第二集 (2012年)

決意の大切さ!。

 " 私は瞑想もろくにできていないし、世のため人のために何もしていないから、魂の成長は望めないだろう! "という人がおりますが、そのようなことはありませんから安心して下さい。なぜなら、あなたがこの世に生まれてきたこと自体、魂を成長させているからです。

 数ケ月間、お母さんのおなかの中にいて中絶される堕胎児がおります。産道を通るだけの体験をする死産児がおります。産まれて数年しか生きられない幼子がおります。なぜ彼らは、そのような薄命を背負って生まれてくるのでしょうか。それは、少しでも魂を成長させたいためです。生まれてすぐ死ぬと分かりながら生まれてくるのに、どれほどの決心が必要だったと思いますか。それはそれは、断崖絶壁から飛び降りるくらいの決心が必要だったはずです。この決意・決心が魂を大きく成長させるのです。

 赤ちゃんが泣き声をあげ生まれてくるのは、この世の厳しさを体験するのが嫌だからといいます。また赤ちゃんがニコッと笑うのは、この世の厳しさを体験し魂を大きくできる嬉しさからだといいます。どちらにしても、この世に肉体を持つということは大変なことなのです。

 なぜ幽界では魂の成長は少ないかといいますと、痛い、苦しい、寒い、暑い、などを感じる肉体が無いからです。幽界人は、生温い湯に入っているようなものなのです。生温い湯に入るのに決心はいりませんから、あまり原子核が増えないのです。この世においても、甘やかされて育った御曹司は、すぐに弱音を吐くものです。それは、強い決意のいらない温室の中で育ったからです。

 原子核は、強く決心すればするほど増える仕組みになっているのです。これは善悪に関係なしにです。だから私はいいたい! 嫌なことに率先して挑戦して下さいと・・・。もし、臆病風を吹かし家の中に閉じこもっている人がいたら、どうか外に出て働いて下さい。間違いなく自分を成長させることができるでしょう。

 では家に閉じこもっている人は、全く無駄な人生を送っていることになるのでしょうか? いいえ、神の愛は完璧です。どんなに家に閉じこもっている人でも、少なからず原子核は増えているのです。なぜなら、どんな弱い決意でも原子核が増える仕組みになっているからです。たとえば、朝顔を洗う、歯を磨く、風呂に入る、掃除をする、そんな普段の生活の中にも決心は必要とし、原子核を増やしているからです。ただ、外に出て嫌なことをするのと、家にいて甘えた生活をするのとでは、決意の強さが違うため原子核の増え方が違うのです。ならば、外へ出てチャンスを生かした方が得ではありませんか?。

 魂を自由意志で大きくできるのは、自由意思を持った人間だけに与えられた特権です。どうかその特権を有効に生かして下さい。

2012年1月15日更新

 

 

 

波動を高める方法。

 この宇宙で、一番波動の低いのは物質です。次に低いのは幽質です。一番高いのは霊質です。物質文明が栄えると病気が増えるのは、人類の意識が物質に偏り波動を落してしまうからです。今地球の波動は最低にまで落ち込んでいますが、これを上げることができるのは、唯一波動を落としている人間です。波動を落としているのは人間自身ですから、当然といえば当然の話です。

 波動を上げる一番の方法は瞑想ですが、瞑想はなかなか難しく一般人には不向きです。そこで私が提唱したいのは、次のような想いと言葉を日常生活で意識して使う方法です。

ありがとう!

はい!

行ってきます!

行ってらっしゃい!

お帰りなさい!

お休みなさい!

おはようございます!

いただきます!

ごちそうさま!

 日常生活で使っているごく当たり前な言葉ですが、ただ儀礼的に、あるいは口癖のように使っているだけで、意識して使っている人は殆どいません。意識してという意味は、「心から」という意味です。

  • 心から有り難いと思うから、"ありがとう!"というのです。
  • 心からそうだと思うから、"はい!"と返事するのです。

 心を込めて使った言葉には、その人の波動が感じられます。この心から語ることを、本音で語るというのです。本音とは、神の御心が奏でる響きのことで、言霊(ことだま)のことです。

 言葉は、心がこもってこそ生きてくるのです。心を込めて語った言葉は、間違いなく波動を高めます。ぜひ良い言葉を、心をこめて語るよう心掛けて下さい。そのような人が一人でも多くなれば、地球の波動は間違いなく上がります。小さなことかもしれませんが、難しいことをやるより、今できることから始めた方が現実的ではないかと思い、あえて私は勧めるわけです。

 ちなみに、波動の上がる響きの言葉は、あ・い・う・え・おの「あ行」の清音の言葉です。波動を落とす響きの言葉は、ば・び・ぶ・べ・ぼの「ば行」の濁音の言葉です。

 言葉も使うなら、出来るだけ波動の高まる「あ行」の清音の言葉を使いましょう。

2012年2月22日更新

 

 

 

宇宙の創成物語

■ 第一章 神の意図

 

 絶対宇宙には、唯一の意識体(宇宙意識)が存在します。これを私達は神と呼んでおります。しかし、神という名に囚われる必要はありません。神と呼ぶのが恐れ多いなら、

  • 「生命」と呼んでも良いのです。
  • 「無限」と呼んでも良いのです。
  • 「創造主」と呼んでも良いのです。
  • 「宇宙意識」と呼んでも良いのです。
  • 「私」と呼んでも良いのです。
  • 「宇宙」と呼んでも良いのです。

 要するに意識と意志を持ち、しっかりとした目的意識を持って宇宙を差配している存在が神なのです。ここで神という名を使わせていただくのは、古来より人類が、あこがれ、畏怖し、崇め、すがってきた対象物が神の名であったからです。

 

 その神には、三つの悩みがありました。

(※神は完全ですから、神に悩みがあるはずがありません。ここでは、説明上必要なので、このような表現を使いました。その点誤解のないようにして下さい。)

 

 「私は偉大な能力を持っている。しかしその能力は、私の思いの中にあるだけで、実現化されていないのだ! これで良いのか?」

 そうです。どんなに偉大な能力を持っていても、表現しなければただの自己満足にしか過ぎません。どんなに素晴らしい理念を持っていたとしても、表わさなければ単なる空論で終わってしまいます。どんなに素晴らしい絵の構想を持っていても、描いて見せなければ嘘になるのです。これが一つ目の悩みでした。

 

 二つ目の悩みは、次のようなものでした。

 神は絶対宇宙における唯一の存在者ですから、そこには自分しかおりません。

 神は思いました。

 「自分が自分の存在を知っていて、いったい何になるのだろう? 自分しか存在しない宇宙に、いったいどんな意味があるのだろう? いや、自分しかいなければ、自分の存在は無いのではないだろうか? 誰かに認められて、はじめて存在意義が出てくるのではないだろうか?」

 そうです。一(いち)しか無ければ、一は無いのです。自分しかいなければ、自分は無いのです。なぜなら、自分が自分を見る(知る)ことなどできないからです。

 あなたは、自分を直接見たことがありますか? "鏡に写して自分を見ました。あるいは写真に撮って自分を見ました。"といわれるかもしれませんが、それは現象の自分を間接的に見たのであって、直接見たわけではありません。

 未だかって、直接自分を見た人は一人もいないのです。ましてや真実の自分は姿形が無いのですから、自分をみることなど出来ないのです。

 このように絶対の中にいては、絶対は分からないのです。一の中にいては、一は分からないのです。自分の中にいては、自分が分からないのです。

 

 最後の悩みは、次のようなものでした。

 「確かに、今私は幸せいっぱいである。しかしこの幸せは、一体いつまで続くのだろう? 昔は今以上に幸せだったのに、今はそれほど幸せと思えない。どうも幸せに慣れ、幸せの味が薄れてきたようだ。このままだと、今の幸せもいつか消えてしまうのではないだろうか? 」

 意識の一番の弱点は、飽きてしまうことです。皆さんも体験があるかと思いますが、どんなに面白い映画も、何度も見れば飽きてしまうものです。どんなに楽しい乗り物も、何度も乗れば飽きてしまうものです。幸せも、同じ幸せの中にいては飽きてしまうものなのです。これは、永遠の命を持つ者にとって大問題です。

 

 神は、この三つの悩みをどう解決すべきか考えました。

 「そうだ! もう一つの自分(相対宇宙)を創ろう! そうすれば三つの悩みはすべて解決するはずだ! 」

 神はこのような理由から、もう一つの自分(私・人間)を創ることにしたのです。すなわち、相対宇宙(表現宇宙・物質宇宙)を創ることにしたのです。(自分とは、神「自」らが自分を「分」けたという意味です。)

 

 

■ 第二章 宇宙の創造劇

 

 神は相対宇宙を創るに当たり、自らの意識を四方八方に放射しました。(これをビッグバーン、あるいはパンドラの箱現象ともいう。)その放射した意識は、光であり、エネルギーであり、本質であり、神ご自身なのです。

 その意識は波動を下げ、色光となりました。さらに波動を下げ、意識核となりました。さらに波動を下げ、原子となりました。原子には質量があるため、原子化された段階で時間と空間が生まれます。これが時空の誕生、すなわち表現宇宙の誕生です。

 「神が物を創造する場合、神自らがその物になるしかない! 」といわれる理由は、宇宙には神しか存在しないからです。神は理念の主であり本質そのものですから、物を創造する場合自らその物になれるのです。ということは、この表現宇宙(相対宇宙)は、神ご自身で構成されているということです。

 言いかえれば、表現宇宙そのものが神の身体であり、そこに創られた様々な物も神ご自身であるということです。こうして全能の神は、自らを素材としてこの表現宇宙を創造されたわけです。

 

 

■ 第三章 目的の達成

 

≪一つ目の目的達成≫

 宇宙をご覧ください。あまねく輝く銀河の群れ、多彩な色を放ち宇宙を浮き彫りにしている恒星たち、見事に散りばめられた惑星や衛星、その合間をかいくぐって遊ぶ彗星たち、また青い星々に誕生した数知れない生き物たち、寸分の狂いも無く運行する星の動きの妙技、ああ神は何と素晴らしい絵を表現宇宙に描かれたことか・・・。この素晴らしい絵を一目見ただけでも、全能の神の偉大さが分かろうというものです。

 こうして、神の一つ目の目的は達成されました。ただ一つ憂いがあるとすれば、神が放射された意識核の記憶が希薄になった点でした。自分が何ものか覚えていないのです。「私」という記憶はあっても、私がいったい誰なのか分からないのです。

 「私はなにものなのだ! 私はいったい誰なんだ! 分からない? どうすれば自分を思い出すのだろう?」

 意識核は戸惑います。意識核に記憶が無ければ、意識核の集まりである生命核(魂)に記憶がないのは当然です。だからその生命核を宿している人間に、神の自覚がないのです。しかし、神はそうなることを織り込み済みで表現宇宙を創ったのです。それは意図あってのことでした。

 もしも人間に神の自覚があったのならば、自分相手に一人芝居はできませんから、この表現宇宙に感動のドラマは生まれなかったことでしょう。後で説明しますが、感動のドラマが生まれなくては、神の最終目的は達成されないのです。

 

≪二つ目の目的の達成≫

 神は織り込み済みで意識核の記憶を奪いました。しかし神は、記憶を蘇らせる方法も忘れませんでした。それは意識核自らに、記憶を蘇らせる仕組みを持たせたことです。(エントロピー縮小の仕組み)その仕組みのメカニズムはこうです。

 まず、親和力によって意識核自らが集まってきて、宇宙空間に塵が生まれます。その塵が集まって星が誕生します。星の誕生、すなわち鉱物の誕生です。その鉱物の中心に、意識核の集合体である生命核(魂)が宿ります。(形が創られると中心に生命核(魂)が宿るのは、宇宙の約束事(法則)である。)

 やがて本質の力によって数知れない植物が繁茂し、星は緑で覆われます。当然のごとく、植物の中心に生命核が宿ります。次いで動物が誕生します。動物が増えるのも、神が与えてくれた本能力によるものですが、その中心に同じように生命核が宿ります。

 そして最後に人類が誕生します。そこには勿論、鉱物・植物・動物から受け継いだ生命核を宿しております。

 このようにして、記憶を失った数知れない意識核が、生き物の中に生命核として濃縮されてゆくのです。

 生き物の誕生は、生命核を濃縮する作業そのものであったわけです。

 生命核が濃縮されてある量に達すると、失っていた記憶が一部蘇ります。つまり、"ああ私は人間なんだ! 宇宙がある! 妻や子や友達がいる!"と自覚できるようになるのです。これを自我が備わった生命体といい、進化の第一段階を卒業したことを意味します。

 宇宙を認識できるということは、神(自分・私)を認識できるということですから、これは神が意図していた二つ目の目的が達成されたことになります。

 

≪三つ目の目的の達成≫

 さて神は、二つの目的は達成しましたが、最終目的である永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せを得る目的はまだ達成されておりません。では、どうすれば達成できるのでしょうか。それは、私達がこの表現宇宙で演じたドラマの数々を、神の世界に持ち帰ることで達成されるのです。

 これまでに、この表現宇宙の中でどれほどのドラマが生まれたことでしょうか? また今、どれほどのドラマが進行中でありましょうか? 

 楽しいドラマ、悲しいドラマ、感動的なドラマ、退屈なドラマ、それも、一つとして同じ筋書きのないドラマばかりです。そのドラマの数々が、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せを生み出してくれるのです。まさに私達の生み出したドラマは、次から次へと注ぎ込まれる新鮮な水のようなものです。ではそのドラマを、神の世界に持ち帰るにはどうすれば良いのでしょうか?

 

 

■ 第四章 人の悟りの役割

 

 神意識の放射によって生まれたこの表現宇宙には、前述したように無数の意識核が遍満しております。意識核が遍満している間は、時空はそのままの状態で存在し続けます。それではドラマを持ち帰ることはできません。ドラマを持ち帰るには、時空を縮める必要があるのです。その役割を担っているのが、人間の悟りなのです。悟った生命核(魂)には膨大な意識核が濃縮されているわけですが、その意識核を神意識の一点(パンドラの箱)に返すことが、最終目標なのです。

 地球人類の生命核(魂)は、これまで鉱物・植物・動物が集めてくれた意識核を受け継ぎ、さらに自らも集め、やっと、"自分は人間である!"と自覚できるところまで成長してきました。しかし、まだ神だと自覚できるところまで成長しておりません。ということは、地球人類はまだ未熟な段階にあるということです。

 生命核がある一定量集まると、否応なしに"自分は神であった!"という自覚に至ります。これを自覚の境界線を超えた生命体といい、進化の第二段階を卒業したことを意味します。この段階に至った人の魂には、膨大な量の意識核が濃縮されているのです。つまり、表現宇宙を縮小させる(時空を縮める)力が秘められているのです。まだ地球は幼いために悟り人は少ないですが、いずれ多くの人が自覚の境界線を超え、進化の第二段階を卒業するでありましょう。

 

 

■ 第五章 宇宙の脈動運動

 

 ビッグバーン以来、表現宇宙は膨張を続けてきました。その表現宇宙が成長しある境を越えると、膨張にストップがかかり安定の時期に入ります。それが脈動運動の分岐点です。それを過ぎると、ゆっくりと収縮に転じるようになります。その収縮は次第にスピードを増し、やがてスピードの極に達します。その頃には、多くの人類が悟りの収穫時期を迎えております。つまり自覚の境界線を超え、神意識の一点に帰る準備を終えているのです。やがて表現宇宙は、一気に収縮を始めます。急激に時空が縮まり、神意識の一点に私達の生命核(魂)も、相対宇宙も、すべて呑み込まれて行きます。これが一脈動運動の最期の姿です。

 宇宙は今まで脈動運動を続けてきましたし、今も続けていますし、未来永劫続けるでありましょう。水は流れているから清いのです。流れなければ淀んで、いずれ腐ってしまいます。これは死を意味します。永遠に尽きない、永遠に飽きない、幸せを得るためには、次から次へと注ぎ込まれる新鮮な水が必要なのです。その水に当たるのが、人間が持ち帰る数々のドラマなのです。

 この宇宙の物語は、究極の幸せを得る物語ですが、それは人生の目的そのものなのです。

2012年5月21日更新 

パンドラの箱

 ギリシャ神話に欠かせない登場人物が、パンドラという名の女性です。ギリシャ神話ではパンドラは、地上で最初の女性ということになっておりますが、これは物質を擬人化したもので、人間の女性のことをいっているのではありません。なぜ物質のことを女性に擬人化したかといいますと、表現宇宙において女性は物質の象徴的存在となっているからです。(物質の素材となっている電子は女性的存在であり、動力源となっている陽子は男性的存在となっている。)

 神ゼウスはこの女性に、あらゆる災いの種を封じ込めたパンドラの箱を持たせ地上に遣わしました。ところが誤って箱を開けたため、地上は苦しみや悲しみに覆われることになった、と神話ではいわれています。しかし、この神話の本当の意味はこうです。

 神は自分の存在を明らかにすると同時に、全能の偉大さを誇示するために表現宇宙を創造しようと思い立ちました。その創造の心(意思)のことを「パンドラの箱・心」といい、その箱から出てきた物質のことをパンドラの女といっているのです。創造の心(意思)とは、「創造の想い・理念」のことです。パンドラの女とは、「原子」のことです。(厳密には電子のこと・・・。原子は原子核と電子によって構成されている。)

 たしかに物質は、多くの苦しみを生み出す要因となっています。しかし、この物質宇宙は創造主にとって必要なキャンバスだったのです。だからじつは、誤って箱を開けたのではなく、創造主自らが意図を持って開けたのです。

 「初めに光ありき、その光によってすべてはなれり!」と旧約聖書に謳われているように、神は表現宇宙を創る意図をもって自らの意識(光)を放射したのです。このことをパンドラの箱を開けたといい、創造の第一歩だったわけです。放射された意識は波動を下げ、意識核(エネルギー化した原子核)となりました。さらに波動を下げ、原子となりました。この時点で時空が生まれたわけです。

 こうして、神の理念を現実化するキャンバスが表現宇宙に作られたわけですが、神はそのキャンバスに、銀河を創り、星々を創り、その星々に様々な生き物をお創りになりました。まさに神は、偉大な設計家であり、画家であり、彫刻家であり、建築家であり、またドラマの作家であり、演出家であり、演技者であります。

 人間はドラマを演じる役者(人形)として創られたわけですが、その中に宿って生きて働いているのは、神の分身である生命核(魂)です。分身である生命核は、しっかりとした意識と意志を持ち、自らドラマを作り自ら演じているのです。人間神の子のいわれは、神のあらゆる能力を備え持った神のミニチュアだからです。

 しかし、人間にはその自覚がありません。肉体を自分だと思い違いし、無力で、不自由で、苦しみ多い人生を送っています。人間はその苦しみの中から、自分が神であることを悟ります。悟った人間は、お土産であるドラマをもって神意識の中に(パンドラの箱の中に・神の心の中に)帰って行くのです。

 パンドラの箱とはこのように、「神の創造の心・理念」のことであり、私達の故郷なのです。

2012年6月1日更新

偏りがいけない理由(パート1)

 この宇宙には、常に安定の中にある絶対宇宙と、常に不安定の中にある相対宇宙の二つの宇宙が存在します。私達は後者の不安定な宇宙で、今様々な体験を通して安定の大切さを学んでおります。なぜそのような学びが必要かといいますと、表現宇宙が間違いのない進化の軌道を描くためには、人類の偏らない生き方の支えが必要だからです。

 どうでしょう。今人類は偏らない生き方をしているでしょうか?。いいえ、性の偏り、食の偏より、快楽の偏り、富の偏り、思想の偏りなど、すべての面において偏りを見せております。そのために、精神の汚染が進み、肉体の汚染が進み、自然の汚染が進み、人類も地球も汚れに汚れきっています。ではなぜ偏ると、そのようなおぞましいことが起きるのでしょうか?。

  • 原子爆弾はウランの濃縮されたものです。
  • 爆弾は火薬の濃縮されたものです。
  • 酸素ボンベも水素ボンベもガスボンベも、みな濃縮されたものです。
  • 竜巻や台風も、気圧の偏よりによって生まれたものです。
  • 一極集中社会も、過疎社会も、人口の偏りから生まれたものです。

 このように、何でも偏ると危険物になるのです。それはエネルギー均衡の法則を犯しているからです。今頻繁に自然災害が起きているのは、人類が偏った生き方をしているためです。人間が物質に偏ると、自然界も追随するように偏りを見せるのです。それは、人間に過ちを気付かせる反面教師になっているからです。自然は私達に、偏りの危険性を身を挺して教えてくれているのです。

 今多くの人が、五感を最大限に使い楽しみを謳歌しておりますが、それは一つの感覚器官だけで満足しきれないほど快楽に麻痺してしまったからです。特に恐ろしいのは、興奮剤を使って楽しむ若者たちの行動です。麻薬患者が絶えない現代社会は、正に濃縮文明そのものといっても過言ではないでしょう。濃縮されたものは必ず放散させられるように、今日の濃縮文明もやがて放散させられる時がくるでしょう。今人類の文明は、その直前にいるのです。

2012年6月8日更新。

私が今一番言いたいこと!。

 心ある先生達に私は言いたい!、特に小学校の先生達に言いたい!、あなたの教育指導要綱の中に「因果の法則」の一項を加えてほしいと・・・。因果の法則とは「良いことをすれば良いことが起き、悪いことをすれば悪いことが起きる」という単純な法則です。これは宗教でも何でもなく、当たり前の科学的法則なのです。この法則を真っ白な心を持った子供の頃に植え付ければ、今起こっているいじめや校内暴力や登校拒否などは、一切なくなってしまうでしょう。さらに、その子供達が大人になった頃の社会に、犯罪人は一人もいなくなってしまうでしょう。たった一つの法則を教えるだけで、社会を大きく変えることができるのです。それは、あなた達先生がやる気になればできることなのです。私は難しいことをお願いしているのではありません。当たり前の、簡単なことをお願いしているだけです。

 私の子供の頃の話ですが、隣のおじさんに子猫をいじめているのを見つかり、叱られたことがありました。ただ叱られただけなら、そうショックはなかったのでしょうが、" 悪いことをしたら罰が当たるぞ! "の言葉があまりにも衝撃的だったため、いまだに頭から離れないのです。子供の頃に受けた衝撃的言葉というものは、心が純真なだけに大人になってもなかなか忘れられないのです。もし純真な心を持つ子供の頃に因果の法則を教えれば、どんな道徳教育よりも確かな成果が上るでしょう。

 どうか子供たちに、因果の法則を教えて下さい。公然とできないなら、言葉を変えてでも、たとえ話に置き換えてでも、教えて下さい。良いと分かっているのに教えないでは、もったいないではありませんか。良い教えは、どんなに反対されようと教えるべきです。それは、先生方の決断一つでできるのです。

2012年6月18日更新

無意味な人生はない!。

 この世には、生まれてすぐ死ぬ赤子がおります。数年しか生きられない幼子がおります。二十歳を待たずして死ぬ若者がおります。私の娘も二十歳半ばでこの世を去りました。そんなわずかな人生に、一体どんな意味があるのだろうと誰もが思います。私も真理を知るまではそう思いました。だから、神を恨んだりもしました。でも真理を知ったとき、その考えが間違いだったことが分かったのです。

 神はこの宇宙に、無意味なモノは、何一つお作りになっていません。どんな無意味と思えることの中にも、みなちゃんとした意味があるのです。もし私の娘の死に何の意味も無いなら、娘の死は無駄死になってしまい、これほど虚しいことはありません。でも神は、そんな無意味なことはなさらないのです。

 乳の出ない母親の胸にすがりながら死んでゆく幼子たち、爆弾テロで吹き飛ばされ死んでゆく子供たち、自然災害で命を落とす若者たち、こんな悲惨な人生でさえ、神はしっかりとした意味を持たせ、人生を価値あるものへ運んでいるのです。

 「人間万事塞翁が馬」の諺は、"人生において何が幸せで何が不幸か分からない! "という意味だそうですが、本当は、" 神は何一つ無意味なことはなさらない!、どんなことも良いことなのですよ!、"という意味なのです。

 「無用の用」という諺の意味も、" この世に無用なことは一つも無い、すべて必要あって起きているのですよ! "という意味なのです。具体例を数例示しましょう。

○この世に肉体をもって生まれてくること自体、生命核(原子核・魂)を増やしております。まして苦難の人生において、どれほど生命核を増やしていることか。生きていること自体生命核を増やしているのですから、決して自殺などしてはならないのです。 

○どんな短い人生も、周りの人たちに強烈なインパクトを残しております。事実娘の死は、私に強烈なインパクトを残し私の人生を変えました。今の私があるのは、娘の死のおかげであるといっても過言ではありません。 

○あなたがいなければ、学べることも学べない人たちが周囲にいる事を忘れてはなりません。あなたの人生は、あなただけの人生ではないのです。周囲の人たちの人生でもあるのです。 

○人生劇場における喜怒哀楽は、人生劇を迫真の演技に結びつけております。感動のドラマはそこから生まれるわけですが、そのドラマが、宇宙に永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せを生み出しているのです。

 

 このように、誰一人として無意味な人生を歩んでいる者はいないのです。だから今どんな境遇にあろうと、決して自暴自棄になってはなりません。あなたの人生は間違いなく、自分の糧にも、周りの人達の糧にも、宇宙の糧にもなっているのですから・・・。

2012年7月1日更新

神の子の教育をしよう!。

 このメッセージは、準備のできた人に届くようプログラムされております。特にここまで読み進んできたあなたは、準備ができた選ばれた人です。そのことは、あなたの魂がよくご存知です。そのことを踏まえた上でお願いしたいのは、ぜひあなたのお子さんに「神の子の教育をしてほしい!」というお願いです。こんなことをいうと一般人なら、"そんな非常識な事!"と怒るかもしれませんが、選ばれたあなたなら解ってもらえるはずです。といっても、" 特別な教育をして下さい! "、といっているわけではありません。普段の生活の中で、普通にやれる教育をして下さいといっているのです。

 たとえば、

  • 神の子の誰々ちゃん、おはようございます!。
  • 神の子の誰々ちゃん、いってらっしゃい!。
  • 神の子の誰々ちゃん、こちらにいらっしゃい!。

 といったふうに声をかける教育です。ただしその場合、その子を神の子として認め、神の子として接するよう心がけねばなりません。ですから、悪いことをしても怒ってはなりません。叱って下さい。勿論体罰はいけません。体罰を加えないでも分かる魂だからです。それより良いところを引き出す、ほめる教育をして下さい。この教育は、今妊娠中のお母さんにもお願いします。 

 やりかたは、まずお中に手を当て、

 " お母さんの言うことをよく聞いて下さいね! "といってから、

  • " あなたは神の子ですよ! "
  • " 神の子さんお元気ですか? "
  • " 神の子さんすくすく育って下さいね! "

 といったふうに、やさしく声をかけてやって下さい。他にも、童話を語ってあげても良いでしょう。童謡を唄ってあげても良いでしょう。音楽を聞かせてあげても良いでしょう。要するに、子供が喜ぶようなことなら何でも結構ですからやってあげて下さい。そのように接すれば、知らず知らずのうちに" ああ自分は神の子なんだ! "、という意識が芽生えてくるはずです。今は非常識かもしれませんが、その子が大人になるころには常識になっているはずです。

 どうでしょう?。神の子の教育をすることは悪いことですか?。良い子には育っても、決して悪い子には育たないと思います。幼い頃に受けた教育というものは、大人になってもなかなか忘れないものです。ぜひ、あなたのお子さんに神の子の教育をして下さい。これは選ばれた者の義務だと思ってやって下さい。

 これから地球は、聖なる星に向かって突き進んでゆきます。その牽引車となるのが、あなたのお子さんです。どうか立派な牽引車に育つよう、神の子の教育をして下さい。

2012年7月15日更新

人を落としめんとする者は、自分をおとしめている。

 よく世間には、人をおとしめようとする者がおります。でもその者は、自分をおとしめていることに気付いていないのです。こういうことです。

 人をおとしめるには、まず自分の中に色々な策略を思い巡らせなければできません。その者は、その策略によって自分をおとしめているのです。悪しきことを思い巡らせること自体が、自分を汚していることになるからです。これが人をおとしめんとする者は、自分をおとしめているという意味であります。憎しみの思いも、恨みの思いも、怒りの思いも、どんな汚れた思いも、自分の中から出てくるわけですから、自分を汚さないで人を汚せるわけがないのです。汚物を外に出すには、出口(自分の口)を汚さないではできないからです。

 逆も真なりで、人を愛するには自分を愛さなくてはできません。人を清めるには自分を清めなくてはできません。愛も清らかな思いも、自分の中から出てくるわけですから、自分の中に無いものは出しようがないのです。その意味では、愛深い人は沢山愛のある人であり、憎しみ多い人は沢山憎しみのある人である、ということになるでしょう。

 人は自分です。自分は人です。この宇宙には自分しかいないのです。だから人を汚せば自分が汚れ、人を清めれば自分が清められるのです。すなわち、自分を汚せば人を汚し、自分を清めれば人を清めるのです。

 本来、憎しみも、恨みも、怒りも、自分が作らなければそんなものは無いのです。なぜなら、この宇宙に汚れたものなど一つも無いからです。あるのは清いもののみ、すなわち愛のみです。愛は実際にあるので与えることはできますが、憎しみは実際にないので与えることはできないのです。人から憎しみをもらったという人は、自分が作るからあるのであって、自分が作らなければそんなものは無いのです。自分が作らなければ無いという意味は、外側からどんな憎しみがきても、受け取らなければ影響は受けないという意味です。

 よく人に騙され老後の貯えを奪われたという人がおりますが、自分の中に汚れた思い(欲望)が無ければ、騙されることは無いのです。また人のコソコソ話を悪くとって、憎しみの妄念を作り上げている人がおりますが、これも自分の中に人を悪く思う心が無ければ、そんな妄念を作ることは無いのです。すべて自己責任です。だから人におとしめられたからといって、人のせいにしてはならないのです。同じ波動を持っているから共鳴し、騙したり騙されたりするのですから、おとしめる人もおとしめられる人も同罪なのです。この点よくよく注意せねばなりません。

2012年8月1日更新

自覚の境界線とは?。

 自覚にグレーゾーンはありません。白か黒か?、自覚したか自覚していないか?、のどちらかがあるだけです。未自覚の状態は、「地」にいて眠っている状態です。自覚した状態は、「天」にいて目覚めた状態です。つまり、人間だと思っている時は地におり、生命だと思っている時は天にいるのです。未自覚と自覚の間には、はっきりとした境界線があり、その境界線をまたいで天に入ったら、自分が大きく変わるのです。それも観念的に変わるのではなく、現実的に、実際的に、変わるのです。

 たとえば、ものの見方や考え方が全く違ってきます。今まで見えなかったものが見えてきます。つまり、視野が広がり遠くのものが見通せるようになるのです。正しい判断ができるようになるため、正しく思い、正しく語り、正しい行為が当たり前のようにできるようになります。さらに驚くべきことは、自分の身体に変性変容が起きてくることです。これは驚くべき変化です。(変性変容について詳しく知りたい方は、「自分を変える瞑想法」を読んで下さい。)

 おもしろいことに、自覚の境界線をまたいだ瞬間、この世が夢の世界だということがはっきりと分かります。その時、一人で笑っちゃいます。" 何だ!、今まで自分は夢を見ていたのか!、ハハハハ! "と・・・。 こんな体験ありませんか?。夢の中で悪者に追いかけられ心臓が止まりそうなほど恐怖している。でも「これは夢なんだ!」と思えた瞬間、恐怖が去ったという体験が・・・。これと同じことが、自覚の境界線をまたいだ時に起きるのです。

 私達は今、夢を見ている真っ最中なのです。この夢には寒さや暑さや痛みが伴い、また夢にストーリー性があるため、誰もが夢の虜になってしまうのです。夢が本当だと思えば、苦しく、悲しく、恐ろしいのです。この夢から目覚めるには、人生について、人間について、死について、宇宙について、深い疑問を持ち、その疑問の謎解きをしなくてはなりません。自問自答と瞑想は、その謎を解く最良の方法です。

 私は「神である!、生命である!」と、心の底で思えた状態を自覚の境界線を超えたといい、これが夢から目覚めた状態です。でもこれは、本人にしか分からない意識の中の出来事ですから、人に伝えることはできないのです。だから仏典の中にも聖典の中にも、その記述が見当たらないのです。でも幸せなことに私達は、知花先生によって自覚の大切さを学びました。つまり、進むべき、求めるべき、中身(道)を知ったのです。

2012年8月15日更新

花咲か爺さんの童話は真理そのものである。

 「花咲か爺さん」の童話には、一つの戒めと一つの真理が隠されております。一つの戒めとは、悪いことをすれば不幸になり、良いことをすれば幸せになる、という因果応報の話です。一つの真理とは、生命不滅の法則の話です。

 ご存知のように花咲か爺さんの話は、欲のないお爺さんは殿様からご褒美をいただいて幸せになり、欲張りなお爺さんは殿様の怒りを買い不幸せになるという話ですが、この童話は「悪いことをすれば悪いことが起き、良いことをすれば良いことが起きる」という因果の法則を分かりやすく説いた話なのです。

 さらにこの童話は、生命不滅の法則を説いている話でもあるのです。殺された犬の生命は、木に宿り、灰に宿り、桜の花に宿りました。どんなに姿を変えても命の花は永遠に咲き続ける、すなわち生命不滅の法則をこの童話は教えているのです。この話をさらに深く追及してゆくと、生命不滅の法則はエネルギー不滅の法則でもある、ということも分かってきます。

 たとえば熱エネルギーは運動エネルギーに変わり、運動エネルギーは位置エネルギーに変わり、位置エネルギーは再び熱エネルギーや運動エネルギーに変わります。そのエネルギーは最終的に大地や大気に還元されますが、どんなに姿を変え性質を変えてもエネルギーは永遠に生き続けているのです。私達の命も同じように、姿を変え性質を変えても永遠に生き続けているのです。

2012年9月1日更新

真に価値あるものとは何か?。

 ここで今日私達が抱いている価値観が、本当に正しいかどうか検証してみることにしましょう。

 今日の社会において、希少価値の低いものは疎んじられ、高いものは大切にされています。なぜか?、それは、希少価値の低いものは手に入りやすく、希少価値の高いものは手に入りずらいからです。これは当たり前のように思いますが、少し視点を変えれば真逆になる価値観なのです。

 よろしいですか?。なぜこの世に、多いものと少ないものがあると思いますか?。それは多いものは必要性が高く、少ないものは必要性が低いからではありませんか?。ならば、必要性の高い空気や水や土が貴重物になるのではありませんか? しかしどうでしょう。この社会では、必要性の低い金やダイヤモンドが貴重物になっているのではないでしょうか?。

 そうです。金もダイヤモンドも人の欲と見栄が生み出した、この社会ならではの価値観で、真に価値ある物ではないのです。真に価値あるものは、私達の身近にある空気や水や土です。金やダイヤモンドが無くても私達は生きられますが、空気や水や土が無ければ私達は生きられないからです。しかも、空気や水や土は身近に沢山あるため手に入りやすいですが、金やダイヤモンドは遠くに少なくしかないため手に入りずらいのです。これは一体何を意味しているのでしょうか?。

 神は生きるのに必要な物は身近に沢山置き、あまり必要で無い物は遠くに少なく置いてくれているのです。つまり、生きるのに必要な物こそ価値あるもので、生きるのに必要でない物はあまり価値の無いものですよ!、ということを神様は教えてくれているのです。このように考えると、今まで私達が抱いていた価値観が誤りだったことに気付くでしょう。

 もう一つ、真に価値あるものを付け加えるとすれば、私達の労働力です。労働力が無かったら、たとえ空気や水や土や資源があっても、何も生み出すことができません。ということは、労働力こそ真に価値あるものである、ということになるでしょう。

 このように真に価値あるものとは、それが無くては生きられないもの、しかも身近に沢山あるありふれたものを言うのです。この自然の配剤の妙を深く追及すると、次のようなことが分かってきます。

 「身近に沢山あるものを食べ、使えば、健康で争いない社会を築けるが、遠くに少なくあるものを食べ、使えば、不健康で争い多い社会になる」、という戒めです。人類はこの戒めを守っていないため、病気も争い事も絶えないのです。もし人類がこの戒めを守ったら、この地球上に病も、争い事も、一切無くなるでしょう。

  • どうか空気を大切にして下さい!。
  • 水を大切にして下さい!。
  • 土を大切にして下さい!。
  • 資源を大切にしてください
  • 労働力を大切にして下さい!。 

 それが真に価値あるものを沢山与えてくれた、神に対する礼儀だと思います。

2012年9月15日更新。

代理贖罪(だいりしょくざい)について。

 キリスト教では、イエスが人類のすべての罪を背負って十字架にかかったと教えています。またイエスは、神の一人子であるとも教えています。いずれもイエスを神秘化するための作り話です。どうして人の罪を、他人が肩代わりすることができるでしょうか?。なぜ同じ手順を踏んで生まれた人間なのに、イエスだけが「神の子」で私達は「人間の子」なのでしょうか?。おかしいとは思いませんか?。

 この宇宙には「原因と結果の法則」が厳然として存在し、その法の下にすべての生き物が平等に生かされております。「因果応報」「作用と反作用」すなわち、「自分が蒔いた種は自分が刈り取らねばならない!」という法則です。この法則は宇宙を支えている絶対的法則ですから、いかなるものも曲げるわけにはゆきません。なのにどうして、他人が蒔いた種をイエスが刈り取ることができるのでしょうか?。池に石を投げ入れたら、投げ入れたところに波は返ってくるのですよ!。投げ入れてもいないイエスのところに、どうして波が返ってくるのでしょうか?。もしイエスが人類の罪を背負って磔にかかったなら、なぜ人類は今もって様々な罪に喘いでいるのでしょうか?。

 また代理贖罪が可能なら、人間に自由意思が与えられることは無かったでしょう。なぜなら、自由意思で悪いことをしておきながら他人が罪をかぶってくれるなら、自由意思を与えた意味がなくなるからです。またそんな無秩序がまかり通るなら、この宇宙は一瞬の存在も許されないはずだからです。

 イエスが磔にかかったのには、二つの理由がありました。一つは、神に対する信仰心の深さを示すためと、もう一つは、原因を作れば必ず結果がやってくるという因果の法則の確かさを示すためでした。

 イエスは手や足に釘を打たれようが、槍で突き刺されようが、神の信仰心を最後の最後まで捨てようとはしませんでした。身を消すこともできたイエスが、わざわざ磔の刑にかかったのは、どんなにひどい目にあわされようと神を否定してはならない!、という信仰心の深さを人類に見せるためだったのです。この信仰心の深さは、いついかなる状態に置かれようと、神は決して私達を見捨てない!、つまり、神は必ず良きようにしてくれるという、神の完全性(神の愛)の裏づけがあるからで、イエスはそれを心の底から信じていたのです。

 神は完全です。その完全なる神が、理由なく人間を苦しめるわけがないのです。苦しむには、苦しむだけの理由がちゃんとあるのです。その理由が分かれば、私達は大きく成長できるのです。だから苦しみは悪いことではないのです。それが信じられたら、もう何の憂いも、何の恐れも、何の心配もなくなります。傷ついても善し、病んでも善し、老いても善し、死んでも善しと、この身を神に委ねることができるのです。それをイエスは、我が身を犠牲にして教えてくれたのです。もう一つの理由はこうです。

 偉大な知恵を持つイエスが、言い逃れできないはずはなかったのです。でもそれでは磔の刑にはかからない、そこでイエスはあえて言い逃れをせず(自ら磔になる原因を作り)その結果磔にかかったのです。なぜそのようなことをしたかといいますと、それはどんな偉大な覚者であっても、原因を作ればこのような結果を招きますよ!、ということを人類に教えたかったからです。ところがキリスト教はその教えを代理贖罪にすり替え、イエスの意図を踏みにじってしまったのです。私はこのことを知った時、身震いしました。これではイエスの死は、犬死にではないかと・・・。これからでも遅くありませんから、ぜひこの真実を知って下さい。

 知花先生も手や足に怪我をしたことがありましたが、それは、どんな覚者であっても注意を怠り自然の法則を犯せば、つまり原因を作れば、このような結果を招くのですよ!、ということを教えたかったからです。私達は、イエスや知花先生の実証実験の確かさを見せられたのですから、もうそのような真似をする必要はありません。私達は覚者の犠牲を無駄にしないためにも、法を信じ、法を守り、法を犯さないことです。

 神を信ずるとは、宇宙の法を信じ、守り、犯さないことです。人類が法を犯さなくなったら、十字架にかかったイエスの犠牲も報われると思います。どうか神を信じて下さい。宇宙の法則を信じて下さい。神は、法は、決して悪いようにはしないのですから・・・。

2012年10月1日更新

 

 

 

本音で語る。

 よく" 本音で語りなさい! "といいますが、この本音とは何かといいますと、神の心から発せられた音のことです。この音は、神音とか聖音とか呼ばれており、宇宙にはこの精妙な波動の高い聖音のみが存在しているのです。でもその聖音は波動が精妙なため、通常音として捕えることはできません。音にするためには媒体が必要になるわけですが、その役割を担っているのが人間なのです。人間の声帯は、まさに神の声を響かす聖なる場所です。だからその場所を、「のど仏」とか「聖帯(声帯)」などといっているのです。しかし残念なことに、今の地球人類の声帯からは、歪んだ音しか発せられておりません。(歪んだ音とは、偽心で語る言葉のことです。)現状の地球で聖音を降ろす役割を担っているのは、聖人たちだけです。彼らは、自分のことを神だと自覚していますので、その口から語られる言葉は、みな歪みのない聖音です。

 ちなみに聖人の「聖」とは、「耳」「口」「王」(王とは天のこと)と書き、これは天の言葉を正しく「耳」で聞き、正しく「口」に出して話す「人」のことを意味しているのです。天の言葉は波動が精妙なので、正しく受け取るには大きな耳が必要ですし、また口が歪んでいては天の言葉を正しく話すことができませんので、まっすぐな口が必要です。だから聖人の耳たぶは大きく、口はまっすぐな口をしているのです。これは、お釈迦様の像を見れば分かっていただけると思います。政治家に歪んだ口をしている人が多いのは、言葉を正しく語っていないからです。

 この聖音は、二千五百年前にお釈迦様を通して、二千年前にイエス様を通して降ろされました。では今は、聖音は降ろされていないのでしょうか?。いいえ、そんなことはありません。この地球上に、聖音の閉ざされた時代は一度もないのです。いつの時代も、どんな場所にも、どんな人種にも、聖音は平等に届けられています。天はえこひいきするようなことはしないのです。ただ降ろされた聖音を、どのような解釈力を持って受け取るか?、どれほどの理解力を持って受け取るか?、によって聖音になるかならないか決まるだけです。

 聖音を受け取るには、次のような心がけが必要です。

  1. 素直に受け取ること。
  2. 既成概念や観念を捨て、先入観のない真っ白な心で受け取ること。
  3. 頭で受け取るのではなく、心で受け取ること。

 以上の三点を守って受け取れば、歪みのない聖音を受け取ることができるでしょう。

 先程、地球上に聖音の閉ざされた時代は無いといいましたが、その理由は、聖者がこの世を去る時には、必ず後継者にバトンタッチして帰るからです。いずれ地球人類も、全員が聖音を語れるようになるでしょうが、その時こそ、地球は聖なる星になるのです。

2012年11月27日更新

 

 

 

受け取る側に責任がある。

 宇宙エネルギーを注いでも、癒される人と癒されない人が出てきます。なぜでしょうか?。与える側に問題があるのでしょうか?、それとも受け取る側に問題があるのでしょうか?。

 宇宙エネルギーは、決してえこひいきするようなことはしません。どんな極悪人であろうと、どんな善人であろうと、平等にエネルギーは注がれてゆきます。注がれてはゆきますが、受け取る側に準備ができていない場合は受け取れないのです。準備ができていない場合はという意味は、まだ克服すべき課題がある場合はという意味です。

 この宇宙は、因果の法則によって整然と運ばれていますので、その法則を無視して病気になることも癒されることも無いのです。病気になるにはなるだけの原因があり、癒されるには癒されるだけの原因があるからです。だから、どんなに最新の医療を受けても、原因を取り除かない限り癒されることは無いのです。もし法則を無視し強引に癒すならば、魂の進化を遅らせることになり、後々大変なしっぺ返しを受けるでしょう。だからもし私に、" 病気を治す万能の手を与えよう! "と神がいわれても、私はお断りします。なぜなら、私は罪人にはなりたくないからです。人を安易に癒すのは、大変な罪を犯すことになるからです。

 正しい治療法は、原因を取り除くことなのです。原因を取り除くことが、課題を克服するという意味なのです。宇宙の法則を犯し病気になったのですから、その事に気付き生き方を正したら、病気が治るのは当たり前なのです。病気は気付きなさい!、課題を克服しなさい!、という警鐘なのです。

 今病気で苦しんでいる人は、どうか警鐘に耳を傾けて下さい。そして、何を正すべきなのか?、どんな課題を克服すべきなのか?、自分に問いかけてみて下さい。必ず答えが見つかるはずです。

 これは、真理を受け取る場合にも当てはまることです。

 どんな素晴らしい真理も、受け取る側に準備ができていない場合は、受け取ることができないのです。準備ができていない場合とは、理解力が備わっていない場合、あるいは理解力が備わっていても既成概念にガンジガラメに縛られ、真理の受け入れる隙間の無い場合です。人それぞれ魂の成熟度が違いますから、真理を受け取る能力(理解力)や環境が違ってくるのは当然です。だから同じ真理を伝えても、受け取れる人と、受け取れない人が出てくるわけです。だから私は、何事も受け取る側に責任があるというのです。

2012年12月3日更新

 

 

 

反省の矛盾。

 ある人からこんな質問を受けました。

 "悪業は瞑想によって消すことが可能である!、といっている一方、反省によって消すことも可能である!、とあなたはいっておりますが、「汝の見るもの受け継がん!」という法則を前提に考えれば、これは明らかに矛盾だと思います。瞑想は、悪を見ず善(神)のみを見て悪を消す方法ですから納得できますが、反省は、悪を見て悪を消そうとする方法ですから、法則に反すると思います。"

 たしかにこの人の言うように、悪を意識して悪を消そうというのは法則に照らして明らかに矛盾です。でも、瞑想で簡単に悪業を消せるものでしょうか?。しかも過去世で付けた悪業は根深いため、簡単には取れないのですよ!。そんな悪業を抱えながら、心静かに瞑想などできるものではないのです。でも今生付けた悪業ならば、反省によって簡単に取ることができるのです。

 例えばここに、二つの病気を抱え苦しんでいる人がいるとします。一つは内臓にガン(過去生の業)があります。もう一つは腕に外傷(今生の業)があります。外傷は簡単に治すことができますが、ガンを治すには大変な時間と手間がかかります。この場合医者は、どのような治療をするでしょうか?。簡単に治せる外傷を先に治そうとするでしょう。その方が、少しでも苦しみを取ってやれるからです。これと同じことが悪業を取る場合にも言えるのです。

 瞑想によって、どんな悪業も消すことができるのは確かです。でもそれには、相当な時間と手間が必要になるのです。私が、" 簡単に悟れるなら反省などいらない! "というのは、ガン(悪業・悟る)を治すのは容易ではないからです。ならば、簡単に治せる外傷(今生の業)を先に治した方が賢明ではないでしょうか?。

 宇宙の法則は、臨機応変に用いなければなりません。相反するものも、使い方いかんによっては善になるからです。

2012年12月20日更新

 

 

 

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