時間とは?

 時間の「時」とは、意識のこと、エネルギーのことです。また意識は神しか持っていませんから、「時」は神でもあるのです。すなわち、絶対宇宙そのものが「時」なのです。一方、時間の「間」とは、空間のこと、物質のことです。物質は表現宇宙のことですから、私たちが住んでいるこの相対宇宙が「間」なのです。

 さて、この「時」と「間」は、切り離しては存在できません。二つが一つに合わさって、はじめて「時間」は存在できるのです。だから時間は、表現宇宙だけにある特殊なモノなのです。私たちは肉体(間)を持ち、意識(時)を持っていますので、私たちは「時間」そのものであるということです。ゆえに私たちは、「小宇宙」と呼ばれるのです。この時間の中にいる限り、私たちは何をしなくても熟成することができるのです。よく「何事も時間が解決する」と言われますが、時間は何でも熟成させる力を持っているのです。私たちが、この表現宇宙に肉体を持って出てくるのは、時間の中で魂を熟成(進化成長)させることができるからです。

 時間は読むことができません。読んだ瞬間過ぎ去ってしまうからです。空間がある限り、今・今・今・今・・・・の時を刻々と生み出しています。時は尽きることがないのです。だから時は無限なのです。無限ということは、時は永遠に続くということです。

 次の式を見てください。

 この数式は、「今」しかないことを示す基本中の宇宙真理です。「今」しかないということは、1しか無いということです。なぜなら、無限が二つに分けられるなら、有限になってしまうからです。無限は分けられないのです。分けられないから、1なのです。

 今、私たちは、「今」という時を感じています。この「今」がある事実は、誰も覆すことはできないでしょう。でも、この「時」は、見えないし触れないから感じることも掴むこともできません。辛うじて「時」を感じられるのは、「時」をなぞれる意識だけです。意識がなくては「時」もないのです。私が「時」は意識であるというのは、意識だけが「時」を感じる(なぞる)ことができるからです。言い換えれば、時は意識がなぞることによって生まれてくると言ってもいいでしょう。そして人間が「時間」であると言うのも、「時」が意識であり「間」が肉体であるからです。だから「時間」を持つ人間だけが、瞑想できるのです。人間そのものが時間そのものだから、瞑想が有効なのです。

 瞑想が有効なのは、意識(想念)は創造の力であり、その意識によって時をなぞることができるからでなのです。時はアナログなのです。デジタルでは時を捕まえることはできないのです。なぜなら、「今」と思った瞬間、もう過去になっているからです。過去と今と未来をなぞれる意識のみが、アナログの時を捕まえることができるのです。物語が生まれるのは、アナログの時の中で意識がなぞれるからです。ということは、意識は、過去・現在・未来の橋渡し役をしていることになるでしょう。つまり今という「時」は、「間」がある限り、永遠にあり続けるということです。時間とはそういう性質のものなのです。

2016年10月1日更新

 

※ 命の時間は平等です。セミの命は短いと思うかもしれませんが、それは外側(形)を見ているからです。命の時間は、みな平等なのです。なぜなら、その生き物の時間の濃さは、どんな命の中でも同じだからです。

 人間が感じている時間単位は、人間の意識が作り出した時間単位で、すべての生き物に共通した時間単位ではないのです。意識は、一瞬の時の中で無限の体験が出来るのです。だから、時の短さや長さは、命にとって関係がないのです。

 セミがひと夏の短い命の中で体験する時の濃さは、人間が100年かけて体験する時の濃さと同じなのです。その命が体験している中身は、時の短さや長さで測れるものではないからです。だから、カゲロウの数日の短い一生も、セミのひと夏の短い一生も、人間の100年の一生も、命にとっては同じなのです。カゲロウもセミも短い時の中で人間と同じ濃さの体験をしているのです。カゲロウやセミだけではありません。一瞬に消え去る素粒子も、短い時の中で人間と同じ濃さの体験をしているです。つまり、すべての生き物たちは、平等な時の濃さを体験し、魂を熟成させているということです。

  勿論、熟した魂は高度な内容の体験をするし、未熟な魂は低度な内容の体験をします。でも、その命にとって時の濃度(量)はみな同じなのです。

 

 

 

Google自動翻訳