真剣度に比例して得られる真理

 真理というものは、求める人の真剣度によって得られるモノが違うのです。あなたは、どれほど真剣に真理を求めていますか? 

 経済的に豊かになりたいから?・・。病気を治したいから?・・。家族の幸せを願って?・・。そんなご利益主義で真理を求めても、得られるモノは少ないのです。ましてや、真理を駆け込み寺として使ったり、あるいは慰め道具として使ったりしていては、自分を変えることなどできないのです。趣味としてやるならそれで良いかもしれません。でも、本当に自分を変えたいなら、真剣にやって欲しいものです。神は親身になって、私たちを幸せの世界へ導こうとしているのですから、私たちも真剣に求めなくてはならないのです。

 よく、「邪魔が入って真理が求められない!」という人がおりますが、真剣に真理を求めている者の前に、どうして神は障害物を置くでしょうか? 気紛れな求め方をしているから、神(真我の自分)は障害物を置くのです。真剣に神を求めれば、必ず環境が変わります。変わらないのは、真剣度が足りないからです。「自分は本当に真剣に真理を求めているのか?」一度 自分に問いかけてみてください。

 と言っても、苦しい求め方をしてはなりません。神は苦しんでまで真理を求めなさいとは言っていないのです。今の環境の中で精一杯の求め方をしたら良いのです。魂の熟成度がみな違うのですから、求め方も違って良いのです。ただその中にあって、どれ程の真剣さが込められているか? それを問うているのです。人生の目的を見据えられた人なら、自ずと真剣度が違ってくると思います。

 理解力はそう簡単に増すものではありません。真理を求め続け、原子核が大きくなれば、自然と理解力が増します。そうすれば、私の言っていることの意味が解るようになります。どうか、焦らないでください。一歩一歩前進してください。

2016年11月1日更新

 

 神が望んでいること・・・それは、今やらなければならないことを真心を込めてやること、そして、余った時間を有効に使って瞑想することです。神は、それ以上のことを望んでいません。

 

※ 一生懸命やる

 私はよく「真心を込めてやってあげなさい!」と言います。この「真心を込めてやってあげなさい!」の意味は、「一生懸命やりなさい!」という意味なのです。一生懸命やっているときは、不純な思いは一切入っていません。この純粋な思いでやってあげることが、「真心を込めてやる!」の意味なのです。社会においても、家庭においても、一生懸命やることです。これは、瞑想にも当てはまることなのです。つまり、神を想う中に不純なものが一切入っていない状態が、真心を込めて瞑想している状態なのです。「経済的に豊かになりたい!   病気を治したい! 家族を幸せにしたい! 自覚の境界線を超えたい!  」そんな不純な思いでやっていては、真心が篭もらないのです。なぜなら、不純な思いそのものが雑念だからです。雑念は波動が低いのです。そんな低い雑念で瞑想していては、思いが神に届かないのです。一生懸命やっている状態は、光が支配している状態なのです。一生懸命やっている人の姿を見ると感動するのは、光を見せられるからです。一生懸命やっているときの瞑想は、光が支配している素晴らしい瞑想になっています。何かが欲しいから瞑想するのではありません。瞑想したくて、瞑想をするのです。

 何事も続けなければ成就しません。何も変化が現れなくても続けることです。一生かけてやり続けることです。短期間で結果を求めてはなりません。欲望的雑念は大敵です。雑念を無くすには、連続的祈り(重ねる瞑想)が効果的です。どうか純粋な気持で瞑想してください。

 

注意・・

真理を学び疑心暗鬼になっている人は、サタンにやられていることに気付いてください。

 

 

 

 

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