第一集 (2011年)

求めなければ与えられることは無い!

 どんなことでもそうですが、何もしないで待っていては、与えられることはありません。真理も同じことです。自ら探し歩いて、はじめて与えられるのです。なぜなら、歩かなければ目的地に着くことはないからです。

 なぜ生き物に足があると思いますか? それは歩くためではありませんか? 歩けば、様々な人や物との出会いがあり、そこにドラマが生まれます。そのドラマが、真理を得る手掛かりになるのです。

  • 今でもお釈迦様は歩き続けています。
  • イエス様も同じように歩き続けています。
  • 私の恩師である知花敏彦先生も、肉体を脱いだ今でも歩き続けています。

 このように彼の偉大な覚者達でさえ、一時も休まず歩き続けているというのに、どうして凡夫の私達は歩こうとしないのでしょうか? 歩かないで、求めないで、真理が与えられた人など未だかつて一人もいないのですよ!

 どうか自尊心を捨てて下さい。謙虚になって下さい。そして、歩いて、求めて、求め続けて下さい。向上心はその望みの高さです。努力はその意志の強さです。どんなことも、真理を得るために必要な道具です。どうぞ、しつこく求めて下さい。しつこくせがんで下さい。

 どうでしょう? 我が子が真理を欲しいとせがんでいるのに、与えない親がいると思いますか? 私達もしつこくせがめば、きっと神様は与えてくれると思います。

 もう一度いいます。待っていて与えられることは絶対ありません。どうか自ら求めて下さい。求めてこそ、与えられることを知って下さい。

2011年1月15日更新

 

 

 

私達はすでに本当の自分を知っている

 もしも朽ち果てる肉体が自分ならば、肉体が朽ちるまで面白おかしく生きたらいいでしょう。何をしようと、肉体が無くなればそれでお終いなのですから! もう、倫理も道徳も宗教も必要ありません。勿論、先祖供養する必要もないし、子供たちに何かを残してあげる必要もないし、また大意を抱く必要も、未来に希望を持つ必要も、夢を抱く必要もありません。し放題に、好き放題に、生きたらいいのです。それも嫌なら、自殺したらいいのです。多くの人がそれができないのは、自分が永遠の生命だということを本能的に知っているからです。

 そうです!

 私達は、石ころみたいな虚しい存在ではないのです。本当の自分は、永遠不滅の生命です。意識です。本質です。神です。呼び名はどうであれ、永遠に生き続ける生命が本当の自分なのです。

 しかし自我(肉我)の自分は、それを認めようとしません。だから律する自分と、放漫な自分との間で葛藤が生まれるのです。いわゆる自我と真我との戦い、良心と偽心との戦い、サタンとキリストとの戦い、すなわち聖戦です。

 あなたには良心がありますね! 理性がありますね! これが人間は神の子(生命の子)の証しなのです。私達は、自分が神の子であることに薄々気付いているのです。すなわち、本当の自分を薄々知っているのです。

2011年1月17日更新

 

 

 

人間小宇宙

 どんな物の中にも、その物を形作っている本質が存在します。本質無き形体はあり得ないのです。ならば人間は、どんな本質で造られているのでしょうか?

 どんな物も分子の集まりであることは、現代人なら誰でも知っています。その分子が原子の集まりであることも、今や常識です。その原子が、人間の本質なのです。といっても、今の科学者達がいっている原子とは違います。絶対原子を内在させた原子のことです。厳密には、反原子と絶対原子を内在させた三位(身)一体の原子です。(絶対原子のことを、魂とか、生命核、と呼んでいる。)

 私達は、三位一体となった原子体(肉体)の中に、生命核(魂)を宿した二重生命体なのです。例えれば、家を肉体と考え、家の中に灯された電燈を魂だと考えたら分かりやすいかもしれません。要するに形の中に電燈が灯されて、はじめて使える物(生きる物)となるのです。

 このように人間は、原子によって組み立てられた肉体の中に、生命核を宿した二重生命体なのです。形(家)の素材も生命の素材も同じ絶対原子を内在させた本質ですが、進化の過程が少々違うため同じように扱えないだけなのです。

 この仕組みは宇宙も同じで、宇宙の本質(属性)と人間の本質(属性)とは瓜二つなのです。だから、人間の本質を追及すれば宇宙を知ることができ、宇宙の本質を追及すれば人間を知ることができるのです。これが人間小宇宙といわれる理由です。

 イエス様は人間神の子といわれ、お釈迦様は仏の子といわれましたが、それは神仏(宇宙)の属性のすべてが、人間に受け継がれているからいえることだったのです。

 宇宙には、唯一の本質しかありません。唯一の神しか存在しません。だから、神の呼び名が違うからといって宗教戦争してはならないのです。

2011年1月20日更新

 

 

 

全てのモノは自分が作っている

 全てのモノは自分が作っているといったら、あなたは信じますか? 信じませんか?

 私達はモノが先に存在し、後に意識がそのモノを認識したと思っています。しかし、それは誤りです。先に認識があって、後にモノが生まれたのです。なぜなら、モノはみな自分の意識が生み出しているからです。自分が認識しないモノは、存在しないのです。自分が認めるからこそ、そのモノが存在できるのであって、自分が認めなければそのモノは存在できないのです。認識されるモノがあるということは、その前に認識者が必ず存在し、そのモノを作っているということです。もし先に結果体(モノ)が存在するならば、原因と結果の法則は逆転し、天地が逆様になってしまうでしょう。原因あっての結果です。「因果の法則」は、どんなに変えようとしても変えられない真理なのです。

 これは、次のような前提でモノの成り立ちを考えれば、納得していただけるでしょう。

 「認識者そのものが、そのモノの本質になっているということ・・・。」

 既に述べたように、意識=生命=本質ですから、認識したモノの中には必ず本質である認識者が存在するのです。そこにそのモノがあるということは、そのモノを作っている認識者(本質)がそのモノとなって、そのモノの中にいるということです。もしそのモノの中に認識者がいなければ、そのモノはあり得ないわけですから、認識できるわけがないからです。ですから、全てのモノは認識者が作っているといえるのです。

 つまり、モノは自分の分身なのです。

 本当の自分は、肉体ではありません。認識者です。意識そのもの、本質そのもの、生命そのものです。それが本当の自分です。本当の自分を知るためには、自分が意識そのものであり、その意識がモノを作っていることを理解することです。

 その認識者は、この宇宙に一様(ひとさま)しか存在しないのです。その一様が自分ですから、自分がいなければこの宇宙に何も存在しないことになるのです。自分が抜けたら、一様しかいない本質は無いわけですから、宇宙が生まれるわけもないし、モノが生まれるわけもないからです。

 さあ、本質の自分を心底で理解しましょう。その者は、もうこの世の何モノにも執着を抱くことはないでしょう。全てのモノは、自分そのものだからです。

2011年1月21日更新

 

 

 

心色(想念)によって違ってくる影響

 「嬉しい涙!悲しい涙!」があるわけではありません。どんな涙であろうと、涙そのものには何ら変わりはないのです。しかし、その涙の中に宿っている心色は、まるで違うのです。嬉しい涙には嬉しい心色が、悲しい涙には悲しい心色が、溶けて宿っているのです。こんな実験結果があります。

 植物を本当に怒りをもって痛めつけた実験では、その植物は相当のダメージを受けたといいます。一方、植物を強くするためと思い愛情を持って痛めつけた実験では、かえって枝振りが良くなったといいます。

 同じ怒りでも、心色によって影響がまるで違ってくるということが、この実験からはっきりと見てとれます。私が教育者に、怒りのムチで打つのではなく、叱りのムチで打ってほしいと願うのは、心色によって子供たちに与える影響が全く違ってくるからです。

 本当に子供を愛するなら、愛のムチで打って下さい! 本当に我が子を愛するのならば、愛のムチで打って下さい! 想念ほど頼もしく、また恐ろしいものはないのですから・・・。

2011年2月6日更新

 

 

 

原因は心にある

 これまで世界中で、軍事費や災害防止費や事故防止費などに、どれくらいの予算がつぎ込まれてきたことでしょう? おそらく、天文学的数字に上るでしょう。人類はその膨大な予算を、どうして心の研究につぎ込もうとしないのでしょうか? 災厄のすべてが心因にあるというのに、その心を無視するとはどういう了見でしょうか?

 何度も指摘してきたように、病気を含めあらゆる不幸の原因は心にあるのです。その心を整えたら、何もしなくても幸せになるのです。なのに人間は、原因である心を無視し、結果対処で物事を解決しようとしています。

 どうでしょう。

  • 薬や医療機器を開発したら病気は無くなるのでしょうか?
  • 道路を整備したら交通事故は無くなるのでしょうか?
  • パトカーを増やしたら犯罪は無くなるのでしょうか?
  • 軍備を増強したら戦争は無くなるのでしょうか?
  • 気象衛星を打ち上げたら竜巻や台風は無くなるのでしょうか?

 そうではないはずです。どんなに結果対処したとしても、原因である心を放っておいては、根本的解決にはならないのです。

 このようにいうと、"人の心を簡単に変えることができるくらいならばとっくにやっていますよ! "という政治家がおります。しかし、やりもしないで、なぜできないと諦めてしまうのでしょうか? 未だかって、心の研究に国の予算が使われたことは一度もないのですよ! 

 せっかくのお金を使うのならば、生きたお金を使いましょう。どうか心を重視して下さい。心に予算をつぎ込んで下さい。その先に、きっと素晴らしい社会が待っていることでしょう。

2011年2月14日更新

 

 

 

 

環境を変えるには?

 "一向に環境が変わらない!"と愚痴をこぼす人がおりますが、それは努力が足りないからではありませんか? 

 たとえば、一生懸命努力して成績を上げれば、会社での地位も給料も上がることでしょう。そうすれば、アパート暮しからマンション暮らしに変えられるかもしれません。

 もっと努力すれば、一軒家が持てるかもしれません。それどころか重役に抜擢され、大邸宅が持てるようになるかもしれません。心の環境を変えるのも同じなのです。

 一生懸命努力して疑問を追及すれば、理解力が高まります。理解力が高まれば、気付きが起きます。気付けば自覚が高まり、変性変容が起きます。このように、この世の環境も心の環境も、努力次第でいくらでも変えることができるのです。

 怠けていて、どうして環境が変わりましょうか? 怠けているということは、歩いていないということですから、景色(環境)が変わるわけがないのです。私が他力を否定するのは、自分の足で歩かなければ前進しないからです。前進しなければ、周囲の景色(環境)が変わるわけがないのです。

 自分の足で歩くという意味は、

  • 思索(自分に疑問を問いかける)をする という意味です。
  • 自力で理解力を高める という意味です。
  • 瞑想し自覚を高める という意味です。
  • 普段の生活の中で生命を意識し、生命に委ね、生命に生きる という意味です。
  • 嫌なことに挑戦し、自分を大きくする という意味です。
  • 正しく思い、正しく語り、正しく行う、という意味です。

 何事も、努力と向上心なしには得られません。これは当たり前のことで、何の不思議もありません。もしも努力も向上心も不要ならば、この世にそのような言葉は無かったはずです。あるということは、必要だからなのです。

2011年3月7日更新

 

 

 

ポックリ死ぬことは良いことか?

 世の人々は、ポックリ死ぬことを願っております。苦しまず一瞬のうちに死ねたら、こんな幸せな死に方はないからです。しかし、ポックリ死ぬことは、本当に良いことなのでしょうか?

 世間では、ガン宣告することを避けています。特に末期のガン患者に対しては、その傾向が強いようです。今の医学ではガンは死を意味するので、宣告された途端に絶望して、生きる気力を失ってしまうからでしょう。しかし、良く考えてみて下さい!

 死が刻々と近づいているというのに、何の準備も何の学びもさせず過ごさせることが、本当に本人のためになっているでしょうか? ガン患者は、死ぬ前に最後の学びをしようとしているのですよ!

 ガンで死ぬ人は、死ぬまで一定期間の時間が与えられます。ガン宣告はショックかもしれませんが、宣告されることで本人は、きっと人生の思索をするはずです。

  ○死とは何か?

  ○人は死んだらどうなるのか?

  ○人生とは一体何だったのか?

  など・・・。

 この思索は魂を大きく飛躍させます。自殺や横死が犬死だといわれるのは、ポックリ死んでは何の学びもできないからです。その意味では、死刑執行まで時間が与えられている死刑囚は、少なからず学んで帰っているはずです。死刑囚とガン患者を一緒にするのは不謹慎かもしれませんが、思索の時間が与えられている点では同じだと思います。

 だから私は、死ぬまで時間の与えられているガンに対して"ありがとう!"といいたいのです。(死ぬまで時間の与えられている他の病気も同じです。)

 本当にその人を愛するなら、苦しみを避けて通してはなりません。非情な言い方かも知れませんが、これは愛するがゆえにと思って下さい。とはいっても、青い果実を強引にもぎ取るようなことはしてはなりません。つまりガンを宣告するにしても、その人の魂の成長がどれほどなのか? 本人の心情がどのような状態なのか? さらに良くよく機会を伺い、適切な判断を持ってやることです。もし魂が幼すぎて、宣告が耐えられないようなら、避けるべきでしょう。

 苦しんでいるのは、当人だけではありません。肉親も一緒に苦しんでいるのです。その苦しみを苦しみで終わらせないためにも、病気から学んで下さい。

 人間は近視眼的モノの見方しかできないため、事の真意が把握できないでおりますが、神の意図は苦しみの中に息づいているのです。どうか苦しみの中に隠されている真意を把握して下さい。そうすれば、苦しみや悲しみを成長につなげることができるでしょう。

 本当は、苦しまず死を迎える方が良いに決まっています。しかし、幼い魂の多い今の地球では、死の苦しみは必要なのです。その意味において死は、地球人類の成長につれ、静かに、穏やかに、ポックリと、迎えられるようになるでしょう。

2011年3月22日更新

 

 

 

愛の法則

 近年、ますます宝クジの当選金額が高額になっておりますが、これほど国民を堕落させる悪法はありません。「国民に夢を与えるため!」だとかいっておりますが、愛の法則を知らないから、そんなことを平気でいうのです。

 宝クジに当たって幸せになった人など、未だかって一人もいないのですよ! " 私は幸せになりました ! "という人は、人生の続きを見ていないからです。

 この宇宙は楽して得するようにも、苦しんで損するようにもできていないのです。なぜなら、この宇宙は愛の法則で支えられているからです。愛の法則はバランスですから、偏りを嫌うのです。もし、愛の法則に逆らい楽ばかり追いかけるなら、反動として大きな苦しみが与えられるでしょう。

 たとえば、

○遊んで働かない人は、いつか必ず強制労働させられます。

○人から奪っている人は、いつか必ず奪い返されます。

○ギャンブルで儲けている人(楽して儲けている人)は、いつか必ず大損させられます。

 事実、" 私は何も悪いことをしていないのに、なぜこんな苦しい目に合わねばならないのだ ! "と嘆いている人がいるではありませんか。その人は、前世のツケを今生で払わされているのです。因果応報に支えられている愛の法則は、決して偏りを許しません。この愛の法則は絶対的法則ですから、誰も逆らうことはできないのです。

 だから楽して儲けようなど、よこしまな考えは持たないことです。" 今よければ良い! "という人は、どうぞ愛の法則を犯して下さい。来生、きっと地獄のような苦しみが待っていることでしょう。

 どうか額に汗して働いて下さい。愛の法則は、きっとあなたの生命核(魂)を大きくしてくれるでしょう。

2011年4月1日更新

 

 

 

痛みや苦しみはなぜ必要か?

 神はなぜ、痛みや苦しみを用意されたのでしょうか。それは、次のような理由からです。

 

1、肉体を粗末に扱うのを避けるため。

 もし痛みや苦しみが無かったら、自分の体を粗末に扱ってしまうでしょう。それでは肉体維持は適いません。(それでなくても人間は、怪我をしたり、病気をしたり、人殺しをしたり、自殺をしたり、肉体を粗末にしている。)痛いから気を付けるのです。痛いから、身を守ることができるのです。痛みや苦しみは、危険から身を守る警報装置の役割を果たしているのです。

 

2、現実を現実たらしめるため。

 もし痛みや苦しみが無かったら、私達はこの世を夢か幻だと思い、真剣に生きようとしないでしょう。それでは何一つ学ぶことができません。この世が修業の道場といわれるのは、痛みや苦しみを通して真剣に学べるからです。

 

3、神に顔を向けさせるため。

 人間は真実を知るために生まれてきたにもかかわらず、一向に真実に顔を向けようとしません。だから神は、顔を向けさせるために痛みや苦しみを用意したのです。

 誰でも耐えられない痛みや苦しみに襲われると、"神様助けて下さい!"と神頼みするようになるものです。これは人生の思索を始める重要な一歩になるのです。

 

4、反省をさせるため。

 痛みや苦しみに襲われると、"なぜ私はこんなに苦しまねばならないのか?、何かバチでも当たったのか?"と疑問を持つようになります。痛みや苦しみが無かったら、自分が暴走していても気付きません。振り返ってこそ、反省してこそ、どんな走り方をしているか気付くのです。反省は方向転換させる大変意義あることなのです。

 

5、疑問を持たせるため。

 4の反省は、結局人生の思索を始めるきっかけになります。人間とは何か?。人生とは何か?。人は死んだらどうなるのだろうか?等々・・・。これは特に、死に直面している人の中に芽生えてきます。疑問は気付きにつながり、気付きは目覚めにつながります。だから痛みや苦しみは、眠っている魂にはどうしても必要なのです。

 

6、因果の法則を知らしめるため。

 善い行いには良い結果が、悪い行いには悪い結果がついてきます。でも痛みや苦しみが伴わなかったら、そのことに気付くことはありません。悲しいことですが、人はこの身で痛みや苦しみを体験しなければ、自分の過ちに気付かないのです。痛みや苦しみは、因果の法則を知らしめる重要な役割を果たしているのです。

 

7、肉体の執着を解くため。

 幼い魂は、肉体を自分だと思い違いしていますので、寿命が来てもなかなか肉体から離れようとしません。でも、どんなに執着を持っている魂も、耐え切れない痛みや苦しみに襲われると、肉体から出たいと思うようになります。痛みや苦しみは、肉体の執着を解く重要な役目を果たしているのです。

 

8、相手をいたわる心を育てるため。

 自分が体験した痛みや苦しみは、結局相手をいたわる心を育てます。"自分があれだけ痛かったのだから、相手も同じように痛いはずだと"・・・。つまり自分の苦しみを、相手の中に見ることができるようになるのです。特に肉親の痛みや苦しみは、自分のこととして受け止められるだけに、より切実に感じるでしょう。この切実感が魂を大きく成長させるのです。

 このように痛みや苦しみは、今の私達にとってなくてはならないものなのです。神は何一つ不要なものはお作りになっていません。だから痛いから苦しいからといって、神を憎んではならないのです。憎むのではなく、なぜこのような苦しみが与えられたのか、自分に問いかけることが大切なのです。

2011年4月1日更新

 

 

 

正しく生きていない私達

 これまで私は、この世は非真実の世界である! 幻の世界である! と何度も訴えてきました。世の偉人達も、この世は無常の世界である、といっております。しかし、多くの人は、移り行くこの世の儚さや、人の死の哀れさを目の当たりにしながらも、未だにこの世を真実の世界だと思い込み、消えゆく物やお金のためにあくせく働いています。なんと可哀そうな事でしょう!

 今、お金や物に生きている人は、幻に生きているのですよ! 幻に生きているということは、死んでいるということです。どうも私達は、長いこと人間として生きてきたがために、長い物に巻かれてしまったようです。それは、長いこと寅さん役をやっていた渥美清が、本当に寅さんになってしまったようなものです。

 さあ、もう一度、目を見開いて下さい。この世は無常の世界なのです! 実際に無い世界なのです! どうか実際に有る生命に生きて下さい。その人は、真に生きている人なのです。

2011年4月3日更新

 

 

 

天上天下唯我独存(尊)

 お釈迦様は生まれてすぐ三歩あゆむと、天と地を指さしながら、"天上天下唯我独尊"と唱えたといわれます。でもこれは、お釈迦様を神秘化するために後の人が作った作り話です。お釈迦様は、私達と何ら変わらない手順を踏んで生まれた普通の人間です。どうでしょう。生まれたばかりの赤ちゃんが歩くと思いますか?。話すと思いますか?。

 天上天下唯我独尊の字も意味も、誤謬化して伝えられています。「天上天下唯我独」という字が使われていますが、本当は「天上天下唯我独」が正しいのです。その意味も、「この宇宙で自分が最も尊い者」と伝えられていますが、正しくは「この宇宙には自分(私)しか存在しない!」という意味なのです。  

 お釈迦様は説法の中で、"この宇宙には私しか存在しません!、"とはっきりいっておられます。この"私しか!"という意味は、仏しか(神しか)存在しないという意味で、人間を含め万象万物はみな仏(神)の現れですから、お釈迦様が"私しか存在しない!"といったのも頷けるというものです。(仏と神は同じ)

2011年4月8日更新

 

 

 

主観宇宙

自分の自由意志で自分を苦しめている

 私抜きで何事も始まりません。その宇宙において私は、唯一の存在であり主役なのです。なぜなら、私の意識は主観的意識だからです。この主観という見方が、その宇宙を理解する上においてとても大切なことなのです。

 主観という意味は、一つの立場から観る世界観・宇宙観のことです。ですから、その立場(主観)に立てる者は、一様しかいません。唯一の宇宙しか存在しない理由は、その立場に立てる主観者は一様しかいないからです。その宇宙を存在させているのは、唯一その主観者であるということです。

 その主観者が私なのです。あなたなのです。ということは、その主観者は人類の数ほど存在することになります。なぜなら、一様しか存在しない主観者は、内側には一様しかいないけれど、外側には人類の数ほど存在しているからです。ならばその宇宙は、人類の数ほど存在することになり、その主観者が観ずる宇宙は無数にあることになります。(人類は無数に存在している。)

 その宇宙と表現したのは、その主観者の観る宇宙はという意味であって、唯一の主観者を意味しているわけではありません。すなわち、唯一の主観者は一様しかいないけれど、その主観者は人類の数ほど存在するという意味です。

 私達は何かを認識できる意識を持っているわけですが、その意識はあくまでも主観的なものです。主観者が認めなければ何も存在しない理由は、主観者が認めてはじめて認められるものが存在できるからです。認める者がいなければ、宇宙はおろか何も存在できないのです。その認識できる意識は、あくまでも主観的なものですから、主観意識を持つ私達は、唯一の主役であるといえるわけです。主観者抜きで何も始まらないのは、主役抜きでは何の物語も生まれないからです。

 神とは、この主観者のことをいうのです。主役のことをいうのです。だから私は神です。あなたは神です。その意味では、この宇宙には無数の主役(神)が存在すると同時に、唯一の主役(神)しか存在しないことになるでしょう。先ほどもいったように、その主観者は外側には無数に存在するけれど、内側には一様しか存在しないからです。

 人の意識状態が大切なのではない! 自分の意識状態が大切なのである。なぜなら、自分の意識の外に何も存在しないからである。

2011年5月11日更新

 

 

 

決意を有効に使う方法

 これまで何度も述べてきたように、強い決意は原子核(魂) を間違い無く増やします。では、その決意の有益な使い方を教えましょう。

 

1、瞑想に使う。

 瞑想には集中力が必要ですが、殆どの人は雑念に阻まれ納得できる瞑想ができないでおります。その雑念を強い決意をもって退けようというのが、一つ目の使い方です。

 まず瞑想に入る前に、"私はこれから生命に一心集中します!。生命以外何も思いません。"と強く決意して下さい。そうすれば、意識の中に決意の壁ができますので、雑念が入りづらくなります。

 

2、反省に使う。

 反省で重要なのは、反省前の強い決意と反省後の強い決意です。反省前の強い決意とは、"私は断崖絶壁から飛び降りるくらいの強い決意を持って反省する"、という強い決意のことです。つまり、命を懸けるくらいの強い気持ちで反省することです。反省後の強い決意とは、"二度と過ちを犯さない!"と良心に堅く誓う決意のことです。 

 

3、自分を大きくするのに使う。

 人間は楽な方へ楽な方へと傾きたがります。これは肉体を持つ人間の弱さですが、そこに付け込んで堕落へ怠惰へと誘ってくる邪悪な波動があります。この誘いに勝つためには、強い理性と強い決意が必要です。甘い誘惑が来たら、強い決意を持って次のように退けて下さい。

 "誘惑に負けてたまるか!、サタンよ退け!"と・・・。

 聖戦とかジハードとかいわれる戦いは、このサタンとの戦いのことで、これはもろ刃の剣のような戦いなのです。つまり、誘惑に勝てば原子核を増やせるが、負ければ自分を堕落させるという、裏腹の意味を持った戦いです。それほど強い決意は、私達が考えている以上に重要なことなのです。どうか決意を有効に使って自分を大きくして下さい。

2011年6月5日更新

 

 

 

人生にブレが生じた時には?

 人生の目的を見失うと、どうしても生き方にブレが生じてしまいます。物に溺れる人、金儲けに躍起になる人、ギャンブルに手を染める人、地位や名誉に固執する人、権力に執着を持つ人、情欲にのめり込む人など、みな目的地を見失った人達です。目的地が見えないと、人間はどうしても迷ってしまうものなのです。

 はっきりいいましょう!。

 「私達は本当の自分を発見するために生まれてきたのです。」

 人生はそのためにあるのです。これさえしっかり掴んでいれば、たとえ病気になって人生を疑るようになっても、ブレが生じることはありません。もし人生にブレが生じた時には、「人生の目的は何なのか?」に思いを寄せて下さい。そして、「本当の自分を発見するために生まれてきたのだ!」ということを思い出して下さい。きっと軌道修正できるでしょう。

2011年7月11日更新

 

 

 

 人間は、何ものにも邪魔されない自由意志を持っています。しかし、その自由意志で自分を苦しめていることに誰も気付いていないのです。

 私達の想念は、何でも作り出す偉大な力を持っています。しかし、人間はそのことを知らないためにその偉大な想念を自由意志で悪く使い、自分を苦しめているのです。想念を良く使えば幸せになれるのに、悪く使って苦しんでいるのです。

 自分の身に起きた苦しみは、すべて自分の想念による作品です。誰かに強要され生まれた想念の作品ではないのです。自分の自由意志を使って生まれた想念の作品なのです。

 それなのに人間は、何か悪いことが起きると人のせいにします。これは、自分の想念で作品を作っていることに気付いていないからです。

 近年占いがブームになっているようですが、そんなものに頼っている人は、自分の人生をサイコロ任せにしている無責任極まりない人です。他人や、占いや、偶然や、どこかの神が、自分の人生を作るのではありません。

 自由意志を持つ自分自身が、自分の想念を使って、自分の人生を作るのです。その想念を良く使うか悪く使うかは、自分の自由意志なのです。

 賢い人は、自分の想念を良く使い、幸せな人生を送っています。愚かな人は、自分の想念を悪く使い、不幸せな人生を送っています。これは誰の責任でもありません。自由意志を持つ自分の責任です。この自由意志は人間にだけ与えられた特権で、他の動物にはこのような特権はありません。

 さあ、特権を有意義に使って幸せになって下さい。そのためには、自分の人生を人任せにしないことです。どうか、自分の人生に責任を持って下さい。

2011年7月29日更新

 

 

 

自分を変える方法

 今の自分に嫌気がさしているあなた! 自分の人生が無意味に思えるあなた! 前が真っ暗で先が見えないあなた! に進言したい、ぜひ私の勧めることを実践してみて下さいと・・・きっと自分を変えることができるでしょう。

 私達は正真正銘の神の子です。ですから本来私達の心には、一点の汚れも付いていないのです。ただ肉体を自分と思い違いすることで、心に汚れを付けてしまっただけです。でもそれは、心に汚れが付着しただけで、心そのものが汚れたわけではないのです。だから汚れを落とせば、そく神の心に戻すことができるのです。

 良く水が汚れたといいますが、未だかって水は汚れたことはありません。水にゴミが付着しているだけです。ゴミを取り除けば、そく綺麗な水に戻るのです。心の汚れも同じなのです。

 ではどうすれば、心の汚れを落とすことができるのでしょうか?。それは反省をすることで落すことができます。反省は、心の汚れを落とす唯一の方法なのです。(反省の仕方は、「自分を変える瞑想」に書いてありますので参考にして下さい。)

 反省で一番大切なことは、反省後"二度と過ちを犯さない!"、という堅い決意と誓いをすることです。後は日々心に汚れを付けないよう注意して生きていれば、神の心と自分の心が共鳴するようになり、神のエネルギーが、神の光が、入ってくるようになります。この現象は、第一次の変性変容が起きた事を意味し、自分が変わった証しです。

 このように自分を変えるコツは、心の汚れを落とすことです。少々難しいかもしれませんが、本当に自分を変えたいなら、ぜひ挑戦してみて下さい。

2011年8月18日更新

 

 

 

他力では何も変わらない!

 このようなことを言う人がおりました。"私はアセンションが終わってから人生設計を立て直すのだと"・・・。なんと愚かな考えでしょう。この人はアセンションが起きれば、自分が変わると思っているのです。自分は何もしないで、どうして自分が変わるのでしょうか?。神は、怠け者に都合の良い仕組みなど作るわけがないのです。

 よろしいですか?。

 この宇宙は、愛のエネルギーが均一に遍満しているのですよ!。宇宙のどこかに、エネルギーの高い場所があるわけではないのです。ならば、どうしてアセンションが起きるのでしょうか?。アセンションとは、自力で波動を上げれば高い波動と同調できるようになるため、ヒント(啓示)が得やすくなるという意味です。そのヒントをもとに思索すれば、当然自分の意識を高めることができるでしょう。高い波動と同調できるという意味は、守護霊と同調できるという意味で、これはあくまでも自力によるのです。だから私は常々" 自力で波動を上げなさい!、そうすれば守護霊が導きやすくなりますよ! "といっているのです。

 「こちらが一歩近づけば神は百歩近づいてくれる!」

 とは、このことをいっているのです。守護霊は、常に私達を導こうと身構えております。でも今の私達は、波動にギャップがありすぎて、導こうにも導けない状態なのです。それは欲におぼれ、波動を落としているからです。欲に目がくらまされ、お金や物の虜になっている間は、守護霊は導きたくても導けないのです。

 たしかに、ふたご座の時代からみずがめ座の時代に移行しつつある今、かってないほど人類の意識が高まりやすい環境にあるのは事実です。それは今、地球上に多くの覚者が下生し法を説いているからです。でもそれは、あくまでも真理を自力で追及しての話であって、何もしないで意識が高まるわけではないのです。何もしないで自分が変われるなら、こんな楽なことはありません。

 原因あっての結果です。良い原因を作りもしないで、どうして結果だけ良くなるでしょうか?。神がそんな仕組みを作るわけがないのです。もし作るなら、神は全能でなくなります。またそんな仕組みがあるなら、わざわざこの世に生まれてくる必要もないではありませんか?。

 どうか巷のうわさに惑わされないで下さい。

 2011年9月15日更新

 

※アセンションの真の意味は、"節目の時代に多くの覚者が下生し法を説くことによって真理が根付き、地球(人類)の波動が上がる"と言う意味です。

 

 

 

真理を追究するのに臆病になってはならない!。

 求道者の中にこのような人がおります。

  • 親が反対するから、妻(夫)が反対するから、子供たちが反対するから、友達が反対するから、真理を追究するのを諦めたという人・・・。
  • 寒いから、暑いから、雨や雪が降ってきたから、台風がやってきたから、講話を聴きに行くのを止めたという人・・・。
  • 遠いから、お金がかかるから、講話を聴きに行くのを止めたという人・・・。
  • 電話しても迷惑だろうから・・、行っても会ってくれないだろうから・・、止めたという人・・。

 このような人は、自分で勝手に言い訳を作って求道に背を向けている臆病者です。本来求道に、障害物などあるわけがないのです。神を求めている人の前に、どうして神は障害物を置くでしょうか?。もし障害物があるとしたら、それは生半可な自分を叱咤激励するために自分が置いた障害物でしょう。

 神はいつでも手を広げて私達のくるのを待っています。どうか臆病にならないで下さい。どうか真理に背を向けないで下さい。神は乗り越えられない障害物は、決して置かないのですから・・・。

2011年10月19日更新

 

 

 

真理を求めながら苦しんでいるあなたへ!。

 "真理を求めたいが、求めるのが苦しい!"、といわれる人に私は言いたい!、強い勇気と強い意志をもって下さいと・・・。たしかに、この世の生活をしながら真理を求めるのは大変なことです。でも、今せっかく布石が打てるというのに、そのチャンスを逃しては大損ではありませんか?。このチャンスを逃したら、またいつチャンスが巡ってくるか分からないのですよ!。あなたは、また何千年もさ迷いたいのですか?。また同じ苦しみを味わいたいのですか?。もうこりごりですよね!・・・。

 本当は、苦しんでいることをあなたは喜ぶべきなのです。なぜなら、苦しむところまで魂が成長してきたからです。世の中には、この言っている意味さえ分からない魂が沢山いるのですよ!。それに比べたら、意味を知っているあなたはどれほど成長した魂か・・・。さあ、魂の望みに応えるためにも、今一つでも多く布石を打っておきましょう。それは誰のためでもない、未来の自分のためなのですから・・・。

 確かに、多くの人が外で汗まみれになって働いている時、一人静かに神に意識を向けている自分に疑問を持つのも無理はありません。いくら神に意識を向けても一向に手応えがない!、一体こんなことをして本当に意味があるのだろうか? そう思うと虚しくなって涙が出てくる・・・。でも良く考えてみて下さい。外で働いている人達は、永遠のものを求めているのですか? 朽ち果てる物を求めているのですよ! それに対してあなたは、永遠のものを求めているのですよ! 

 どうか自分を信じて下さい。神を信じて下さい。この宇宙の仕組みを信じて下さい。宇宙の法則を信じて下さい。それが信じられたら、あなたにもう迷いはないはずです。

2011年11月10日更新

 

 

 

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