第三章 瞑想

  瞑想は難しいものではありません。神と親しくすることが瞑想なのです。神に思いを向けることが瞑想なのです。神と対話することが瞑想なのです。神を想い続けることが瞑想なのです。多くの求道者は、瞑想を誤解して受け取っています。ここでは、瞑想の誤りを正し、真の瞑想とはどのようなものか、説明してみたいと思います。

 

 

言葉54・・瞑想は無心になることではない!

 瞑想は、ジッと座って無心になることではありません。瞑想は、本当に有るものに意識を向けることです。本当に有るものとは生命(神・仏)のことですから、生命に意識を向けることが瞑想なのです。何度も述べてきましたように、私たちの本性は生命です。でも私たちは、気の遠くなる年月人間として生きてきたために、自分のことを人間だと誤解してしまったのです。その誤解を解くためには、生命を想い続けるしかないのです。

 一般的に行われている瞑想は、ある抽象的な言葉(マントラ)を唱え無心になることのようですが、それでは生命の自覚に結びつかないので意味がないのです。瞑想は、忘我になるためでも、無我になるためでもありません。生命の自覚を得んがためにするのです。それは、無心になっていてはできないのです。ましてや何かが見えるような瞑想では、本末転倒になりかねません。どうかこれまで持っていた、瞑想に対する既成概念を捨ててください。瞑想の目的は、人間の誤解を解くためです。本当の自分(生命)に目覚めるためです。

 

 

言葉55・・瞑想で必要なのは続けること

 瞑想に技術らしい技術は必要ありません。必要なのは、やり続けることです。バダバタと泳いでいればいつか泳げるようになるように、瞑想もやり続けていればコツが掴めるようになるのです。知花先生はよく、“ 五分間霊性でありなさい! ”といっておられましたが、この五分間霊性でありなさいという意味は、“五分間神を想い続けなさい ! 生命を想い続けなさい!  ”という意味なのです。でも五分間雑念なしに思える人は、まずいないでしょう。それほど、雑念なしに神を想い続けることは難しいのです。そのことを察してか、ある日の講話で先生は、“一秒間集中できたらいいのですよ! ”といわれたことがありました。そのとき私は、ホットしたものです。後で分かったことですが、先生がいっていた五分間霊性でありなさいという意味は、一秒一秒の積み重ねのことをいっていたのです。一秒想い続けることを十回やったら、十秒間想い続けたことになります。百回やったら、百秒間想い続けたことになります。その積み重ねが、五分間の集中になるのです。ですから途中で雑念が入っても、一秒間集中できたらいいのです。一秒間なら誰でもできます。一秒間できたら、二秒間できます。二秒間できたら、三秒間できます。それを続けていったら五分間になるのです。先生が“ 何よりも続けることが大切なのですよ! ”といった意味がそのとき分かったのです。事実、それ以後私の瞑想は、一段ステップアップしたのです。親である神が、我が子にできないことをさせるわけがないのです。どうか瞑想を難しく考えないでください。一秒一秒の積み重ねが、続けることが、大切だということを知ってください。

 

 

言葉56・・宇宙(神)を深く知らなければならない理由

 私はこれまで、原子核を増やす方法を三つ掲げてきました。一つは、この世の厳しい体験を通して原子核を増やす方法、二つは、瞑想を通して原子核を増やす方法、三つは、思索を通して原子核を増やす方法です。なぜ思索をすれば原子核が増えるかといいますと、宇宙(神)を知る引き出しが多くなるからです。なぜ子供は、オモチャを分解して壊してしまうのでしょうか? それは、オモチャがなぜ動くのか知りたいからです。私たちも神を知るためには、宇宙を細かく分解する必要があるのです。こんな例え話があります。

 ある四人の盲人に象を触らせ、象とはどのような生き物か訊いたところ、足を触った盲人は、" 象とはドラム缶のような生き物である ! "といいました。しっぽを触った盲人は、" ムチのような生き物である! "といいました。耳を触った盲人は、" ウチワのような生き物である! "といいました。鼻を触った盲人は、" ホースのような生き物である! "といいました。これでは誰も、象の全体像をいい当てているとはいえません。それは、一部分しか観察していないからです。私たちも、宇宙(神)の一部分を観察していたのでは、宇宙の全体像を知ることができないのです。私が様々な切り口から宇宙を説明するのは、宇宙の正しい姿を知って欲しいためです。私の恩師である知花先生は、“ 求道者なら常に疑問を持ちなさい! ”といっておられましたが、私も同じことをいいます。真実を知りたかったら、どうか疑問を持ってください。

 私たちは今、夢を見ている真っ最中なのです。この夢には寒さや暑さや痛みが伴い、またストーリー性があるため、誰もが夢の虜になってしまうのです。夢が本当だと思えば、苦しく、悲しく、恐ろしいのです。この夢から目覚めるには、宇宙について深い疑問を持つ必要があるのです。宇宙を深く知れば、宇宙は神そのものですから、「吾神なり! 」のマントラの一言が、深く心に響いてくるようになるのです。その響きが、神の自覚に結びつくのです。口先だけの“ 吾神なり!”では、心に響かないことを知ってください。

 

 

言葉57・・瞑想の本文とは?

瞑想の本文は、本当の自分に目覚めることです。本当の自分とは「神・仏・生命」のことですから、「神・仏・生命」に目覚めることが瞑想の本文なのです。そのためには、「神・仏・生命」に常に思いを向けていなければなりません。瞑想は難しいという人がおりますが、自分の思いの中に「神・仏・生命」を留めればいいのですから、本当は簡単なことなのです。しかし、その簡単なことがなかなかできない求道者が多いのです。それは、外側の世界に意識が奪われているからです。

 私たちは、常に何かを思っています。何も思わないでいる人など、この世に一人もいません。ということは、私たちは常に瞑想をしているということです。ただその思いを、この世のことに使っているため、正しい瞑想になっていないだけです。

 「神・仏・生命」を想い続けることが瞑想なのです。それは、誰でも簡単にできるはずなのです。それができないのは、目に見え耳で聞えるこの世のことを優先させているからです。ということは、優先順位を間違えているということです。何を優先すべきですか。この世の雑事ですか?・・・神仏ですか?・・・真の求道者は、時間の許す限り神仏に意識を向けています。その人は、自分の宇宙を正しく管理していることになるのです。この世のことを想っている人は、自分の宇宙を正しく管理していないことになるのです。なぜなら、この世は幻の世界で、生命の世界は真実の世界だからです。その意味では、生命を想っている人は、生人です。この世のことを想っている人は、死人です。死人になりたくなかったら、生命を想い続けることです。

 このように瞑想は、本当にある生命に意識を留めることなのです。

 

 

言葉58・・井戸水を汲み上げる例え

 瞑想は、顕在意識を潜在意識に触れさせる作業です。潜在意識は神我(真我)意識ですから、顕在意識を潜在意識に触れさせれば神の自覚に到るのです。では、潜在意識に顕在意識を触れさせる作業を、井戸水の汲み上げに例え説明してみましょう。

 私の子供のころ家で使う水は、近くの共同用水所で井戸水を汲み上げ持ち帰っておりました。当時、手動式のポンプを使っていましたが、汲み上げるためには最初に呼び水を入れてやらねばなりませんでした。なぜ呼び水が必要かといいますと、呼び水が井戸水を呼び込むからです。この呼び水に当たるのが、マントラなのです。マントラを意識的に唱えると、潜在意識が顕在意識のところまで上ってくるのです。ただし、顕在意識と潜在意識の距離の違いによってマントラの唱える量が違ってきます。近ければ少し唱えても上ってきますが、遠ければ多く唱えねば上ってこないのです。つまり、井戸水の水位が高ければ呼び水を少し入れても上がってきますが、水位が低ければ呼び水を多く入れねば上ってこないのです。水位が高いという意味は、潜在意識(真我意識)までの距離が近いという意味です。水位が低いという意味は、潜在意識(真我意識)までの距離が遠いという意味です。これは魂の成熟度を意味し、瞑想をひとくくりに説明できない理由なのです。でも呼び水を与えれば、間違いなく潜在意識は上ってきます。前述したように潜在意識が真我意識ですから、顕在意識と潜在意識が触れれば、神の自覚が蘇ってくるのです。さあ、井戸水を汲み上げるイメージを持って瞑想してください。

 

言葉59・・自覚とは?

 自覚とは「自ら」に「覚める」と書きますが、「自ら」とは神のことですから、神に覚めることが自覚の意味なのです。知識的に知っただけでは、覚めたことにはなりません。心の髄の髄で知って、はじめて覚めたことになるのです。では心の髄の髄で知った自覚とは、どのような意識状態なのでしょうか。これを説明するのは、容易なことではありません。容易でないどころか、説明のしようがないのです。なぜなら、この世に存在しない「匂いや味」が説明できないように、この世に存在しない「自覚」も説明しようがないからです。医者が病人に“自覚症状がありますか? ”と訊ねることがありますが、この場合の自覚は痛さや苦しさのことですから説明できますが、「生命・神」の自覚は心的境地のことですから説明のしようがないのです。長年知花先生の教えを受けた人たちでさえ、「自覚」の意味が理解できないのですから、一般人に自覚の意味を理解させることは絶無といっていいでしょう。どうでしょう。神は見えないのですよ! その見えない神が自分だと自覚できた状態を、どうして人に説明できるでしょうか。これは体験した当人しか解らない稀有な意識状態なのです。でもその意識状態になったら、神そのものになった気分になれるのです。大宇宙そのものになった気分になれるのです。要するに、今人間であると思っているように、神であると本当にそう思えるようになるのです。

 すなわち、

  • 痒いところに手が届いた状態・・・
  • のど仏に引っ掛かっていた名前を思い出した状態・・・
  • 心臓の鼓動が手に取って分かった状態・・・
  • 数学の応用問題が納得して解けた状態、いわゆる腑に落ちた状態・・・。

 しかしこのいい方にしても、隔靴掻痒のごとく真意を伝えているとはいえません。でもそのような意識状態になったら、考え方も、感じ方も、観じ方も、生き方も、全く変わってしまうのです。すべてが自分だと思えるようになるため、他人を、すべての物を、自分の如く愛せるようになるのです。心の面だけ変わるのではなく、肉体面(変性変容が起きる)も変わるのです。これは驚くべき変化です。

  • どんなに空飛べるカモでも、自分のことをアヒルだと思っている限り空は飛べないのです。
  • どんなに偉大な生命でも、自分のことを人間だと思っている限り偉大な能力は使えないのです。

 生命の自覚なしに理想の世が実現できないといわれるのは、人間と思っている限り人間以上の生き方はできないからです。あなたは、自分の肉を剃ってまで人に与えることができますか? 餓死寸前の自分が、最後の一握りの飯を人に与えることができますか? できないはずです。それが肉体人間の偽らざる姿です。誰も責めることはできません。でも生命の自覚ができたら、必要な場合にはそれができるのです。それほど自覚というのは、真に迫れる意識状態なのです。



【光のメロディー集/・・・自覚・・・

 

 

言葉60・・自覚に至る流れ

 自覚がどのような意識状態か説明することはできなくても、自覚に至る流れは説明できますので、ここではその流れについて述べたいと思います。「想念は実現の母! 」といわれるように、想念は偉大な力を持っています。その偉大な想念を使って“吾生命なり!  ”と想えば、生命の波動まで意識が高まらずにはおかないのです。意識が高まれば、それだけ潜在意識と顕在意識の距離が近くなりますから、生命の自覚が得られやすくなるのです。ただし、“吾生命なり!  ”の想念力がどれほど強く、どれほど集中し、どれほど生命を理解しているかによって、自覚の高まり方が違ってくるのです。

 この表現宇宙には、生命の記憶を失った意識核の断片が無数に浮遊しております。それも、薄い薄いオブラートのような意識核の断片です。でもどんなに記憶を失った意識核であっても、生命であることに違いはありませんから、集めて濃縮すれば記憶を蘇らせることができるのです。その意識核は、想念を集中させればさせるほど多く集まるようになっているのです。そしてある一定量集まると、自分が生命であると思える気付きが起きてくるのです。さらに意識核が濃縮されると、胸のあたりに思い出せそうで出せない記憶の閊えが生まれ、さらに濃縮されるとその閊えがポンと取れ、“ああ、私は生命だった! ”と生命の自分を思い出すのです。

 自覚と未自覚は背中合わせにあるのです。薄皮一枚で仕切られているようなものです。その薄皮が破られれば、怒濤のごとく記憶が蘇ってくるのです。これと良く似ている例えが、手動式ポンプによる井戸水の汲み上げ作業です。井戸水を汲み上げるためには、手動式のポンプに呼び水を入れてやらねばならないわけですが、その呼び水に当たるのが瞑想なのです。呼び水(瞑想)は、深いところにある記憶を汲み上げる手段なのです。深いところにある井戸水と呼び水が接触すれば、引っ掛かり(胸の辺りに閊え)が生まれます。その引っ掛かりを利用して、勢いよく井戸水(記憶)を汲み出すわけです。一度汲み出すことに成功すれば、後はいつでも自由に汲み出せるようになります。すなわち、いつでも自由に自覚の境地に入ることができるのです。これが自覚に至る流れです。まさに自覚とは、“そうか、私は生命だった! ”と合点がいった状態です。そうなると、心身ともに変性変容が起き、常人では理解できない意識状態になって、生命を、神を、宇宙を、自分として生きられるようになるのです。

 

 

言葉61・・自覚の境界線とは?

 自覚にグレーゾーンはありません。白か黒か? 自覚したかしていないか? のどちらかがあるだけです。夢から目覚めた時、はっきりとした目覚めの自覚があるように、自覚の境界線を超えた時も、はっきりとした目覚めの自覚があるのです。未自覚の状態は、「地」にいて眠っている状態です。自覚した状態は、「天」にいて目覚めた状態です。つまり人間だと思っているときは地におり、生命だと思っているときは天にいるのです。

 未自覚と自覚の間には、はっきりとした境界線があり、その境界線をまたいで天に入ったら、自分が大きく変わるのです。それも観念的に変わるのではなく、現実的に、実際的に、変わるのです。例えば、ものの見方や考え方が全く違ってきます。今まで見えなかったものが観えてきます。つまり、視野が広がり遠くのものが見透せるようになるのです。また正しい判断ができるようになるため、正しく思い、正しく語り、正しく行うことができるようになります。さらに驚くべきことは、自分の身に変性変容が起きることです。これは驚くべき変化です。

 面白いことに、自覚の境界線をまたいだ瞬間、この世が夢の世界だということがはっきりと分かるのです。そのとき、一人で笑っちゃいます。“ 何だ! 今まで自分は夢を見ていたのか! ハハハハ! ”と・・・。こんな体験ありませんか。夢の中で悪者に追われ、心臓が止まりそうなほど恐怖している。でも“ これは夢だ!  ”と思えた瞬間、恐怖が去ったという体験が・・・。これと同じことが、自覚の境界線をまたいだときに起きるのです。

 “私は神であった! 生命であった! ”と心の底で想えた状態を自覚の境界線を超えたといい、これが夢から目覚めた状態なのです。でもこれは、本人にしか分からない特別な意識状態ですから、人に伝えることはできません。だから仏典の中にも聖典の中にも、その記述が見当たらないのです。いや記述するにも、記述する言葉や文字がこの世に無いのです。それほど、自覚の意識状態を伝えるのは難しいのです。だから多くの求道者は、途中であきらめてしまうのです。

 人生の最大の目的は、自覚の境界線を超えることです。特に、この書を見ているあなたはそうです。自覚の境界線を超えることが、この世における求道者の最終目標なのです。私たちはこの難関を突破するために、何万転生もしてきたのです。どうかこの難関を目指して突き進んでください。

 

 

言葉62・・自覚の境界線に立つ条件

 人間が生命に目覚めるのではありません。生命が生命に目覚めるのです。生命が“人間だ! 肉体だ! 個人だ! ”と迷っているわけですから、生命が生命に目覚めるのです。といっても、本源にいる生命が迷っているわけではありません。表現世界に出ている生命体(人間)が迷っているのです。その生命体は何万転生もの人生体験を繰り返し、やっと自覚の境界線付近までやってきたのです。今この書を見ているあなたは、その境界線付近に立っている偉大な生命体といっていいでしょう。でも自覚の境界線に立つためには、次のような条件が満たされていなければなりません。

  1. 欲望の克服。
     この世の欲望を抱えていては、心のざわめきから開放されることはありません。自覚の境界線に立つためには、物欲、色欲、食欲、金銭欲、地位や名誉欲など、この世の欲望を一切捨てなければならないのです。この欲のざわめきから開放されたとき、あなたは第一条件を満たしたのです。
  2. 感情の克服。
     憎しみ、恨み、怒り、嫉妬、妬み、憂い、恐怖などの感情に流されれば、どうしても苦しみや悲しみが深くなります。これでは平安な心を保つことはできません。感情の誘惑は、私たちを自覚の境界線から遠ざける最悪のサタンなのです。どうか情に流されない自分を確立してください。感情の克服は、求道者にとって必須科目なのです。
  3. 想念のコントロール。
     人に何かいわれて、すぐムキになるようでは、まだ自覚の境界線付近にいるとはいえません。何をいわれようと、どんなものを見せられようと、悪想念を抱かない想念のコントロールが必要です。この想念のコントロールは、求道者にとって自覚の境界線を超える最後の関門なのです。

 この3条件は、求道者にとって満たさねばならぬ必須科目ですが、更に「忍耐力を養う」「集中力を養う」「意志の強さを養う」条件も満たす必要があるでしょう。これまで歩んできた数々の人生体験は、すべてこの条件を満たすために必要だったのです。無駄な人生がなかったと思えるのは、自覚の境界線に立った時かも知れません。

 

 

言葉63・・自覚の境界線を超える近道

 自覚の境界線を超える近道があるなら、地球はとっくに聖なる星になっております。簡単に超えられないから、いまだに多くの魂が呻いているのです。残念ながら、自覚の境界線は自らの力で超えるしかないのです。一人ひとりが自らの努力で、知り、発見し、実践し、体感し、超えるしかないのです。私はこれまで、様々な切り口から真理を述べてきましたが、それは同じ切り口で述べていたのではマンネリ化し、気付きが起きづらいからです。真理を意識の中に定着させるためには、色々な切り口から繰り返し繰り返し攻める必要があるのです。そのように攻めていれば、長いものに巻かれるように、やがて思想化される時がくるでしょう。

 瞑想は、自覚の境界線を超えるための最良の方法です。瞑想をやり続ければ、間違いなく原子核が増えます。原子核が増えれば意識が濃縮されるため、必ず自覚の境界線を超えることができるのです。一定量の原子核が濃縮されれば、自動的に自覚の境界線が超えられるのが宇宙の仕組みです。このようにいえるのは、私が体験者だからです。私はただ、恩師のいう通り黙々とやっただけです。黙々とやった結果、自覚の境界線を超えたのです。といっても、境界線があるわけではありません。自分の意識の中に、異質な意識の境界線があるという意味です。その境界線を超えると、“私は神だ! 生命だ!  ”と本当に想えるようになるのです。神そのもの、生命そのもの、宇宙そのもの、になれるのです。この境地は本人にしか分からない特別な意識状態ですから、これ以上表現のしようがありません。

 瞑想に技術はいりません。技術があるとすれば、素直にやり続ける根気強さだけです。何の変化が起きなくても、疑いを持たずやり続けることです。やり続けていれば、例え今生自覚の境界線を超えられなくても、間違いなく後々の布石になります。今あなたがこの書を見ていられるのも、前世布石を打っていたお陰です。もし布石を打っていなかったら、今あなたはこの書を見ていないでしょう。神は完全ですから、完全なる神が無駄なことをさせるわけがないのです。どうか神を信じてください。この書を見ている、自分を信じてください。

 

 

言葉64・・気付き・直観・啓示

 自覚に至る前に、様々な気づきが起きます。気付きが多ければ多いほど、理解力が増し生命に対する確信が深まります。それが結局自覚に結びつくのです。よく啓示が与えられたとか、直感が得られたとかいいますが、気付きも、直感も、啓示も、同じものと考えていいでしょう。この気付きはどのようなものかといいますと、なぜか分からないけど答えが解ってしまうのです。理屈抜きで解ってしまうのです。問題の答えが先に分かった状態です。しかも、その気付いたことが納得して受け入れられるのです。探していたパズルが合わさったような感覚です。不明だった点が合わさった状態です。だから、“なるほど! ”と合点がゆくわけです。それも不明な点が多く合わされば合わさるほど、強く深く合点(納得)がゆくのです。これは自覚の一歩手前の状態と考えたらいいでしょう。

 啓示を得るためには、神仏(生命・自然・宇宙)に対する疑問を持ち続けることです。啓示は自分の問いに対して降りてきますので、疑問を持ち続けていれば、リラックスしているときなどに、答えがヒラメキとして降りてきます。それが啓示・直観です。この道筋が付けば、やがて啓示と自分の思いが一つになります。自分の思いそのものが、啓示そのものになるのです。もともと意識は一つですから、そのようなことが起きても何の不思議もないのです。

 

 

言葉65・・相対させる瞑想

 以前にも述べたように、私たちが相対の世界に出てきたのは、相反するものを相対させ、その違いの差からホンモノを発見するためでした。私たちの心は、はっきりとした段差を見せれば、気付きが起きるようにできているのです。その心の性質を利用して自覚に結び付けようというのが、相対させる瞑想なのです。つまり、ニセモノの自分(人間)とホンモノの自分(生命)を相対させ、そのギャップを心の底で感じようというわけです。生命の自覚は、そのギャップが大きければ大きいほど生まれるのです。これは意外と落とし穴になっている部分です。相対させる瞑想については「人類の夜明3」の中でも触れていますが、ここではさらに踏み込んだ説明をしたいと思います。

 まず、左側に醜い肉体人間をイメージします。次に“ 私は汚くて、臭くて、醜くて、鈍重で、無能な人間なのか?  ”と自分に何度か問いかけます。そうすれば波動が下がりますので、下がったところで、今度は右側に生命の自分(光の自分)をイメージします。そして、いや“ 私は清く、香ばしく、美しく、精妙で、全能なる生命だ!  ”と自分にいい聞かせます。そうすれば波動が急激に上りますので、その波動のギャップから気持ちの良い波動が体感できるはずです。その気持ちの良い波動を感じながら、“ 吾生命なり! 吾生命なり! 吾生命なり! ・・・・ ”と生命を想い続けるのです。この相対させる瞑想には、あまり集中力はいりません。必要なのは、波動のギャップを感じるコツを掴むことです。そのコツは、人間の想いと生命の想いを交互に繰り返すことで掴めます。

 以前にも述べたように、ぬるま湯からぬるま湯へ移動しても何の違いも感じられませんが、冷たい水から熱いお湯へ移動すれば強烈な違いが感じられます。その違いの差が、自覚を生み出すのです。違いが大きければ大きいほど、生命の自覚が生まれます。どうか汚く無能な人間と、清く全能な生命とを相対させ、生命の自覚を得てください。ただし、人それぞれ原子核の量(魂の成熟度)も理解力も違いますから、同じ自覚が得られるという保証はありません。でも、当人の今の意識の高さに相応した自覚は得られるはずです。

 

 

言葉66・・イメージを利用する瞑想

 よく私は、“背中の奥の奥に意識を留め、そこで神を想いなさい! ”という言い方をします。知花先生は、“ 汝、汝、意識しているところにおるのである”という言い方をしました。想いは自由ですから、どこにでも意識は置けるのです。ということは、神は至るところにおるわけですから、意識を留めたところに神がおることになるのです。知花先生が、“ 汝の見るもの受け継がん!” といわれたのも、何処に何をどう意識するかで何でも受け継ぐことができるからです。私たちは神を受け継ぎたいのですから、単純に神を意識したらいいのです。人間を意識しているから、人間を受け継いでしまうのです。これでは、意識を盗んでいると言われても仕方がありません。勿論、盗もうと思って盗んでいるのではなく、無意識のうちに盗んでいるわけですが、それは人間意識と神意識との見分けがつかないためです。見分けがつかないということは、人間意識は神意識であり、神意識は人間意識であるということです。ですから、人間意識と神意識を一つにすれば、そく神意識に転換できるのです。では、人間意識と神意識を一つにする瞑想について説明しましょう。

 まず軽く目を閉じ、肉体に引っ張られている意識を感じてください。意識が感じられない人は、胸のあたりに光(白色でも良い)として感じてください。その光を思いで奥深いところまで運び、そこに置いてください。はい、それが神意識です。意識を置いた途端、神意識になったのです。これは、人間意識と神意識が同じだからできるのです。人間意識もあり神意識もあるなら、人間意識をどこに持って行っても人間意識のままですが、神意識しか無いから神意識にできるのです。神との対面とは、神意識と人間意識を合体させること・・、つまり、肉体に引っ張られている人間意識を、奥深い所に潜らせそこに置くことです。私たちが希望を持てるのは、人間意識と神意識が一つだからです。ただ、神を想うか人間を想うかで、神意識にもなり人間意識にもなるだけです。さあ、意識を奥深いところに持って行き、神と合体してください。その一つに合体した自分が、「吾神なり! 」と瞑想するのです。それが、一番有効な瞑想方法なのです。

 

 

言葉67・・白をイメージする

 生命(神)の自分をイメージしなさいといっても、生命には姿形がありませんので、イメージしづらいかもしれません。そこで私は、次のようなイメージの仕方をお勧めしたいと思います。

 天皇の「皇」という字を見てください。上に「白」と書き下に「王」と書きますが、「王」は天を意味していますので、通して解釈すれば、「白」は「天」である、つまり「神」である「生命」である、という意味になります。白色は総合色で、生命や神を意味するのです。ですから白をイメージすれば、生命や神をイメージしたことになるのです。白ならイメージしやすいでしょうから、「白」を生命(神)と思ってイメージしてください。白と天のつながりについて、もう少し詳しく説明したいと思います。

  • 神棚は白木によって作られています。
  • 神具の平子も高杯も水器も白色です。
  • 白馬や白蛇や白龍は天の使いだといわれています。
  • 天使は白衣を着けております。
  • 亡くなった人には、白衣装を着せます。
  • 第七のチャクラーは白です。
  • 霊太陽は白光そのものです。光は白なのです。
  • 白い雲ほど天高く浮いています。
  • 鉄を高温で熱すれば最後には白くなり消えてゆきます。

 どんな物も波動が高まると白くなり、最後には透明になって天に昇ってゆくのです。このように白色は、波動が高く天に近い色なのです。つまり白は、天や神を示す象徴的な色なのです。ですから白をイメージしているときは、私たちの意識は高揚しているのです。どうか白をイメージしてください。そのときあなたは、光を、神を、生命を、イメージしていることになるのです。このイメージ力がつけば、どんな物の中にも「生命を! 神を! 」観ることができるようになります。

 

 

言葉68・・目覚めた者の変化

 瞑想し生命(神)の自覚が深くなるにつれ、全身が光で覆われたり細胞が振動したりする体験をします。この現象は、瞑想の深まりを意味し、生命に対する確信を深めてくれます。特に霊太陽が見えてくれば、生命に対する確信は一層深まるでしょう。霊太陽の光は、目をつぶすほど強烈です。はじめ霊太陽は右横からチラッと見えてきますが、慣れてくると正面で見えるようになります。そうなると、霊太陽の輪郭まではっきり見えるようになります。でもその霊太陽も、やがて視界から消えてゆきます。なぜ消えてゆくかについては、別な機会をもうけ述べたいと思います。この霊太陽は原子一個一個の中にも存在していますので、万象万物の中にも存在していることになります。もとより、霊太陽の中にすべての物が存在し、すべての物の中に霊太陽が存在しているわけですから、内にも外にも霊太陽が存在しているのは当然でしょう。天照大御神とは、この霊太陽のことをいっているのです。つまり、全宇宙を照らす光、万象万物を照らす光、すべての国民を照らす光です。生命の自覚が深まれば、他にも、次のような変化が起きてきます。

  • すべての中に自分が観られるようになります。
  • 神の意図が解るようになります。
  • 宇宙の営みの意味が解るようになります。
  • 神の最終的な目的が解るようになります。
  • 肉体的な変性変容が起きてきます。(すでに述べているので、ここでは触れないでおきます。)

 このように様々な変化が起きてくるわけですが、これは何も自慢することではないのです。なぜなら、現象はすべて幻だからです。幻を自慢していたのでは、本末転倒になりかねません。瞑想は生命の自覚を強めるためにするのですから、決して現象に囚われないようにしてください。

 瞑想について述べてきましたが、今地球上で完璧な瞑想のできている人は一人もいないといっていいでしょう。それほど瞑想は難しいのです。瞑想には、「忍辱・忍耐・我慢」この種の文字をいくら並べても追いつかないほどの辛抱がいるのです。私たちは、その辛抱強さを身に付けるため何万転生もしてきたのです。だから私は、“私たちは忍耐力を養うために、地球を何周もするほどのマラソンをしてきたのですよ! 集中力を付けるために、何千年も針の穴に糸を通す作業をしてきたのですよ!  ”というわけです。そうなのです。私たちはやっと、瞑想に必要な我慢強さと集中力を身に付けたのです。今この書を読んでいるあなたは、その体験をし終わった魂の一つです。その魂を、褒めてやってください。

 

 

【神様からの手紙3・・神の心の中に入る】

 あなたは私(神)と、心ゆくまでお話ししたいと願っているようですが、あなたはいつも私と共に生き、私と共に苦楽を共にしてきたのですよ。ただ、気付かなかっただけです。神の自覚が無かったから、一緒にいても分からなかっただけです。でも自覚がなくても、あなたは間違いなく神なのですよ! 

 私があなたを神と呼ぶのは、肉体のあなたの事をいっているのではありません。あなたの中に宿っている「生命」のことを、「意識」のことを、神といっているのです。あなたが自分と思える、その意識が神だからです。でも今のあなたは、自分のことを人間だと思い違いしていますね、だから、人間としての生き方しかできないのです。(生老病死に苦しんでいる。)

 とはいっても、神の自覚を得るのは容易なことではありません。なぜなら、あなた達は気の遠くなる年月、人間と思って生きてきたからです。人間と思えば、人間以上の生き方はできないのです。あなた達が何度も肉を持って生まれてくるのは、心の底から神だと思えるようになるためです。でもそのためには、瞑想するしかないのです。瞑想以外、神の自覚を得る方法はないのです。

 といっても、瞑想を難しく考えないでください。「神を想うこと、神を意識すること、神と親しくなることが」、瞑想なのです。思うことは、歩いていても、電車に乗っていても、風呂に入っていてもできますから、やる気になればいくらでもできるはずです。

 「生命を・神を・光を・霊を」想っている時は、神と親しくしている時なのです。その親しくしている時間を、今までより増やしてほしいのです。「想念は実現の母」ですから、思ったことは必ず実現します。これは宇宙の法則ですから間違いありません。多く思えば思うほど、充実した一日になります。その充実した一日が積み重なれば、充実した一生になります。この世に生まれてきた目的を果したことになります。どうか私を想い続けてください。私と親しくなってください。 私の心の中に入ってください。私の心の中に入るとは、あなたの心と私の心が一つになることです。