人生に続きがあるか否かは、本来、宗教で論じられるべき問題ではなく、教育で、いや政治で論じられるべき大問題なのです。
あなたは一回限りのキップと、プレミアム付きのキップのどちらを大切にしますか?。続編のある物語と、続編のない物語のどちらが心に残りますか?。人生も同じです。これっきりの人生は、どうしても刹那的な生き方になるのです。今、楽しかったら良い!、今、幸せだったら良い!、あとは野となれ山となれ!、そんな生き方になるのです。
今、人類が刹那的な生き方をしているのは、人間が一時の存在だと考えているからです。もし人間が永遠の存在で、今の生き様が未来の人生に重大な影響を及ぼすと知れば、けして無責任な生き方はしないでしょう。科学者にいわせれば、"そんな非科学的な思想を吹き込むのは 無責任 極まりない!"と怒りますが、たとえ非科学的であっても、人に希望とやる気をもたらすなら、許されて良いのではないでしょうか?。
今の子供達の目に輝きが見えますか?。何一つ夢も希望も与えず、ただガムシャラに勉強せよと叱咤する教育が、本当に子供達のためになっているでしょうか?。子供達は真実を知りたがっているのです。もし彼らに人生の本当の意味を教えたら、恐らく目をキラキラと輝かせ生きることでしょう。どうでしょう、やってみる価値があるのではありませんか?。
たとえ私が唯物論者だとしても、人生に続きがあるか無いか問われたら、私は五分五分だと返答します。今の科学にこれを否定する根拠は何も無いからです。無いということは、確率5割だということです。ならば、やって見る価値があるのではないでしょうか?。私は体験者ですから100%あると断言できますが、たとえ50歩下がって50%だとしても、大いに現実味のある話だと思います。あなたは五分五分の勝負はしないのですか?。ますます混乱する地球の現状を、五分五分の勝負だからといってしないつもりですか?。未だかつて人類は、このような勝負はしたことが無いのです。やってみて駄目なら、元に戻れば良いではありませんか。ただ非科学的だからといって、笑って済ますつもりですか?。人生に続きが有るか無いか論ずるのに、なぜそこまで躊躇するのですか?。この話を教育や政治に持ち込むことが、そんなに非常識なことですか?。
同じ環境に生まれ、同じ環境で育った一卵性双生児でさえ、気性や気質が違うのですよ。それは過去において、違う人生を歩んでいたからではありませんか?。同じ人間でありながら、なぜこうも気性や気質が違うのでしょうか?。今生だけの人生なら、そう変わらないはずです。生まれながら幸運な人もいれば不運な人もいる、脆弱な肉体を持って生まれてくる人もいれば強靭な肉体を持って生まれてくる人もいる、これもおかしいとは思いませんか?。これは「人生に続きがある」と考えなければ解けない謎です。
ある人はいいます。人生に続きがあるといえば、命を粗末にする者が出てくるから、軽々しく口走ってはならないと・・。とんでもない!、一回限りの人生だと思っているから粗末にするのですよ。もし、今の人生が未来の人生に重大な影響を与えると知れば、軽んずるどころか今以上に大切にするはずです。恐らく、自殺する者など一人もいなくなるでしょう。
いずれ私のいっていることが、科学的に立証される時が来るでしょう。その時唯物論を唱えている科学者達は、大恥をかくことでしょう。
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