どうして人間社会に不幸が絶えないのでしょうか? それは、しっかりとした土台の上に社会が築かれていないからです。土台が不安定では、社会が揺れ動くのも当然です。では、どのような土台を用意すればいいのでしょうか? それは、真理という土台です。もし、真理という土台の上に社会が築かれたら、どんな嵐が襲ってきてもビクともしないでしょう。
国は、国民に進むべき道を示す義務があります。しかし、今、国は国民に、どこに向かって進みなさいといっているのでしょうか。残念ながらありません。これは国の大きな罪です。今、国のやっていることを見てください。経済を豊かにすることしか頭にありません。殆どの政策が経済中心になっているのです。国民の所得が増えれば、幸せになると誤解しているのです。幸せは、経済を豊かにすれば得られるのでしょうか。いいえ、どんなに経済が豊かになっても幸せは得られません。なぜなら、幸せは、金や物が持ってくるのではなく、心が持ってくるからです。今、国がやらねばならないのは、心の大切さを教え、幸せの道を示すことです。
人類の目的は、二つあります。一つは、本当の自分を知ること、もう一つは、この地球に理想の世を建設することです。人類には、このような、はっきりとした目的があるのです。ですから、国は、この二つの目的を念頭に政策を立てねばならないのです。心が大切だと私がいうのは、心を無視してこの二つの目的は得られないからです。物質は結果の世界です。心は原因の世界です。原因の世界を良くせず、結果の世界が良くなるわけがないのです。結果主義を重視している政治では、国民に一時の幸せは与えられても、永遠の幸せは与えられません。もうそろそろ人類は、そのことに気づいても良いころです。
地球の地下には、石油・ガス・レアメタルなど膨大な資源(エネルギー)が眠っておりますが、その資源は、人間の手によって地表に取り出され、人間生活によって食いつぶされるよう計らわれています。その意味では、地下資源を食いつぶすこと自体は悪いことではないのです。しかし、急激な食いつぶしは良くないのです。なぜなら、使命の達成前に地球環境を破壊してしまうからです。そこには、ちゃんとした食いつぶしのルールがあるのです。今、地球環境がおかしくなっているのは、ルール以上に食いつぶしのスピードが速くなっているからです。
資本主義経済の罪は、人の心に欲望を膨らませ食いつぶしのスピードを速めていることです。このまま進めば、地球環境は持たないでしょう。肉体を維持するのに、沢山の物はいりません。それは、心ある人なら、みな、知っております。でも、欲を膨らませた人たちは、そのことに気付きません。だから、地球は気付いてもらいたくて、今、様々な警告を発信しているのです。
経済は、本当の自分を知るために必要なのであり、欲望を満足させるために必要なのではありません。今人類は、目的と方便を取り違えているのです。人類は、何のために存在しているのか? 人類は、何処に向かって進むべきか? 人類の目的は、何なのか? それを知れば、おのずと正しい経済の姿が見えてきます。奉仕経済は、その選択肢の一つです。資本主義経済から脱却する時期が近づいていることを知ってください。
1、結果を教えている罪
今日の教育の過ちは、原因を教えず結果を教えている点です。つまり、この世限りの知識を与えることに夢中になり、永遠に失わない真実を与えることを忘れているのです。たしかに、この物質世界で生きるためには、ある程度の知識は必要でしょう。でも、気が狂うほどの知識を詰め込む必要があるでしょうか。毎年、春先になると、子供たちから笑顔が消えます。試験地獄が近づいているからです。可哀そうだと思いませんか?
どんなに沢山知識を詰め込んでも、この世限りの知識なのですよ。そんな虚しい知識を身に付けるために、大切な青春時代を犠牲にするなど愚かです。私たちが学ぶべきことは、永遠に無くならないたった一つの原因(真実)です。たった一つの原因を学べば、すべてを知ることができるのです。
無限の分数によって組み立てられた表現宇宙には、知るべきことが無限に存在するのです。その無限の知識を、どこまで知ろうというのですか? それは、海岸で砂粒を数える愚行に等しいのです。しかも、その砂粒は、いつか必ず消えて無くなるのです。消えて無くなるものを知って、一体、何になるのですか? もう、そのような愚かな教育は止めましょう。
2、生涯教育をしていない罪
私たちは、本当の自分を知るために生まれてきました。この本当の自分を知る教育は、知識で終わるものではないのです。なぜなら、実感と実観が大切だからです。その実感と実観を得るには、途方もない学びの時間が必要なのです。それは、永遠に続く学びの旅です。でも、今の人間は、学校教育が終われば、それで、学びが終わったと思っています。これでは、せっかくの人生を無駄にしてしまいます。人生に学びの終わりはありません。日々が学びです。一生涯が学びです。ですから、生涯教育が必要なのです。
3、宇宙の法則を無視している罪
この宇宙は、二つの法則によって支えられています。一つは、「原因と結果の法則」、もう一つは、「陰陽の法則」です。この二つの法則を私は、十字の法則と呼んでいます。今日の教育の罪は、この二つの法則を教えていない点です。
【原因と結果の法則】
結果の世界で起きている出来事は、すべて原因の世界で作られているのです。この世に不幸が絶えないのは、結果を重視し原因を無視しているからです。原因である川上を綺麗にすれば、結果である川下は黙っていても綺麗になるのです。どんなに結果をいじくり回しても、原因を良くしなければ、不幸を無くすことはできないのです。このことは、いまだに戦争や犯罪が無くならないことが証明しているではありませんか。
奪えば奪い返されるのです。与えれば、与え返されるのです。怒れば、怒られるのです。愛すれば、愛されるのです。憎めば、憎まれるのです。優しくすれば、優しくされるのです。これは、当たり前の法則で、何の不思議もありません。私が一番に願うのは、この「因果の法則」を学校教育に取り入れてもらいたいことです。もし、取り入れられれば、今、地球上で起きている犯罪や戦争は、すべて無くなってしまうでしょう。
【陰陽の法則】
この表現宇宙は、陰と陽の調和によって成り立っています。つまり、見えるモノと見えないモノによって成り立っているのです。手に裏表があるように、この表現宇宙にも裏と表があるのです。なのに、今日の教育は、見えるモノの事しか教えていないのです。こんな片手落ちの教育で、どうして子供たちが納得するでしょうか。今、登校拒否や学級崩壊が起きているのは、学校へ行っても真実を教えてもらえないからです。子供たちは、真実を知りたがっているのです。子供は正直です。素直です。その正直で素直な時期に真実を教えれば、虐めも、登校拒否も、学級崩壊も、即座に無くなってしまうでしょう。
現代科学の一番の罪は、科学を化学として扱っている点です。科学は、原因を探る学問です。化学は、結果を探る学問です。どんなに結果を探っても、それは、実体の無いものですから意味が無いのです。今の科学者は、実体のない幻を解明しようとしているのです。それは、「コップ」という名前を顕微鏡にかけ分析しようとしているようなものです。ガラスは、実体が有りますから分析できても、「コップ」は、名前だけの存在ですから分析しようがないのです。分析すべきは、実体のある本質です。
たしかに、この表現の世界は物質の世界ですから、肉体を持っている限り物質の謎の解明は必要です。でも、その化学の研究に、今のような沢山の時間とお金をかける必要はないのです。解明するにしても、必要最小限度で良いのです。この表現宇宙は、一つの本質で創られていますから、その一つの本質を解明すれば、すべての謎が解明されるようになっているのです。すなわち、原因を解明すれば、結果はことごとく解明されるということです。今人類は、一生懸命 結果を解明しようとしているのです。教育もそうであるように、科学も同じ過ちを犯しているのです。
現代宗教は、次のような罪を犯しています。
1、神仏や覚者を衆生から遠ざけている罪
宗教が犯している最大の罪は、人間を神から遠ざけている罪です。一番近くにおらねばならない神を、神秘的な存在に祭り上げ、人間から遠ざけてしまっているのです。これは、肉体ばかりでなく、心まで腐らせてしまうわけですから、これほど重い罪はありません。神仏は遠い存在ではありません。むしろ、手よりも足よりも近い存在です。なぜなら、神仏そのものが人間そのものだからです。人間は神仏から出てきた神仏の化身なのです。人間を神から遠ざけているということは、覚者から遠ざけているということにもなり、これは、二重の罪を犯していることになるのです。覚者も私たちも、同じ人間であり同じ神です。何一つ変わりません。ただ、覚者には神の自覚があり、私たちには無いだけです。なのに殆どの宗教が、そのことを教えていないのです。神仏を衆生から遠ざけている宗教を、どうして正しい宗教といえるでしょうか。
2、他力信仰をさせている罪
どの宗教も拝む対象物(仏像・仏壇・神棚)を作り、信者に手を合わさせております。偶像崇拝は、明らかに他力信仰です。救うのは、ご先祖や神仏ではありません。私たちの思いと行為が救うのです。なのに、宗教は、ご先祖や神仏に手を合わせれば救われると説きます。もし、ご先祖や神仏に手を合わせて救われるなら、どうして仏壇や神棚に燈したロウソクの火で火事になるのでしょうか。なぜ、墓参りの行き帰りに交通事故に遭うのでしょうか。私たちを救うのは、私たち自身です。すなわち、自らの正しい「身・口・意」が自分を救うのです。どうか、他力信仰を捨ててください。迷信まがいの偶像に手を合わせないでください。手を合わせるなら、自分の中におられる神仏に手を合わせてください。
3、宗教を職業にしている罪
宗教が食べるための道具になっていては、純粋な教えが伝わるわけがありません。どのような職業でもそうですが、欲が絡めば純粋さが失われてしまうのです。さらに、現代宗教の罪は、衆生の無知に付け込んでお金をむしり取っている点です。お経の長さや内容によって、戒名の字のありがたさによって、お経を詠む坊さんの数によって、・・・支払うお金が違うのです。本来、悲しみを癒してやらねばならない坊さんたちが、そのような理由をつけ信者からお金をむしり取る宗教が、はたして正しい宗教といえるでしょうか。
4、祭事や仏事に明け暮れさせている罪
葬式に膨大なお金がかかり、葬式が終わった後の法要にもお金がかかり、神具や仏具にもお金がかかり、さらに、墓を建てるにもお金がかかり、骨を預けるにもお金がかかる。ひどい宗教になると、”この有り難い物を上げれば仏さんが喜びますよ!”といって、高額な物を買わせる。このようにお金がかかり、祭事や仏事に明け暮れる宗教が、本当に正しい宗教なのでしょうか?・・・
祭事や法要に固執する心理状態を、よく観察してみてください。みな、人前で良い格好をしたいがための偽善です。亡くなった人のためにしているのではなく、自分のためにしているのです。宗教家も、そうですが、政治家も、そういう人が多いのです。理性を研ぎ澄まし、よく見極めてください。
5、多神教にしている罪
多くの宗教は、私たちの神こそ唯一の神であるといって、衆生を騙しています。沢山の神を作って衆生を惑わしているのが、現代宗教なのです。神仏は、この宇宙に一様しかおられません。その一つの神仏が、全ての人たちの中におられるのです。私たちは、神の子であり、神そのものなのです。沢山の神が存在し、一人一人の中に違う神が存在しているのではないのです。一様の神が全ての存在物の中にいて、生かし、動かし、働かしているのです。キリスト教の神も、イスラム教の神も、仏教の神も、みな同じ神です。その同じ神が、私たち自身なのです。
このように、現代宗教は大変な罪を犯しているのです。多くの人が宗教家によって騙され、あげくの果てに戦争までしているのです。もうそろそろ、そのことに気付いてください。私たちは神の子です。私たちの中に神がおられるのです。それを知れば、もう、外に神を求めようとはしないでしょう。すなわち、宗教はいらなくなるのです。
人類は、便利・快適・スピード性が文明の証しだと思い違いし、今日まで、この命題達成に全力を注いできました。たしかに、物質文明は、かりそめの幸せを提供してくれますので、求めたくなる気持ちは分からないではありません。でも、それは、一時的な見せかけの幸せであって、真の幸せではないのです。真の幸せは、物質では得られないのです。いやむしろ、物質から離れなくては得られない幸せなのです。なぜなら、幸せは、心が感じるからです。
どうでしょう。物質文明花盛りの今日、人々は本当に幸せになったでしょうか? いいえ、逆に苦しみや悲しみが多くなったのではありませんか? これは、明らかに間違った文明に足を踏み入れた証なのです。
お腹をいっぱいにするのは食べ物ですが、心をいっぱいにするのは、平安と喜びと感動です。文明の本分は、人類を質の高い幸せにいかに近づけるかなのです。質の高い幸せは、物からは得られないのです。もうそろそろ、人類は、そのことに気付いて良い頃です。さあ、文明の方向転換をしましょう。
二重生命体である人間には、肉体の自分と生命の自分が存在します。二つの自分があるということは、二つの生き方があるということです。つまり、人間としての生き方と、生命としての生き方があるということです。でも、それを知らなければ、人間にしか生きられないのです。だから、私は、真理を知りなさい! 本当の自分を知りなさい! というのです。私たちには自由意志があるわけですから、どちらにも生きられるのです。でも、殆どの人間は、肉体の自分に生きております。これでは、苦しい人生を送っても仕方ありません。
私たちは、「生きる」という字を使いますが、この 「生きる」という字は、何に「生きる」べきか考えさせる字なのです。例えば、人間に「生きれ」ば、老いがあり、病があり、死があります。また、人と競い、争い、奪い、戦わねばならない苦しみがあります。さらに、肉親の情、夫婦の情、友達の情、周りの人達との情など、様々な情の苦しみもあります。つまり、人間に「生」きれば、沢山、苦しまねばならないわけです。しかし、生命に生きれば、老いや、病や、死に苦しむことはありません。人と対立する苦しみもありません。情で苦しむこともありません。確かに、肉体を持っている限り、人間社会を無視して生きるわけにはゆきませんが、人間社会にボツリと浸かって生きる必要がなくなるのです。ということは、人と競い、戦い、奪い合うようなことはしなくて良くなるわけですから、苦しみも少なくなるのです。どちらの自分に生きるかで、人生が全く変わってしまうのです。これは、外側の人間社会に関係ない、内側の自分の中の問題なのです。
どうか、生命と人間(肉体)をバランス良く生きてください。そうすれば、あらゆる苦悩は解消されます。といっても、私たちは、今までトコトン人間として生きてきたわけですから、これ以上、人間を意識して生きる必要はありません。生命だけ意識して生きればいいのです。難しいことはありません。今まで人間を意識して生きてきたように、生命を意識して生きたらいいのです。肉体保全は、その中において、無理なく行われるでしょう。
銃の引き金を引かせているのは、何(誰)ですか? 核爆弾のボタンを押させているのは、何(誰)ですか? 手ですか? 心ですか?
そうです。事の起こりの背後にあるのは、すべて、心です。心が肉体を動かしているのです。人間は、このことを深く考えようとしません。だから、心を粗末にするのです。
心が無くては、何もできないのですよ! 心が無くては、何も始まらないのですよ!
この事実をしっかりと認識すべきです。
真に国民の幸せを願うなら、心のメカニズムを解明し、正しい心の使い方を国民に周知させるべきです。これは、国策として、真っ先に取り組まねばならない重要課題です。源流を清めれば、黙っていても下流は清まるのです。すなわち、原因である心を清めれば、結果である社会は黙っていても清まるのです。
もう、
何事も「心」が関係していることを、教育者にも、政治家にも、知って欲しいと思います。
これまで金は貴金属として、また「有事の金」として大切にされてきましたが、国の信用不安が高まっている今日、ますます、重要視されるようになっております。金が重要視される背景には、金が持つ普遍的価値があります。金は供給量が少ないため、希少価値が高いのです。さらに、金は不変性・永遠性(錆びたり摩耗することがない)があるため、信用度が変わらないのです。紙幣は国の経済が破綻すれば信用度は落ちますが、金は何が起ころうが信用度が変わらないのです。でも、金に価値がある本当の理由は、人の心を魅了するところにあるのです。この地球上のどこの国に行っても、金を見せれば人はいうことを聞きます。従います。働きます。それは、金には、本源的な価値があるからです。本源的価値とは、究極の幸せを思い出させる価値のことです。(究極の幸せは生命の世界にある) 私たちは、そのことを本能的に知っているため、金の輝きに魅了されてしまうのです。その意味では、金の輝きは、単なる金の輝きではないのです。生命の世界を思い出させる輝きなのです。
私は、常々、この世で一番価値のあるものは労働力であるといってきましたが、それは、労働力さえあれば、どんな価値でも生み出すことができるからです。でも、その労働力は、人の心を動かさなければ得られないのです。だから、人類は、これまで、武力や権力や金力を使って強制的に人の心を動かし獲得してきたわけです。多くの悲劇は、そこから、生まれたわけですが、それは、それ以外、労働力を獲得する方法を知らなかったからです。でも、本当は、そのような力を使わなくても、労働力はいくらでも手に入るのです。私が提唱している奉仕労働力がそれです。奉仕労働力は、人の心(善意)を当てにしたものですが、その心は、真理を知らしめれば、金と同じように動くのです。金が究極の幸せを思い出させるように、奉仕労働力も究極の幸せを思い出させるのです。それは、奉仕労働力さえあれば、幸せな社会を作れることを、誰もが知っているからです。
理想世界へ導く大きな決め手は、人の心をどう動かすかにあるのです。それは、真理を知らしめれば可能なのです。もし、真理が社会に浸透すれば、人々は、自分の労働力をタダで提供してくれるようになるでしょう。
金 = 幸せを思い出させる。
真理 = 奉仕労働力を生み出す。
奉仕労働力 = 幸せな社会(奉仕社会)を生み出す。
資源がいくらあっても、そのままでは、何の価値もありません。資源に人の手を加えて(労働力)、はじめて価値が生まれてくるのです。資源物そのものには、何の価値もないということです。こういうと、「自然界で実っている果物などは、それ自体に価値があるではありませんか」という質問がきます。確かに、実っている果物を見ているだけで腹が満たされるなら価値を認めましょう。でも、木からもぎ取って口に入れなければ腹は満たされないのですよ。木からもぎ取って口に入れるには、労働力が必要なのです。どんなに石油資源があっても、それを汲み取って精製しなければ使いものにならないのです。汲み取って使えるようにするには、労働力が必要なのです。今日の物質文明の繁栄は、すべて人類の労働力の賜物なのです。したがって、真に価値あるものは、資源でも、お金でも、権力でもない、労働力であるというところに行き着くのです。でも、その労働力は、心が動かなければ生まれません。だから、私は、「心こそ真に価値あるものである」というのです。
労働力は、本来、売買の対象にならないものです。なぜなら、労働は、肉体がするのでは無く、心がするものだからです。心は、売買できません。でも、肉体が労働すると考えれば、肉体は物質ですから売買の対象になってしまいます。労働力が売買の対象になれば、生産物も、サービスも、売買の対象になってしまいます。今日の社会でお金が幅を利かしているのは、労働力が売買の対象物になっているからです。もし、売買の対象物から外されたら、個々人の労働力は、社会的財産(奉仕労働力)として扱われるはずです。労働力をバラバラに使うより、集めて使う方が合理的だからです。そうなると、社会的財産から生まれた生産物は、当然、社会全体のものになるでしょう。配分についても、お金から生まれた物の配分にはお金が必要ですが、奉仕労働力(心)から生まれた物の配分にはお金は必要なくなります。そうなれば、「自由収得制度」が採用されるのは当然の成り行きです。一人ひとりの心が生み出した生産物の配分は、一人ひとりの心に委ねるのは当然だし、また、その方が間違いないからです。
奉仕社会では、心(労働力)が価値を生み出すことを認めていますので、どんな自然物も、どんな生産物も、どんなサービスも、心の表現物として大切に扱われます。でも、物に価値を置く社会では、物は単に物として扱われますので、無謀な開発、無謀な生産、無謀な消費が行われるのです。これでは、生産物の中にも、労働力の中にも、心が宿ることはないでしょう。労働力は、「知恵と力・・心」の結晶です。知恵も、力も、見えません。でも、その見えない知恵と力が物を生み出しているのですから、物を単に物として扱うのでは無く、心を持った生き物として大切に扱うべきなのです。
配分を良心に委ねる「自由収得制度」を、夢のように考えてはなりません。なぜなら、今も現に行っているからです。あなたは、家族から、食事代や着物代や家賃などを取っていますか。取っていませんね。それは、家族間に自他の溝が無いからです。また、家業をやっている家では、家族の労働力は惜しみなく家業に使われていますし、そこで得た糧も家族全員のために使われています。この発想を広げたのが奉仕社会ですから、自由収得制も、労働奉仕制も、異端な制度ではないのです。社会の営みを家業と考えれば、一人ひとりの労働力を社会全体のために使い、生み出された物の配分も一人ひとりの良心に委ねるのは当然だからです。全人類が兄弟姉妹だと知り、自他の溝が無くなった社会では、このような発想が生まれても不思議ではないのです。事実、進化した星では、「自由収得制も、労働奉仕制も」当たり前の制度として採用されています。幼い社会にだけ、「労働力」という言葉があるのです。本来、「労働」という言葉は、「楽働」という言葉でなくてはならないのです。なぜなら、働くことは楽しいことだからです。働けば、原子核が増えるわけですから、楽しいはずなのです。それが、なぜ、苦しいのでしょうか? 幼い社会にだけ「お金」があり、幼い社会にだけ「労働」という言葉があるのです。
もし、人間が足ることを知り、日々生きられるだけの物で満足するなら、誰が指導者になっても無難にやって行けるでしょう。いや返って、子供のような素直な考えを持った者の方が、指導者としては適任かもしれません。なんせ、物の配分に、何の工夫も技術もいらないのですからね・・・。ただ、必要な物を、必要な量だけ生産し、必要な人に、必要なだけ、配分すればいいのですから・・・。たとえば、十人の人がいれば、単純に物を十個生産し、それを適正配分すればいいのですから・・・。そのような社会になれば、何も守る必要がありませんので、誰とも敵対することがなくなるでしょう。だから、奪い合いも、競い合いも、争いも、起きません。今の人間は、沢山の物を確保しなければ生きられないと思っています。しかし、地球には、何百億人もの人が生きられるだけの資源が用意されてあるのです。いや、宇宙に手を伸ばせば、資源のことなど考える必要さえなくなるのです。
自然界の生き物たちを見てください。彼らは明日に備える貯えはしていません。日々与えられた物で満足しております。私は痩せ細ったリスなど見たことがありません。餓死した熊など見たことがありません。人間の自然破壊によって餓死したリスや熊はいても、人里離れたところで生きているリスや熊に餓死はないのです。餓死は、人間界にだけある不思議な光景なのです。
今の人間は、自ら難しくして苦しんでいるのです。
それは、
では、なぜ、人間は、このように自分で自分を苦しくするのでしょうか?。
それは、
この物質の世界は、無常の世界なのですよ。消えて無くなる幻の世界なのですよ。そんな幻の世界に、どうして、沢山の物やお金を残す必要があるのでしょうか? あなたの命は、百年足らずなのですよ。ならば、百年生きられるだけの物やお金があればいいではありませんか。あなたの身体は、わずか二メートル足らずなのですよ。ならば、二メートル余りの身を横たえられる家があればいいではありませんか。どうして、クジラが住めるような大きな家がいるのでしょうか? 自然界の生き物たちは、自然の配剤に文句ひとつ言わず従っています。人間だけが逆らっているのです。だから、人間は苦しんでいるのです。その苦しみは、自ら作った苦しみで、誰かが与えた苦しみではないのです。このことをぜひ知って欲しいと思います。
今、人類は、膨大な費用をかけ宇宙に探査機を送っていますが、これほど予算の無駄遣いはありません。なぜなら、外から得るものは、みな、幻(結果)だからです。幻(結果)を得て、一体、何になるのでしょうか? 私たちが求めるべきものは、幻(結果)では無く、真実(原因)ではありませんか。一体、宇宙の塵を集めて何になるのですか? どんなに遠くの塵を集めても、それは、みな、幻なのですよ。この表現宇宙に存在するもので、一つだって真実なるものは無いのですよ。そんなに宇宙の塵を研究したいなら、自分の足元にある塵を研究したらいいではありませんか。何光年先にある塵も、足元にある塵も、同じ本質(真実)によって生み出された物だからです。私は批判しているのではありません。欲しいものが近くにあるのに、わざわざお金をかけ遠くに出掛ける必要はないといっているのです。そんな予算があるなら、心の研究に使った方がどれほど国民のためになることか・・・。外側のものは、すべて幻です。そんな幻にお金をかけるほど愚かなことはありません。お金をかけるなら、真実を発見するために使いましょう。真実とは、本当にあるものです。本当にあるもの、それは心です。意識です。すなわち、生命です。神です。本当の自分です。
人間は、社会生活と悟りは、全く関係ないと思っております。でも、社会生活と悟りは、切っても切り離せない関係にあるのです。イエス様は、「天国(悟り)に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい!」といわれました。それほど悟るのは難しいのです。なぜなら、悟るためには強い強い精神力がいるからです。例えば、忍耐力が必要です。集中力が必要です。意志力が必要です。緻密さが必要です。努力心や向上心が必要です。これらの精神力は、単に一生や二生で養われるものではないのです。何万回という転生輪廻の中において、少しずつ養われてゆくものなのです。
この世に生を受けると、この世で生きるための学びが必要です。幼稚園・小学校・中学校・高校・大学など、私たちは、人生の3分の1を学校教育に費やします。その学びの過程で、嬉しいこと、苦しいこと、楽しいこと、悲しいこと、良いこと、悪いこと、好きなこと、嫌なことなど、様々なことを体験します。例えば、寒い朝 早く起きて学校に通うこと、学友の前やPTAの前で発表すること、体育の時間に運動場を何周も走ること、試験勉強することなど、沢山、嫌なことを体験します。勿論、社会に出れば、学生時代の何倍もの苦難が待ち受けています。就職試験、新人研修、厳しい仕事、得意先とのやり取り、ノルマ達成、上司や同僚や部下との付き合いなど、弱肉強食まがいのこの社会は、まさに格闘技さながらの戦場といっていいでしょう。しかし、そんな社会だからこそ、強い自分を築き上げることができるのです。
この社会には、政治・経済・教育・科学・文化・芸術・スポーツ、など、様々な分野の営みがありますが、すべて悟るために必要な受け皿になっているのです。その受け皿の中で、総理大臣も、学校の教師も、会社の役員も、サラリーマンも、肉体労働者も、警察官も、軍人も、芸術家も、スポーツ選手も、主婦も、人殺しも、ドロボーも、浮浪者も、強い自分を築いているのです。様々な社会体験は、悟るために必要な道具を磨く方便なのです。だから、私は、悟りは、社会において終始トップの位置を占めているというのです。
人間は、過去にこだわり過ぎます。過去は、閉ざされたページです。「過去を清算せよ!」という国がありますが、過去をどう清算せよというのでしょうか。お金で清算することを清算というなら、それは、ただ、お金が欲しいだけではありませんか。どうでしょう。みなさんが戦争をしたのですか。戦争をした人たちは、とっくに死んでいるのですよ。なのに、なぜ、子や孫が責任を取らねばならないのでしょうか。精算できる過去などあるわけがないのです。もし、あるとすれば、今、仲良くすることです。そうすれば戦争で亡くなった人たちも、きっと喜んでくれるでしょう。いつまでもいがみ合っていては、亡くなった人たちは浮かばれません。ですから、靖国神社にお参りすることでも慰霊碑に花束を捧げることでもなく、お互い仲良くすることが亡くなった人たちに対する最大の供養になるのです。靖国神社にお参りして、一体、何の益があるのでしょうか? 亡くなった人たちのいい迷惑になるだけです。彼らは彼らで、向こうでの生活があるのです。向こうで生活しやすいよう、静かにしてやるのが思いやりというものです。騒げば、どうしても地上に意識が引っ張られてしまいます。これは進化を続ける生命にとって大迷惑です。
戦争(災害)を形骸化させてはならないといって語りべになる人がおりますが、どんなに結果を語り歩いても原因をなくすことはできないのです。そんな時間があるのなら、自分の心を豊かにすることに使ってください。つまり、真理の探求に時間を使ってください。その方が、どれだけ世のため人のためになっていることか・・・。過去は、もう終わったのです。過去に生きている人は、死んでいるのです。なぜなら、今の大切な時間を殺しているからです。過去に囚われ、今の大切な時間を無駄にしないでください。どうか、「過去に生きるは死である」という覚者の言葉を噛み締めてください。
本来、この世に病気などないのです。神の創られた完全な世界に、そんなものがあるわけがないからです。もし、あるなら、神は完全でなくなります。その証拠に、自然界には病気はありません。人間界にのみ病気はあるのです。では、なぜ、人間界にのみ病気はあるのでしょうか。それは、人間には自由意思があるからです。もし、人間に自由意思がなかったら、自然界のように病気はなかったでしょうが、神を客観的に認知するという使命も果たせなかったでしょう。人間の尊厳は、自由意思を持って神を認知するところにあるのです。しかし、残念なことに人間は、その自由意思を悪用し、自ら苦しい病気を作っているのです。それは、宇宙法則を知らないからです。
この宇宙には、きっちりとした法則が存在するのです。その法則は、宇宙を秩序立てている中庸という法則です。その法則を守って生きれば、人間界に病気などないのです。法則を守るか、法則を犯すか、それは、自由意思を持った人間に任せられているのです。賢い者は、法則を守り幸せな人生を送っています。愚かな者は法則を犯し、苦しい人生を送っています。誰のせいでもありません。みな、自己責任です。でも、そのことを知らない無知な者は、自分の自由意思で苦しみを作り、その苦しみを人のせいにして腹を立てているのです。
そんな愚かな人生から足を洗いましょう。そのためには、宇宙の法則をよく知り、法則を守ることです。宇宙の法則は、私たちの想念に正直に従ってくれます。良い想念を持てば幸せが・・・、悪い想念を持てば苦しみが・・・。どうか、自分の想念を悪用し、病気を作らないでください。さあ、想念を良いことに使いましょう!。
人間は、生命(神)が化身したものです。私たちは、生命(神)の子なのです。しかし、殆どの人は、そのことを知らず人間として生きております。人間として生きるから、病気になるのです。生命として生きれば、病気になることなどないのです。先に述べたように、本来、人間界に病気などないのです。死ぬまで元気で生きられるようにできているのです。その証に、自然界の生き物たちは、死ぬまで元気で生きています。人間も生命として生きれば、そのような一生が送れるのです。神が病気を用意したのは、そのことに気付かせるためです。用意したといっても、神が病気を与えたわけではありません。人間の「想い」と「言葉」と「行い」が、自ら病気にしているだけです。
今日の科学は、物質の様々な謎を解明しつつあります。でも、病気の解明は、遅々として進んでいません。進まないどころか、ますます難病が増えています。これほど医学が発達しているというのに、なぜ、病気は無くならないのでしょうか? それは、そうしなければ、本当の自分に気付いてもらえないからです。つまり、簡単に病気が治ったのでは、疑問を持たないからです。疑問を持たなければ、人間は進歩しないのです。神が人間に万能の薬を与えないのは、病苦を通して本当の自分を発見してもらいたいためです。病気の謎解きは、本当の自分を知るきっかけになるのです。どうか、そのことに気付いてください。
覚者たちは、人の世に病気があるのは、「過ちに気づかせるためである」といっております。でも、人間は、いまだに、そのことに気付いていないのです。悲しいことですが、人間は、この身で苦しみを体験しなければ、自分の過ちに気づかないのです。このようにいうと、生まれたばかりの赤子は過ちを犯していないのに、なぜ、病気になるのですかという質問がきます。因果の絡みは複雑なので一概にはいえませんが、通常、十四歳以下の子の病気は、その子の両親に向けて発信しているメッセージです。つまり、わが子の苦しみを通して過ちに気づきなさい、というメッセージなのです。私自身を顧みても、不調和な時代には、子どもたちが相次いで病気になりました。それでも目覚めないものですから、今度は自分自身が痛い目に合ってやっと目覚めたのです。目覚めて生き方を正すと、すべてが好転していったわけですが、この変化は驚くほどでした。
病気で苦しむには、苦しむだけの原因が必ずあるのです。今、病気で苦しんでいる人は、一度、己の「身・口・意」をチェックしてみてください。必ず、思い当たることがあるはずです。外から与えられた病気など、一つもありません。みな、自分が作った病気です。このことに気付き、生き方を正したら、間違いなく、病気は快方に向かいます。生き方を正すとは、正しい行いをし、正しい言葉遣いをし、正しい想念を持つこと、すなわち「身・口・意」の正しい表現をすることです。この宇宙は、実に単純で正直にできております。良い行いをすれば良いことが、悪い行いをすれば悪いことが・・・。これは、私の体験からいっても間違いありません。どうか、「病気は過ちに気付かせるために起きている」ということに気付いてください。
繰り返します。
病気になる理由の一つは、自分の本性に気付かせるため、もう一つは、自分の過ちに気づかせるためです。この現象界で起きている、病気も、事故も、事件も、災害も、すべて、そのための方便として起きていることを知って下さい。
病は「気」からといわれるように、気(光・エネルギー)が不足して起きるのです。気を不足させている原因は、想念を物質に偏らせ、物質に生きているためです。つまり、陰陽の法則を犯しているため、エネルギーの循環がうまく行われていないのです。これは、人間界にだけある特殊な現象で、自然界には、そのようなことはありません。自然界は、調和がとれているため、エネルギーの循環がスムーズに行われているのです。
陰とは物質のことです。陽とはエネルギー(生命)のことです。陰に偏るとエネルギーが低下するため、どうしても病気になるのです。物質文明が栄えると病気が増えるのはそのためです。物質は、陰性で影(闇)なのです。影には、一寸のエネルギーも無いのです。物が腐るのは、エネルギーが抜けてなくなるからです。だから、エネルギーが抜けないよう、冷蔵庫で凍らせたり、ラップで包んだりするわけです。人間の体も物質ですから、エネルギーが少なくなると腐りだすのです。ガンは、その典型的病気です。
普通、私たちは、食べ物からエネルギーを摂取しています。でも、食べた物すべてが、エネルギーに変わっているわけではないのです。殆どが、不燃焼エネルギー(大便)として体外に出されているのです。それは、ネガティブな想念が、エネルギー変換効率を落としているからです。また、私たちは、空気からもエネルギー(宇宙エネルギー)を摂取しておりますが、これも、100%エネルギーに変換されていないのです。それは、同じように、物質ばかりを意識し、生命を意識していないからです。生命を意識して生きれば、バランスが整い、エネルギーが完全燃焼するのです。
私たちは、生きている限り、エネルギーと関わらないで生きることはできません。エネルギーは、命の素なのです。では、そのエネルギーと生き物との関わりを、考えてみることにしましょう。
どうでしょう。この世に、どんな病気も治せる医者と、どんな病気にもならないよう教える医者がいたとすると、どちらの方が名医でしょうか。後者の方ですね。では、今人類は、どちらの医者にかかっているのでしょうか。そうです。今人類は、病気を治そうとする医者にかかっているのです。それは、原因を良くしようとしているのではなく、結果を良くしようとしている姿なのです。結果対処では、お金と手間がかかるばかりで、病気を根絶させることは絶対できません。
どうでしょう。散々好き放題な生き方をしていた人が、病気になったからといって医者が簡単に治すなら、それは、本人の為になるでしょうか? 病気は、すべて心の乱れからきているのです。つまり、ネガティブな想念と生活の乱れが、生命力を弱め病気にしているのです。そのことを医者は、病人に厳しく指摘してやらねばなりません。その指摘によって病人が生き方を正したら、原因を正したことになりますから、根本治癒につながるのです。ですから、医者なら、少なくとも生命力を信じていなければなりません。昔の医者は、生命力を信じていましたので、少々の風邪なら、“玉子酒でも飲んで寝てなさい!” といって、滅多に注射など打ってくれませんでした。薬も今のように、たくさん与えなかったのです。真の医者は、心医でなくてはなりません。医者は、体を癒すと同時に心も癒してやらなければならないのです。なぜ、医者や看護婦は、白衣を着ていると思いますか。衛生管理の意味もありますが、本当は、神に近い仕事をしているからです。白色は、神を意味するのです。天を意味するのです。医者や看護婦は、白衣の意味を良く噛みしめて着てほしいものです。原因を取り除こうと腐心する医者は名医です。結果を取り除こうと腐心する医者はやぶ医者です。どうか、医者も病人も、原因に目を向けてください。
私たちの本性は生命ですから、私たちの中には偉大な生命力が備わっています。その生命力に何もかも、委ねることです。任せることです。預けることです。心から委ねれば、偉大な生命力が働き出します。多くの病人は、医者や薬に、“おんぶにだっこ”です。自分の中に偉大な生命力が備わっているにもかかわらず、それを使おうとせず、医者や薬に任せっきりなのです。医者も権威を振りかざし、有無をいわせぬ治療を行っています。これでは、偉大な治癒力が眠ったままになってしまいます。真理の会得が自力によらなくてはならないように、病を治すのも自力によらなくてはならないのです。こう思いましょう。「私は生命そのものだから、私の中には偉大な治癒力が備わっている。その治癒力にすべてを委ねます!」と……。
生命力に委ねるとは、本当の自分に委ねることです。私たちの本性は生命ですから、心から生命に委ねれば、自分の本性が目を覚ますのです。それは、自分と生命が一つになったからです。一つになれば、閉ざされていた回路が開き、エネルギーが流れてくるのです。エネルギーが強まれば、色々な気づきが起き判断力も増します。何よりも、心の底から喜びが込み上げてくるようになります。なぜか、嬉しくなってくるのです。そのような気持ちになれば、もう、ネガティブな想いは浮かばなくなります。どうか生命力を信じ、生命力に委ねてください。自分で生きようとしないでください。自分(肉体)で生きようとすれば力みが入ります。力みは生命エネルギーを閉ざします。力んで生きれば生きるほど、生命力を手放すことを知ってください。
どんなことにも裏と表があるものですが、その裏と表は二つで一つなのです。裏は表であり、表は裏なのです。どちらも必要なのです。真実の扉は、表裏一体の中から開かれるのです。例えば、病気になったとしましょう。その人は、当然、苦しむでしょう。でも、その苦しみの中から、必ず、何かを発見します。それは、裏を体験することで表を知ったからです。ということは、それは、悪でなく善です。よく、リスクを負うといいますが、良い事には悪いリスクが伴い、悪い事には良いリスクが伴うのです。それも、高ければ高いリスクが、低ければ低いリスクが・・・。良いリスク悪いリスクという言葉は、言葉の意味からしておかしいかもしれませんが、リスクがことごとく成長の糧になっているなら、それは、良いリスクといっていいのです。この世は、裏と表が交互にやってくることで、善を知り、完全を知り、成長できるようになっているのです。この宇宙に一方通行はないというのは、必ず、見返りがあり、その見返りが成長の糧になるからです。どうか、病気を良いリスクだと思ってください。苦しい病気の中に、間違いなく良いリスクが潜んでいるのですから・・・。
病気は、影なのです。影は、実際にあるものではありませんから、エネルギー(光)を与えなければ消えてゆくしかないのです。それは、消極だからです。自分の力で生きていないからです。でも、光は自分の力で生きています。光は能動的なのです。しかも、光は永遠に存在します。その光は、影を動かしている黒子のような存在です。光が弱ければ影が薄くなり、光が強ければ影が濃くなるのは、影は、光の操り人形だからです。影が演技しているのではなく、後ろで、光が演技しているのです。影自体には、なんの力もないのです。病気は、この影と同じなのです。影だから、自分の力で悪くなることも、良くなることもできないのです。放っておいたら風船が萎むように、影は萎んでゆくしかないのです。「ネガティブな想いを持ってはならない!」といわれるのは、影にエネルギーを与えれば、病気の働きを活発化させてしまうからです。ネガティブな想いは、悪しきエネルギーですから、悪しきエネルギーを与えれば、病気は進行するのです。だから、決して悪いことは想わないことです。想わなければ悪いエネルギーを与えないわけですから、病気(影)は消えてゆくしかないのです。
社会の闇も同じです。人間は、何か問題が起きるとすぐに騒ぎ立てますが、騒げば騒ぐほど闇に力を与え問題を大きくしてしまうのです。闇は実在するものではありませんから、そんなものは放っておいたらいいのです。そうすれば、エネルギーを与えないわけですから、消えてゆくしかないのです。よく、靖国神社問題で騒ぎ立てますが、騒ぎ立てるから問題が大きくなるのです。騒ぎ立てれば、エネルギーを与えるわけですから、ますます、問題が大きくなりこじれるのです。エネルギーを与えなければ、自然消滅するのですから、放っておいたらいいのです。靖国神社にお参りしてもお参りしなくても、何の意味もないのです。ただ、いい格好をしたいだけです。問題を起こす方も悪いですが、問題にする方も悪いのです。まさに、子供じみています。大人なら、もう少し賢くなってください。
自我は、サタンです。肉体人間は、サタンです。サタンを相手に事を大きくしないでください。
病気は、実際に有るものではありません。なぜなら、肉体そのものが実在していないからです。もし、肉体が実在するなら、病気も実在することになり、一旦、病気になったら永遠に苦しまねばなりません。幸いなことに、肉体は、実際に無い影ですから、肉体が亡くなれば、痛みも、苦しみも、消えて無くなるのです。有るように見える、痛い、痒い、寒い、暑い、の感覚は、肉体人間の迷いの産物なのです。“ でも、実際に、痛くて、苦しいではありませんか! ”というかもしれません。それは、意識が受け取るから感じるのです。肉体から意識が出たら、痛みは感じなくなるのです。これは、肉体と意識が別ものであることの証なのです。痛みや苦しみの感覚は、真理を気付かせる手段になっているのです。
痛みや苦しみは、幻の肉体に付属するものであって、実際に有る意識に付属するものではありません。影から生まれたものは、影なのです。幻から生まれたものは、幻なのです。実在しないものから生まれたものは、実在しないのです。すなわち、現象から生まれたものは、すべて現象なのです。人間は、その現象に翻弄され苦しんでいるのです。もし、幽界と同じように、肉体に感覚がなかったら、誰もが夢幻だと思って真剣に生きようとしないでしょう。それでは、表現世界で生きる意味がなくなるので、神は、人間に感覚を与えたのです。痛みや苦しみを通して真実を知るのですから、痛みや苦しみは必要なのです。さあ、目を覚ましましょう。何がホンモノで、何がニセモノか見抜きましょう。もし、見抜くことができたら、もう、病気に苦しむことは無いでしょう。
五感から生まれた感覚は、実際にあるものではありません。なぜなら、肉体そのものが実際にないものだからです。でも、五感がなければ、生きてゆくことができませんから、神は、実際にない肉体感覚と実際にある意識とを結びつけ、この世で無事生きられるようにしたのです。肉体感覚は幻で、本当にあるのは意識です。意識が受け取らなければ、そんな感覚は無いのです。その証に、針麻酔や薬による麻酔で痛みを遮断することができます。意識が受け取るから痛むのです。傷を負っても、意識(魂)が抜けていれば、痛みは感じないのです。だから、肉体が痛んでいるのではなく、意識が痛んでいるのです。なぜ、神は、このような仕組みをお創りになったかといいますと、肉体と意識が別ものと知れば、生命に目覚めさせることができるからです。
何度もいうように、私たちの本性は、生命です。肉体の自分と生命の自分とは別モノなのです。しかし、多くの人間は、自分のことを肉体だと思っているのです。肉体だと思っている間は、自分の本性が見抜けないのです。見抜くためには、疑問を持たせなくてはならないのです。だから、神は、苦しい病気を与え疑問を持たせるようにしたのです。その意味では、病気は、人間にとって必要不可欠な覚醒剤といっていいでしょう。
あなた達が「自由! 自由!」と声を大にして自由を希求するのは、本来の自分が自由であることを知っているからです。本来の自分とは、意識(生命)の自分のことです。意識は自由なのです。どこにでも飛ばせるし、いくらでも縮められるし、どこまでも拡大できるし、いかようにも表現できるのです。そのことを本能的に知っているから、人間は自由を求めるのです。でも、その自由は、野放図な自由であってはなりません。なぜなら、野放図な自由は返って苦しみを生み出すからです。苦しみを生む自由は、真の自由とはいえないのです。では、真の自由とは、どのような自由をいうのでしょうか? それは、宇宙の法則内における自由です。つまり、陰陽の法則と因果の法則内における自由です。陰に偏れば、不自由になります。結果に偏れば、不自由になります。だから、どちらにも偏らない中庸の自由を目指さなければならないのです。
これまで、人間は、気の遠くなる年月、自由の尊さを学んできました。鉱物時代には、殆んど、自由はありませんでした。植物時代になっても、思うような自由は与えられませんでした。動物時代になると自由は拡大しましたが、それでも本能の赴くままの自由が与えられただけでした。でも、人間時代になると、自由は飛躍的に拡大されました。自由意志が与えられたのです。もう、何を想うのも、何を話すのも、何を行うのも、自由なのです。これは、あなた達、人間だけに与えられた特権で、他の生き物には与えられていません。ただし、全面解禁の自由は与えられませんでした。なぜなら、幼い人間に野放図な自由を与えては、宇宙を破壊しかねないからです。
今人間は、法律や規則で縛られた不自由な社会で生きていますが、これは、まだ正しい自由行使ができないため、やむをえず作った人為的な足枷です。正しい自由行使ができたら(法則に生きたら・良心に生きたら)、そんな足枷などいらないのに、残念ながら、人間は、まだ、そのことに気づいていないのです。やがて、人間は、どうすれば真の自由が得られるか知るでしょう。そのとき、すべての制限制約が解除されるのです。