◎唯物的な迷いを退ける助言

 今の社会では、人は死んだらお終いと言うことになっています。でも、人は死んだ後も人生の続きをしているのです。このことは、本来宗教で論じられるべき問題ではなく、教育で、いや政治で、論じられるべき大問題なのです。あなたは一回限りのキップと、プレミアム付きのキップのどちらを大切にしますか? 続編のある物語と、続編のない物語のどちらが心に残りますか? 人生も同じなのです。これっきりの人生は、どうしても刹那的な生き方になりがちです。「今楽しかったら良い! 今幸せだったら良い! あとは野となれ山となれ! 」そんな投げやりな生き方になるのです。今多くの人が刹那的な生き方をしているのは、人間が一時の存在だと考えているからです。もし人間が永遠の存在で、今の生き様が未来の人生に影響を及ぼすと知ったら、けして無責任な生き方はしないでしょう。科学者にいわせれば、「そんな非科学的な思想を吹き込むのは無責任だ! 」と怒りますが、たとえ非科学的であっても、人に希望をもたらすことができるなら許されて良いのではないでしょうか。たとえ私が唯物論者だとしても、人生に続きが有るか無いか問われたら、私は五分五分だと返答します。否定する根拠が何も無いからです。ということは、人生に続きが有るか無いかの確率は5割だということです。

今二頭の馬が競争しようとしています。一頭は唯物論の代表馬で、もう一頭は唯心論の代表馬です。外見が全く同じで、何も情報がないので、どちらの馬が勝つかの勝率は五割です。さあ、あなたはどちらの馬に賭けますか? 多分迷うでしょうね。でも、迷うことはないのです。なぜなら、唯物論の代表馬の方には何も情報はないけれど、唯心論の代表馬の方には情報があるからです。唯心論の代表馬の情報とは、お釈迦様や覚者が残された、人は死後も生き続けるという情報です。いやそれよりも、この本を書いている私が、死んだ妻に会い妻の幽体に触っているのです。人は肉体を脱いだ後も、幽体という身体をまとって生きているのです。こんなはっきりとした情報があるというのに、あなたは何の情報もない唯物論の代表馬の方に賭けるつもりですか? 

 同じ環境に生まれ、同じ環境で育った一卵性双生児でさえ、気性や気質が違うのです。それは過去において、違う人生を歩んでいたからではありませんか? 今生だけの人生なら、こんなことはあり得ないはずです。また、脆弱な肉体を持って生まれてくる人もいれば、強靭な肉体を持って生まれてくる人もいる、これもおかしいとは思いませんか? 最大の謎は、真理を理解できる人と理解できない人がいる、という不思議さです。これは「人生に続きがある」と考えなければ解けない謎です。どうでしょう。唯心論を信じて、何か損することがありますか? 得することはあっても、損することは何もないのです。でも唯物論を信じた人は、大変な損をするのです。

「人生に続きが有るか無いか?」いずれ科学的に証明される時代が来るでしょう。その時、唯物論を唱えていた科学者は大恥をかくことでしょう。また、唯物的に生きていた人は地団駄を踏むことでしょう。

 なぜ最後にこのような話を持ち出したかといいますと、この究極の治療法は、見えない世界を抜きにしては語れないからです。前述したように想念は見えないし、死後の世界も見えません。それよりも何よりも、神は見えません。宇宙の法則は見えません。その見えない世界の存在が信じられなくては、どんなに究極の治療法を信じようと思っても、信念が揺らいでしまいます。それでは癒やされないのです。もし真に癒やされたいと思うなら、見えない世界の存在を認め、想念の偉大さも認めてください。

 

 以上、究極の癒しの方法を示しました。この究極の治療法は、「宇宙を・神を」どれほど理解し、信じられるかによって癒しの効果は違ってきます。でも、やれば間違いなく効果が現れる究極の治療法です。どうか病気に対する常識を、「この世に肉体病はない、想念病があるだけである」、という常識に変えてください。精神病で苦しんでいる人は、「精神病は魂の成長に必要な試練である」と良く受け取ってください。気持ちがずっと楽になるはずです。