認識について

 私たちは、先に何かがあるから認識できると思っていますが、一つの意識しか無い宇宙において、認識に先立って何かが存在することはあり得ないのです。つまり、原因なしに先に結果が存在することはないということです。

 意識を持っている認識者は、すべての本質であり原因者です。原因者あっての形です。今、形が認識できるのは、原因者(認識者)である本質が、形の中に宿ってその形を生み出しているからです。形の中に認識者がいなければ、つまり本質がなければ、認識される形は生まれないわけですから当然です。だから先に認識者がおり、その認識者が認識することで形が生み出されるわけです。認識される形は、認識されてはじめて存在できるのですから、認識に先立って形が存在するわけがないということです。認識者(原因者)である皆さんがいなければ何も無いというのは、原因者がいなければ、結果である形はあり得ないからです。

 認識がすべてを創っている宇宙において、認識されないものは、どんなに目の前にあっても無いのです。例えば、私が友達に「おおい!」と手を上げても、友達の視線が美人に釘付けになっていたら、その友達にとって私は存在していないのです。

 でも今見ている山が、どうしても自分が作ったとは思えない、山が先にあってそれを自分が認識しているとしか思えない。それは、自分が作った記憶が無いからです。記憶が無いのは、創造主と自分とを別けてしまっているからです。私たちが創造主の元に帰れば、つまり、創造主と一体になれば、創造したことを思い出すのです。

 皆さんが山を作った覚えがないというのは、まだ創造主と自分との関係が理解できていないからです。でも理解できなくても、創造主と皆さんが一つなのは間違いないのです。皆さんは、海水の一滴なのです。その一滴が大海に帰れば、大海そのものになるのです。大海そのものになったら、大海のすべての創造過程が分かるのです。私たち分身(海水一滴)は、いつか必ず本源である創造主の元に帰るのです。本源である創造主の元に帰ったら、この宇宙のすべての創造過程が分かるのです。

 これを理解するには、原子核を多く集めるしか無いのです。さあ、社会体験を通して、瞑想を通して、思索を通して、原子核を多く集めましょう。

2015年8月15日更新

 

 

 

Google自動翻訳