第三集 (2013年)

瞑想の必要な理由。

 瞑想がなぜ必要か?・・・。理由は沢山ありますが、とりわけ大きな理由は次の三つです。

 

①・・・

 人生の最大の目的は、己を知ること、つまり悟ることです。その悟りは、瞑想なしには得られないのです。瞑想するとなぜ悟りが得られるかといいますと、「想念は実現の母!」だからです。
 想念には物事を成就させる偉大な力が秘められております。たとえば、物の創造を考えてみましょう。神はこの表現宇宙を、己の想念を使って(姿形をイメージし)創造しました。姿形をイメージすると、電子を生み出しますので原子化(物質化)するのです。これを応用したのが瞑想です。
 ただし瞑想の場合は、姿形をイメージしないので原子核だけが集まるのです。(姿形のない「神・生命」をイメージしても、電子を伴わないため原子核だけが集まる。)つまり姿形をイメージしない瞑想は、電子を生まないので、原子核化するのです。「原子核化」とは、「エネルギー化」するという意味で、「魂」が増えるのです。魂とは、「原子核の塊」のことをいっているのです。

 

②・・・

 瞑想は、天と地に架け橋を渡してくれます。地にいる子が、天にいる父にコンタクトを取る唯一の方法が瞑想なのです。

 「子が父を知ったとき、父は子を知りたもう!」とは、瞑想のことをいっているのです。その天は真実の世界ですから、そこには「光」と「知恵」と「力」と「愛」が存在します。ですから瞑想によって天と地に架け橋が渡されれば、「光」と「知恵」と「力」と「愛」が得られるのです。これまで人類が積み上げてきた知恵や知識は、すべて瞑想(直観・天啓・啓示)によって天から得たものです。

 

③・・・

 天とは内側のこと、私達の心のことです。地とは外側のこと、物質宇宙(表現宇宙)のことです。内側に意識を向ければ、そこは波動が精妙なため平安になります。外側に意識を向ければ、そこは波動が鈍重なため不安になります。今人類が不幸に喘いでいるのは、外側に意識を向け過ぎているためです。当然です。鈍重な波動の中にいては、心も身も健全でいられるわけがありません。だから瞑想が必要になってくるのです。

 

 瞑想は、私達の心身を健全にするだけでなく、地球の心身も、表現宇宙の心身も、同時に健全にしてくれるのです。

 

2013年1月22日更新

 

 

 

なぜ努力が必要か?。

①・・・

 努力という字は、「女」「又・・股」「力」と書き、「お産」の時の努力を意味します。鮭が卵を産みに川を遡上するのも、お産のための努力です。どちらも、大切なものを生むには努力が必要ですよ!、ということを私達に教えてくれているのです。

 

②・・・

 何事でもそうですが、何かが欲しかったらこちらから求めねば得られません。真理も同じことで、こちらから求めなくては得られないのです。努力は、求めること、行動を起こすこと、なのです。棚ぼた式で得られるものなど一つも無いということです。

 放蕩息子が改心したからと言って、何もしないで待っていては親は迎えに来てくれないのです。でもこちらから親に歩み寄れば、首を長くして待っていた親は、喜んで迎えてくれるでしょう。それが「子が一歩近づけば、神は百歩近づいてくれる」という意味なのです。これは、一歩近づく努力の大切さを教えてくれているのです。

 

③・・・

 通常、高いところにいる者が、低いところに降りてくることはありません。でも真剣に望めば、情にほだされて、降りてきてくれるでしょう。でも最初に行動を起こすのは、やはり望む方です。望んでこそ、求めてこそ、与えられるのです。望む、求める、その働きかけが努力なのです。 

 

④・・・

 何事も時間が解決するいわれは、時間は意識エネルギーが生み出したものだからです。でも時間そのものには、解決する力は無いのです。時間を支えているエネルギーが解決しているのです。エネルギーは物を変質させ、環境に変化を与え、気持ちを変えさせ、努力を生み出します。これすべてエネルギーの働きです。その意味では、エネルギーに裏支えされている努力が、物事の解決を図っているといっても過言ではないでしょう。

 

⑤・・・

 土の上に描いた線は、雨が降ればすぐ消えてしまいます。でも繰り返し描いた線は溝が深くなるため、少々雨が降っても消えません。瞑想も繰り返すことによって溝が深まり根付いてゆくのです。何でも繰り返す努力が必要だということです。

 

⑥・・・

 この世に生を受けた者は、みな落第生です。まだ課題を克服していないからこの世に落されたのです。そんな落第生が、何もしないでノホホンと生きていて良いのでしょうか?。そうです。落第生には、努力が必要なのです。

 といっても、苦しむほど努力しなさいと言っているわけではありません。与えられた今の環境の中で、できる限りの努力をしなさいといっているのです。

 

⑦・・・

 表現の世界は創造の場です。思いの世界は創造の力です。思いの世界で思ったことは、表現の世界で行為として現されます。努力がなぜ必要かは、努力なしに思えないし、努力なしに行為できないからです。

 思えば必ず実現します。「想念は実現の母!」だからです。その力を利用しない手はありません。どうか思いの力を使って、本当の自分を発見して下さい。

 努力は思うことであり、言葉や行為によって実現させることなのです。

2013年2月1日更新

 

 

 

宇宙にたった一つしか存在しない原因者。

 この宇宙には、たった一つのものしか存在しません。では、たった一つのものとは何でしょうか・・・?。

 それは私の(あなたの)意識です。この宇宙には、たった一つの私の(あなたの)意識しかないのです。だから私達がいなければ、宇宙は存在できないのです。もし私達がいなければ、宇宙を認識する者がいないわけですから、宇宙が存在できるわけがないからです。宇宙は、私達が認識することによって存在できているのです。つまり私達は原因者であり、宇宙は結果体なのです。原因者である私達がいなければ、結果体である宇宙はあり得ないのです。しかし残念なことに地球人類は、百人が百人とも自分を人間だと錯覚しているのです。本当の自分は大いなる意識なのに、形を自分と錯覚することで、小さな自分にしているのです。

 意識は意識している通りのもので、それ以上でも以下でもありません。だから私達は、花にも、鳥にも、雲にも、星にも、大宇宙にもなれるのです。なのにあなたは、

  • なぜ小さな肉体の中に自分を閉じ込めてしまうのですか?。
  • なぜ大いなる自分を、小さな自分にしてしまうのですか?。

 私達は、一つしかない完全なる意識なのですよ!。その意識は私もあなたも持っているわけですから、私達は何んでも望める(意識できる)し、何にでもなれるし、何でも創造できるのです。私達は建築主であり、設計家であり、建築家であり、建築物(素材)そのものなのです。つまり私達は、原因者であると同時に結果体なのです。

 そうです!。

 原因者である私が(あなたが)いなければ、結果体である妻(夫)も、子供も、会社の上司も、友達も、恋人も、花も、猫も、犬も、月も、地球も、宇宙も、何もあり得ないのです。

  • 私は(あなたは)、宇宙の創造主なのです。
  • 私は(あなたは)、宇宙の源泉なのです。
  • 私は(あなたは)、宇宙の親なのです。
  • 私は(あなたは)、宇宙の大元なのです。

 私は(あなたは)、有りて有るもの、すべてのすべてです。

  • 宇宙の主です。
  • 大王です。
  • 宇宙そのものです。

 だから遠慮なく大宣言すれば良いのです。

吾は一なるものなり!。

吾は神なり!。

吾は宇宙なり!。

吾は原因者なり!と・・・。

 神とは、原因者とは、この宇宙にたった一つしかない、私の(あなたの)意識のことを言うのです。

2013年2月15日更新

 

 

 

偏りがいけない理由。パート2。

 「人間の最大の罪は無知である!」、といわれる理由は、自分が何なのか知らないがゆえに罪を犯すからです。私達の本性は生命です。この真理は、何ものも覆すことはできないのです。なのに私達は、何百万年もの間、人間として生きてきたのです。人間として生きてきたということは、偏った生き方をしてきたということです。偏った生き方をしてきたから、今もって地球上に争いや苦しみが絶えないのです。

 二重生命体である私達には、肉体の私と生命の私が存在するのです。本当なら、このどちらにも偏らず生きれば苦しみは無いのですが、残念なことに私達は、人間として偏った生き方をしているために、生老病死という四苦から逃れられないでいるのです。そればかりではありません。肉体を自分として生きれば、肉体保全が人生の最大の目的になりますから、どうしても経済が最優先されるようになります。そうなると、競わねばなりません。奪わねばなりません。戦わねばなりません。

 なぜ、過密都市が生まれると思いますか?。なぜ、複雑雑多な社会が生まれると思いますか?。なぜ、争い多い社会が生まれると思いますか?。それは、経済が最優先されるからではありませんか?。経済が最優先されれば、人口が偏り・富が偏り・何でも偏ってしまうのです。それが、肉体保全が人生の目的になっている社会の姿です。

 もし生命を自分として生きる社会になれば、最小限度の物があれば良くなりますので、経済が優先されることは無くなります。当然、争いのない穏やかな社会になるでしょう。その社会で大切にされるのは、空気と、水と、土と、労働力です。この四つがあれば、簡単に物やサービスが生み出せるからです。

 右手ばかり使っていたら、左手は使えなくなってしまいます。左脳ばかり使っていたら、右脳は使えなくなってしまいます。大自然が左右対称に作られているのは、" 偏りなく生きなさい! "という人間に向けて発信している神の信号なのです。

 どうか生命と人間(肉体)をバランス良く生きて下さい。といっても私達は、今までトコトン人間(肉体)として生きてきたのですから、これ以上人間(肉体)を意識する必要はありません。生命だけを意識して生きたら良いのです。

 難しいことはありません。今まで人間だけを意識して生きてきたように、生命だけを意識して生きたら良いのです。肉体保全はその中において、無理なく行われるでしょう。

2013年3月1日更新

 

 

 

今一番にすべきことは ?。

 お釈迦様の教えの中に「毒矢の例え」があります。

 ある者が毒矢に射られました。伴の者がすぐに毒矢を抜き手当てをしようとしたのですが、射られた当人は、"誰が矢を射ったのか?、矢はどの方向から飛んできたのか?、どんな弓矢を使ったのか?、"など詮索するばかりで、一向に矢を抜かせようとしません。こんなことをしていては、毒が回って死んでしまいます。今一番にすべきことは、あれこれ詮索することではなく、矢を抜き手当をすることです。

 真理の探究も同じことがいえます。求道者の中には論議に夢中になり、一向に瞑想しない人がおりますが、そんなことをしていては悟る前に寿命が尽きてしまいます。今一番にすべきことは論議することではなく、実践することです。直接神に繋がる瞑想をすることです。神に繋がるのに理屈や理論はいらないのです。どうでしょう。頭で知って泳げるようになりますか?。どんなに理屈を知っても、実際にプールに入り体験しなければ泳げるようにならないのです。

 これは次のようなことにも当てはまるでしょう。

 世の中には良心的な人が大勢おり、何か災害が起こると率先して寄付をしたり、ボランティアをしたりします。また常日頃から、世のため、人のため、地球のため、一生懸命献身的な活躍をしております。また政府も多くの予算をつぎ込み、災害を無くそうと様々な対策を講じております。でも災害は一向に無くなりません。それは、政治家も献身的な人も結果対処に気が取られ、原因対処に目を向けていないからです。

 なぜ自然災害が多く起きるのでしょうか?。なぜ貧困にあえぐ人が後を絶たないのでしょうか?。なぜ地球環境が悪化の一途を辿っているのでしょうか?。それは人類が、悪的波動を多く出しているからではありませんか?。悪的波動を多く出しながら、どんなに結果対処(寄付や災害対策)をしても、それは無駄骨というものです。川下をどんなに綺麗にしても、川上を綺麗にしなくては、根本的解決にはならないからです。

 私達がすべきことは、川下を綺麗にすることではなく、川上を綺麗にすることです。では、どうすれば川上を綺麗にすることができるのでしょうか?。それは、一人でも多くの人が良い波動を出すことです。では良い波動を出すには、何をすれば良いのでしょうか?。それは「身口意」の実践と「瞑想」をすることです。一人でも多くの人が身口意の実践と瞑想するようになれば、それは全体に及び、世のため、人のため、地球のためになるのです。

 コップの中に淀んだ水があるとします。もし、そのコップの中に清い水を一滴入れたらどうなるでしょうか?。清い水一滴だけが固まっているのでしょうか?。それとも全体に溶けて行くのでしょうか?。ある国のサルが芋を洗うようになったら、全世界のサルが芋を洗うようになったのも、個の影響が全体に及んだからです。意識は一つしかないのですから、個の影響が全体に及ぶのは当然なのです。"私一人瞑想をやっても"、といわないで下さい。あなたが瞑想すれば、全体に影響が及ぶのです。あなたが成長すれば、全体が成長するのです。

 繰り返します。今私達が一番にすべきことは、

  • あれこれ詮索することではなく、毒矢を抜いて手当てすることです。
  • 川下を綺麗にすることではなく、川上を綺麗にすることです。
  • 知識を振りかざし論議することではなく、身口意の実践と瞑想することです。

 どうか瞑想して内側の自分に繋がって下さい。それは自分の成長だけでなく、人類全体の成長にもなるのですから・・・。

2013年3月15日更新

 

 

 

何に確信を置くべきか?。

 "あなたは生命なのですよ!"、と私がいうと、"生命になった覚えはないのに、なぜ私は生命なんですか?、"と問い返す人がおります。では私は訊きたい、"あなたは今人間だといっていますが、人間になった覚えがありますかと・・・。そうなんです。誰も人間になった覚えなどないのです。気が付いたら人間だったのです。なのにあなたは今、何の疑いも無く人間として生きています。もしあなたが、生命になった覚えのないことに疑問を持つなら、人間になった覚えのないことにも疑問を持つべきでは無いでしょうか?。しかしおかしなことに、誰も疑問に思わないのです。

 誰も人間になった覚えがないように、誰も生命になった覚えなどないのです。でも、どんなに生命になった覚えが無くても、あなたが生命なのは間違いないのです。なぜなら、この宇宙に生命のほかは何もないからです。

 あなたは初めから生命だったのです。生まれながらにして生命だったのです。ただ生命と思っていないだけです。ではなぜ生命と思わず、人間と思っているのでしょうか?。それは、見て触れるこの肉体を自分だと思っているからです。もし生命という衣装をまとっていたら、あなたは生命を自分と思うでしょう。ただ、生命は見えもしないし触れもしませんので、生命だと思えないだけです。

 あなたの本性は、紛れもなく生命(意識・エネルギー)なのです。その生命は何にでも入ることができるのです。花の中にも、鳥の中にも、犬の中にも、雲の中にも、人間の中にも・・・。生命は思っている通りの物で、それ以上でも以下でもないのです。ただどんな衣装をまとうかで、自分が変わるだけです。

 花の衣装をまとえば、花と思うのです。鳥の衣装をまとえば、鳥と思うのです。雲の衣装をまとえば、雲と思うのです。星の衣装をまとえば、星と思うのです。今あなたが人間の衣装をまとって、人間だと思っているように・・・。

 あなたはどんな確信に基づいて、人間だと思っているのですか?。見て触れるこの肉体を見て、人間と確信しているのではありませんか?。そうです。私達が自分のことを人間だと思うのは、肉体を自分だと思う確信からきているのです。ならば肉体を自分だと思う確信を、生命という確信に置き換えられたら、生命を自分だと思えるようになるのではないでしょうか?。ではどうすれば、人間の自分から生命の自分に確信を置き換えることができるでしょうか?。そのためには、肉体と生命のどちらがホンモノか識別する必要があります。では識別してみましょう。

  • 肉体は消えて無くなりますが、生命は永遠不滅です。
  • 肉体はものを考えることも語ることもできませんが、生命はものを考え語ることができます。
  • 肉体には四苦があり不完全ですが、生命には四苦もなく完全です。
  • 肉体は不自由ですが、生命は自由です。

 こうして比べてみると、どちらがホンモノか解りますね。そうです。生命こそ真実なるものです。では確信は何に置くべきですか?。生命ですね。

 本当の自分は肉体ではなく、生命だという確信を深めて下さい。この確信を深めることによって、「自分は生命である」と思えるようになるのです。どうか生命の自覚を持って下さい。持てばそく、あなたは生命なのです。不自由な肉体に生きるか、自由な生命に生きるかは、あなたの確信次第、自覚次第なのです。

2013年4月1日更新

 

 

 

善悪の木の実を食べてはならない!。

 本来この宇宙には、善も悪も無いのです。あるのは完全のみです。完全の中に、どうして悪があるのでしょうか?。悪と思うのは、自分の中に悪感情があるからです。(善悪を認める感情)その悪感情は、損得感情からきているのです。(悪感情を持っていることを、善悪の木の実を食べているという。)

たとえば私達は、悪さをする虫を悪と見ます。そう見るのは、その虫が自分達にとって都合が悪いからです。あなたの立場に立てば、たしかに嫌な虫かもしれません。でも、虫の立場に立ってみて下さい。虫は自分の使命を果たしているだけです。

 たとえば、蚊を一例に取って見ましょう。蚊は不潔な水たまりに多く発生しますが、これは「家の周りの水はけを良くしなさい!、つまり生活環境を良くしなさい!」、という警告なのです。蚊は警告の使命を果たしているだけです。もし彼らがいなかったら、人間環境は今以上に悲惨な状態になっていたでしょう。

 もともと害虫なんていないのです。必要な虫がいるだけです。ですからもしあなたの前に虫が現れたら、なぜ現れたのか?、理由を良く考えてみて下さい。必ず理由が見つかるはずです。たとえば、建物に隙間があるとか?・・・、家の中が不衛生になっているとか?・・・、家族の間に何か不調和なことがあるとか?・・・、理由が解れば、虫の対処の仕方も違ってくるでしょう。(大抵の場合、虫たちは何かを訴えている。)

 何事でもそうですが、何か事象が起きるには、起きる原因が必ずあるのです。その事象が自分にとって都合が悪いから、悪といっているのであって、起きていること自体は善いことなのです。なぜなら、その事象が起きることによって、私達は過ちに気付けるからです。もしその事象が起きてなかったら、私達は何も気付くことなく過ちを繰り返してしまうでしょう。これでは進歩はありません。虫たちは気付かせるため、悪役を買って出てくれているのです。そんな虫を害虫といって責めるのは、お門違いというものです。

 これは、人間関係においても当てはまることです。極端な例ですが、あなたがAという人に殴られたとしましょう。殴られた結果があったということは、殴られる原因があったということです。つまりAは、殴る原因を持っていたから、あなたを殴ったのです。あなたは殴られる原因を作っていたから、あなたは殴られたのです。つまりAは、原因と結果の法則によって殴る使命を果たしていたことになります。もしあなたが、殴られたことに腹を立て、そこから何の益も受け取らなかったら、無駄な痛みを体験したことになります。しかし、殴られた原因を見付け過ちを正したら、その体験はあなたにとって有益な体験になります。ということは、殴られたことは悪ではなく善だったことになり、殴ってくれた人に感謝しなければなりません。だから、人を殴って良いといっているわけではありません。「原因を作れば必ず結果が付いてきますよ!、良い原因には良い結果が、悪い原因には悪い結果が」、といっているのです。

 悪は、善悪の感情を持っている人にのみあるのであって、持っていない人には無いのです。つまり、善悪の木の実を食べている人にのみあるのであって、食べない人には無いのです。

 繰り返します。この宇宙には善も悪も無いのです。あるのは完全のみです。善悪の消却を通して進化する完全があるだけです。それが分かると、人を責めることも無くなるし、自分を責めることも無くなるでしょう。人を許し、自分も許せるのは、すべての事象(現象)は完全に向かって進化する姿である、と思えた時に生まれるのです。

2013年4月11日更新

 

 

 

戦争の愚かさ

 人類の歴史において、剣の響きと銃声の鳴りやまない日は一日も無かったと言われるほど、人間は愚かにも戦いを続けてきました。戦いからは何も得られないということを、厭というほど体験したはずなのに、いまだに止めようとしません。なぜでしょう。それは幼さゆえです。無知ゆえです。人間は骨身にしみるまで苦しまなければ、戦いの愚かさに気付かないのです。悲しいことですが仕方がありません。

 でも人間は馬鹿ではありません。いつかきっと戦いの愚かさに気付き、平和の道を歩むようになるでしょう。私は一日も早くその日の来るのを願うばかりです。

2013年8月15日更新

 

 

 

父と子と聖霊。

 現代宗教の一番の過ちは、神を私達の手の届かないところに祭り上げてしまったことです。一番近くにあるべき神を、このように遠くに祭り上げては、世が混乱するのも無理はないのです。しかも、覚者までも遠ざけてしまったのですから、これは大変な罪を犯していることになるのです。

 父と子と聖霊とは、宇宙における三位(身)一体の創造の仕組みを説明した言葉です。氷は水を凍らせたものです。水は空気を冷やしたものです。その大元(本質)は空気です。父と子と聖霊に例えれば、父は空気に当たります。子は氷に当たります。精霊は水に当たります。空気と氷と水は三位(身)一体で、同じ一つの物です。父と子と聖霊も三位(身)一体で、同じ一つのものです。同じ一つのものとは、父(空気)そのものであるという意味です。では、父とは何でしょうか?。子とは何でしょうか?。精霊とは何でしょうか?。

 父とは、神のことです。子とは、人間のことです。精霊とは、魂のことです。私なりの言い方をすれば、父とは、生命のことです。子とは、物質のことです。精霊とは、生命核のことです。宇宙の創造の原理は、すべて三位(身)一体となっているのです。三位(身)一体とは、一つの本質からすべてのものが生み出されているという意味です。だから人間は、人間であると同時に、精霊(魂)であり、神なのです。すなわち、氷であると同時に、水であり、空気なのです。どうか科学的に考えて下さい。科学的に考えれば、神が遠くに祭り上げられる存在でないことが分かるでしょう。

 イエス様もお釈迦様も人間です。私達も人間です。と同時に、神なのです。イエス様やお釈迦様だけが神の一人子なのではありません。全ての人間が同じ神の子なのです。つまり、その本性(本質)においては神(空気)なのです。

 覚者も私達と同じ人間であり、神です。ただ彼らには神の自覚があり、私達には神の自覚が無いだけです。しかし、どんなに神の自覚が無くても、私達が神である事実は変わらないのです。どうか神を、覚者を、神秘化しないで下さい。遠ざけないで下さい。私達の一番近くにいるのが、神であり、覚者なのですから・・・。

2013年11月4日更新

 

 

 

人はパンのみにて生きるに非ず。

 聖書の中に「人はパンのみにて生きるに非ず、主の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」と謳われていますが、その言葉の真の意味を知っている人は殆どいません。ではこの言葉の真の意味は、どのようなものなのでしょうか?。

 人間は、物質的な側面と霊的な側面を持った二重生命体です。つまり、二つの顔を持っているのが人間なのです。二つの顔を持つからには、持つ意味が必ずあるはずです。そうなのです。人間は物的なものだけで生きるのではなく、霊的なものでも生きられるようになっているのです。霊的なものとはエネルギーのことですから、人間は霊的エネルギーによっても生きられるようになっているのです。

 私たちは通常、食べ物からエネルギーを摂取して生きております。でも本当は、空気中から宇宙エネルギーを吸収して生きることもできるのです。仙人は霞を食べて生きているといわれますが、これは人間なら誰でも持っている能力なのです。しかし今の人間は、その能力が全く失われております。なぜ失われたかといいますと、宇宙エネルギーを取り入れる脾臓を使わなくなったからです。どんなに素晴らしい能力を持っていても、使わなければ使えなくなってしまうものなのです。

 「人はパンのみに生きるに非ず、主の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」の真の意味は、イエスが語る真理を理解して霊的自覚を高めれば、宇宙エネルギーによって生きることができる、という意味だったのです。イエスは実生活に密着した現実的な話をされたのであって、観念的な話をされたわけではないのです。

 人間は神の子です。したがって、人間の中には神の偉大な能力が備わっているのです。ただ、今の人間には神の自覚が無いため、偉大な能力が使えなくなっているだけです。神の自覚ができれば、偉大な能力が蘇るのです。例えば、沢山食べなくてもよくなります。あまり寝なくてもよくなります。また疲れなくなりますし、病気をしなくなります。このように霊的自覚が高まれば、神に近い生き方ができるようになるのです。しかし今の人間は、そのことを全く知りません。だから今もって、生・老・病・死に苦しんでいるのです。

 この地上界に争い事が絶えないのは、必要以上に身を守り過ぎるからです。神の自覚ができれば、それほど身を守る必要が無くなりますから、物の奪い合いをすることがなくなるのです。そうなれば、地球上に理想の世が開かれます。イエスは、そのことをいいたかったのです。

 ※人間には、脾臓(火臓)という特殊な臓器が備わっています。呼吸によって取り入れた宇宙エネルギーは、この脾臓によって体内エネルギーに変換されるのです。だから火臓、つまりエネルギーの臓とも呼ぶのです。この脾臓は、悟れる人間にだけ与えられた特殊な臓器で、他の生き物にこのような働きをする臓器はありません。

2013年11月20日更新

 

 

 

環境は自分の成長に合わせて自然と変わってゆくもの。

 今の環境が自分の成長にとって必要であっても、与えられた課題が克服できれば、いつまでも今の環境に止まっている必要はありません。なぜなら、合格点を取った者は、もうその環境で学ぶ必要がないからです。

 だから私は、" 今の環境から逃れたかったら、一日も早く、課題を克服しなさい! "というのです。それには真理を知ることです。多くの人は真理を知らないがゆえに、同じ学びを繰り返しているのです。そして、あたかも他人が苦しみを与えたかのように嘆いているのです。

 自分が成長しないで、どうして環境が良くなるでしょうか。私が自力を説くのは、今の苦しい環境を作っているのは自分自身だからです。自分が作った苦しい環境なら、自分の力で取り除くしかないのではありませんか?。そうなのです。環境は誰も変えてくれません。自分が何の努力もしないで、環境が変わるわけがないからです。

 真理を学ぶ必要があるのは、真理は環境の変え方を教えてくれるからです。さあ、今の苦しい環境を変えたいなら、真理を学び自分を成長させましょう。自分が成長すれば、環境は自然と変わってゆきます。それが学びの成果なのです。

 神は小学生に大学生の問題は与えません。また大学生に小学生の問題も与えません。神は乗り越えられる問題しか与えないし、また乗り越えた問題も与えないのです。もし今厳しい環境(問題)が与えられているとしたら、その厳しい環境(問題)を克服できる実力の持ち主だと神が判断したからに他なりません。ですから逃げるのではなく、果敢に挑戦して、一日も早く課題を克服することです。それが、今生におけるあなたの人生の目的です。

 課題を克服し合格点が取れれば、自然と環境は変わってゆくものです。さあ自分を成長させ、神の期待に応えましょう。その方法は、「人類の夜明2と3」の中に書いてあります。ぜひ読んで自分を成長させてください。

2013年12月10日更新