、瞑想し原子核が増えれば、理解力が増し、判断力が増し、先見の明ができ、知恵が増すからです。知恵が増せば、どんな難解な問題も解決の道が開かれるのです。それだけではありません。病気・事件・事故・災難などの苦しみからも逃れられるし、過去の業も拭うことができるのです。
私たちは苦労して自分の欠点を直そうとしますが、直す必要は無いのです。瞑想し原子核を増やせば良いのです。原子核が増えれば神の性格に近付いてゆくわけですから、欠点などはいつの間にか無くなってしまうのです。 どうか瞑想してください。どんな問題も解決します。瞑想で解決できない問題など無いことを知ってください。
2018年3月1日更新
※ 瞑想は、神が人類に与えてくれた最大の贈り物です。瞑想できることに感謝しましょう!
幸せとは神のことなのです。だから幸せな人は神です。不幸せな人は神ではありません。でも、その本性は神です。人間が苦しんでいる状態は、神から遠い状態なのです。人間社会に不幸せがあると言うことは、全く神と違う方向へ行っていると言うことです。
神はこの宇宙に、幸せ以外、何もお創りになっていないのです。なぜなら、神意識そのものが幸せの素材だからです。大宇宙は、その素材で満たされているのです。だから、この宇宙に幸せしかないことになり、神しかないことになるのです。なのに人間社会には、なぜか苦しいことが沢山あります。それは、自分が神の素材で創られた神だと思っていないからです。
皆さんは何が欲しいのですか? 幸せ以外ないのではありませんか? 今、全人類が、幸せが欲しくて生きているのです。今、人類がやっていること全てが、幸せを得るための方弁なのです。お金も物も、幸せを得るための方弁です。地位も名誉も権力も、幸せを得るための方弁です。良い家庭を持つのも、幸せを得るための方弁です。山に登るのも、海に潜るのも、スポーツをするのも、絵を描くのも、音楽をやるのも、すべて幸せを得るための方弁です。でもそのことを知らない人間は、一生懸命 汗水流して方弁のために生きているのです。方弁に走れば走るほど幸せから遠のくと言うのに・・・です。
2018年3月15日更新
※ この世の物は、すべて非実在です。でも幸せは、実在なのです。たとえば、夢の中で味わっている幸せも、物を通して味わっている幸せも、どんな形で味わっている幸せも、実在なのです。それは、幸せそのものが実在だからです。つまり、味わっている意識そのものが、幸せの大元の神意識だからです。
すべての生き物が、幸せを求めて生きているのです。それは幸せだけが確かなモノだからです。だから、私の説いている真理も確かなモノなのです。
皆さんは、この宇宙に偶然が有ることを信じますか? もし偶然が有るなら、今、宇宙は存在していないでしょう。と言うことは、今あなたも存在していないと言うことです。今あなたが存在していること自体が、偶然の無い証なのです。それは、あなたそのものが必然の産物だからです。
どうか安心してください。この宇宙に必然しかないことが分かったら、もう心が揺れることはありません。また起きていること全てが、有り難く受け取れるでしょう。あなたの前で起きている良いことも悪いことも必然であり、それはすべて進化成長に結びついている有り難いことだからです。
私が一番嬉しいのは、この宇宙がすべて必然によって運ばれている点です。必然によって運ばれていると言うことは、なるべきにしてなっていると言う意味ですから、起きていることはすべて良いことなのです。
必然とは秩序があると言う意味です。法則があると言う意味です。整然としていると言う意味です。ですから、そこに悪いことの起こりようがないのです。ですから必然の世界は、善そのもの、正義そのもの、整然そのもの、良いことだらけです。
反対に偶然とは、無秩序であると言う意味です。法則が無いと言う意味です。無茶苦茶であると言う意味です。そんな無茶苦茶な宇宙の中で、どうして安心して生きられるでしょうか? 私たちが曲がりなりにも安心して生きられるのは、偶然の無いことを本能的に知っているからです。
必然しか無いと思っている人は、心穏やかになります。偶然が有ると思っている人は、不安だらけです。人生を苦しくしているのは、何事も偶然に起きると思い、不安・心配・恐怖の中で生きているからです。心穏やかに生きられるようになるためには、起きていることすべてが必然であり、それはすべて良いことであると、どれほど信じられるかです。
必然が良いことである理由は、必然の背後に完全な法則が働いているからです。完全な法則の下では、悪いことは起こりようがないのです。法則の下で悪いことが起きるなら、宇宙はそく消滅してしまうからです。神は、魂を進化成長させるために表現宇宙を創造されたわけですから、あなたの周りで起きているどんなことも良いことなのは当たり前なのです。ですから、どんなに悪いように見えていることも良いことだと思い、決してネガティブにならないことです。
どうか必然を信じてください。あなたの人生を暗いモノにするか明るいモノにするかは、いかに必然を信じられるかで決まるのですから・・・。
2018年4月1日更新
※ 必然が良いことなのは、私たちの先輩であるお釈迦様やイエス様や知花先生が、自分の思い通りに生きて自覚の境界線を超えられたこと、そして今も自分の思い通りに生きて進化の途を歩まれていることが証明しています。そんな確かな証拠があるのですから、あなたも自分の思い通りに生きたら間違いなく自覚の境界線が超えられるのです。
人から何か嫌なことを言われた途端に、”カーッ!” となる。これは言った人が、”カーッ!” とさせたのでしょうか? 聞いた自分が、”カーッ!” とさせたのでしょうか? 聞いた自分が、”カーッ!” とさせたのです。”カーッ!” としたら自分の心が汚され、身体まで毒されるわけですから、こんな大損なことはありません。でも殆どの人が、大損なことをしているのです。
自分の宇宙(心)の管理者は自分自身です。嫌なものを自分の宇宙(心)に入れるか入れないかは、管理者である自分の自由意志で出来るのです。自分が入れなければ、自分の宇宙(心)に嫌なことは入ってこられないのです。だから、すべて自己責任です。
日々の生活を良くするも悪くするも、人生を良くするも悪くするも、想念が握っているのです。それは、どんな想念を持つかで決まるのです。では、どんな想いを持てば良いのでしょうか?
それは・・・
楽しい思いです。
明るい思いです。
感謝の思いです。
ありがとうの思いです。
一番 良い思いは、神を想うことです。神を想っている時は、日々の生活を良くし、人生を良くしています。物質のこと(この世のこと)を想っている時は、日々の生活を悪くし、人生を悪くしています。無常のモノを、無いモノを、幻のモノを、想う(瞑想)からそうなるのです。
目をつぶってやることだけが、瞑想ではありません。普段 思っていることすべてが、瞑想なのです。私たちは今日まで、 何気なく思っていたことで人生を作ってきたのです。それは、瞑想して人生を作ってきたと言う意味です。そのことを知らない人間は、思いたい放題のことをしては、事故 災難 病気 などを招いて苦しい人生を送っているのです。
思いを軽んじることほど、大罪なことはありません。なぜなら、悪い思いが悪い思いを呼び込み、争い事を生み出してしまうからです。争いごとのすべてが、思いが原因で起きていることを知ってください。こんな重要なことを、まだ人類は気付いていないのです。
どうか、良い想念を持つよう心掛けでください。それは自分だけでなく、人類のためにも、地球のためにも、なるのですから・・・。
2018年4月15日更新
※ 皆さんのような熟した魂は、繊細な心を持っていますのでどうしても先読みしがちです。先読みは余計なことを考えるわけですから、これは良いことではありません。
先読みしないことです。つまり、こうなるのではないか? ああなるのではないか? と、まだなっていないことを先読みしないことです。また、人がこう思っているのではないか、ああ思っているのではないかと、余計な妄念を抱かないことです。
今あなたがやるべきことは、肉体を維持するために必要なことを真心を込めてやることです。そして余った時間を、瞑想に使うことです。
「人類の夜明3・・真実はひとつ」の書は、真理の書としては最高傑作品です。ただし、単に言葉や文字として受け取るなら、それは知識ですから心までは届きません。でも波動として受け取るなら、心の深いところまで届きます。
神は、夢の中でさえ真理を学べるようにしてくれているわけですから、「人類の夜明3」の書を単なる知識の書で終わらせるはずがありません。そうです。「人類の夜明3」の書の中には、天の想いが篭っているのです。ですから声に出して読めば響きの中から、文字に書けば形の中から、神の想いの波動を汲み取ることができるのです。
私が皆さんにぜひお願いしたいのは、「人類の夜明3」の書を手書きして欲しいと言う願いです。難しいことはありません。ただ、「人類の夜明3」の書の中から、あなたの好きな言葉を選んで手書きすれば良いだけです。大切なのは、手書きすることです。多く手書きすればするほど天との通路が太くなりますので、天の想いが降りやすくなります。できたら、毎日、書いてください。その手書きした真理をまとめれば、自分の座右のバイブルになります。
私のホームページは真理の宝庫ですから、どこからでも真理の言葉を探し出すことができますが、特にお勧めしたいのは、「人類の夜明3・・451ページ(神の独り言)」です。本をお持ちでない方は、当ホームページの「神の独り言」をご覧ください。
学びの友の皆さんは、選ばれた天使です。天の光を地に降ろす使命があるのです。それは、瞑想と、真理の言葉を手書きすることで果たすことができるのです。これは凄いことなのです。
手書きの言葉の一例・・・
○ 私は神!
神を・・
遠くに探しに行ってはなりません
神は・・
私の手より足よりも近くにおられるからです
また神を・・
外に探しに行ってもなりません
神は・・
私の中におられるからです
また神を・・
神秘化してもなりません
神は・・
何処にでもいるありふれたお方だからです
神は・・私です
私は・・神です
○ 私は光!
私は光!・・私は光!・・私は光!・・
私は、光から生まれた光の子です。
私は・・眩しいまでに光り輝いています。
光!・・
光!・・
光!・・光!・・光!・光!・光!・光!・・・・・
私は・・幸せいっぱいです。
○ 笑いの心!
ありがとう! ありがたい! の感謝の心
うれしい! 楽しい! の喜びの心
成せばなるぞ! の希望の心
やってやるぞ! の闘志の心
すごいなあ! 素晴らしいなあ! の感動の心
前進! まい進! のひるまぬ心
わはは! あはは! の笑いの心
○ 神様ありがとう!
どんな辛いことも、全て善いことです!
どんな苦しいことも、全てありがたいことです!
それが・・
進化成長に運んでくれる神の愛です
もう、ありがたくて! ありがたくて! 仕方がないのです
神の愛が、あまりにも深く、高く、大き過ぎて・・
“ありがとう!” の言葉しか出てこないのです
神様ありがとう!
本当の自分よありがとう!
2018年5月1日更新
瞑想ほど大切なことはありません。瞑想は、何でも成就させる力を持っているからです。その事を踏まえ、瞑想の特典を考えてみることにしましょう。
○ 自分の本性が自覚できるようになる。
求道の目的は、「自分は神であった! 生命であった! 光であった! 意識であった!」と心の底で思えるようになることです。その境地は、瞑想し原子核が増えれば自動的になるのです。
○ 業が解消される。業を作らない。
なぜ業を消し業を作らないかと言いますと、瞑想している時には悪いことが考えられないからです。不思議なことに瞑想し原子核が増えれば、段々と悪いこと(余計なこと)が考えられなくなるのです。悪いことを考えなければ業が作られないわけですから、原因と結果の法則によって穏やかな人生になるのです。
○ 病気にもならず事故災難にも遭わない。
病気になるのも事故災難に遭うのも、光が少ないからです。瞑想し原子核が増えれば光が強くなるので、病気にもならないし事故災難にも遭わなくなるのです。
○ 自分だけでなく、肉親や、親しい人たちや、死んだ人たちの進化に貢献できる。
瞑想し光を放てば、肉親や、親しい人や、幽界に帰った人たちの進化にも貢献できます。ある段階まで成長した幽界人は、死んで向こうへ帰っても真理を求め続けているのです。そのような魂は、真理を学んでいる人たちの動向を常に見ているのです。もし皆さんが、真剣に瞑想している姿を見せつければ、彼らはきっと見習って瞑想するでしょう。例え迷っている幽界人であっても、瞑想して光っている姿を見せつければ、何かを考えさせることができるでしょう。このように瞑想は、自分だけでなく周りの人たちにも、幽界人たちにも、影響を与えることができる大変意義あることなのです。
○ 人類を、地球を、宇宙を、浄化することができる。
瞑想している時は光を放っています。その光は、人類をも、自然をも、地球をも、宇宙をも、浄化してくれるのです。
2018年5月15日更新
※ 瞑想すれば人生が好転するのは、この世のことを思わなくなったからです。「想念は実現の母」と言われるように、思ったことは何でも実現するのが想念の力です。その力を今まで皆さんは、この世の苦しいことに使ってきたのです。だから、苦しいことがやってきたのです。人生を良くしたかったら、想念を良いことに使うことです。良いことの一番が、神を想うことなのです。どうかやってみてください。やってダメでも、もともとではありませんか? やらないで嘘だと言わないでください。
※ 瞑想すれば、罪滅ぼしになります。瞑想するまでに進化したのは、過去生で犯した罪が学ばせてくれたからです。罪を悔やんで自分を責める時間があるなら、瞑想してください。その時あなたは、罪滅ぼしをしているのですから・・・。
愛し合うとは、何を愛し合うのでしょうか? 人を? 何かを? いいえ、愛し合うとは、自分を愛し合うことなのです。それも、外側の自分と内側の自分が愛し合うことなのです。自分の中には、二人の自分がいるのです。一人は真我の自分です。もう一人は自我の自分です。真我の自分が自我の自分を愛し、自我の自分が真我の自分を愛するのが、愛し合いなのです。私たちは、二人の自分を愛し合いながら成長してゆくのです。
外側の世界は幻の世界です。内側の世界は真実の世界です。ですから他愛は無いのです。あるのは自愛のみです。自愛しかできないのは、他人がいないからです。世間では、「他愛ない!」と言う言葉を ”つまらない!” とか ”しようもない!” と言う意味で使っていますが、他人がいないのですから他愛ないのは当たり前です。自分しかいない世界に、他愛があるわけがありません。だから、自愛で良いのです。
では、真我の自分が自我の自分を愛し、自我の自分が真我の自分を愛する愛し合いは、どのような愛し方なのでしょうか? それは、いつも想い合うことです。いつも意識し合うことです。つまり、真我はいつも自我を想い(意識し) 自我はいつも真我を想う(意識する)ことが、愛し合うことなのです。この愛し合いは瞑想を意味し、自覚の境界線を超えても永遠に続けられるべきものなのです。
2018年6月1日更新
※ ある学びの友の詩記(気づき)・・・
神の絆奏曲「愛」を聞いていて気づきました。人は自我の自分を愛しながら成長してゆくのだと・・・。つまり、自我の自分を認めて、意識して、愛して・・いずれ宇宙を認めて、意識して、愛することができるようになるのだと・・・そう思えた途端、感動で涙が溢れました。
私の自我が、私(真我)にとっての相手だったんだ・・・この自分がいなければ何も始まらないんだ、と知ってびっくりしました。これは、「真我が私で自我があなたになった」、何とも不思議な感覚です。
今まで私は、一人の人間として瞑想してきましたが、実際は自我の私と真我の私が愛を紡ぎ合っていたのですね・・・。
神は完全です。その完全な神が、意味なく何かを起こすはずがありません。起きたことは、みな意味のある必然なのです。その必然は、すべて良いことなのです。それは、そのことしか起きようがなくて起きているからです。完全な神が、そのことしか起きようがなくて起こしているのですから、それが必然で良いことなのは当然ではありませんか? 神が不完全なら、偶然に悪いことが起きても仕方ありません。でも神は完全ですから、良い必然しか起きようがないのです。何かが起きたのは必要あって起きた必然で、そのことが起きることによって進化成長できるからです。ある学びの友が、こんなことを言っていました。「偶然で起きた悪いことは嫌なことですが、必然で起きた悪いことは良いことですね!」と・・・ 。必然しかないのですから、起きたことが良いことなのは当然です。
起きたことは結果です。結果が生まれて、はじめて起きたことの意味が分かるのです。結果が生まれなかったら、起きたことが良かったか悪かったか分かるはずがありません。それでは学べないのです。
どんな悪しきことも良いことだと言えるのは、どんな悪しきことも進化成長させてくれるからです。この宇宙には、良い水しか無いのです。川から水を汲んでも、井戸から水をくんでも、海から水を汲んでも、みな良い水なのです。その人には不利益な水に見えても、その不利益な水は利益の水につながっているのですから、不利益な水など無いのです。それは、一つの神の水しか無いからです。これが、何が起きても必然で良いことだと言う意味です。
神がどうして悪と思えることを、人類に許しているのでしょうか? それは、自我の思いが必然で、その思いで起きた悪いことがすべて良いことだからです。銃を作るのも必然、銃で脅すのも必然、銃で傷つくのも必然、銃で殺されるのも必然です。神は、こんな理不尽なことまで許しているのです。それは、幼い魂を成長させるために必要なプロセスだからです。だから私は、核爆弾を作ることも、使用することも、肯定はしないけれど、否定もしないのです。今、地球上にある悪と思われる物・人・環境は、正しい道に乗せるために必要な諸悪であり、みな必然が用意した良いことなのです。この宇宙は、善と悪・光と闇が互いに支え合いながら、進化成長するようにできているのです。悪はないのです。闇は無いのです。すべて善であり、すべて光なのです。
2018年6月15日更新
※ あなたに起きたどんな出来事も、すべて良き必然だと思ってください。例えば、事故に遭った・・ 蚊に刺された・・ 足をくじいた・・ 人に騙された・・ 試験に落ちた・・ 確かに現象面だけ見たら良いとは思えません。でも「風が吹けば桶屋が儲かる」の譬えのように、すべて自分を成長させる良いことにつながっているのです。確かに、苦しいでしょう! 辛いでしょう! 煩わしいでしょう! 腹立たしいでしょう! でも、その厳しいことを乗り越えれば、大きく原子核を増やすことができるのです。
苦しいことを回避しようとする自己防衛は、進化成長を妨げる矛盾です。どうか、苦しいことから逃げないでください。果敢に挑戦し乗り越えてください。
自分の欠点も、自分が克服しなければならない課題も、自分の存在さえも、結果が教えてくれます。私はいつも言います。
「相手(結果体)がどうしているのですか? それは、自分(原因者)がいるからではありませんか? 自分(原因者)がいなければ、相手(結果体)はいないのですよ! なぜなら、自分がいるから相手関係が生まれるのであって、自分がいなければ相手関係が生まれるわけがないからです。と言うことは、相手は自分が連れてきた自分であると言うこと、つまり自分が創った自分であると言うことです。そう断言できるのは、相手(結果体)の中に素材である自分(原因者)がいるからです。」と・・・。
このように自分(原因者)が、相手(結果体)を創り、相手(結果体)が、自分(原因者)を創っているのです。自分(原因者)の存在さえも相手(結果)が教えてくれると言うのは、見える相手(結果体)が見えない自分(原因者)を教えてくれるからです。ですから、見える結果体が存在しなかったら、私たちは永久に自分(原因者)の存在が分からないのです。これは、自分(原因者)と相手(結果体)が一つだからです。同じだからです。
しかし一般人は、原因者と結果体との関係を認めようとしません。だから彼らは、過ちが見付けられないので余り成長できないのです。でも学びの友の皆さんは認めていますから、過ちを正して成長できるのです。皆さんにとって結果体は、本当にありがたい存在なのです。
「結果が見えて肌で感じられること(痛いこと・苦しいこと・悲しいこと)は素晴らしいことですね!」とある学びの友が言っていましたが、正にそのとおりです。もし結果が見えなかったら、私たちは過ちを正そうとしませんから、永久に成長できないでしょう。と言うより、自分の存在さえも分からないのですから宇宙の迷い子です。見えて肌で感じられる肉体(結果体)があるから、私たちは自分(原因者)の存在を知ることができるのです。
では、原因者とは何でしょうか? それは、私たちの意識です。肉体は結果体なのです。もし結果体(肉体)が見えず肌で感じられなかったら、私たちは自分(意識)の存在を永久に知ることはできないはずです。だから私は、自分(意識)の存在を教えてくれる結果(肉体)はありがたい! 自分の過ちを教えてくれる結果(起きたこと)はありがたい! と言うのです。
科学者も誰もが、先に物(表現宇宙)があってそれを私たちは見ていると思っています。でもそれでは、原因と結果が逆さまになってしまい宇宙は存在できません。あくまでも先に原因があって、後に結果が生まれるのです。原因なしに結果が生まれるわけがないのです。私たちの意識が原因ですから、私たちの意識(原因)が物(結果・表現宇宙)を創り、私たちの意識がその物(結果・表現宇宙)を見て感じているのです。だから私たちの意識が、宇宙を創っていることになるのです。でもその意識の存在は、見える結果体がなくては分からないのです。例え私たちの意識があっても、見える結果体がなくては証明してくれるものが無いわけですから、私たちの意識は無きに等しいのです。結果体が証明してくれるから、私たちの意識の存在が可能なのです。と言うことは、結果と原因は対等だと言うことです。同格だと言うことです。
原因と結果の関係は、表裏の関係にあるのです。裏(原因)がなければ表(結果)は無いし、表(結果)がなければ裏(原因)も無いのです。両方あって「ソノモノ」が存在できるのです。だから、結果体は原因者そのものであり、原因者は結果体そのものであると言えるのです。でも実際にあるのは、あくまでも原因者の方です。これだけは絶対に譲れません。譲ったら両方が消えてしまうからです。どうか、結果が過ちを教えてくれる、結果が自分(原因者)の存在を教えてくれる、「原因と結果の法則」に感謝しましょう。
2018年7月1日更新
神は永遠に知ることができません。その永遠に知ることのできない神が、今、私の中にいるのです。だから、私も永遠に知ることができないのです。でも、それで良いのです。もし知ることができたら、それは神でなくなるし、私でもなくなるからです。
神は無限なのです。そんな神を、どうして知ることができましょうか? もし知れたら、それは有限の神になってしまいます。有限ということは、終りがあると言う意味ですから、それでは神でなくなってしまいます。
神には終わりが無いのです。終わりが無いから始まりもないのです。終わりも始まりも無い存在を、どうして知ることができましょうか? 始まりがあり終わりがあれば、引っ掛かりがあるので爪でメクルことができますが、引っ掛かりがないので爪でメクルことができないのです。神は、まっ平らなのです。 “何だ! 神って永遠に知ることができないのか!?” と、ガッカリしないでください。神は知ることができます。永遠に神を知ることができないと知ったことが、神を知ったことになるからです。そのことを今、あなたは知ったのです。と言うことは、あなたは今、神を知ったと言うことです。
永遠に知ることができないのが、神の証なのです。永遠に知ることができないのが、私の証なのです。
2018年7月15日更新
この宇宙で最も確かなことは
神のみが語れるという事実です
ならば・・
言葉を語れるあなたは
神ではありませんか?
あなたは先ほど
友たちと語り合いましたね
本当に友たちと語り合ったのでしょうか?
いいえ、
あなたは神と語り合ったのです
神であるあなたが・・
神である友たちと語り合ったのです
なのにあなたは・・・
人が語っていると誤解しています
これは神に対して失礼です
あなたは先ほど・・
自分のことを人間だといいましたね!
これも神に対する冒涜です
これでは神様から・・
「あなたは嘘をついていますよ!」
といわれても仕方ありません
どうか
言葉を盗まないでください
どうか
嘘をつかないでください
あなたは間違いなく神なのですから・・・
2018年8月1日更新
※「身・口・意」は三位一体です。口(言葉)は、三位一体の真ん中に位置します。ですから、口(言葉)は神人に当てはまります。
(人=神人=神)・・三位一体
神は・・意です。
神人は・・言葉です。
人は・・行為です。
言葉(神人)は、神の意と人間の行為が合わさった状態なのです。
※ 自覚の味を知らない者が、真理を語る資格はありません。また自覚の味を知らない者が、瞑想を教えることもできません。
※「 真理(宇宙)を知った!」と言う人は、何も知らない人です。「真理(宇宙)は知れない!」と言う人は、何かを知った人です。その人は、謙虚になります。それは、謙虚にならざるを得ない真理の深みを知ったからです。
私たちは、意識を持っています。その意識は、前後のつながりを持っているアナログ的な意識です。アナログ的意識だから、自分が何なのか分かるのです。もしデジタル的(ぶつ切りの)意識だったら、前後のつながりがないので、自分の存在も、妻子の存在も、表現宇宙の存在も分かりません。それでは、表現宇宙に何も物語が生まれないのです。意識がアナログ的であると言うことが、自分の存在と宇宙の存在を確かなものにし、究極の幸せを生み出してくれているのです。
安心してください。自分の意識は、絶対無くなりません。こんな幸せなことがありましょうか? いや、こんな苦しいことがありましょうか? と言うべきでしょうか? なぜなら、意識があるから苦しむからです。でも意識がなかったら、苦しみも体験できないけれど幸せも体験できないのです。
あなたは、幸せが欲しくないのですか? 「苦しまないで済むなら幸せなどいらない! 意識などいらない!」と言うのですか? でも、どんなにいらないと言ったところで、自分の意識は絶対なくならないのです。それは、意識がアナログ的だからです。
永遠の意識を持つことが苦しいと思えば、苦しいのです。永遠の意識を持つことが楽しいと思えば、楽しいのです。それは、意識の使い方次第なのです。どうせ無くせない意識なら、楽しいことに意識を使ったらどうでしょうか?
学びの最終目標が意識(想念)のコントロールであると言われるのは、使い方次第で幸せな宇宙にも不幸せな宇宙にもできるからです。
2018年8月15日更新
※ 意識は絶対実在です。意識がなかったら何も生まれないのですから、意識が絶対実在であることは間違いありません。では、意識って何でしょうか? 意識は何処から来るのでしょうか? 意識の源は何んでしょうか? 意識を生み出しているのは何でしょうか? どうして意識が有るのでしょうか?
意識を意識している意識、その意識を意識している意識、そのまた意識を意識している意識、どんなに意識を探って行っても意識の源は分かりません。一体、意識の正体は、何なのでしょうか?
意識が意識して意識を生み出している。意識の生みの親は意識なのです。意識が原因者であると言う意味です。でも、意識された意識は結果です。その意識が意識した意識も結果です。その結果は、原因者が生み出しているはずですが、その原因者である意識も結果です。と言うことは、依然として意識の正体は解らないのです。
どんなに探っても解らないのが意識なのです。解らない意識を探るほど愚かなことはありません。でも、意識とはそう言うモノである、と言うことだけは知っておいてください。
何事も「拘ってはならない!」と言われるのは、この世は腰掛けの世界だからです。腰掛けの世界に ”こう、あるべきだ! ああ、あるべきた!” と言った、拘り事などあるわけがないのです。折り紙の「騙し船」のように、こちらを掴んでいたつもりがいつの間にか別な所を掴まされているのが、腰掛けの世界なのです。
良いではありませんか? どんなに器量が悪くても、どんなに頭が悪くても、どんな学校を出ていても、どんな仕事に就いていても、どんな小さな家に住んでいても、すべて魂を大きくするための方便なのですから・・・。どんなにお金や地位や名誉や権力を持っていても、どんな素晴らしい家族を持っていても、死ねばみな置いて帰らねばならないのですよ。そんなモノのために拘って、悩み苦しむなど愚かです。
賢い人は、持って帰れるモノのために生きます。持って帰れるモノとは、唯一原子核(魂)です。
2018年9月1日更新
※ 勝敗に拘って成績を落としているアスリートがおりますが、拘れば光を閉ざすので成績が悪くなるのです。競技を楽しんでください。楽しめば光が入ってくるので、成績が良くなります。求道の旅も同じです。「ねばならない!」と言った拘りを持って真理を求めると苦しくなります。どうか、楽しみながら真理を求めてください。
真我意識は、真我意識だけでは存在できません。もう一つの意識があって、はじめて真我意識が存在できるのです。もう一つの意識とは、自我意識のことです。真我意識と自我意識は同じ一つの意識ではありますが、別けなければ客観的見方ができないため、真我意識を別けたのです。別けて初めて、真我意識が存在できるようになったのです。自我意識が存在しなかったら、たとえ真我意識が存在していたとしても、存在していないのと同じなのです。なぜなら、認める意識がなければ、認められる意識は存在できないからです。このように自我意識と真我意識は、相身互いの関係にあるのです。どちらが存在しなくても、どちらも存在できないと言うことです。これは、次のような例えで示せるでしょう。
「雑巾」には表と裏がありますが、この段階では雑巾は存在していないのです。表だけの雑巾もなければ、裏だけの雑巾も無いという意味です。「雑巾」は、表と裏があってはじめて「雑巾」として存在できるのです。意識も同じように、表の意識(自我意識)と裏の意識(真我意識)があって、はじめて本当の私(神人の意識)が存在できるのです。「雑巾」とは、「神人の意識」のことです。すなわち、本当に有る意識のことです。
「神は絶対有るモノ・・人間は無いモノ・・神人は本当の有るモノです。」
2018年9月15日更新
※ あなたは今まで、一度も自分の意識から離れたことがないのです。と言うことは、あなたは今日まで自分の意識に監視されてきたと言うことです。だからあなたは、自分を偽ると苦しくなるのです。自分の意識から離れたことがないのは、自分の意識は二つであり一つだからです。
神の心は、真心です。神は、その真心を使ってこの表現宇宙を創造されました。その神と同じ心を持っているのが私たちですから、真心を使ってやれば成し得ないことは(不可能なこと)は無いのです。私はやっているけれど何も変わらないと言う人は、真心の込め方が足りないからです。つまり、真剣さが足りないからです。真剣さの中には動機も含まれていますから、不順な動機でやっていないかも顧みてください。これは、家庭生活においても、社会生活においても、真理を求めることにおいても、言えることです。特に真理を求めることにおいては、真剣さと動機が大切です。あなたは、真剣にしかも純粋な動機で真理を求めていますか? 片手間で、この世のご利益が欲しくて真理を求めていませんか?
神はあなたの中におられるのですから、どれほど真剣にやっているかはご存知なのです。どうか神が納得するような、真剣さと動機を持ってやってください。そうすれば、必ずあなたは変わります。あなたの周りの環境も良くなります。勿論、健康にもなります。そうすれば、真理も求めやすくなります。もうあなたの前に、何の障害物も置かれないでしょう。
2018年10月1日更新
※「ただ、やりたいからやる!」と言うのが極上の動機です。でもそれでは、目的が見えないので力が入らないでしょうから、原子核が有る大きさに達するまでは、「世のため人のためにやる! 原子核を増やすためにやる!」と言う動機でやってください。
悪を知らない赤ちゃんは、確かに善人かも知れません。でもそれでは、真の善人とは言えないのです。なぜなら、体験のない善人だからです。真の善人とは、悪の苦味を体験して善の尊さを知った人です。同じように、この世の苦味を知らない無垢な神では、神人にはなれないのです。この世の苦味を知った人間が神に目覚めた時、神人になれるのです。ですから、どうしても人間として生まれ、この世の苦味(悪)を体験する必要があるのです。
私たちは、間違いなく神です。でも、体験途中の神なのです。体験を深めれば心の底で神(本当の自分)を知るので、神人になれるのです。
2018年10月15日更新
※ 神を説明する言葉は、この宇宙にはありません。でも、近い言葉ならあります。それは、意識です。生命です。光です。魂です。本質です。一です。○です。しかし、それでも依然として説明し切れていません。でも、それで良いのです。説明し切れたら、神は有限の存在になってしまうからです。
世界を変えたいと言ってデモをする人がおりますが、そんな人騒がせなことをしなくても、自分の意識を変えれば世界は変わるのです。こう言うことです。
私たちが日々見て感じている世界は、理解力の高さによって見ているモノが違ってくる世界です。ですから同じ世界を見ているようで、人それぞれ見ているモノが違っているのです。原子核が大きくなり理解力が高まれば、自分の意識に変化が起きてきます。そうすると、今までの見方が変わり、感じ方が変わり、受け取り方が変わり、納得の仕方が変わってくるのです。例えば、今まで憎んでいた相手や厳しく思えた環境が、なぜか憎めなくなり、なぜか厳しく思えなくなるのです。それどころか反対に、愛おしい相手に見え、穏やかな環境に見えるのです。それが、自分の意識を変えれば、世界が変わると言う意味なのです。それで良いのではありませんか? 自分の心が穏やかになることが、大切なのですから・・・。
「人を変えたい! 環境を変えたい!」と、悩まないでください。原子核を大きくしたら自分が変わるのですから・・・。
2018年11月1日更新
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※ 宇宙の法則から言って、内側(魂・原子核)が変われば、外側(人・環境)が変わるのは当然です。しかし、今の地球は波動が粗いので変わるには時間がかかります。でも根気よく内側を変えてゆけば、必ず外側は変わります。
内側を変える方法は、社会体験と瞑想です。この2つのことをやれば、原子核が大きくなるので自分の意識が変わります。自分の意識が変われば、外側の環境も変わってくるのです。
この世には、イモ人間だとか! イモ野郎だとか! イモ侍だとか! イモ姉ちゃんだとか! 芋をあざ笑う言葉がありますが、「イモをあざ笑う者はイモに泣く」のです。こんな話があります。
ある国にコメの栽培を奨励する殿様と、イモの栽培を奨励する殿様がおりました。コメの栽培を奨励する殿様は、イモの栽培を奨励する殿様を「バカな殿様だ!」とあざ笑っていました。ある年、その地域に干ばつが襲いました。稲は干ばつに弱いので、米作りを奨励していた国では、ほとんどコメが取れませんでした。ですからその国では、多くの餓死者を出しました。一方、イモは干ばつに強いので、イモの栽培を奨励していた国では、一人の餓死者も出ませんでした。
「イモ」は、どんな荒れ地でも採れるありふれたものです。「想念」も、誰でも持っているありふれたものです。でもそのありふれた想念が、人生を良くも悪くもするのです。想念を軽んじて使っている者は、必ず痛い目に遭います。それが、「想念(イモ)をあざ笑う者は想念(イモ)に泣く」と言う意味です。
私はイモが大好きです。イモさえあれば、他に何もいりません。つまり、想念さえあれば、他に何もいりません。人生は、想念次第なのです。想念さえあれば、人生はいかようにもなるのです。
皆さんは、想念の凄さ、想念の偉大さが、まだ解っていません。この表現世界で最も大切なモノは、家族でも、仕事でも、地位でも、権力でも、お金でも、宝石でも、ありません。想念です。どうか、想念を重んじてください。
2018年11月15日更新
※ 外側のモノに頼らないでください。内側の想念に頼ってください。神仏や、親や、友達や、先生や、薬や、医者や、お金や、権力に頼っても、それは外側頼り(他力)ですから成就しませんが、想念は内側頼り(自力)ですから間違いなく成就するのです。
自分が存在している証は、今、自分と「思」える意識を持っていることです。今、自分と「思」える意識を持っていることが、自分の存在を証明しているのです。ではその自分と思える意識は、何処から来たのでしょうか? それが謎なのです。どんなに探っても解らないのが、自分の意識なのです。でも、解らなくて良いのです。解ったら自分が消えてしまうからです。
求道者の目的は、解かりようのない「意識」の謎を永遠に探って行くことです。解かりようのない「意識」の謎を探って行くことに、どんな意味があるのかと思われるでしょうが、探って行けば「意識」の謎の一部分が解かり、解った分、新鮮な幸せが得られるからです。
私たちが欲しているのは、永遠に尽きない永遠に色あせない新鮮味のある幸せです。その幸せは、意識の謎(宇宙の謎)が解ったら解った分、得られるようになっているのです。だから私たちは、解かりようのない意識の謎(宇宙の謎)を、永遠に探って行く必要があるのです。
2018年12月1日更新
※ 自分の意識を無くすことは絶対できません。どんなに無くしたいと思っても、無くすことができないのが自分の意識なのです。なぜなら、今、自分と思えているからです。
自分の意識の永遠性は、今、自分の意識が存在していることが証明しているのです。
※「自分の意識が無かったらどんなに幸せか?」と思うかも知れませんが、自分の意識が無かったらその幸せさえ味わうことができないのですから、そんな思いを持つこと自体、無意味なのです。
「真剣に・純粋に」真理を求めている者を、神は決して悪いようにはしません。
マラソンで2時間1分台の新記録を出した選手が、優勝後のインタビューの中でこんなことを言っていました。「マインドが記録を作った!」と・・・真理をどれほど知っていたかは分かりませんが、走ったのは肉体ではなく心だと彼は言いたかったのでしょう。
今の地球人類は、身体が何かをやっていると思っています。でも、すべて心(想念)がやっているのです。心(想念)がなかったら、指一本動かすことができないのです。心(想念)がご主人様で、身体は下僕なのです。下僕ですから、身体は心(想念)に絶対服従です。心が嬉しければ、身体は嬉しい表現をするのです。心が苦しければ、身体は苦しい表現をするのです。この表現世界は、心(想念)の絵の展示場のようなものなのです。心が美しければ美しい絵が展示され、心が醜ければ醜い絵が展示されるのです。今、社会に醜い絵が展示されているのは、人類の心が醜いからです。
地球で真理の火の手が上がるのは、スポーツ界からです。スポーツは「原因と結果の法則」がいち早く現れるので、一般人にも分かりやすいのです。
2018年12月15日更新
※ もしスポーツ界で心が重視されるようになったら、驚くような記録が続出するでしょう。もう競うこと自体、無意味になるでしょう。
※ この世の何が信じられなくても、自分の想念だけは信じてください。なぜなら、自分の想念だけが実在だからです。
※ この世に恐ろしいものが有るとすれば、自分の想念です。この世に素敵なものが有るとすれば、それも自分の想念です。
※ たかが想念、されど想念です。
想念を軽んじている者は、想念で泣かされるでしょう。