第四集 (2014年)

私たちは幽界に帰るのではない!。

 死んだら幽界に帰るのが当たり前だと思っている人がおりますが、私たちの帰るべきところは幽界ではなく、本源の世界、つまり生命の世界です。なぜなら、物質の世界が仮の宿であれば、幽界も仮の宿だからです。そんな仮の宿に帰って、一体何になるのでしょうか。私たちの帰るべきところは、永遠に尽きない永遠に色褪せない幸せのある生命の世界です。これを理解するには、" 意識は永遠に無くならない! "、ということを心底知らねばなりません。

 そうなのです。私たちの意識は永遠に無くなりません。永遠に無くならない意識は、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せの中に居なくては満足できないのです。形の世界は、どんなに楽しくても、必ず飽きがきて、陳腐化し、色褪せてしまいます。そんな所に、真の幸せがあるわけがないのです。

 たとえば、想像を絶する美の世界に連れて行かれたとしましょう。確かに連れて行かれた当初は、その美しさに圧倒されてしまうかもしれません。もうこの世界から、永久に抜け出したくないと思うかもしれません。でもその感動も時間と共に薄れ、やがて見るのも嫌になってしまいます。形に現れたものは、必ず飽きがくるようにできているからです。私たちの意識は永遠ですから、そんな一時の幸せでは満足できないのです。でも形に現れない世界は、永遠に飽きがきません。その永遠に飽きのこない世界が、生命の世界なのです。私たちは最終的に、その生命の世界に帰らなくてはならないのです。世界というと、形の世界をイメージするかもしれませんが、生命の世界は形が無いのです。あるのは意識のみ、その意識は本当の自分を知ったとき、幸福感に満たされるのです。それも永遠に尽きない、永遠に色褪せない幸福感です。もう、何も見る必要がないのです。何も聞く必要がないのです。何も知る必要がないのです。何も得る必要がないのです。ただ、コンコンと湧き出る喜びの中に永遠に留まっているだけです。そこが天国です。天国とは、天国という場所があるわけではありません。永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せの意識状態を、天国というのです。もう一度言います。

 私たちの帰るべきところは、物質界でも幽界でもありません。生命の世界、意識の世界です。このことを理解するのは容易ではないでしょうが、どうか理解してください。なぜなら、理解できないものは存在しないのが、意識世界の理であり仕組みだからです。理解できなければ、その意識さえも無いのです。地球は、そのことを知るための学校です。学校ですから、いつまでもそこに留まっていては後輩たちが迷惑します。さあ、一日も早く地球学校を卒業しましょう。

2014年1月1日更新

 

 

 

いつまでも人間であってはならない!

 私たちはよく、人の道に恥じない生き方をしなさいとか、人間味を無くしてはならないとか、人間らしく生きなさいとかいいますが、私たちは人間が最高の生き物だと思っているから、そのような言い方をするのです。人間は神に至る進化途上の生き物であって、最高点にいるわけではないのです。それどころか、まだ進化の階段の下の方にいるのです。なぜなら、鉱物・植物・動物の次に位置しているのが人間だからです。人間の上には、無限に近い進化の階段があるのです。その下の方に位置している人間に生きなさいとは、おかしな話ではありませんか。知らないからそのようにいうのでしょうが、私たちは一日も早く人間を卒業して、次のステップを踏まなければならないのです。そのためには、自分が神(生命)であることを心の底で知ることです。

 私たちは神の分身なのです。私たちは神から生まれた神の子なのです。神の子であるがゆえに、神になれるのです。蛙の子であるオタマジャクシは、幼いときにはオタマジャクシと呼ばれていますが、いずれ蛙と呼ばれるようになるのです。神の子である人間も、今は人間と呼ばれていますが、いずれ神と呼ばれるようになるのです。これは当り前の事であって、何の不思議もありません。

 蛙の子は蛙なのです。神の子は神なのです。人間の子と思うから、人間の生き方しかできないのです。今人類は、神でありながら人間と錯覚し、人間として生きているのです。だから、生・老・病・死に苦しんでいるのです。それはただ、錯覚しているだけです。錯覚を解けば、そく神なのです。

 低いレベルで人間を見ないでください。人間は間違いなく、神の子なのですから・・・。神の分身なのですから・・・。

2014年1月15日更新

 

 

 

人間はみな同じではない!

 人間はほぼ同じ形をしていますので、誰もが同じ人間だと思っています。でもそれは、外面を見るからであって、内面を見ればみな違うのです。内面とは意識の高さのこと、魂の熟成度のことです。人間の中に宿っている魂は、同じ時期に生まれた魂ばかりではないのです。早く生まれた魂もあれば、遅く生まれた魂もあるのです。早く生まれた魂は、それだけ体験が豊富ですから成熟度が高く、遅く生まれた魂は、体験不足ですからそれだけ熟成度が低いのです。これは誰が悪いのでもなく、ただ遅く生まれたか早く生まれたかの違いです。でも、その違いを意識して生きることは、とても大切なことなのです。

 なぜ大切かといえば、魂の違いを意識して生きれば、自分より幼い魂に対して寛容の心を持って接することができるからです。例えば、相手が解らないことをいってきたり、喧嘩を仕掛けてきたりしても、「まだ幼い魂なのだから許してやろう!」という、大きな心が表せるのです。これは、先輩が後輩に見せる心の余裕のようなものです。人間は不思議なもので、相手が幼い子供だと思えば、何をいわれても、何をされても、笑って済ますことができるのです。

 もう一つ、魂の高さを意識して生きれば、つつしみ深くなるため、身をつつしみ、言葉をつつしみ、思いを慎むようになります。つまり、「身・口・意」の正しい表現ができるようになるのです。また不思議なことに、自分の心の中の葛藤も無くなります。例えば、自分を責めなくなります。自分を許せるようになります。全ての面において魂の成長と思えるようになるため、嫌な事から逃げなくなります。それだけ自分が大きく強くなるのです。

 今の人間の最大の欠陥は、命格(魂)の違いを認めないで生きていることです。同じ人間同士だと思えば、どうしても競い合って生きるようになります。「私はあいつに負けたくない! あいつより偉くなりたい! あいつよりいい生活がしたい! 」と・・・。だから今の社会は、争い事が絶えないのです。

 ではどうすれば、自分より幼い魂か成熟した魂かを見分けることができるのでしょうか?。それは、自分の魂が今どの位置にあるのか、常に意識していることです。自分の魂の位置が冷静に見つめられる人は、人の魂の高さも見えるようになるのです。だから、その人は謙虚です。人を許せます。決して増上慢になることはありません。でも子供の魂は、そんなことを少しも考えませんから、増上します。自分を偉そうに見せます。小さな問題を大きくして、人といさかいを起します。

 下から上は見えなくても、上から下は見えるのです。魂の高さを意識できる人は、上から下を見通せる人です。その人は、相手が自分より高い魂だと思ったら、敬慕の念を持って接します。相手のいうことを良く聞いて、自分の成長につなげます。反対に相手が幼い魂だと思ったら、少しでも成長させてやりたいと腐心します。この更新集を読んでいるあなたは、それができる魂です。ぜひ、自分の魂の位置を意識して生きてください。その人は大きな心が表せます。その人は、もうつまらないことで争いを起すようなことはしないでしょう。

2014年2月1日更新

 

 

 

その日は誰にでも必ずやってくる

 私たちの目の前には、永遠に続く道があるように見えます。でもそれは錯覚です。私たちの目の前にある道は、いずれ消えて無くなる虚しい道です。例えば、今道を歩いている自分の姿を、後ろから見ている人がいたとします。しかし、その人の視界から、突然自分の姿が消えてしまう時がやってきます。その人はこう思うでしょう。彼は一体どうなったのだろう? 落とし穴の中に落ちたのだろうか? それとも左に90度曲がったのだろうか? と・・・。その人は走り寄って、忽然と消えた自分を探します。しかし、どこにも見当たりません。これがこの世の定めなのです。

 あなたは他人事のように思っているかもしれませんが、これは他人事ではないのです。あなた自身の切実な問題なのです。人は必ず死ぬのです。死なない人など一人もいないのです。その証に、あなたは毎日、自分の周りから消えていっている人を見ているのではありませんか。あなたの祖父母はどうでしょうか? あなたの両親はどうでしょうか? あなたの叔父や叔母はどうでしょうか? あなたの隣人はどうでしょうか? あのアスリートは? あの女優は? あの有名人は? 「朝に紅顔ありて夕には白骨となれる身なり! 」と蓮如上人が詠っているように、人間なんて儚い存在です。どんな元気な人も、明日どうなるか分からないのがこの世の儚さです。

 知花敏彦先生は、こんなことを言っておられました。"皆さんにいつお迎えが来るのか知っていますか? "と・・・。そうです。今日来るのか? 明日来るのか? 一年後か? 十年後か? 三十年後か? 誰にも分からないのです。でも、その日は誰にでも必ずやってくるのです。これは地球だって同じです。今日突然落とし穴に落ちるか、突然90度の曲りカーブに誘い込まれるか、分からないのです。でも人間は、この世がいつまでも続くと思っています。"年の初めのためしとて、終わりなき世のめでたさを"という「一月一日」の歌詞にあるように、人間は永遠に世が続くと思っているのです。あなたの周りから知人が消えたように、地球だっていつ消えるか分からないのですよ!・・・。私はネガティブに言っているのではありません。この世が幻だと知った者が、ノホホンと生きていていいのですか!?、と言いたいだけです。

 思い出してください。一体自分は、何のためにこの地球に生まれてきたのかということを・・・。さあ!、悔いを残さないためにも、充実した毎日を送りましょう。それは、正しく思い、正しく語り、正しい行いをし、時間の許す限り瞑想をすることで、できるのです。

2014年2月11日更新

 

 

 

賢い五人の女と愚かな五人の女

 小さな島のある村に、嫁入り前の十人の若い女が住んでおりました。ある日その村の長老が、十人の女を呼びつけてこう言いました。「近じか、お前さんたちに、お婿さんが迎えに来ることになっているから、ランプを磨き、油を注ぎ用意して待っていなさい」と・・・。というのも、お婿さんたちの乗った船は夜更けに来るため、明かりを灯していなくては、船が港に近づくことができないからです。

 賢い五人の女は長老の言いつけを守り、さっそくランプを磨き、油を注いで待っていました。でも愚かな五人の女は、何も用意せずボールゲームをして遊びほけていました。ところがある日突然、お婿さんたちがやってきたのです。さあ愚かな女たちは大慌て、さっそくランプを磨き油を注ぎ用意したのですが、時間がかかったため船に乗ることができませんでした。一方、用意して待っていた賢い五人の女たちは、無事に船に乗ることができたのです。

 真理というものは、普段からコツコツと積み上げていなくては、身に付くものではありません。急いでやっても、それは付け焼刃というものです。それでは、お婿さんがやってきても間に合いません。賢い者は、いつ来ても良いよう準備して待っているものです。どうか、愚かな女にならないでください。

2014年2月15日更新

 

 

 

感情を悪と決めつけてはならない!

 求道において克服すべき課題の一つに、感情の克服があります。"私はまだ感情の克服ができていない! "と嘆く求道者がおりますが、そう嘆く必要はありません。なぜなら、感情が無くては、この表現の世界で生きてゆくことができないからです。イエスだって、怒りを持っていたのです。知花敏彦先生だって、怒りを抑えていた時期があったのです。肉を持っている限り、完全に感情を無くせるものではないのです。必要だから、神は人間に感情を持たせたのですから、ある程度の感情はあっていいのです。ただし、こういう場合には気を付けてください。一人の人間のみならず、二人も三人もの間で感情のもつれが起きた場合、それは自分の中に特別な悪感情があって起きたのではないかと ・・・。もちろん、自分の宇宙以外ないのですから、全ての原因は自分にあるわけですが、案外と自分の中にある悪感情に気付かないことが多いのです。それを気付かせるために、一人のみならず複数の人との間で感情のもつれが生まれるのです。その人の価値は、それに気付くか気付かないかです。感情はあっていいのです。ただ、行き過ぎない感情のコントロールが必要だということです。

 はっきりいって、この世の学びが終わるまで、感情は決して無くなることはありません。大きな感情から小さな感情への変化はあっても、完全に無くなることはないのです。だから、"私はまだ感情の克服ができていない、駄目だなあ! "と自己嫌悪に陥らないことです。

 神が人間に憎しみや恨みや怒りの感情を与えたのは、感情体験の機微から色々なことが学べるからです。さらに、ドラマを演じる上でも必要だったからです。体験なしに、どうして感情の克服ができましょうか。どうして無感情から、感動のドラマが生まれましょうか。神は不要なものは作らないし、また与えないのですから、感情は人間にとって必要不可欠なものだと考えてください。ということは感情は悪ではなく、善ということになるでしょう。ただし、コントロールは必要です。感情に流されている時は、外側の宇宙にいる時です。平安でありたかったら、自分の宇宙から外に出ないことです。神を想うことです。どうか自分の宇宙に戻ってください。

2014年3月5日更新

 

 

 

自然界からの警告

 近年の異常気象は、人類に何を警告しているのでしょうか? 何を要求しているのでしょうか? "最近ますます異常気象が拡大しているように思えてならないのですが?"、という人がおりますが、間違いなく異常気象は拡大しております。その証に最近では、「記録を取り始めて一番の何々です」という気象予報士の言葉が珍しくなくなりました。台風の規模も拡大しています。豪雨や竜巻も日常茶飯事に起きております。雷の数も増えています。異常気象だけでなく、地震も頻繁に起きています。火山も活発になっています。特に日本では激しく起きています。ちなみに、世界で最初に原子爆弾が落とされたのも日本なのです。なぜでしょうか?。それは、日本に優秀な魂が多いからです。どうでしょうか? 何もわからない子供のお尻を叩くより、分かった子供のお尻を叩く方が過ちに気付いてもらえるのではありませんか? 日本人は今、お尻を叩かれているのです。これは、次のようなことでも分かって頂けると思います。

 人間は自然災害から身を守るために様々な対策を講じていますが、自然はそれを上回る規模で迫っております。例えば、東北ではこれまで何度も大きな津波に襲われ、その都度防潮堤を高くしてきましたが、5メートルの防潮堤を作れば8メートルの津波が押し寄せました。10メートルの防潮堤を作れば15メートルの津波が押し寄せました。例え20メートルの防潮堤を作っても、自然界は30メートルの津波で迫ってくるでしょう。そうしなかったら、災害の意味に気付いてもらえないからです。自然は人類に、正しい生き方を迫っているのです。正しい生き方とは、足ることを知った生き方です。すなわち、日々生きられるだけの物やお金があれば良いという生き方です。そのような生き方をすれば、経済繁栄に目の色を変えることが無くなりますから、仕事の取り合いをする必要も無くなるでしょう。勿論、良い学校に入る必要も無くなるし、良い会社に入る必要も無くなるでしょうから、ストレスが少なくなるでしょう。ストレスが少なくなれば、病気や事件や事故も少なくなるでしょうから、人々に笑顔が戻るでしょう。このように、正しい生き方をするようになれば、社会は変わるのです。

 自然界が日本人に厳しく当たるのは、優秀な魂ならそのことが分かってもらえると思うからです。さあ、せめて日本人だけでも、自然界の警告を受け入れ、正しい生き方をするようにしましょう。それはもう、一刻の猶予も無いほど切羽詰まっているのです。

2014年3月11日更新

 

 

 

自ら難しくして苦しんでいる人間

もし、人間が足ることを知り、日々生きられるだけの物やお金で満足するなら、誰が指導者になっても無難にやって行けるでしょう。いや返って、小学生のような素直な考えの持ち主の方が、指導者として適任かもしれません。何せ物の配分に、何の工夫も技術も要らないのですからね。たとえば十人の人がいれば、単純に物を十個生産し、それを均等配分すればいいのですから・・・。そのような社会になれば、奪い合いも、競い合いも、争い合いも起きなくなるでしょう。

 人間は、沢山の資源を確保しなければ生きられないと思っています。しかし地球には、何百億人もの人が生きられるだけの資源が用意されているのです。宇宙に手を伸ばせば、資源のことを考える必要さえなくなるのです。自然界の生き物をごらんなさい!。彼らは明日に備える貯えは一切しません。日々生きられるだけの物で満足しています。私は痩せこけた鹿を見たことはありません。餓死したカラスなど見たことはありません。人間の自然破壊によって餓死した鹿やカラスはいても、人里離れたところに住む鹿やカラスに餓死は無いのです。餓死は、人間界にだけある不思議な光景なのです。今人間は、自ら難しくして苦しんでいるのです。

  • それは必要以上の欲を持つからです。
  • つまらない拘りで身を縛るからです。
  • しがらみに囚われるからです。
  • ネバならないという制約を作るからです。
  • つまらない習慣や風習に囚われるからです。
  • 見栄を持つからです。
  • 人の目を気にするからです。
  • 自尊心で自らを縛るからです。

 ではなぜ人間は、このようにして自分で自分を苦しくするのでしょうか?  それは、

  • 真理を知らないからです。
  • 本当の自分を知らないからです。
  • 宇宙の仕組みを知らないからです。
  • 宇宙の実体を知らないからです。

 この物質の世界は、無常の世界なのですよ! 消えて無くなる世界なのですよ! そんな幻の世界に、どうして沢山の物やお金を残す必要があるのでしょうか。あなたの命は百年足らずなのですよ! ならば、百年生きられるだけの物やお金があればいいではありませんか。あなたの身体は、わずか二メートル足らずなのですよ! ならば、二メートル余りの身を横たえられる家があればいいではありませんか。どうして、クジラが住めるような大きな家がいるのでしょうか。

 自然界の生き物たちは、自然の配剤に文句ひとついわずに従っています。人間だけが逆らっているのです。だから、人間社会に悩みや苦しみが多いのです。その悩みや苦しみは人間自らが作ったもので、神が与えたものではないのです。さあ拘りを捨て、足ることを知った生き方をしてください。きっと平安な心を維持することができるでしょう。

2014年3月15日更新

 

 

 

心の底の底で想う

 私は背中の奥の奥に意識を留め、そこで神を想いなさいという言い方をします。なぜ、そのような言い方をするのかといいますと、神は私たちの意識の奥深いところにおられるからです。といっても、特定の神の居場所があるわけではありません。イメージとしては、という意味です。

 宇宙には、一つの神の意識しかありません。その一つしか無い神の意識を盗み、人間の意識にしているのが、私たちなのです。勿論、盗もうと思って盗んでいるわけではありません。無意識のうちに盗んでいるのです。それは、神の意識と人間の意識の見分けがつかないからです。

 私たちは意識を持っていますが、意識を持っているということは、神を持っているということです。それは、意識そのものが神そのものだからです。その意識は自由自在ですから、どこにでも飛ばせるし、どこにでも置けるし、どうにでも使えるのです。自由自在に使えるがゆえに、肉体感覚に惑わされ、どうしても人間意識にしてしまうのです。

 神の特定の居場所はありませんが、イメージ的には、意識の奥深いところに存在しているのです。ですから、奥深いところに意識を持って行くことができたら、神とコンタクトが取れるのです。もし、人間の意識も神の意識も両方あるのなら、人間の意識を持った者が、どんなに神を想っても神と接触することはできないでしょう。幸いなことに意識は宇宙に一つしかありませんから、神を想えば神と接触できるのです。これは、神と人間が同じである証なのです。私たちが希望を持てるのは、神と人間の意識が同一のものだからです。

 神との対面とは、神と人間が一つになることです。つまり、意識を奥深く潜らせ、神と接触することです。同じ意識だから、一つしか無い意識だからこそ、それができるのです。それほど、人間と神とは近い仲なのです。近い仲どころか、そのものなのです。そう考えると、何だかウキウキしてきませんか。

 「人間が神を知ったとき、人間は事実上、神となる」という言葉も、神と一体になる希望を持たせてくれます。ただし、頭で知っただけでは一体になれません。心の底の底で知ってこそ、初めて一体になることができるのです。

 このことを、一般の人達に理解させることが非常に難しいので、昔から覚者たちの大きな悩みの種だったのです。しかし、どんなに難しくても、人間は間違いなく神なのです。ただ、そう思うことができていないだけです。それは気の遠くなる年月、自分のことを人間だと錯覚してきたからです。

 その錯覚から目覚めるには、何度も何度も神を想うしかないのです。その想う作業が瞑想なのです。

 私の恩師である知花敏彦先生が、「心を尽くし、魂を尽くし、精神を尽くし、神を求めなさい!」といわれたのは、心の底の底で求めなくては神と接触できないからなのです。

 どうか、全身全霊を傾け神を想ってください。神は、あなたが会いに来るのをずっと待っております。

2014年4月1日更新

 

 

 

一つの心の中にいる

 神の心には、一点の曇りもありません。一つのシミもありません。真っ白な雪のような心です。その心から生まれたのが私たちですから、本来私たちも汚れなき心の持ち主であるはずなのですが、今の私たちの心は汚されています。

 それは、肉体を自分と思う自我の迷いが、心を汚してしまったからです。しかし、どんなに汚そうと、もともと神から出てきたのですから、私たちは間違いなく汚れなき心を持った神なのです。

 今私たちは表現の世界におりますが、同時に神と同じ次元にも今いるのです。だからこそ、本当はいつでも神とコンタクトが取れるのです。それは、同じ一つの心の中にいるからこそできるのです。もし別々な心なら、家の中に入るのに" 入ってもよろしいですか! "と伺いを立てなければなりませんが、すでに自分の家にいるのですから、遠慮はいらないのです。ただ、自分で自分の家の中に一線を引いて、他人行儀にしているだけです。

 神と思えば、神の心と一つになれるのです。もともと一つだから、思えば一つになるのです。どうか他人行儀にならないでください。

2014年4月11日更新

 

 

 

ご自愛ください! の本当の意味

 私達は、ご自愛くださいという言葉を使います。一般的には、自分を愛しなさいとか、慈しみなさいとか、大切にしなさいとかいった意味で使われているようですが、人間を自分と見ているのならば、この解釈は間違っております。生命を自分と観ているのならば、正しく解釈していることになります。

 なぜなら、生命の自分は実在していますが、人間の自分は実在していないからです。実在していない人間を、愛せるわけがありません。私たちは、実在する生命しか愛せないのです。だから自愛なのです。その生命の自分は全体性ですから、ご自愛くださいとは、全体を愛しなさいという意味になるのです。自愛とは全体愛のことなのです。

 私達は、自分という言葉を使いますが、この自分とは、生命(神・宇宙)が自(みずから)を分(わけ)たのです。ですから「自分」とは、生命そのもの、神そのもの、宇宙そのもの、つまり、私たちそのものを指すのです。

 ですから、ご自愛くださいとは、すべてのものを愛してくださいという意味になるのです。すべては生命の化身ですから、すべてのものを愛することは当然だからです。裏返せば、他愛は無いということです。

 世間では「他愛のないことを言って」とか、「他愛のないことをして」などと表現しますが、この他愛ないの本当の意味は、「他愛は無い!」なのです。つまり、他人を愛することはできないという意味なのです。なぜなら、他人など、どこにもいないからです。他人がいるなら、他人を愛することもできましょうが、この宇宙には自分しかいないのですから自愛しか無いのです。また、利他愛という言葉を使う人がいますが、これは本当は利自愛なのです。自分しかいないのですから、利他愛になるわけがないからです。

 " すべての人を愛することは難しいですよ! "という人がおりますが、自分を愛すればすべての人を愛することになるのですから、本当は簡単なことなのです。

 私達は、「こちらから!あちらから!そちらから!」分担しながら理想の宇宙絵画を完成させようとしている、みな愛しい自分なのです。そんな健気な自分に、どうか喝采を送ってあげてください。

2014年4月15日更新

 

 

 

私たちは真理そのものである

 私たちは、真理そのものなのです。なぜなら、私たちを形作っている本質も、その形の中に内在している生命核(魂)も、真理そのものだからです。私たちは真理の塊のようなものなのです。

 真理とは、本当の私のことです。つまり、神のことです。生命のことです。真理の別名を考えれば、そう呼ばれても当然でしょう。

 そうなのです。真理とは、神のことです。生命のことです。愛のことです。空(くう)のことです。無限のことです。さらに光のことであり、エネルギーのことであり、本質のことであり、本当の私のことです。

 自分が真理そのものだから、そのことが心の底で自覚できたら、自分が変わるのです。観念的に変わるのではなく、現実的に実際的に変わるのです。すなわち、心身ともに変性変容が起きるのです。人を変えない真理は、ニセモノです。絵に描いたボタモチです。何の味もないし、何の栄養にもなりません。

 ホンモノの真理は、法則そのものです。その法則は、どんなものにも平等に働いてくれます。だからどんなにへつらっても、媚びても、法則を犯せば苦しみや悲しみがやってくるのです。それは覚者も免れません。

 なぜなら、どんな人の心の中にも真理が組み込まれているからです。真理が思っているのです。真理が語っているのです。真理が行っているのです。身口意そのものが真理そのものなのです。だから私は堂々と、"私たちは真理そのものである! "と断言するわけです。

 真理を生活の一部にしている人は、偉大な魂です。なお真理を生活の中に生かしている人は、その上をゆく偉大な魂です。さらに真理に生きている人は、その上の上をゆく極上の魂です。

 どうか真理に生きてください。その人は、間違いなく究極の幸せを手に入れることができることでしょう。

201451日更新

 

 

 

心の強い人

 心の強い人とは、勇気ある魂の持ち主のことです。意志の強い魂の持ち主のことです。どんな困難にも負けない強い魂の持ち主のことです。つまり、自力によって困難を克服し、自力によって自分を大きくする魂の持ち主のことです。誰も自分を大きくしてくれません。大きくするのは自分自身です。

 心の強い人の特徴は、意志が強いこと、想念力が強いことです。その意志や想念力の強さは、魂の熟成度の高さを示しており、それだけ多くの転生を重ねてきた証です。しかしそれは、単に魂の歴史が短いか長いかの違いで、自慢することではありません。

 ・心の強い人は、不思議な事象に興味を持ちます。自然や宇宙に興味を持ちます。死に対して疑問を持ちます。特に、人生の不可思議さに対して疑問を持ちます。

 ・心の強い人は、常に高みを目指して努力します。

 ・心の強い人は、今の今を大切に生きます。

 ・心の強い人は、機転が利き、判断力が優れています。いざという時、持っている以上の力を出します。

 ・心の強い人は、ポジティブな生き方をします。何でも良く受け取ります。要するに明るいのです。

 ・心の強い人は、行動力が旺盛です。積極的です。腰軽です。

 このように、心の強い人は明るくエネルギッシュなのです。エネルギーの強い人は、それだけ神と近しくしていたから、そうなれたのです。

 どうか、神と近しくしてください。近しくするコツは、常に神を想うことです。神と会話することです。すなわち、瞑想することです。

 その者はきっと、驚くようなエネルギー人間になるでしょう。

2014515日更新

 

 

 

弱い自分に負けそうな人に贈る言葉

 今のあなたの一番の敵は、あなたの心の中に巣食っているネガティブな想いです。それはニセモノの自分が作ったニセモノの想いで、本当の自分の想いではありません。そんなニセモノの想いに負けてはなりません。負けないためには、自分に厳しくなってください。甘えないことです。甘えても誰も助けてはくれません。神の愛は峻厳です。厳しい愛だからこそ成長できるのです。

 あなたの心を、弱い自分に占領させてはなりません。占領されないためには、常に神を想うことです。真理を学ぶことです。自分の中に真理が確立されれば、自分の中に巣食っているネガティブな想いは去って行きます。そうなれば、気持ちが晴れやかになります。行動も積極的になります。その時、今まで憎んでいた弱い自分を許すことができるでしょう。いいえ、感謝さえできるようになるでしょう。

 今の苦難の人生は、課題を克服するために与えられた神様からの贈り物だと思ってください。そのように思えれば、嫌な人も、嫌な事も、嫌で無くなります。苦しみも苦しみで無くなります。鬱など、どこかに吹き飛んでしまいます。どうか逃げ腰にならないでください。どこに逃げても、この宇宙に逃げ場は無いのですから・・・。

 自分の意識が宇宙なのですから、逃げようにも逃げるところが無いのです。例え今生逃げられたとしても、来生また同じ課題が追っかけてきます。それならば、今生の今のうちに、課題を克服しておいた方が、気が楽ではないでしょうか。

 人のせいにしたとしても、何の解決にもなりません。自分の中に原因を見つけて、乗り越えてこそ、成長できるのです。さあ、課題を一つでも多く克服して帰りましょう。そうすれば、明るい未来が待っています。どうかあなたの強い意志で、今の弱い自分を強い自分に変えてください。それは、あなたの気持ち次第でできるのです。

 サタンの話をする人がおりますが、サタンなど本当はどこにもおりません。あなたの弱い心がサタンなのです。サタンとは、自分の心の中に住んでいる弱いもう一人の自分のことです。そんな弱い自分に負けてはなりません。強い自分になってください。そのためには、何事も良く受け取り、決して人のせいにしないことです。あなたを苦しめた隣人も、友達も、親兄弟も、皆あなたを成長させるために悪役を買って出てくれた恩人なのです。そのように思えば、感謝こそすれ憎むことは無くなります。苦しみの人生で終わらせるのか、苦しみの中から学び価値ある人生にするのかは、あなたの考え方次第なのです。

 あなたの中には弱い自分もいるけれど、強いもう一人の自分もいるのです。どちらの自分に支配させるかは、あなた次第なのです。どうか弱い自分に負けないでください。

 明るく、明るく、朗らかに、どんなことも良く受け取り、自分を励ましてください。どうしても気が沈んだ時は、次の言葉を口ずさんでください。

 

有り難う! 有り難い! の感謝の心

●嬉しい! 楽しい! の喜びの心

●成せばなるぞ! の希望の心

●やってやるぞ! の闘士の心

●すごい! 素晴らしい!、の感動の心

●前進! 万進! のひるまぬ心

●わはは! あはは! の笑いの心

 

 きっと明るくなれるでしょう。

 本当のあなたは、肉体のあなたではありません。誰の誰べえのあなたではありません。神なるあなたです。光なるあなたです。

 どうか、神を想ってください。光を想ってください。

2014年5月15日更新

 

 

 

上手な言葉の使い方

 世の中には何かというと否定的な言葉を吐く人がおりますが、その人はその場の雰囲気を極端に落しています。" 言葉は神なりきです。"言葉は神そのものなのです。その偉大なる言葉を、私たちは持っているのです。それは、私たちが神だからです。

 しかし多くの人間は、神の言葉を誤用して使っているのです。ネガティブな言葉にして・・・、だから、この世に不幸が絶えないのです。誤用して使っているという意味は、悪い言葉を多く使っているという意味です。神は、楽しく、明るい言葉が好きなのです。なのに人間は、暗い言葉や否定的な言葉を使い、苦しんでいるのです。

 使うならば、肯定的な言葉、明るい言葉を使うようにしましょう。そうすれば、間違いなく幸せになれます。なぜなら、明るい言葉や肯定的な言葉は、エネルギーを高めてくれるからです。エネルギーは光ですから、エネルギーが高まれば良いことが寄ってくるのです。反対に、暗い言葉や否定的な言葉はエネルギーを低めますから、悪いことが寄ってくるのです。

 実社会において成績の良い人は、明るい言葉や肯定的な言葉を多く使っています。反対に、成績の悪い人は、暗い言葉や否定的な言葉を多く使っています。人に好かれる人は、エネルギーを高める肯定的な言葉を多く使い、人に嫌われる人は、エネルギーを低める否定的な言葉を多く使っているのです。

 成績を上げたいのならば、人に好かれたいのならば、エネルギーを高める次のような言葉を使いましょう。

 

元気づける言葉

称賛する言葉

ほめたたえる言葉

やる気をもたらす言葉

励ます言葉

希望や勇気を与える言葉

積極的な言葉

嬉しく楽しくなるような言葉

 

 とはいっても、歯の浮くような褒め言葉や、明らかにお世辞と分かるような言葉は使ってはなりません。あくまでも正しい動機に基づいた、肯定的な言葉やポジティブな言葉を使うことです。

 「はい! そうですね! いいですね! よろしいですね! そうですとも!  いいですとも! 」

 このような言葉を使っていれば、明るくなれます。ぜひ、みんなが笑顔になるような言葉を使ってください。

 そして言葉だけではありません。身体全体で肯定的態度を示すことも大切です。一番いいことは、笑顔を湛えうなずくことです。決して首を横に振ってはなりません。しかめっ面をして首を横に振れば、エネルギーを低めてしまい人に嫌われます。笑顔を湛えてうなずけば、エネルギーを高めることができ、皆に好かれます。

 根暗な人は言葉の使い方が下手なのです。というよりも、想いの使い方が下手なのです。想いが言葉になるのですから、明るい想いを持っていれば、明るい言葉しか出てこないのです。特に、自分を卑下するような言葉は使ってはなりません。謙遜して使っているつもりでしょうが、謙遜語はエネルギーを落とします。世の成功者といわれる人たちは、言葉の使い方や文章の使い方がとても上手だったのです。その成功者の言葉や文章を生活に生かせば、きっとあなたも成功者になれることでしょう。

 この宇宙には、均質なエネルギーが満ち満ちており、誰でも平等に使えるようになっているのです。そのエネルギーをどう使うかは、使う本人に任されているのです。肯定的に使えば幸せが、否定的に使えば不幸せが来るのです。

 それはエネルギーを良いことに使ったか、悪いことに使ったか、だけのことなのです。使い方が下手だから、人生を苦しくしているのです。それは自分が苦しくしているのであって、他人が苦しくしているのではありません。

 自分を苦しめているのは、自分の想いと、言葉と、行為であることに気付いてください。

2014年6月1日更新

 

 

 

なぜ「金」は人の心を魅了するのか?

 これまで金(きん)は、貴金属として、また「有事の金」として、大切にされてきましたが、国の信用不安が高まっている今日、ますます重要視されるようになっております。金が重要視される背景には、金が持つ普遍的価値があります。金は供給量が少ないため、希少価値が高いのです。さらに金は不変性・永遠性(錆びたり摩耗したりすることがない)があるため、信用度が変わらないのです。紙幣は燃えたり摩耗したりしますし、また国の財政が破綻すれば信用度は落ちますが、金は何が起ころうと信用度が変わらないのです。

 しかし、金に価値がある本当の理由は、人の心を魅了することです。金は人の心を動かすのです。金は食べられません。着られません。住めません。なのに、いつの時代でも、どこの国に行っても、金を見せれば人は動きます。なぜでしょうか? 人が金に魅了されるのは、金には世俗的な価値だけでなく、本源的価値があるからです。本源的価値とは、究極の幸せを呼ぶ価値のことです。私たちが求める究極のものは幸せですが、金の輝きはその幸せを思い出させるのです。だから金の輝きは、単なる金の輝きではないのです。心(生命)の故郷を思い出させる輝きなのです。それは、金色に輝く生命の世界に、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せがあるからです。私たちは、その世界から出てきたのです。それを本能的に知っているから、金の輝きに魅了されてしまうのです。

 私は常々、この世で一番価値のあるものは労働力であるといってきましたが、その労働力は心が生み出すのです。だから、人の心を動かす金に価値が生まれるわけです。物やサービスが得られるから金に価値があるのではなく、心を動かす力があるから金に価値があるのです。このことは、地球を理想社会へ導く大きな決め手になるのです。すなわち、人の心さえ動かせれば、知恵も、労働力も、打出の小槌のように生み出せるという決め手です。

 これまで地球において、武力や権力や金力を使って人を労働に駆り立ててきました。しかし、私たちは今、本源的価値(幸せ)をチラつかせれば、人の心が動くことを知りました。心さえ動かせれば、労働力はいくらでも手に入るのです。その労働力は、幸せを希求している一人ひとりの心の中にあるのです。その心に火を付けさえすれば、自動的に労働力は手に入るのです。私の提唱する奉仕労働力がそうです。奉仕労働力は、幸せに直結しているのです。心が幸せを生む源泉だと知れば、きっと自分の労働力を社会に無償で提供してくれるようになるでしょう。さらに人生の目的が何なのかを知らしめれば、本源的価値を求めている人の心は、何の強制力も与えなくても動き出すでしょう。

おさらいします。

 金は食べられないし、着られないし、住めません。しかし、人は金に魅了されてしまいます。それは金が、本源的価値を思い出させるからです。人は本源的価値を見せつけられると、否応なしに動くのです。もしこのことが社会に認められたら、間違いなく奉仕労働力は確保されるでしょう。その時こそ、理想社会は夢ではなくなるのです。

2014年6月15日更新

 

 

 

私たちが希望を持って生きられる根拠

 私たちが希望を持って生きることができるという根拠は、この宇宙に永遠の停滞や退化は無いという理(ことわり)があるからです。私たちがどんなに迷っていようとも、どんなに逆向きに歩いていようとも、いつか必ずまともな道を歩くように導かれているのです。ですから、一時の停滞や退化はあっても、永遠の停滞や退化はありえないのです。これが、私たちが希望を持って生きられる根拠です。

 確かに、人間は近視眼的にできていますので、遠くを見通すことができません。そのために、過ちを犯したり、躓いたり、遠回りをしたりするのも仕方がないことなのです。しかし、そこから必ず学びます。時間はかかっても、必ず気づき、必ず目覚めるのです。私たちは、神の愛に導かれ、神の愛に揺り動かされ、ジグソーパズルのようにいつか必ず収まるべき型に収まってゆくのです。それは1ミリの狂いもありません。だから私たちは、今与えられている環境の中で精いっぱい生きればいいのです。そうすれば、必ず前途が開けてきます。これは、個人の問題にしても、人類全体の問題にしても、同じです。私たちは間違いなく日々進歩しているのですから、いつまでも同じ問題で苦しむことはないのです。

 どうか神の愛を信じてください。神が私たちの手を取って導いてくれている、神の愛の計らいを信じてください。

201471日更新

 

 

 

真の美人とは

 この世では、容姿端麗の人を美人といっているようですが、本当に容姿端麗の人が美人なのでしょうか?

 意の汚れは、心を汚します。口の汚れは、舌と喉仏を汚します。身の汚れは、犯した手や足や顔を汚すと同時に原子をも汚します。特に顔は表現媒体のシンボルですから、どんなに繕っても、繕いきれるものではありません。あなたも経験があると思いますが、怒り心頭のとき、穏やかな顔でいられましたか? 悲嘆にくれたとき、笑顔でいられましたか? どんなに繕っても、繕えなかったはずです。このように、意の汚れは心と身を汚すのです。

 心の美醜は、死後の環境と宇宙の環境の両方に影響を与えることを知らねばなりません。例えば、あの世では、心の状態がまともに身に反映されます。つまり、生きている時どんなに顔が美しくても、死んだら心の醜さそのままが身に表れるのです。ですから、ごまかしが利かないのです。

 もう一つ注意せねばならないのは、原子の再生です。肉体が死ぬと、肉体を形作っていた原子は宇宙空間にばら撒かれますが、その肉体で体験した記憶は、すべて宇宙に持ち帰るようになっているのです。

 極端な例えですが、人を絞殺したとしましょう。その絞殺した手の原子は、殺した時の印象(記憶)を宇宙に持ち帰り、次回再生された時少なからず形に悪影響を与えるのです。原子の海である宇宙において、原子の良い体験は宇宙に良い影響を与え、悪い体験は宇宙に悪い影響を与えるというわけです。

 このように、心がまともに反映されるのがこの宇宙の実態なのです。宇宙の心根は、清い心ですから、宇宙の進化に悪影響を与える心の持ち主は、どんなに顔が綺麗でも、美人とはいえないのです。だから美人ではなく、美心でなくてはならないのです。その美心は、美魂でもあるのです。心の美しい人は、魂も美しいのです。

 心の汚れている人は、どんなに顔が美しくても不美人です。反対に、心の美しい人は、どんなに顔が醜くても美人です。また、心の美人は永遠ですが、顔の美人は一時です。

 あなたは、心の美人ですか?顔の美人ですか?もちろん、どちらも美人なら最高ですが!

2014年7月15日更新

 

 

 

良心に生きたとき、全ての罪は許される。

 これまで、どのような凶悪な犯罪を犯してきた者であっても、心から悔い改め良心に生きるようになれば、全ての罪は許されるのです。 私は今後一切悪いことはしません! 今から私は良心に生きます! "、と堅く心に誓った瞬間、今までのあなたではなくなるのです。それは、偽我の自分から真我の自分に変わったからです。いや、変わったのではなく、罪を犯した偽我の自分は、もともと存在しなかったからです。今まで悪いことをしていたのは、存在しない自分だったのです。

 良心とは神の心のことです。実際に存在する心のことです。真人間とは、神の心に生きている人間のことです。良心に生きている人間のことです。つまり、汚れの無い心を持った人間のことです。

 よく心が汚れていると言いますが、この宇宙に汚れた心などありません。ただ心の周りに、ゴミが付着していただけなのです。だから改心しゴミを落とせば、すぐに真心に戻るのです。ゴミとは、迷いのことなのです。迷いは実在するものではありませんから、迷いを取れば、すぐに真我の自分に戻れるのです。もともと神の心しかないのですから、良心に生きるようになった瞬間、偽我の自分が存在しなくなるのは当然なのです。

 反省とは、懺悔とは、ゴミを落とす作業のことです。私が死刑に反対するのは、改心したその瞬間、すでに真人間であるからです。真人間を殺すなど、それこそ、大きな罪です。本来、人が人を罰することなどできないのです。それは父(神)と子(人間)の関係であって、子と子の関係ではないからです。

 整理しましょう。

 極悪人の心もあって、聖人の心もあるわけではないのです。この宇宙には、たった一つの神の心があるだけです。その神が人間と誤解することで、人間の心、つまり偽我の心を作ってしまったのです。その偽我の心が迷いを作り、罪を作っているだけです。目覚めて改心すれば、偽我の自分は消えてなくなるのですから、そこにはもう罪人はどこにもいないのです。

 この宇宙に因果の法則が存在するのは、過ちに気づいてもらうためです。改心してもらうためなのです。苦しませることが目的ではないのです。ゆえに、悔い改めた者を罰してはならないのです。

2014年8月1日更新

 

 

 

真実と現実の見分け方

 人類が、競い合い、奪い合い、争い合って苦しんでいるのは、真実と現実の見分けがつかないためです。もし真実と現実の見分けがつけば、この地球上から一切の争い事は無くなるでしょう。また人間関係においても、悩んだり、苦しんだりすることも無くなるでしょう。では、現実とは何でしょうか?・・  真実とは何でしょうか?・・

 

 【現実】

 この世のモノは、見え、聞こえ、臭い、味わえ、触れますが、時間と共に変化し消えてなくなります。これが、今の地球人類における現実の基準です。ですから、この基準に合わない夢や幻覚は、非現実とされているわけです。物質化現象も、この基準に合いませんから、現実扱いされていません。当然、幽界も基準外ですから、現実扱いをされていません。では、他の星ではどうでしょうか? 例えば、惑星Rにおいては、夢も現実扱いされています。幻覚も現実扱いされています。物質化現象も現実扱いされています。幽界も現実扱いされています。これは、理解力が現実の概念を生み出している宇宙における、現実の基準の違いなのです。理解力が増せば、現実の基準が変わってくるのです。

 現在、地球人類がいっている現実とは、五感で感じるものを基準にしているのです。しかも、地球人類はその現実を真実だと思い違いしているのです。五感で感じる現実は、すべて消えて無くなる幻です。鉱物も、植物も、動物も、人間も、お金も、財産も、地位も名誉も、いいえ、この地球でさえも消えて無くなるのです。無くなるということは、幻だということです。ならば、夢や幻覚や空想や妄想と、何が違うのでしょうか? そうなのです。地球人類がいっている現実は、夢や幻覚や空想や妄想と何も変わらない幻なのです。

 例えばここに、気違いじみたことを語る空想家がいたとしましょう。一般人から見たら、彼のいっていることは無茶苦茶な話です。でも、この世の現実と彼の空想話と、何が違うのでしょうか? じつは、何も違わないのです。現にこの世では、詐欺師の嘘に騙され、お金を奪われている人たちが沢山いるではありませんか。また人の話を悪く受け取って妄想を作り、心に怒りや不安を抱えている人たちが沢山いるではありませんか。私がいいたいのは、この世の現実も、詐欺師の嘘も、空想家の戯言も、人の心に傷跡を残している点においては、何も違わないということです。ただ現実と空想との違いは、心に傷跡を残す深さが違う点だけです。

 地球人類のほとんどは、この世の現実を真実と誤解しているのです。それは、五感が実際にあるような錯覚を与えているからです。進化した惑星Rでは、現実はみな幻だと思っていますから、幻を奪い合う愚かな事はしないのです。そろそろ地球人類は、現実も、夢も、幻覚も、幽界も、妄想も、空想話も、すべて同じ幻だということに気付いてもらいたいものです。私が現実についてクドクドと述べるのは、今人類は、現実を本当にあると誤解し、モノの奪い合いや争いなどの悲劇を生み出しているからです。現実は真実ではないのです。

 

 【真実】

 真実とは、不変不動、永遠不滅のものです。それは言葉や文字で言い表すことのできないものです。なぜなら、見えないものだからです。触れることができないものだからです。私たちの五感の感覚にかからないものだからです。しかし、確かに存在するものなのです。意識として、意志として、理念として、知恵として、力(エネルギー)として、光として、愛として、命として、法則として、そして本当の私として・・・それが真実の実体です。私たちは、真実そのものなのです。

 このように、現実とは消えて無くなるもの、真実とは永遠に無くならないものをいうのです。この違いを心の底で知ったら、地球人類はもう幻を奪い合う愚かなことはしなくなるでしょうし、妄想で自分を苦しめるようなこともしなくなるでしょう。しかし、「この世の現実は幻ですよ!、」といっても、なかなかそうは思えないのが今の地球人類です。だから、喧嘩や争い事などが絶えないのです。どうか現実と真実を見分ける目を養ってください。幻である現実で心を痛めることほど、愚かなことはないのですから・・・。

2014815日更新

 

 

 

必要以上の情報のやりとりは控えよう!

 人間は必要以上の情報のやりとりをしたがります。特に幼い魂は、その傾向が強いようです。心が寂しいから、情報のやりとりを多くするのでしょうが、すればするほど誤解を招くことも多くなり、トラブルも起きやすくなるのです。その証拠に、携帯電話やパソコン、インターネットが普及するに従い、情報のトラブルが多くなってきたのではありませんか。   

 私たちが住んでいるこの社会は、はっきりいって幻の世界です。幻の世界の情報は幻なのですから、できるだけ控えるべきなのです。なぜなら、私たちは真実を知るために生まれてきたのであって、幻を知るために生まれてきたわけではないからです。勿論、肉体を持って生きている限り、ある程度この世の情報は必要です。しかし、無闇矢鱈に情報を受信発信してはならないのです。この世の情報は、幼い魂には必要であっても、あなた達のような熟した魂にはあまり必要としないからです。

 覚者が人里離れた処に住み、この世の情報から遠ざかっているのは、幻である情報をあまり必要としないからです。

 私の恩師である知花敏彦先生は、"かしましいシンバルになるな!無駄口を叩くな!"と常々言っておられました。先生は講話会や勉強会では多弁でしたが、普段は無口でした。

 情報を多く欲しがるのは、それだけこの世に課題を多く持っているからです。すなわち、勉強しなければならない課題が多くあるからこそ、情報のやりとりをしたがるのです。あなた達は、もうそれほど情報は必要としません。情報のやりとりをするなら、本当の自分とやりとりをしてください。

 本当の自分・・・すなわち、神との情報のやりとりをしてください。

2014年9月1日更新

 

 

 

苦しいカルマから抜け出す方法

 私は声を大にして言いたいと思います。

「あなたの想念を正しく使ってください!」と・・・。

 今人類は、沢山の苦しみを抱えています。しかし、その苦しみがどこから来ているのか、誰も真剣に考えようとしないのです。なぜでしょうか?

 それは、想念の偉大さを誰も知らないからです。苦しみは何処からやってくると思いますか?他人からですか?他国からですか?自然からですか?偶然からですか?運命からですか?神からですか?

 いいえ、自分の想念からやってくるのです。

 私たちは、何でも創造できる偉大な想念力を持っています。その偉大な想念力を悪用し、苦しんでいるのが人間なのです。自分で苦しみを作り、自分で苦しんでいるということです。想いは自由なのです。私たちは何でも想えるのです。何でも想えるだけに、正しく使う責任があるのです。なぜなら、想いは自分だけでなく、人にも、自然にも、地球にも、宇宙にも、多大な影響を及ぼすからです。しかし人類は、そのことを少しも考えようとせず、想念を好き放題に悪用しては苦しんでいるのです。

 家庭内の苦しみもそうです。病気の苦しみもそうです。事故の苦しみもそうです。戦争の苦しみもそうです。災害の苦しみもそうです。今地球上で起きているすべての苦しみは、想念の悪用による結果なのです。このようにいうと、「生まれたばかりの赤ちゃんは、何も悪いことを想っていないのに、なぜ苦しむのですか?!」という質問が返ってきます。確かに、生まれたばかりの赤ちゃんは、何も悪いことを想っていないのに、戦争に巻き込まれたり、病気になったり、事故や災害に遭ったりして苦しんでいます。この謎を解くには、過去生に遡らなくてはならないでしょう。

 私たちは、輪廻転生を繰り返し、魂を成長させようとしている生命体です。しかし肉体を持つと五感に惑わされ、どうしても罪を犯してしまうものなのです。本来なら、その生で犯した罪は、その生で精算して帰るようになっているのですが、あまりにも多くの罪を作ると、その生で精算しきれなくなり、來世にまで持ち越されるようになるのです。これがカルマの輪廻といわれるもので、何も悪いことをしていない赤ちゃんが苦しむ理由です。

 しかし、その苦しみは、過去生の罪を精算している状態ですから、今生、罪を作らなければ、来世に持ち越される罪はなくなるのです。しかし悲しいことに、苦しい環境で生きると、どうしても新たなカルマを作ってしまい、その罪を来世に持ち越してしまうのです。

 では、このカルマの輪廻から抜け出すには、どうすればいいのでしょうか? ヒプノセラピーを受け、過去世のことを思い出すことでしょうか?いいえ、そんなことをしてもカルマは消えません。かえって自己嫌悪に陥るだけです。神は記憶のない過去の罪を、ドウコウしなさいとはいっていないのです。

 今生、新たな罪を作らなければ、来世に持ち越す罪は無くなるのですから、今正しく生きることがカルマの輪廻から抜け出す一番の方法なのです。私が声を大にしていいたいのはこの点です。今日まで苦しい環境で十分罪の償いはしてきたのですから、もうこれ以上過去世の罪で苦しむことはないのです。

 すべきことは、今を正しく生きることです。つまり、良いことを想い、良いことを口にし、良い行いをすること、「身・口・意」の実践です。

 すなわち、 

 1、常にポジティブな想いを持ち続けることです。ポジティブな想いの一番は、「神を想う」ことです。神を想えば原子核が増えるので、運命が良い方向へ転換していくのです。想念は創造の力です。良い想いは光そのものですから、良い想いを持ち続ければ、病気にもならなくなるし、事故にも遭わなくなるし、家族関係も良くなるのです。どうか、良い想いを持ち続けましょう。

 

 2、良い言葉を口にすることです。一番良い言葉は神の言葉ですが、今の世の中で神を口にすれば気違い扱いをされますから、代わりに、明るい言葉、肯定的な言葉、嬉しくなる言葉、楽しくなる言葉、建設的な言葉を使いましょう。特に「ありがとう!」の言葉を多く使うようにしましょう。

 

 3、良いと思うことを積極的にすることです。引っ込み思案はエネルギーを弱めます。行動的な人になって下さい。行動的になれば、エネルギーが強まります。ただし、偽善行為であってはなりません。損得を考えず黙々とやることです。思った時が、行動に移す最良の時です。おしりの軽い人になってください。

 

 以上、この三つを実践してください。すぐに何も変わらないからといって途中で諦めないでください。「石の上にも三年」という諺があります。変化が起きるまでやり続けてください。いや一生やり続けてください。これはカルマの解消だけでなく、人生の目的である「神の自覚を持つ」ことにもつながるのですから・・・。

 さあ、

 明るく、明るく、朗らかに、

 何事も良く受け取り、

 神を想い、光を想い、日々生きて下さい。

 その人は、間違いなくカルマから抜け出すことができます。

 悪い原因を作れば悪い結果が、良い原因を作れば良い結果が、これは因果の法則からして当然のことなのです。

 もう一度念を押します。今の今を、神を想ってください、光を想ってください、良いことを想ってください、その時は、悪いことは想えません。

 これだけでも、カルマの解消をしていることになるのです。

2014年9月15日更新

 

 

 

想念が実現の母である理由

 私が非常に悲しく思うのは、あまりにも人間は、自分の想念を軽んじて使っている点です。想念は実現の母といわれるように、私たちの想念はモノを創造する偉大な力を持っているのです。私たちの運命は、この想念をどう使うかによって決まるのです。では、想念が実現の母である理由を述べましょう。

 私たちは、意識を持っています。その意識は、想念を生み出す大本なのです。その意識から生み出された想念は、本質そのものであり、力そのものなのです。意識=想念=本質=力なのです。「想念が実現の母」といわれる理由は、想念そのものが形を生み出す本質であり、力だからです。例えば、何かを想ったとします。そうすると、本質が働き出し、想ったとおりのモノを作ってしまうのです。ただしその想いが、どれほど強いか弱いかによって実現スピードや濃さに違いが出てきます。弱く想えば遅く薄く、強く想えば早く濃く・・・。この表現世界は波動が粗雑なために、想いの強さによって実現スピードや濃さに違いが出てくるのです。でも、想ったことは必ず実現します。一旦発した想いは宇宙空間に漂い、縁に触れて必ず現れるようになっているのです。ただ想いの弱いものは現れ方も弱いため、気づかないで終わることが多いのです。でもどんなに弱く想っても、何度も想えば雪だるま式に大きくなり、大きな実現として現れてきます。ですから、できるだけ悪い想いは持たないことです。” 私は何もしてないのに苦しい目にあっている ”という人がいますが、何もしてないどころか、想いで、すでに苦しいことをしているのです。他人があなたを苦しませることは絶対ありません。すべて、自分の想念のせいで苦しんでいるのです。勿論、想念を上手に使っている人は幸せになっています。

 このように、どんなことでも実現させる力を持っているのが想念なのです。それは前述したように、想念そのものがモノの本質であり、力そのものだからです。ではこのことを、科学的に検証してみることにしましょう。

 ガラスの上に細かい砂を置き、その砂に向かって「あー」という声を発してみてください。発した音の波形に添った砂の形が現れます。声の前にあるのは想いです。つまり、「あー」という声の前に「あー」という想いがあるのです。形に現れる背後に必ず想いが伴っているということが、この実験から解ります。音も波動です。想いも波動です。波動は波形を伴っているため、必ず形として現れるのです。それも想いの内容に添った波形として、それも強ければ強いように・・・、弱ければ弱いように・・・。

 こんな確かな科学的裏付けがあるというのに、あなたは今後も悪い想いを持つのですか? 賢い人は、そんな愚かなことはしません。どうか賢い人になってください。それは自分を助け、人類を助け、地球を助け、宇宙を助けるのですから・・・。

 苦しみは誰も作っていないのです。自分の想念が作っているのです。ですから、決してネガティブな想いを持ったり、愚痴をこぼしたりしないことです。苦しんで一番損するのは自分なのですから・・・。

2014年10月1日更新

 

 

 

神を観るとは?

 こんな覚者の話があります。

 象がどのようなものか、四人の盲人に質問したところ、足を触った盲人は、「ドラム缶のようなものである」といいました。尻尾を触った盲人は「ムチのようなものである」といいました。鼻を触った盲人は「ホースのようなものである」といいました。耳を触った盲人は「ウチワのようなものである」といいました。これは象の一部分を触り、全体を触っていないために起きた過ちです。神も、一部分を探ったのでは、全体像を知ることはできないのです。

 ここに登場した盲人とは、人間のことです。人間は盲人なのです。なぜなら、肉眼でものを見ているからです。人間は色眼鏡をかけて、つまり物「色」を見る目を使って、神(宇宙・本質)を見ようとしているのです。これでは、どんなに目が良くても神を観ることはできません。神の正しい姿を観るためには、心眼(神眼)を使って観なくてはならないのです。でも、最初から心眼は使えませんので、まずは神を知ることから始めるわけです。

 神とは、

  • 無限なるもの
  • 永遠不滅なるもの
  • 完全無欠なるもの
  • 絶対善なるもの
  • 知恵そのもの
  • 力そのもの
  • 光そのもの
  • 愛そのもの
  • 元数一そのもの
  • 絶対宇宙そのもの
  • 生命そのもの
  • 大霊そのもの
  • 意識主そのもの

 更にいうなら、

  • 見えないもの
  • 触ることのできないもの
  • 感覚を超越したもの
  • 言葉や文字で示せないもの
  • 意識を持っているもの
  • 意志を持っているもの
  • 理念を持っているもの
  • 私を私と想わせているもの
  • 言葉を話させ、文字を書かせているもの
  • 花を咲かせ、私たちの心臓を動かし、地球を回転させ、宇宙を運行させ、この宇宙に真善美を輝かせようと懸命に働いているもの・・・。

 すなわち、すべての本質、有りて有るもの、一つのひとつです。

 しかし、これで神を知ったわけではありません。なぜなら、単に知識で、頭で知っただけで、心の底で知ったわけではないからです。本当に神を知った状態とは、「神そのもの」を体感したときです。すなわち、「神そのもの」になったときです。この状態を、神を自覚したというのです。

 神の自覚を得るには、様々な切り口から神を知る必要があるのです。神の側面を多く知れば知るほど、「吾神なり!」のマントラの重みが増します。そうなると、原子核が増えます。原子核が増えると、理解力が増し、色々な気付きが起きます。その気付きが、神の自覚に結びつくのです。

 

※心眼(神眼)を開くコツ

 私たちは物を見るとき、物の表面にピントを合わせて見ます。これでは、外側の色や形しか見えません。物の本質(神)を観るためには、内側にピントを合わせて見なければ観えないのです。内側にピントを合わせて見るとは、ピントを無限大にして観るという意味です。そのようにして見れば、物の本質(神)が観えるようになります。物の本質(神)は光ですから、光として観ることができるのです。ぜひ、コツを掴んでください。

2014年10月15日更新

 

 

 

迷える子羊

 来年は羊年ですが、羊は真我の象徴です。真我とは神なる我のこと、生命なる我のことです。今この地球上には、迷える子羊が沢山おります。自分のことを人間だ、肉体だ、個人だと思っている人は、みな迷える子羊なのです。でもどんなに迷える子羊も、みな神の子であり生命の子であることには違いないのです。ただ、人間だと思って迷っているだけです。人間の迷いを取り除けば、そく神の子、生命の子、に早変わりするのです。

 今多くの人たちは、金持ちになるため、良い家庭を築くため、名声を上げるために躍起になって働いています。でも最近の若者の中には、そんなものに興味を見せない者が結構おります。それは、そんなモノを得ても無意味なことを、本能的に知っているからです。それだけ彼らは、成熟した魂であるということです。だからといって、定職にも就かずノラリクラリしていては、せっかくの人生を無駄にしてしまいます。

 真理を探求したいなら、まずは仕事をしてください。なぜなら、働いて生活費を稼がなくては、真理を探求する環境が整わないからです。たしかに、仕事に出れば嫌なことが沢山あるかもしれません。でも嫌な仕事だからこそ、魂を大きくできるのですから、これは真理を追求する者にとって一挙両得なのです。

 現実逃避は甘えです。現実逃避者は、精神的不健康者なのです。精神的不健康者は、肉体的にも不健康な者が多いのです。そんな逃げ腰で、どうして真理が得られましょうか。この世の煩わしさに勝てない者が、どうして真理を勝ち取ることができるでしょうか。厭なことから逃げないでください。厭なことに挑戦し、強い精神の持ち主になってください。きっと、肉体的にも精神的にも健全な求道者になれるでしょう。

 あなたの周りには、幸せな家庭を築いている人たちが沢山いるかもしれません。でも、決して羨んではなりません。なぜなら、彼らよりあなたの方が幸せ者だからです。どうでしょう。もしあなたが幸せな人生を送っていたら、今、真理に顔を向けていたでしょうか? この更新集を読んでいたでしょうか? いいえ、絶対読んでいないはずです。イエス様はいわれました。「苦しむ者は幸いなり、その者は神の国を見るであろう」と・・・。そうなのです。あなたは今苦しいから、真理に顔を向けたのです。これは幸いなことなのです。喜ぶべきことなのです。

 美人を羨まないでください。金持ちを羨まないでください。幸せな家庭を築いている人を羨まないでください。そんな幸せは、この世限りのものです。でも、今あなたが得ようとしている真理は、永遠に失わない幸せなのです。何も持っていなくても、真理を追求しているあなたは、誰よりも幸せ者なのです。

 今、苦しい環境に身をおいている自分を、どうか褒めてやってください。といっても、わざわざ苦しむ必要はありません。正しい想いを持ち、正しい言葉を使い、正しい行いをしていれば、苦しむことはないのですから・・・。つまり、因果の法則を守っていれば、苦しむことはないのですから・・・。

 どうか想念を、ポジティブに使ってください。神に、生命に、本当の自分に、使ってください。その時あなたは、迷える子羊から目覚めた子羊に変身できるのです。今この更新集を読んでいるあなたに、拍手を送りたいと思います。

2014年11月1日更新

 

 

 

幻の中に現れたものは幻である

 「幻の中に現れたものは幻である」これは真理です。夢の中に現れたものは夢です。妄想の中に現れたものは妄想です。人間の肉体は、いつか必ず消えてなくなります。消えてなくなるのは、実際にないものだからです。実際にないということは、肉体は幻であるということです。ならば、幻の肉体に現れた病気は幻ではないでしょうか? 夢に現れたものが夢であるように、幻の肉体に現れた病気も夢と同じ幻なのです。

 肉体は物質です。物質には一寸の力もありません。それは幻だからです。そんな力のない幻が、病気を作ることはできないのです。病気を作っているのは、実際にある意識です。あなたは意識を持っていますね。その意識が病気を作っているのです。「病」は「気」からといわれるのは、「気」そのものが意識だからです。意識は(想念・気)、何でも作り出す偉大な力を持っているのです。その偉大な力を悪用して、人間は病気を作っているのです。この事実をしっかりと認識して欲しいと思います。

 では、どうすれば病気を無くすことができるのでしょうか。それは原因を絶つことです。病気は結果です。想念は原因です。原因を絶つとは、想念を正しく使うということです。想念を正しく使えば、良い原因を作るのですから、病気などになるわけがないのです。人間はそのことを知らないため、想念を悪く使っては自ら病気を作り苦しんでいるのです。

 では、想念をどう正しく使えばいいのでしょうか?  簡単な事です。想念をネガティブなことに使わないことです。ポジティブに、明るく、朗らかに、何事も良く受け取り、決して悪想念を持たないことです。特に、感情を荒立たせないことが大切です。すなわち、怒らない、憎まない、恨まない、嫉妬しない、妬まない、囚われない、心配しない、恐れない、イライラしないことです。

 感染症を恐れてはなりません。なぜなら、幻の肉体に現れたウイルスも幻だからです。つまり、ウイルスそのものが幻であり、結果だからです。ただし、菌の背後に存在する意識は実在します。でも、その菌の意識とあなたの意識はつながっているのですから、あなたが悪想念を抱かなかったら、つまり原因を作らなかったら、感染症にかかることはないのです。自分が自分を害することはできないからです。

 この宇宙はうまく出来ているもので、真理を知れば知るほど(理解力が増せば増すほど)苦しみが少なくなっていくようにできているのです。真理を知った人は悪い原因を作らないわけですから、当然悪い結果も生まれないということです。だから私は、真理を知ってください、というのです。

 どうか、幻の中に現れたものは、幻であるということを知ってください。つまり、肉体に現れた病気は、幻であるということを知ってください。

2014年11月15日更新

 

 

 

楽しみは平等

 楽しみを人と比べることは絶対できません。”私は楽しかった!”といったところで、その楽しみの高さをどうして人に教えることができますか。”私はこれだけ沢山お金をかけたのだから、あなたより楽しいはずだ!”といったところで、その楽しみの高さをどうして人と比べることができますか? お金を沢山かけたから楽しく、かけなかったから楽しくないということはないのです。なぜなら、楽しみは心の感じ方だからです。ならば、どんな楽しみもみな同じではありませんか。比べられない楽しみは、みな平等なのです。だから私は、楽しみにおいては貧乏人も金持ちも平等だというのです。お金に関係ないのが、楽しみなのです。これが、神が創られた楽しみの仕組みの素晴らしいところであり、恐ろしいところでもあるのです。

 楽しみには限界が無いのです。限界が無いがゆえに、より濃い楽しみを求めてエスカレートしてゆくのです。満たしても、満たしても、満たしきれないのが、楽しみの性質なのです。求めても、求めても、喉元すぎれば熱さを忘れるのが楽しみの性質なのです。前述したように、楽しみは心の感じ方なのです。その心は、飽きがくるようにできているため、ドンドンと楽しみの欲望がエスカレートしてゆくのです。麻薬と同じなのが楽しみの欲望なのです。

 資本主義経済は、欲望を刺激して増殖してゆかねば成り立たない仕組みです。私たちは知らず知らずのうちに、この仕組の罠に嵌っているのです。コマーシャルに踊らされ物を買う人、次から次へ新車を買い換える人、宝くじに夢中になる人、カジノにのめり込む人、みな資本主義経済の罠に嵌っているのです。資本主義経済は、私たちの欲望を巧みに操って増殖するシロアリのようなものなのです。その行く先がどうなるかは、推して知るべしでしょう。

 ではなぜ人間は、楽しみの欲望に嵌ってしまうのでしょうか。それは、満たされない心の隙間を楽しみで埋めようとするためです。人間は誰もが、真実を求めているのです。でもそれが分からない幼い魂は、簡単に得られる楽しみを代替え品に使い、心を満たそうとしているのです。しかし、楽しんでも楽しんでも、心は満たされません。だから、なお楽しみの欲望にのめり込んでゆくわけですが、どんなに楽しんでも、みな自己満足の楽しみにしか過ぎないのです。喉元すぎればの楽しみにしか過ぎないのです。この欲望から抜け出すためには、楽しみの虚しさや儚さを、心の底で知る必要があるのです。つまり、千円かけて味わう楽しみも、百万円かけて味わう楽しみも、比べられないからみな同じであるという、楽しみの性質を知ることです。知れば、人の楽しみを羨むことはなくなります。私は楽しんではいけない! といっているわけではありません。そこそこの楽しみならいいのです。

 楽しみにのめり込むことほど、虚しい人生はありません。幼い魂だから、楽しみにのめり込むのです。皆さんのように熟した魂なら、もうそのようなことに人生を使うことはないでしょう。真理を掴めば心が満たされるため、楽しみにのめり込むことはなくなります。どうか心が満たされる真理に人生を使ってください。

2014年12月1日更新

 

 

 

私たちが安心して生きられる理由

 私たちが安心して生きられる理由は、この宇宙が、真善美の心によって支えられているからです。

 つまりこの宇宙が、真善美を土台にして創られているからです。

 {真の心とは}

真実を貫き通す心です。

法則を支える心です。

純朴・純粋・純真の心です。

すなわち、清心・誠心・聖心です。

 

 {善の心とは}

絶対善の心

絶対正義の心

真っ直ぐな動機を貫いている心

一切のしがらみを超越している心です。

 

 {美の心とは}

高いエネルギーを、分け隔てなく、惜しみなく、与えている心です。

すべての創造物に、平安と安寧と久遠の安らぎを与えている心です。

宇宙を喜びで充たしている心です。

 

 この真善美の心から離れれば、苦しみがやってきます。近づけば、喜びがやってきます。そこに情け容赦はありません。こびても、へつらっても、真善美の道から外れれば苦しみがやってくるのです。それが、私たちが住んでいる宇宙の性なのです。それは、まさに単純です。間違いありません。単純で間違いないがゆえに、真善美の道に沿って生きれば、幸せになれるのです。

 もしこの宇宙が、真善美と反対の邪悪な心で創られているなら、私たちは一時も安心して生きられないでしょう。私たちが曲がりなりにも安心して生きられるのは、真善美に支えられていることを、心の何処かで知っているからです。

さあ、真善美の道に沿って生きましょう。そうすれば、間違いなく幸せに生きられるのですから・・・。

2014年12月15日更新

 

 

 

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