● 余計な情報を発信してはならない!

 なぜ、余計な情報を発信してならないかと言いますと、余計な情報を発信すれば、余計な情報が入ってくるからです。余計な情報が入ってくれば、当然、余計なことを考えるでしょう。余計なこと考えれば、余計な連想をします。それも一旦連想が始まれば、止めどもなく連想するのです。その連想の中身は、大方が悪いことばかりです。想念は実現させますから、当然、悪いことばかりが起こるでしょう。つまり、原因と結果の法則によって、悪い結果がやってくるわけです。

 人間は全員が全員、妄想によって自分を苦しめているのです。でも、そのことに誰も気付いていないのです。”私はなぜこんな苦しい目に合わねばならないのだ!”と人間は嘆きますが、それは自分が妄想していたからです。

 私たちは肉体を持っていますので、肉体を維持するために必要なことはやらねばなりません。でも、今 必要なことを考え、今 必要なことを話し、今 必要なことをすれば良いのです。余計なことを考えるから、余計なことをしなければならなくなるのです。どうか、余計な情報を発信しないでください。そうすれば、余計なことを考えないで済みます。余計なことを考えなければ、苦しみはやって来ません。今 あなたがやるべきことは、今 生きるに必要なことを精いっぱいやること、そして瞑想することです。

念を押します。

  • 今やるべきことを、真心を込めてやること。
  • 真心を込めて瞑想すること。

 この二つをやっていれば、自覚の境界線に近づくことを私は保証します。

 

※ 想わなければ、何も生まれないのが宇宙の仕組みです。当然、何の悩みも、何の苦しみも、何の不幸も、生まれません。しかし、楽しみも、喜びも、幸せも、生まれません。これでは、生きていると言えるでしょうか?

 皆さんは、想わなければ不幸せを体験せずに済むけれど、幸せも体験できないと言うことをどう思いますか? 「想念を持っていれば、不幸を作るから想念なんか要らない!」と言うのですか、それとも「不幸は体験するけれど、幸せも体験できるから持っていたい!」と言うのですか?

「生きている」とは、何でしょうか? 苦楽を体験することが、「生きている」と言う意味ではありませんか? つまり、幸不幸を体験することが「生きている」と言う意味ではありませんか? 何の体験もできないようでは、「生きている」とは言えないはずです。

 

 

 

Google自動翻訳