(6)人類が目指さなければならない真の文明とは

 「文明とは文教が進んで人知の明らかになることといわれていますが、今日のように自然の犠牲の上に成り立っている文明を、どうして人知の明らかになったものとして歓迎できるでしょうか?。真の文明とは、人間と自然とが相和する中に生まれる、安らかさ、美しさ、知恵の輝きを指していうのです。

 ところが人類は、早さ、便利さ、快適さ、合理性が文明の証であると思い違いし、なりふりかまわずこの目標に力を注いできました。しかしどうでしょう?。ほとんどこの目標が達成できた今日、一体人間はどんな感動を味わい、どんな安らぎを体験し、どんな満足を得たというのでしょうか?。何も得ていないのです。かえって、心の不安は広がっているといえるでしょう。だからまた人は際限のない欲望にのめり込んでいくのでしょうが、果してそのようなことがいつまでも許されるでしょうか?。もし許されるとすれば、それこそ人類総白痴化、地球は褐色の星と化してしまうでしょう。

 文明には、安らかさと、安定さと、美しさがなくてはなりません。そして何よりも感動をもたらすものでなくてはなりません。つまり、

早さに対して・・・・安らかさ

便利さに対して・・・安定さ

快適さに対して・・・美しさ

合理性に対して・・・感動性

 この牽制が必要なのです。いってみれば文明とは、芸術作品のようなものと思ったら良いでしょう。ついこの間まで人類は、自ら筆をとり絵を描いておりました。しかし機械科学が発達した今日、人類はずぼらにも機械に筆をもたせて絵を描かせているのです。たしかにみた目は写実的で美しいかもしれません。でもどんなに美しくみえても、機械の描いた絵には温かみが感じられません。訴えるものが感じられません。まるで感動がわかないのです。当然です。心をもたない機械が、心をもった人間を魅了することなどできないからです。

 昔を懐かしむのは私の感傷かもしれませんが、一昔前までは一つひとつの品物に人間的温もりが感じられました。たとえば、畳、手織物、木工品、履物、その頃の文明品であったラジオや自転車にしても、小売店のおやじさんが一つひとつ手で組み立てていたものですから、そこかしこに人の匂いが感じられました。また家庭内においても、手作り品は実生活の中に多く生かされており、それが情を通わす原点ともなっていました。たとえば古い布を再利用したおしめや、雑巾や、毛糸を巻き直しての手袋や靴下など、母親の夜なべ仕事から生まれた手作り品は、子供心に無上の幸福感を与えてくれたものです。また食べ物にしても、その家独特の「おふくろの味」というものがあって、その味の中に母心がたたみ込まれていました。

 子供の遊びにしても手作りが主流でした。何せ物がない時代ですから、自分たちで遊びを考案するしかなかったのです。あやとり、おはじき、竹とり、おてだま、竹馬、輪ころしなど、不用品を利用した遊びは、そんな物不足から生まれたものでした。物がないからこそ大切に使うし、大切に使うからまたその物も生きてくるわけですが、これを昨今の作られた・与えられた遊びとくらべてみて下さい。どちらに拍手を送りたくなるでしょう。

 このようにみてきますと、今日の文明はどうも人類が求める真の文明とは似ても似つかぬように思えてなりません。そこで私は、次のような文明転換を提起したいと思います。すなわち、

・人情溢れる人間臭い文明を目指す

・実生活に密着した質実文明を目指す

・自然と共生しうる均整のとれた文明を目指す

・地域色豊かな土臭い文明を目指す

 などです。

 今日の機械文明は速さと便利と快適さはもたらしてくれましたが、それが人と人との絆を強めてくれたでしょうか?。

・隣人の死に何ケ月も気づかない

・近所の人たちとの挨拶もそこそこ

・他人の不幸は人ごと

・夫婦や親子の情も浮薄に

 機械文明はこのように、人と人とのつながりを薄情なものに変えてしまったのです。ある中年の独身男性がこんな愚痴をこぼしておりました。

 『一日の仕事を終え家路についたとき、なぜか無性にわびしくなるのです。家に帰って迎えてくれるのは、暗くて冷たい部屋だけ。電気をつけ湯を沸かし、一人寂しくコーヒーをすするとき、そのわびしさは頂点に達します。そこでついつい酒を飲みに出ていくのですが、いき着く先は人ごみの多い盛り場なのです。やはり人恋しいのでしょうねと・・・。

 この人のいっていることは、偽りのない実感でしょう。誰もが温かみのある人と人との触れ合いを求めているのです。どんなに強がりをいっても、しょせん人間は一人では生きられないのです。ですから物はひとまず横において、人と人との触れあいを大切にした人間臭い文化を求めることです。その人間臭い文化は、決して機械がつくるのではありません。人間の心がつくるのです。その意味では、文明は文化を裏支えすることだけに徹し、決して表舞台に飛びだしてはならないでしょう。もし飛びだして一人歩きするとすれば、その文明は滅亡を意味するでしょう。

 さて、今日私たちは多くの知識を身につけておりますが、その知識は特化された知識とか、単に学校に入るための知識とか、知識のための知識とか、あまり実生活に結びつかない知識が多いように思うのです。ですからその道から外れてしまうと、赤子同然の無能者に早変わりしてしまうのです。おばあさんやおじいさんが生きた知恵をもっているといわれるのは、知識を頭で終わるのではなく、実生活で試し、生きた知恵に変えてきたからです。

 たとえば、私の小さな頃は鉛筆をナイフで削っていました。たまには失敗し指を切ることもありましたが、その体験というものは痛さを補って余りあるものでした。ところが、今の子供たちは自動鉛筆削り機の中に鉛筆をおし込むだけです。鉛筆を上手に削るにはどのように鉛筆をもち、どのようにナイフを使わなくてはならないか、またどのように削ったら怪我せず削れるかなど、さまざまな工夫が必要になり、そこから知恵も授かります。

 火を扱うにしてもそうです。一昔前までは、石炭に火をつけるのに大変苦労したものです。ときにはやけどをしたり煙でむせることもありましたが、その苦い体験の中から火を自分のものにすることができたのです。

 旅行にしても、昔はテクテクと歩いて行きましたから、いく先々でその土地独特の生活の薫りと人情の機微に触れることができました。少し文明の匂いをつけたSL旅行にしても、停まった先々でその土地独特のお国言葉とか風土の匂いを嗅ぐことができ、少なからずも地方人の心に接することができました。ところが今はどうでしょう。火をつけるのに何の苦労もいりません。ただボタンを押すだけです。また新幹線や飛行機旅行で、一体どんな体験価値が得られるというのでしょうか?。

 このように、機械文明は私たちの生活を無味乾燥なものに変えてしまったのです。これでは、豊かな人生体験を身につけるなど望むべきもないでしょう。厚みのある人生を望むなら、生活に密着した人間臭い文明の中に身を浸すことです。そのためには、昔のような文化を取りもどすことです。

 昔は地方ちほうで独特の文化がありました。言葉一つにしてもお国言葉というものがあって、その訛りを聞くだけでその地方の人たちの人柄とか気質といったものを偲ぶことができました。また、お祭り・田植え歌・子守歌・民謡・民芸・陶芸・織物などからも、独特の郷土色を感じとることができました。このようにみると、豊かな文化は人がつくるもので、決して機械がつくるものでないことが分かるでしょう。」

 「それではご老人は、科学をすべて否定なさるのですか?。」

 「いいえ、これまで得た基礎科学や基礎技術は、人類の貴重な財産として子々孫々に伝えていかねばならないでしょう。なぜなら、その科学や技術が来るべき時代に人類の使命を全うさせることになるからです。ただし今日の科学は、人の心を豊かにすることには殆ど役に立っておらず、それが文明と文化の融合を妨げているのです。ですから科学を生活の中に生かすにしても、その選り分けが必要になってくるのです。つまり、

・少し暑い・・・すぐクーラーを

・そこの市場に買い物に・・・マイカーで

・通勤も・・・マイカーで

・子供に着せるもの・・・出来合いのものを

・味噌汁は・・・お湯を注いでつくる

・遊びは・・・テレビゲームで

 また何かというとすぐに海を埋める、山を削る、ダムをつくる、自然の気持ちもおかまいなしに力でねじ伏せる。薬を使い、遺伝子をいじくり回し、大量のエネルギーを投下しては自然のリズムを変える。このような科学の利用は止めてもらいたいということです。できるなら、ハードな科学からソフトな科学にシフトダウンしてほしいと思います。つまり、

・単なる便利なものから意味のある便利なものへ

・何もかも速いものから適当な速さへ

・単なる快適なものから意味のある快適へ

・量から質へ

・頑健なものからしなりのあるものへ

・ギラギラキラキラしたものから落ち着いたものへ

・集中から分散へ

・高いものから低いものへ

・化学製品(金属、プラスチック)から木や石へ

・高回転から低回転へ

 要するに、おだやか、ゆっくり、安定、といった自然のリズムとマッチした文明を目指すことです。そうすることによって人類は、自然と仲良くたもとを分かちあうことができ、永続的な繁栄もまた約束されるはずなのです。」

 「しかし、それでは何のための科学か、誰のための科学か分からないではありませんか?。」

 「たしかに大自然は、万物の霊長である人間に法(科学)の使用を認めています。いや、法は人間に使われることを待っている、といった方がいいかもしれません。とはいっても、無闇やたらに正体を見せるわけではないのです。人間の成長に相応するように、一枚一枚そのべールを脱いでいくのです。これは、子供に危険なオモチャを与えてはならない神の配慮でしょう。科学()が偉大であるだけに、少しでもその利用法を間違えればとんでもない結果を招きかねないからです。(原子爆弾などは典型的例である)ですから科学の利用は大いに結構だけれども、くれぐれもまじめな目的に、しかもその扱いには細心の注意をはらって、といった節度が必要になってくるのです。間違っても、法をもてあそぶようなことをしてはなりません。」

 「化学製品から木や石へという意味は、金属やプラスチックを捨て、木や石へくら替えしなさいという意味でしょうか?。」

 「今日化学製品は、身近な日用品から技術の粋をあつめた航空機に至るまであらゆるところに使われていますが、そのせいで地球環境はすっかり汚れてしまいました。私は、こんな節操のない使用は止めてもらいたいと思っています。たとえばどうしても使わなければならない場合でも、基幹部分のみにとどめて、大量消費の流れに乗せないようにする、また使用する場所も公開場や公共施設だけに限定し、私的な生活の場まで持ち込まないようにする、といった配慮がほしいのです。できるなら木の良いところを見直し、日常使うものは木に置き換えてもらいたい、そして使えるものは使いきり、消費回転をできるだけ遅らせてもらいたい。木はそれができるのです。ギラギラ・キラキラしたものから落ち着いたものへというのも、同じような意味です。ガラスやプラスチックは汚れやすいし壊れやすい、ですからどうしても消費回転が早くなります。その点木々(木や竹や草のような再生可能なもの)は汚れも目立たないし案外長もちします。そして、何よりもどっしりと落ち着いた風格をみせます。その良いところを生かしてもらいたいのです。当然、石の利用も考えて欲しいものです。」

 「石の利用?。」

「そうです。金属やプラスチックだけが文明の証ではないのです。石や木であろうと、周りのものと調和するかぎりそれは立派な文明なのです。先程もいったように、文明は芸術作品です。したがって自然と調和しない文明は、真の芸術作品とはいえないでしょう。」

 「では、文明と文化は油と水のように、永久に混ざらないといわれるのですか?。」

 「新しい文明が文化の中に溶け込むには、やはり時が必要でしょう。つまり、人間によく噛み砕かれ、違和感なく消化されたときはじめて新たな文化につけ加えられるのです。噛んでも噛んでも噛みきれないものは、人の文化になじまないのでしょうから、その時はキッパリと見切りをつけるべきでしょう。」

 「集中から分散へ、とはどのようなことでしょうか?。」

 「今日の文明は、全世界を一様のものに変えつつあります。個性を奪いとっているのです。勿論、そのすべてが悪いといっているのではありませんが、段々と持ち味がなくなりつまらなくなっているということです。要するに文明の力によって縦の力が強くなり、横の力である人間模様、つまり文化の薫りが弱まっているのです。ですから私は、世界を一様に染める文明色はできるだけ排除し、個性豊かな地方文化を重視すべきと思っています。そのためには、今の地方自治を中央政府の出先機関といった従属関係から、地方政府すなわち準独立国家的色彩をつよめた地方国家という本来の姿にもどすべきでしょう。人間一人ひとりに個性があるように、地方国家もまた個性の濃い輝きを放つべきだと思うからです。

経済面においては、工業の特化や農業の特化を止め、できるだけその土地で使うものはその土地でつくるようすべきでしょう。また暮らしの面においても、故事伝来の特色ある生活様式を尊重し、特質ある土俗文化を継承すべきでしょう。庶民の生活様式は終局的には土着の風が似合うのであり、そこから生まれる人情や気質が文化に彩をそえていくと思うからです。民謡も、数え歌も、地遊びも、その中からきっと息を吹き返すでしょう。また特産品の持ち味も大いに生かされるでしょう。」

 「最近、大企業のブランド食品がもてはやされていますが、これは喜ぶべきことなのでしょうか?。」

 「味覚の画一化を、どうして喜べましょうか?。私たちの舌にもやはり文化があるのです。一人ひとりに、地方ちほうに、国々に、それぞれ似合った舌の個性というものがあるのです。その個性を無視する味覚の画一化を、どうして歓迎できましょうか。味覚の国際化は、一見文明進歩の証のように見えますがとんでもない、文化の消沈・文明の堕落です。機械による大量生産方式は、たしかに儲けるためには欠かせない手段かもしれませんが、先程もいったように機械には顔がありません、情がありません、暖かさがありません。ですからどんなに美しく装っても、どこか無表情で、どこか冷たく、まるで感動が沸かないのです、しかし手作り品は違います。顔があり、情があり、美しさがあり、感動があります。そして、どこかホッとする安堵感があります。ですから私は、地縁技術や手作り製法は地方の顔としてできるだけ残して欲しいと思うのです。今日、農業も工業と同じように特化が進んでおりますが、私はこれを大変憂えるできごとと受け止めております。食べ物は自然が母体です。水、土、太陽、どれを取ってもあの豊穣は約束されないのです。

 たしかに儲けるためには、季節を問わない水栽培やビニールハウス栽培は必要かもしれませんが、(資本主義社会だからなりたっている手法である)その中身はまるで水と油のかたまりでしかないのです。まるで栄養価が低いのです。こざかしい手法で豊穣を手にしようとしても、そうはいかないということです。ですから私は、食べ物だけは全面的に自然の力に委ねるべきだと思っています。特に主食である穀物類については、その土地に根差したものはどんな事情があろうとも守っていくべきだと思います。また地元の人も、率先してそれを愛好すべきだと思います。世界中の人が何もパンを食べる必要はないし、米を食べる必要もないのです。その地域人の体質や気候風土に合った主食というものがそれぞれあるわけですから、それを大切に保護し子々孫々に伝えていくことが自然に対する礼儀であるし、また恩義だと思うのです。何度もいうように、ローカル色があるから文化と呼べるのです。ボーダレス化する文化など何の魅力もありません。その土地へいかねば味わえない独特の文化、それこそが真骨頂の文化なのです。

 特に自然との共生を考えると、自然破壊の下に繁栄する文明は、利己的刹那的でそこに何の価値を見いだすこともできません。速く、便利で、快適で、という人間のエゴは、安らぎや、美意識や、感動に通じるものではないからです。その意味で人類は、便利さや快適さに酔いしれるのではなく、感動と精神的安らぎを大切にした心豊かな文明作りを目指すべきでしょう。もし、これまで人類が蓄積してきた科学を人のエゴのために使うのではなく、人類の進化と目的を押し上げるために使うなら、安らぎと美意識と感動に通じるものとなり、均整のとれた自律ある繁栄が約束されるでしょう。それを思うと、科学は諸刃の剣であるという諺が、単なることわざとは思えなくなってくるのです。

 以上かいつまんで申し上げましたが、要するに、美と、感動と、安らぎが幸せにいたる道であることを信じ、それに沿った文明を求めていくことです。私がなぜこうまで今日の文明を否定するかといえば、余りにも人生の目的から掛け離れてしまっているからです。人生の目的に合致しない文明は罪悪です。その罪悪なる文明に、今人類は酔っているのです。よろしいですか?。人格を魂を磨くのに、文明(便利・快適・速さなど)はなんら関係無いのですよ!。

一言つけ加えておきますが、キンピカ・キラキラ高層ビルが立ち並び、その間を高速道路が縫うように走るといった文明は今日限りです。未来社会は文字どおり、地に足のついた落ち着いた文明が幅を利かしていることでしょう。

 前述したように、人類の使命と目的は次の二つでした。

☆ 人は永遠に生き通す生命体であるがゆえに、人格を極めなくてはならない。すなわち、魂を磨くことが目的である。

☆ この地球に理想世界を築くことが使命である。

 したがって文明も社会システムも、この目的を成し遂げ得るものでなくてはならない、という結論に到達したはずです。

 それではこの結論をひっさげて、これより私の提唱する理想世界の門をくぐってもらうことにしましょう。